3

 『もしも少しでも贖罪しようという意志があるのであれば海へおゆきなさい。そして生涯をかけて、わたしたちが海へ戻るための道しるべとなりなさい。そのためにあなたは、灯台を建てるのです。

 女の子は龍の言葉に従って、海辺に灯台を建て、灯台守となりました。

 灯台守になった女の子は』

 乱暴に椅子から立ち上がり、ヤカンを火にかける。

 知っている物語のはずだったのに、なぜかこの先が思い出せない。

 くしゃくしゃに丸めた、たくさんの原稿用紙だった紙くずを、恨めしい思いで見つめる。

 しばらく書いてなかったからか、ずいぶんと勘が鈍っているように感じる。キャラが動かない。展開が動かない。物語に集中できない……。無意識にそんなことを考えて、はたと気づいた。

 私は以前、なにか書き物をしたことがあるのだろうか、と。記憶にない。何の記憶もないのだから当然と言えば当然かもしれないが。

「書き続けていれば、そのうち何か思い出すかも……」

 マグカップにコーヒーを淹れ、よしと気合を入れる。机に戻ろうと振り返ると、真後ろに女の子が立っていた。

「やあ、こんにちは?」

「うわっ」

 驚いてカップを落としそうになるも、女の子がひょいと取り上げ、一口すする。

 前に出会った、原稿用紙とペンをくれた女の子と同じ制服を着ているけれど、別の子だ。

「んー、香ばしいねえ。コーヒー、好きなんだよねー」

「はあ……」

 戸惑っている私をしり目に、女の子はマグカップ片手にふわふわと部屋を見て回る。

「おお、いい椅子だねえ。でもなんで部屋の中心にあるの?」

「さあ?」

「うわっ、本なんか読むの? しかもこんなにたくさん。勤勉だねえ?」

「はあ、まあ……」

「ふかふかベットだー、うらやましい。お昼寝って最高だよね?」

「ええと……」

「んん? これ、なんだい?」

 女の子が机の上の原稿用紙に興味を示す。

「いや、それはその」

「へーえ? なにこれ、小説? すごいじゃん?」

 ざらりとしたものが胸に走った。この部屋の中で気が付いてから、初めての感覚だ。

 女の子はニヤニヤ笑いながら、原稿用紙に目を走らせる。

「灯台守? なにこれ、全然わかんないやー」

 言うが否や、手に持っていたマグカップの中身を書きかけの原稿にぶちまけた。

 私は驚き過ぎて言葉が出ない。

「ね、こんなのもういいからさ、行こうよ?」

 この子は一体何を言っているのだろうか。

 止まりそうになる思考をなんとか働かせる。

「行くって、どこに? あなたは、何者なんだ? ここは、どこ?」

「そーんないっぺんに聞かないでよー。ここは安全地帯でしょー? あたしは自由人でえー? どこに行くかって言うと、どこへでもだよ! あんたもあたしと同じ、自由人になるんだからさー」

 女の子がニヤリと笑う。

「いつまでもここに居たって、退屈で仕方ないでしょ?」

「……それは」

 それは、確かにその通りなのかもしれない。

 読む本もないし、書くことも上手くできない。息抜きに公園を散歩することもできないし、ここには誰もいない。

 でも、なんとなくこの女の子と“同じ”になるのは嫌だと思った。

「私は行かないよ」

 ぽたぽたと机から垂れ落ちるコーヒーを眺めながら、はやく帰ってくれと願いつつ、言う。

 女の子は小馬鹿にしたように鼻で笑った。

「後悔するよ? 自由になりたくてこんなところまで来たんでしょう?」

「知らない。私は行かないし、後悔もしないよ、たぶん」

「行けば、何でもできるよ? 自由で、吹かれるようにいろんなところへ行けるんだよ?」

「興味ないよ。私は行かない。まだ行けないんだ。少なくとも、物語の終わりを見るまでは」

「へー? ああそうなの?」

 なぜこの子はこんなにも突っかかってくるのだろうか。

 女の子がやれやれといったふうに、大きくため息を吐く。それから、ほんの一瞬だけ、ひどく悲しそうな顔をした。

「それならもういい。帰りな。二度とここには来るんじゃない」

 女の子が、さっと腕を大きく動かす。

 ぐらりと眩暈がして、頭を振ると、下から吹き上げる趙烈な風を感じた。

 ハッとして目を見開く。目の前に地面がなかった。ずっと下の方で荒々しく波が砕けている。

 慌てて後ろに下がった。

 突然のことで、心臓が早鐘を打っている。

 なにがどうなっているのか思い出そうとして、一面ガラス張りの部屋が浮かんだけれど、すぐに頭の中から消えた。私は今日、ここに死ぬために来たんだった。

 なにもかもが上手くいかなかった。

 仕事も、恋愛も、人間関係も、私生活も、なにもかも。お金も時間もない中で、日々の疲労は抜けず、じわじわと目の前が真っ暗になっていく日々。生活も荒れ、いつのころからか、死ぬことに希望を見出し始めていた。

 きれいに揃えた靴を履きなおし、私は海の音を背にして、帰りの道のりで買うものを考える。

 コーヒーのドリップパック、チョコレート、小説、それから、原稿用紙とペン。

 スマホが鳴る。出ると、会社の上司が金切り声で休日出勤を促してきた。私は声が収まるのを待ってから、退職します、と一言だけ言って通話を切り、ついでに電源も落とす。

 すべてから解放されて自由になりたくて、ここへ来た。

 でも、今はまだ、“すべて”からは、解放されなくてもいい。

 もう少しだけ、少なくとも、物語の終わりを見るまでは。


 私の目の裏には、さっそく海をまとう女の子の物語が見えていた。

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海をまとう 洞貝 渉 @horagai

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