ep4. 相楽真由の育てかた

 お風呂から出た後も、四サークル合同の打ち上げはまだまだ続いている。

 英梨々から聞いた話だと、この時期倫也の両親は出掛けてしまうことが多いらしく、結果的に安芸家がほぼ貸切状態になるのだとか。それにしたって残り二時間ほどで日にちが変わるというより年そのものが新年を迎えてしまうはずなのに、美智留さんと出美ちゃんは部屋の中を暴れ回ってる(?)し、『icy tail』の他のメンバーは『記念に新曲を作ろう!』とか大盛り上がりだし、もはやあなたたち帰る気ないでしょ!?くらいには騒がしくなっていた。

 そして霞さんはまぁともかく、英梨々とか本当に大丈夫なんだろうか。お酒なんか全然強くないくせに……って、今英梨々が酔ったように見えるのはいつものイギリス土産のチョコのせいであって、決して未成年にお酒なんか飲ませてないよね? 英梨々に飲ませたら絶対にダメだからね! いや霞さんもだけど。


 なんだか別の意味でハラハラドキドキではあるけど、あたしはそんな大勢が集うリビングの中から一人の少年を目で追っていた。いや無意識にだけどね。特に理由も思いつかないけど。

 が、その少年はあたしの視線に気づいたのか、ふと目が合ってしまう。『あ。』と気づいてわたわた逃げようと一瞬考えてしまったけど、そのときにはもはや手遅れだった。彼はあたしの方に近づいてくるんだ。


「真由さん……」


 彼はあたしの名前を呼んでくる。全く、今更何の用だと言うのだろう? あたしはもう話すことなんてないつもりだけど――

 彼の足音が胸にとくとくとくと響いてくる。あたしはリビングのドアの前で思わず足を止めてしまう。いや、身体中が硬直してしまい、彼が間もなくあたしの目の前に到着する頃には、あたしはやや身構えてしまうほどだった。


 が、その時、あたしのスマホの着信がぶるっと響いていることにも気づいたんだ。


「タキ君。ちょ、ちょっと待ってね! 今電話が……

 ……てことで、残念でした~!」


 などとヤケクソな笑みを浮かべながら、硬直状態が解けたことを確認すると、リビングをさっと後にするあたし。閉めたドアの向こうからは『ちょっと真由さ~ん!』みたいな無情な声が聞こえてくる気がする。

 ところで何が『残念』なのかはあたしにもわからないけど、と、とりあえず電話が優先……てことでいいよね?


 ☆ ☆ ☆


『真由ちゃん、冬コミお疲れ様! ゲーム面白かったよ~!』


 電話の声の主は鈴城さんだった。鈴城さんは今日こっそり『Cutie Fake』のサークルスペースに現れて、あたしは取り置きしておいた新作ゲームを鈴城さんに渡していたんだった。


「ありがとうございます! ……えっと~、お忙しいのにもうクリアされたんですか?」

『旦那の目を盗んでワンルートだけね。でもメインヒロインのかおりのルートをクリアさせたわけじゃないから、もう一度やらなきゃだね。』


 確かに今回のゲームは恵ちゃんが『blessing software』の作業の合間を縫うように書いたシナリオ。ワンルートクリアに数時間もかかるような大作というわけではない。あくまで同人サークルだし、なんだかんだと『Cutie Fake』の作品であることには間違えないから、むしろ少し短めのルートをいくつも用意しておいて、各ヒロインの表情、つまりあたしの絵をじっくり堪能できたらという構成になっていた。

 まぁだからこそシナリオ担当の恵ちゃんや音楽担当のエチカ、そしてメインヒロインというやはり謎なポジションである英梨々よりも、あたしの作業の方が膨れ上がってしまった……という話はひとまず言い訳ってことにしておくけど、それでいいよね。


「あの~……ちなみに、どのヒロインのルートをクリアしたんでしょうか~?」

『そんなの決まってるじゃない。もちろん舞羽まうと友情を選ぶルートよ?』

「あはははは……やっぱし………」

『真由ちゃんの師匠として、真由ちゃんがモデルのヒロインくらいクリアしておかないとね!』

「まぁ正確にはあたしと霞さんを足して二で割ったキャラクターなんですけどね……」


 サブヒロインである『加賀美舞羽』は、メインヒロインのかおりの部活の先輩という立場であり、そっとかおりを応援したり見守る立場のヒロインだった。ただ、自分の想いを表に出さないことで、かおりとぶつかる場面もかなりある。特にかおりと朋雄の恋路に対しては正直な気持ちで真正面からぶつかっていく。


『ふふっ。確かに真由ちゃんがモデルと言っても、舞羽くらい素直な気持ちで真由ちゃんがTAKIくんにぶつかれたら、こんなに苦労することないのにね。』

「うっさいな~。もう放っておいてください!!」


 そんな風に鈴城さんは笑いながらあたしを茶化してくるんだもん。確かに舞羽さんは『恵ちゃんが望んでいた霞さんやあたし』みたいな女の子として描かれていて、そのゲームシナリオを改めて見直すと、どれだけ恵ちゃんが霞さんやあたしにエールを送ってくれていたのか――そのエールというものがどのような意図であったのか今となっては少しだけ理解できるけど――ただなんとなく恵ちゃんの願いのようなものが確かに伝わってきたんだ。

 ……ってあれ? ちょっと待って!!


「ちょっと待ってください鈴城さん。あたし、鈴城さんにその手の話とかしたことありましたっけ?」

『……さ、さぁ~? どうだったかな~???』

「絶対に、町田さんですね!」


 まったくもう~、町田さんてば!! あたしは来年もしばらくこの手の話で振り回されそうな気もする。その相手がたとえタキ君でなかったとしてもね。

 ……って、相手ってなんのことよ!??


『ふふっ。でも真由ちゃんの絵、やっぱし変わってた。』

「え……?」

『今までの真由ちゃんが描いてたヒロインより、ずっと可愛らしくて、ずっといじらしくて。難しい表情の女の子もとっても素敵に輝いてたよ。特にゲーム終盤の絵はね。』

「はぁ~……あ、いえ。ありがとうございます!」

『きっとタキ君と素敵な恋をしたのね。それもかなり濃厚な……』

「え。ちょっ、ちょっと! どうしてそういう話になっちゃうんですか!!」


 ただその鈴城さんの話に反論はできなくて……。

 あたしはほんの少しばかり顔を赤らめ、涙を浮かべそうになったけど。


『だから言ったでしょ。それがたとえ辛い恋だったとしても、真由ちゃんにとってのその恋は、掛け替えのない財産になることは間違えないんだって。』

「……は、はぁ~……」


 財産か…………。そうなの……かな……?


『だからね。来年も期待してるわよ?』

「あの~、その『期待』っていうのは、即ちどっち方面の期待なんでしょ~か、鈴城さんっ!」


 てかこれ、最近の鈴城さんのポジションが町田さんのポジションと被ってません?


『まぁそんなわけで、来年もよろしく。よいお年を。真由ちゃん!』

「ありがとうございます! 鈴城さんこそよいお年を。」


 久々の登場の鈴城さんの……嵐のような電話は、ここでぷつんと切れた。


 なんだろ。『いい意味での原作者殺し』って、要するにこういう意味だったっけ???


 ☆ ☆ ☆


「……で、鈴城さん。なんだって?」

「うわぁ~!! ちょっと。聞いてたの!??」


 誰もいない廊下で話していたはずなのに、気づくと目の前にタキ君がいて、あたしは思わずたじろいでしまった。脅かすのもさすがに大概にしてほしいんだけどな。


「あ、いや。さっきの電話で真由さん何度も『鈴城さ~ん』って叫んでたから、きっとそうなのかなと。」

「う、うんまぁそうだけど……ねぇタキ君、あたしが叫んでた名前って、鈴城さんの名前だけだよね? 他の人の名前とか出てきてないよね?」

「あ、あとは『町田さん』かな?」

「あ……あ、そっか。……ってそれ、ほとんど聞いてたってことじゃん!!」


 あたしは間違って『タキ君』の名前を口にしていたわけではなかったようだ。うん、記憶を確認したけど運がいいのか悪いのか……いや『悪い』ことはないと思うけど……と、とにかく、どんな内容の話であったかという点についてだけは、こいつに悟られないようにしないと。


「で、なんの用よ?」


 あたしは一旦落ち着くことにした。……うん、たぶん。まぁ気がつくとあたしはきっとした態度でタキ君を睨んでいたりもしたけれど。


「って、やっぱし今日も真由さん俺に冷たくない? なんか俺、悪いことした?」

「そんなの、日頃の行いじゃないの?」

「やっぱし? 俺ってそんなに日頃の行い悪いんだね。ほとんど無自覚だけど。」

「その無自覚なところが『日頃の行い』だって言ってるの。……で、なんの用よ?」


 まぁ何に対して『無自覚』なのかは……ここでは触れないでおこう。


「あ〜…………そのことだけど……」

「なによ、そんなかしこまっちゃって……」


 ……む、無自覚の件は主にあたしのせいだって、そんなの口が避けても言えるわけない。こいつのこんな表情がたまにあたしをどきっとときめかせてくれるから。だって、こんな風にもぞもぞとかしこまった時のタキ君って、大抵……


「昨日、恵と話をした――」


 ……ほら。こんな難しそうな話の時に決まってるんだから。


「で、それを報告するためだけにあたしを呼び止めたの?」

「違う。そうじゃなくて、真由さんとはまだちゃんと話ができてなかったから……」


 あたしは若干の作り笑いを浮かべながら、なんとかその話を誤魔化してしまおうと模索する。が、その深刻そうなタキ君の顔は、あたしのそれを許してくれそうもなかった。


「……真由さんに、俺、ちゃんと謝ってなかった。本当にごめん。」


 こんなこと言うんだもん。……だからなんだって言うのよ……。


「あの〜、タキ君。あんたあたしに何か悪いことした? なんで謝るの?」

「ちょっと待って真由さん。ついさっきだって『日頃の行いが悪すぎる』って俺に言ったばかりだったよねそれを今このタイミングで言われる筋合いはないよね!?」

「あ…………。」


 うっ、しまった……と一瞬考えてはみたものの、いやいやそれってそれとこれとは絶対話の次元が違うよね? もう少し話を整理してくれないと困るよね?

 ……だって、あんたが誤りたいのって、そのことではないのだろうから――


「はぁ〜…………」


 そこまであたしの頭の中で一気に整理をつけると、思わずふとため息が出る。これがどういうため息なのか自分でもよくわからないけど、とりあえず話の次元とやらを、もう少し二人で共有する必要があるのかもしれない。


『次は真由さんの番だよ』


 ――その恵ちゃんの言葉が、胸に痛く突き刺さっていたから。


「俺、真由さんがどういう気持ちで俺と付き合ってくれてたのか、全然理解できてなかった。恵に、『最低』とか罵られちゃったよ。」

「ほんっと、最低だよね。最っ低〜!!」


 あたしは今までの恨みも全部ひっくるめて、笑いながらそんなことを言ってみる。だけど今のタキくんにはちゃんとその言葉も届いてて、あたしがそう言うとひどく落ち込んだ態度を見せる。

 ま、こんな可愛い女の子二人に『最低〜』とか言われたら、落ち込むのも当然か。


「だって俺、恵と話をするまで、なんで真由さんに振られたのか、本当に理解できていたのかあやしかったから。」

「そんなの『あたしがあんたのこと好きじゃないから』って理由じゃ、ダメなの?」


 そしてここであたしは、また意地悪をしてみるんだ。


「それは絶対に違う。そんなの真由さんの本心じゃない!」


 が、見事なまでにその嘘は看破されてしまう。


「だって真由さん、俺や恵に対していつも本気だった。『好きじゃない』なんてそんなこと言うなよ!」

「っ…………」


 あたしの胸は急激に、熱く激しく脈を打つのを感じた。それはいつものように強く否定してみようと試みるも、思わず言葉を失ってしまい、今のあたしにそれを否定することは許されなかったんだ。


「真由さん、いつも俺に嘘ばっかりついて、なかなか本心を見せてくれない。だから、何が本当で何が嘘なのか、俺には全然わからないことがあった。」


 なんかあたし、めっちゃ嘘つき呼ばわりされてる。まぁそうなるかもね――


「……でも、俺と付き合ってくれたあの一ヶ月ちょっとの真由さんは、いつも本気だったよね? あれは全部嘘ではなかったんだよね?」


 タキ君にそんなこと言われても、返す言葉が出てこない。本っ当に、情けない。


「――嵐山や清水寺での真由さんの態度が、どうしてもずっとわからなくて俺の頭の中に引っかかって、俺は真由さんにそっくりな最新AIと話をしているような、どこかそんな気分になってた。」


 ……たしかに困惑するよね突然あんな態度取られたらそりゃ困るよね……


「だけど、徐々にわかってきたんだ。真由さんの本当の目的が。それが合っているかを確かめたくて、昨日恵と話をした。そしたら――」

「もういいよ。そこまででこの話はおしまいにしよ?」


 あたしの話はいい。だけど恵ちゃんは……


「だってこれは、あたしがあんたを試しただけだから。」


 そう僅かばかりの嘘をついて、あたしはタキ君の話を強制的に中断させたんだ。


 ☆ ☆ ☆


 あたしは周囲に誰もいないことを確認すると、タキ君を外に誘った。

 大晦日の夜風が冷たい。あたしとタキ君は防寒具を身にまとって、少なくとも風邪だけはひかないようにと暖かい格好で外に出たんだ。確かに寒いけれど、それを吹き飛ばすくらいに夜空は晴れ渡っていて、星空は美しく輝いていた。


「星が綺麗だね。ねぇ、あれって何座かな?」


 まだまだ神妙な面持ちをしているタキ君に、あたしはそう声をかける。


「星ってどれも星座になるものなの……か?」

「さぁ〜、それはないんじゃない?」

「えっと〜真由さん、なんか質問の意図が急に見えなくなってしまったのですが……」


 だって、それはあんたがいつになっても元気がないからじゃん。


「そんなの気にしなくていいのに。本当に。」


 あたしは笑いながら、そんなことを言って返してみた。


「……昨日、恵と話してて、ずっと気になってたことがあったんだ。」

「だからもうその話はいいって……」


 だけどタキ君は改めてその話を持ち出してくるんだ。もうそんな話、どうだっていいのに。

 それに、あたしのことはどうだって構わない。だけどもう恵ちゃんを責めるのだけは、止めてほしかったから。タキ君にそれをやられてしまったら、今度こそ恵ちゃん、取り返しのつかないことになる気もしていて――


「俺、ずっと真由さんを傷つけていたんじゃないかって……」

「……………………え、あたし?」


 が、そのタキ君の話に出てきたのは、あたしの名前だった。


「だから真由さんに謝りたかったんだ。…………ごめん。」


 なんだかなぁ〜……。


「……もう、いいって。」


 お願いだから、もうやめて――


「だって真由さん、俺のこと……」

「ストップ! それ以上もう何も言わなくていい……じゃなくて、言うな!!」

「で、でも……」


 だって、タキ君はやっぱしなんにもわかってない!!


「だってこれは、『お互い様』だよ? あんただけが悪いわけじゃない。

 あんたのいつもの態度で勝手に不安になってた恵ちゃんも悪い。

 その二人の弱みに付け込んだあたしだって悪い。

 だから、あんたがそうやって謝ると、逆にみんな落ち込むんだよ!

 いい加減、その悪循環に気づいてよ!!!」


 気づいたらあたしは怒鳴り散らしていた……ような気がする。

 その発言の後、あたしは突然恥ずかしさばかりが襲ってきたけど、まぁそうは言っても、これをはっきり言わなきゃわからないタキ君のことを思うと、その恥ずかしさは逆に半減された。……とそれと同時に、なんだか虚しさを覚えた気もするけど、それも早く忘れないと。


「ご、ごめ…………」

「だから謝るなって言ってるでしょ!!!」


 はぁ、はぁ、はぁ〜……と、乾燥しきった冬空の下、なんだか恐ろしく喉が渇ききってしまいそうだ。ここまで来ると寒さなんてとっくに忘れてしまいそうだった。


「……だ、だからね。あんたがそうやって謝ると、逆に恵ちゃんが不安がって落ち込むんだよ? あの子、本当にめんどくさい子なんだから、もうちょっとちゃんと寄り添ってあげてよね?」


 あたしはなんとか作り笑いをでっち上げて、そういう他なかった。

 タキ君はまだ少し納得していない様子でもあるけど、その表情は少しずつ解けていくのがわかった。今度こそ恵ちゃんの心をしっかり受け止められる、大人の青年になってほしい――


 あ、そうだ。あたしはふと思い出したように、先程とっさに持ってきた鞄の中を漁った。……あった。あたしは微かにあった記憶を頼りに、それを鞄の中から取り出す。


「でも、恵の気持ちなんて、俺は今でもわからない時がある……」

「そんなの当たり前じゃない。恵ちゃんは恵ちゃんなんだから。だけど、一つ言えるのは『恵だったらなんとかなる』とかタキ君が考えてたら、またあたしみたいな可愛い女の子が出てきた時に、恵ちゃんまた不安になるからね?」

「いや、真由さんが『可愛い』のは認めますが、『女の子』か否かについては……」

「なんか言った?」

「いえ、別に!」


 ふ〜んだ。あたしは原作でも二次でも年齢不詳の『可愛い女の子』だもんね! それを認めない男は絶対に誰だろうと許さない!!


 ……と、だいたいできた! うん、いい感じだ。


「ところで真由さん、さっきから何を?」

「ヒミツ。」


 あたしはふと思い立って、最後にもう少しだけ手を加えることにした。

 タキ君が急に深刻そうな顔をもう一度したのは、その時だった。


「あの〜、真由さん。最後にもう一つだけ……」

「……なによ? また深刻な顔して。もうこれ以上ややこしい話は勘弁だけど。」


 すると、タキ君は突然顔を赤らめて……


「真由さん。本当に俺のことを好きだったんですか?」


 ……………………


「…………はい?」

「いやだって、恵が『真由さんは出逢ったときからずっと倫也くんのこと運命の人みたいに感じていたみたい』とか言うから!!!」


「……………………は?」

「俺、そんなの全然気づかなかったし、でももし仮にそうだとしたら本当に真由さんのこと傷つけていたんじゃないかって……」


 ……………………。

 ……いやまぁ怒る気なんてとっくに消え失せてはいたけれど……


 もうすっかり辺りは静まり返った、大晦日の夜。場所は探偵坂の中腹付近。

 あたしはなんだかよくわからないけど、タキ君に逆告白……というわけではないけど、それに近い何かを受けてしまったわけで、嬉しい気分……なはずはなく、半ば呆れてしまった……というのが正解かもしれない。


 あたしは探偵坂を一歩、また一歩と昇っていき、タキ君にそっと近づいていった。

 そしてあたしの目の前にタキ君の顔が近づいたとき、あたしはそっと声をかけた。


「ねぇ、タキ君。目を瞑って。」

「……え?」


 タキ君はちょっとどぎまぎした顔をしている。……うん、可愛い。


「早く。目を瞑ってよ?」

「……あ、はい。」


 やっと目を閉じた。

 あたしはここで思いっきりその握りしめたげんこつで、えいっと殴ってやってもいいけれど、こんな平和な大晦日の夜、そんな野暮なことをするつもりはない。

 そしてあたしは少しだけ背伸びをした。

 あと数センチで、あたしの唇がタキ君の唇と接触する――


「もう、目を開けていいよ。」

「……え?」


 だけどそれこそ野暮。今のあたしはそんな気分じゃない。

 その代わりにあたしは、さっきまで描いてたサイン色紙を、タキ君の両手にしっかりと握らせた。手袋越しにそのサイン色紙をタキ君が掴んだのを確認すると、あたしはそれを手放した。


「それがあたしの答え。……はぁ、寒いね。そろそろ中へ戻ろっか。」


 あたしの今の気持ちはその一枚のサイン色紙に描かれた、あたしの絵に託された。ついさっき即興で描いたタキ君の似顔絵。今度こそ恵ちゃんを守り抜いてほしい――その願いを込めて、あたしは彼の凛々しい姿を描いたんだ。


 そして、色紙の右下四分の一くらい場所に、小さく描いたあたしの顔。タキ君を描き終った後、最後に思い立って、ほんの数秒で描き上げたんだ。

 もちろんその顔は、あっかんべ〜!と、タキ君を挑発するように舌を見せている。これくらいバチは当たらないよね?と言わんばかりのイタズラいっぱいのその顔は、今のあたしの気持ちそのものだ。

 そのあたしの顔には吹き出しも付けてあげた。セリフはこんな感じ。


『これからもよろしくね! あたしの大好きな担当編集さん!!』


 そしてあたしは振り返ることもなく、逃げるようにタキ君の家へ戻ったんだ。

 その色紙を手渡せたことがあたしは嬉しくて、仕方なかったから。


 ありがと。タキ君っ!

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冴えないフミオの育てかた 鹿野月美 @shikanotsukimi

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