薔薇香る憂鬱

善吉_B


 間違いありません。

 先日、隣の家の佐久間さんが自宅の温室で殺され、現場が放火された事件。

 全て、私がやったことです。




 別に無罪を主張するつもりは、初めからありませんでした。

 証拠は十分にありましたし、自分でも大変なことをしてしまったという自覚はあります。

 ただ、何と説明したら良いのかが、分からなかったのです。

 それでずっと黙って考えているうちに、一週間、二週間と過ぎてしまいました。刑事さん達のお手を煩わせてしまって、すみません。

 けれどさすがにこれ以上黙っている訳にもいかないだろうと思って、いい加減に覚悟を決めることにしました。

 これ以上父や皆さんにご迷惑をお掛けするよりは、いっそ頭がおかしいと思われても良いからお話をすべきだと、そう思い始めたのです。


 あの……ところで、どなたか香水でも使っているのでしょうか。あるいは、何か香りの出るものを持っているとか。

 先程からずっと気になっていたんです。少し苦手な匂いなので、出来れば止めて頂きたかったのですが。

 特に何も使っていない、ですか。

 ――――― そうですか。

 ……それなら、前にこの部屋にいた方のものでしょう。それか、シャンプーか何かの匂いかもしれませんね。

 窓が小さくて、空気がこもりそうな部屋ですから。

 ああ、いえ、気にしないで下さい。

 苦手で気になりはしますけど、気分が悪くなるという程度のものでもありません。そのまま話は続けられますから、大丈夫です。

 ただ、もしできれば窓を少し、開けて頂けますか。

 雨で湿った空気でも、少しは新鮮な空気が入ってきた方がましでしょう。

 はい、それ位で大丈夫です。ありがとうございます。お手数おかけして、すみません。


 ああ、少し良くなりました。これでさっきよりは、落ち着いて話ができるかと思います。

 ――――― 話をする前に一つ、約束をして頂きたいことがあるのですが、良いでしょうか。

 仰る通り私は、あの久寿賀谷くすがや治人はるひとの実の子供ですし、佐久間さんはかつて父の元で弟子という形で生活していた方々の一人です。

 それで世間や新聞が怪しげなカルト集団の後継者争いだとか、内部抗争だとか怪しい儀式の生贄だとか、そういったようなことをあれこれ想像していることも聞いております。

 ですが、この件に関しまして、父が創設した『研究会』そのものは何の関わりもありません。

 はい、その通りです。組織としてこのことに何か干渉してきたことは一切無い、そういうことになります。

 それどころか、私も佐久間さんも、『研究会』から離れて何年も経っています。その間にあちらから接触してきたことも、一切ありません。

 ですが―――― 父やその周りの方々、『研究会』がについては、この一件に大いに関係があるのです。


 ですから刑事さん、お願いです。

 私が佐久間さんを殺し、その温室に火をつけた理由についてお話しする間だけは、『研究会』が取り扱うと謳っていたものが――――というものが存在すると、そう前置きして聞いて頂きたいのです。

 私がありえない妄想にとり憑かれているとか、精神鑑定にかける必要があるとか、そういったお話は後でいくらでもして頂いて結構です。他の殺人犯と同じように、専門家の方に全てお任せします。

 ですが、どうか今だけは、私が正気であり、魔術が確かにこの世に存在するという体で、初めから最後までお聞き頂ければと思います。

 決してそんなことはあり得ないと、話の途中で遮ることだけはしないで下さい。

 そうでなければ、とても全てをご説明できないのです。




 全ては佐久間さんが、妖精を呼び出すと言い出したことから始まったように思います。

 はい、その通りです。

 妖精を呼び出すと、そう言っていました。

 とはいえ皆さんが想像するような、可愛らしい人間と蝶を混ぜたような姿のものではありませんが……。

 ―――――― 色々と刑事さんが言いたいだろうことも分かりますが、約束は約束です。どうか最後までそのまま、私の話を聞いて頂ければと思います。

 先程も言った通り、『研究会』は魔術や錬金術といったものを研究し、実践することを目的として父が立ち上げた組織です。

 佐久間さんはその中でも、中々才能のある弟子だったという風に聞いています。

 残念ながら私は、短い会員としての生活の間でも、の方にはほとんど関わりが無かったので、実際のところはよく知りません。

 素質が無かったんです。

 知識や研究の方はどうにでもなりますが、父が言うには実践となると、どうしても一定以上の魔術の素質が必要になるのだそうです。

 私には、それが欠けていたんですよ。

 『研究会』の創設者である魔術研究の権威・久寿賀谷治人の実の子でありながら、魔術の素質が今一つ足りず、それで早々に実践の方からは外されてしまいました。

 いえ、直接言われたわけではありません。全くできなかったという訳でもありませんでしたし、幼い頃には自分ではその道に進むのだと疑いもなく信じていた時もありました。

 父にはただ一言、お前にはこちらの方が向いていると言われて文献研究の方に移されただけです。私は私で文献研究も好きでしたから、初めは父のその采配にも何も疑問を持たずに好き勝手本を読み漁っていました。

 ですが、どんな組織だって、それが話に登り続ければ自然と本人の耳にも入ってくるものです。

 あの久寿賀谷先生の子供が、魔術を行う素質が無いなんて。

 会長もさぞかし、気を落とされたことだろう。

 そうあちらこちらで言われているのが、いやでも聞こえてきてしまったんです。

 それで、何となく居心地が悪くなってしまって、会員をやめてしまいました。

 いえ、特に引き留められもしませんでしたよ。

 そのことが益々私の素質が惜しまれもしないものであるという事実を突きつけてくるような気がして、がっかりはしましたが。


 すみません。

 もう少しだけ、窓を開けて頂いても良いですか。また少し、匂いが気になってきたので―――― ありがとうございます。それ位で大丈夫です。

 話を戻しましょうか。

 素質が無かったので自ら『研究会』を脱退した私とは逆に、佐久間さんは素質がありながら、半ば勘当されるような形で脱退した方でした。

 きっかけは、妖精を呼び出すという、あの話からです。

 様々な魔術や錬金術の文献の中には、当然超自然的なものとの関わりの話や伝承も混ざっています。

 その中で佐久間さんが興味を抱いたのが、とある古い本に書かれていた、妖精を呼び出す方法という記述でした。


 その本自体は、特に価値のある魔術書という訳ではありません。

 むしろ、子供が遊びのためにその場で考え付いたおまじないか何かのように、魔術や錬金術の古文書の中でもずさんで、雑な出来のものだったと思います。羊皮紙に殴り書きされた手順などはずいぶんと細かく書かれてはいましたが、誤字も多ければ装丁も粗く、落書きだらけの上に内容自体も色々と大事な部分が抜け落ちていて、むしろよく魔術書として今日まで残っていたなと感心する位です。

 私や『研究会』の方々の評価は、月日が経っているから古書としてはそれなりのものだろうが、魔術書としては今一価値が低い――――その程度のものでした。

 書かれた年代を鑑定しようとする度に装置が違う値を出すので、いつ頃書かれたかはっきりしない、という不思議な点は一つありましたが、中身が中身なのであまり気にする人もおらず、たくさんの本の山の隅で後回しに放っておかれていたのを、覚えています。


 その、誰もが気にも留めていなかった本に、驚くほど興味を示しました人が一人だけいました。

 佐久間さんです。

 その本を初めて手に取って以来、自分の次の研究はこの本の妖精を呼び出すことだと熱心に語っていました。実践研究を行っていた他の会員は、もっと価値のある魔術書の研究を優先したらどうかと薦めていたようですが、本人はまるで聞く耳を持たなかったそうです。当時研究はされていなかったとはいえ、他に妖精を呼び出す、或は妖精と関わるといった本はいくらでもあるのに、なぜか佐久間さんはその本にこだわりました。

 ただ、周りが佐久間さんを止める声とは違い、はっきりとその研究に反対の立場で止めようとしたのが、久寿雅谷会長、つまり父でした。

 我々の魔術の知識も技術も、まだ妖精を呼び出すまでには至っていない。そう父は言っていました。

 危険だからやめるべきだ、少なくともこの『研究会』ではまだ認められないと、佐久間さんを呼び出して何度も諭したそうです。

 けれども、父の説得にもかかわらず、佐久間さんは止める気などまるでないようでした。

 それどころか、今すぐこの本の研究ができないのであれば『研究会』をやめるとまで言い出したのです。

 佐久間さんは普段人当りも良く穏やかで、どちらかといえば周りに流されやすい、おっとりとした人でした。その佐久間さんが、あれほど頑なに、おまけに師匠である父に向かって声を荒げてまで強く主張する声が、父の自室のドア越しに聞こえてくるのです。

 その執着は、まるで何かに憑りつかれているよう、という表現がぴったりでした。実際には、まだ憑りつくようなものなんて呼び出してもいないはずだったのに、なんてね ―――刑事さん、約束を忘れてはいませんよね? 大丈夫なら、良いんです。ああでも、窓をもう少し開けて頂ければ…いや、止めておきましょう。雨が強くなってきました。これ以上空けたら部屋に吹き込んでしまいます。

 いえ、大丈夫です。ただ、少し気になるだけなので。


 結局、その後も何度か話し合いをしたようですが、話はまとまらなかったようです。

 妖精を呼び出すことが認められなかった佐久間さんは『研究会』をやめ、施設を去りました。

 その際、前からやめたいと言っていた私の面倒をこれから見てくれと、そういう建前で佐久間さんを私に付けて、『研究会』の外に出したのです。

 誰か知っている人が横にいた方が、私のこれからの生活で心配が少ないと、そういう親心も恐らくあるにはあったでしょう。ただ、目的は別のところにありました。

 ――――― ええ、監視です。

 父は私に言いました。これからの生活の色々の面倒は彼が見てくれると。

 ただその代わりといっては何だが、彼があの本の研究のことで、道を誤ることが無いように見ていて欲しい。

 実際の魔術について書かれたかも怪しい本ではあるし、本当に呼び出せるかどうかはかなり疑わしいものだ。本そのものも、手を出されないよう『研究会』の施設で厳重に保管されている。

 それでも万が一妖精を呼び出そうとしている、あるいは呼び出すのに成功してしまったと分かった時には、必ず自分に知らせてくれと、そう周囲には内緒で頼まれました。

 父が妖精の何にそれほど危惧しているのかは全く分かりませんでしたが、佐久間さんのあの執着ぶりに何か異常なものを感じていたのは私も同じです。ですから、特に不思議に思うことも何もなく、その頼みを了承しました。

 二人の家を手配したのも父です。同じ家に住ませた方がお金も掛からず良かったのではないかとも私は思いましたが、黙っていつの間にか二人分の家を用意されていたので何も言えず、引っ越しました。

 まぁ、一緒に住んでいた場合、近所の人へどういう関係なのかを説明するのも難しかったかもしれませんが。



 私達二人が『研究会』から離れたのは、そういった経緯でした。それ以来数年間、一度もあちらから接触してきたことはありません。

 いえ、もちろん父子ですから、父が私に連絡を取ることはありました。けれどそれは学生生活は順調かとか、何か仕送りで欲しいものはないかとか、そういったよくある実家の親との会話です。

 あれだけ妖精の本に執着していた佐久間さんも、『研究会』をやめて引っ越した後は、ずいぶんと落ち着いたようでした。本を持ち出すことも叶わなかったのにそれを気にした様子でもなく、いつも通りの落ち着いた佐久間さんに戻って、安心したのを覚えています。

 代わりに熱を入れたのが、佐久間さんが自費で増築した温室での園芸でした。

 元々施設でも草いじりが好きだと、薬用の植物を植えたり、魔術用の植物の研究に関わったりすることの多かった人です。色々な植物を植えては熱心に世話をしていて、温室ができてから数か月後には、ずいぶんと立派な植物園ができあがっていました。

 私はあまり植物園には詳しくないのですが、広ささえもう少しあれば、入場料を払って見る価値がある程だったと思いますよ。刑事さん、焼ける前の温室を写真で見たことはありますか。

 無い? ……それは残念ですね。私は以前何枚か撮っていましたから、良ければ今度お見せしますよ。あれは一度は見る価値のあるものです。事件の調査にも役立つでしょうしね。

 今では全て焼けて、何も残っていないのが惜しい位です。



 『研究会』を離れて数年は、二人ともそんな風にずいぶんと落ち着いた生活を送っていました。父が危惧したようなことは何一つ起こらず、私も佐久間さんの助けもあって、父と離れての生活も問題なく送ることができていました。

 それが少しずつおかしくなったのは、今年に入ってからです。

 初めに違和感を感じたのは、四月の半ば頃でしょうか。

 確かにそれより前から、最近佐久間さんと家の前で顔を合わせることが少なくなったようには感じていました。暖かくなったり寒くなったりと落ち着かない天気が続いていたでしょう。体調でも崩したのではないかとその時は思っていたんです。

 けれどある日、久々に佐久間さんと会った時に、この人は何か隠し事をしているのではないかと感じるようになりました。

 火曜日の朝だったと思います。午前中の講義が休講になって、大学には午後からいくことにしたんです。

 それで先に洗濯物でも干そうかなと軒先に出た時、上着の下に何かを抱え込んで温室へと向かおうとする佐久間さんを見かけました。当然挨拶をする以上の仲ですから、いつも通りおはようございますと声をかけました。その途端、弾かれるような勢いでこちらを振り向いたんです。

 しまった、見つかった。

 そう顔に書いてありましたよ。

「いるとは思わなかったから、びっくりしたよ」

 そう言ってごまかしてはいましたが、私が講義が休みになったと説明している間も、妙にそわそわして落ち着かない様子でした。ずっと抱えている何かと、温室の方をチラチラと見ているんです。

 佐久間さん、隠し事が下手だったんですよ。

 けれどその時には、例の本の一件からもう何年も経っていました。その間に魔術や『研究会』の話題が私たちの間で上がることもほとんど無くなっていましたから、初めは何か隠し事をしていると気付いても、すぐには妖精のことに結びつきませんでした。佐久間さん、ラブレターでも貰ったのかなとか、何か隠れた趣味でも新しくできたのかな、とその程度です。

 いよいよおかしいと気付いたのは、それからまた一ヶ月程経ってからでした。やはり久しぶりに見掛けた佐久間さんがあまりにもやつれていて、初め見た時は別人かと思った位です。何日も寝ていないかのようにひどい隈で、おまけにこちらにも気付かないまま、あらぬ方角を見てブツブツと呟いていました。

 さすがに様子を見た方が良いと家を訪ねてみると、先日とは違い特に何かを隠す様子もなく、あっさりと家に上げてくれました。いつも掃除の行き届いていて、綺麗なはずの佐久間さんの家は、本人と同じようにひどく散らかっていて、今度は具合でも悪いのだろうかとひどく心配になったのを覚えています。

 心配してあれこれ尋ねる私をよそに、佐久間さんは話を聞いているのかいないのかわからない様子のまま、まっすぐ奥の温室へと歩いていきました。


 佐久間さんの後を追って入った温室は、部屋とは違い綺麗なままではありましたが、やはり以前訪ねた時とはずいぶんと姿が変わっていました。

 以前の植物園は、色々な種類の植物がたくさん植えられていて、綺麗なバランスを保った、手入れの行き届いた森のようでした。

 それがいつの間に抜いてしまったのでしょうか。植物のほとんどは姿を消していたのです。

 代わりに温室に植えられていたのは、一面の薔薇でした。

 色も種類もまとまりなく、ただありったけの薔薇をでたらめに植えたような、それでいてそれぞれの薔薇が傷まないよう、手入れだけは丁寧に欠かさずしているのが見て取れる、何だか不自然な薔薇園でした。

 少しずつ顔を出し始めた薔薇の蕾の群れに囲まれて、佐久間さんは様変わりした温室をびっくりして眺める私を見ていました。

「書かれた通りに、準備をしたんだ」

 そう独り言のように言った佐久間さんが抱えていたのは、いつかのあの、妖精を呼び出す方法が書かれているという、本でした。

 施設で保管されているというあの本をいつの間に、それもどうやって持ち出したのか。

 いくら問い詰めても、佐久間さんは答えを教えてくれませんでした。その代わりに、ある日ふと机の上を見たら置いてあったのだとしか言わないのです。

「あの本の方から、こちらに来てくれたんだ。こいつはやっぱり、使われたがっていたんだよ」

「誰かがここに書かれた魔術を実践してくれるのを、ずっと待っていたんだ」

「久寿雅谷先生はああ言っていたけど、研究してやらなきゃ、この本が可哀想だよ」

 そんなことばかり言って、結局最期まで本当のことは言ってくれませんでした。

 いえ、もしかしたら佐久間さんにとっては、本当だったのかもしれませんが……。

 佐久間さんはひどい隈のできた目元を以前と変わらない風に細めて、うっそりと私に笑いかけました。

「すごい数の薔薇でしょ? これもこの本に用意するように書いてあったんだ。この本で呼び出せる妖精は薔薇が好きなんだって」

 すごいよねぇ、あきちゃん。

 私が幼い頃から変わらない呼び名で語りかけてくる癖に、誰に話しているのかも気にしていないような風で恍惚と話し続ける佐久間さんは、どう見ても異常でした。

「他にも色々と準備するものがあってね。やっぱり中々大変だったよ。『研究会』にいた頃にも全く手が付けられていなかった分野だから、なおさらね」

 一面の蕾から少しずつ香り始めた薔薇の匂いに囲まれて、脳が麻痺でもしてしまったのでしょうか。

 どうしたっておかしいこの佐久間さんからすぐに離れて、病院なり父なりに連絡を入れなければいけないと、そう頭では分かっているのに、その時の私は、凍り付いたように動かず、黙って聞いているしかできませんでした。

 もしもあの時動けていれば、こんなことにはならなかったかもしれませんね。

 それももう、過ぎた話になってしまいますが。



 それからしばらくの間、とうとうと妖精を呼び出す方法について虚ろな笑みを浮かべたまま語り続けていましたが、突然ポツリと声を落として

「―――― でもねぇ、見えないんだ」

 そう、呟きました。

 こちらが聞き返すよりも前に、妖精が見えないのだと、佐久間さんは悲しそうにもう一度繰り返しました。

 佐久間さんが言うには、もしも妖精が無事に呼び出せていたのなら、満月の夜に一斉に薔薇が蕾をつけるのだそうです。

 実際この前の満月の時に、揃って全ての薔薇が蕾をつけた。それなのに妖精が一向に姿を現さないのだと、そういう話でした。

「妖精を見るにはね、素質がいるんだ。妖精が自分で選んだ人の前にしか姿を現さないんだって。だからいるはずなのに、まだ姿を見せてくれないってことは、何かがきっと気に入らないんだ。それが分からなくて毎晩何度も本も読み返して、色々なことを試しているのに。一体何がいけないんだと思う?」

 バサバサになった髪を掻きむしって、前より痩せた頬と落ちくぼんだ目で、その癖追い詰められたように問いかけてくる佐久間さんは、まるで途方に暮れた迷子か何かのようでした。

 私はとうとう見ていられなくなって、思わず口を開きました。

 もうやめようよ佐久間さん、それなら魔術は失敗だったんだよ。

 薔薇の蕾が揃ったのだって、手入れとか、天気とか、そういうたまたまの偶然が重なっただけだよ。

 少し休むか、病院に行こう。具合が悪そうだよ。

 けれども私が言おうとしていた言葉は全部、横から突然聞こえたクスクスという小さな笑い声に消されてしまいました。

 思わず見た先には、オレンジとピンクと黄色の蕾が乱立している中、一つだけ白い蕾がぽつんと浮かび上がるようについていました。

 その白い蕾の先に腰掛けるように、妖精がこちらを見て笑っていたのです。



 それは、そうです。

 妖精と、そう言うべきもの。あるいは、

 あの本に書かれている「妖精」と呼ばれているものでした。

 刑事さん、知っていましたか? 羽根なんて無い妖精もいるんですよ。

 のっぺりした馬鹿みたいに広い額に、真っ黒く塗り潰された飛び出るほど大きな目を持つ、禿げた兎のような頭をしていて、手足は枝切れみたいに細い癖に――――ああ、すみません。やっぱりもう少し窓を開けて下さい。吹き込んだ雨は、私が拭いても構いませんから。どうにも匂いが大分きつく感じられるようになってきて。苦手な匂いって、そのうち慣れるはずなんですけども。

 何の話でしたか……ええと、そう。妖精です。

 姿については、もうこれ以上は話すのをやめておきます。

 その妖精はもう一通りクスクスと笑うと、私の方をハッキリと見てこう言いました。

「彼とはね、かくれんぼ中なんだ」

 幻か何かでも見ているに違いない、そう思うのに、声が聞こえてひどく驚きました。おまけに、その妖精が喋る度に、それまで微かだったはずの薔薇の香りが、一段と強くなるのです。

 茫然とする私に向かって、その妖精は更にこう続けました。

「君はね、合格。一目で気に入っちゃったよ」

「あきちゃん、そこに何かいるの?」

 その直後、薔薇園の一点を見つめて動かなくなった私を不思議に思った佐久間さんが声を掛けてきたので、慌てて振り返りました。

 佐久間さんの眼には疑問だけではなく、妖精がもしかしたらそこにいるかもしれないという期待と、自分より先に私が妖精を見てしまったかもしれないという不安、そしてもしも見えたとしたら自分よりも素質があることになる私への嫉妬の前触れようなものが混ざり合っていました。

 その佐久間さんの目を見た瞬間―――ああ、本当に、今となっては恥ずかしいことです。父にも顔向けができません。

 それまで私の頭にあった、佐久間さんへの心配や、父に知らせなければという危機感、全てが吹っ飛んでしまいました。

 かつて『研究会』で、魔術の実践において優秀と言われていたはずの佐久間さんには見えなくて、素質が無いと陰で囁かれ、父にも才能を見限られた私には妖精が見えた。

 佐久間さんではなく、自分が妖精に選ばれた。

 魔術において、自分の方が選ばれた。

 そのかつてない優越感だけが、頭の全てを占めてしまったのです。

 不安そうな佐久間さんに、私は何でもないと首を振りました。

「目の前を何かが横切ったから、気になっただけだよ。小さい虫か何かかな」

 ごまかす私の横で、妖精が湿った木の枝のような人差し指を、蝶のストローのような管がいくつも飛び出た口元にそっと押しやって、しぃーと音を立てていました。



 それからしばらくの間、私は毎日佐久間さんの様子を見るという体で、妖精のところに行きました。

 佐久間さんはその頃ほとんど温室に入り浸っていましたから、隠れて妖精と話をすることはあまりできません。

 けれど半狂乱になって妖精を探す佐久間さんに無理やり食事をさせるために居間に連れだしたり、そのまま佐久間さんが力尽きて仮眠をとっていたりする間は、妖精の方がいくつか私にお願いをしたり、話しかけたりしてくることがありました。

 それがまた私の中で、佐久間さんではなく自分が特別なのだという喜びを感じさせたのです。

 お願いの内容は色々なものでした。あの薔薇をもう少しよく見たいから、手前の葉を切ってほしい。ドアノブが少し汚れているから拭いてくれないか。最近、温室の外で野良猫がうるさいから静かにさせてくれ。もちろん、妖精が見えることにすっかり浮かれていた私は、その全てを叶えました。


 薔薇の蕾も開き切り、温室の中が薔薇の花で埋め尽くされた頃でした。

 あれほどでたらめに植えられたはずの薔薇でも、きちんと手入れがされていて花が開けば、圧倒されるほど見事な景色を見せてくれるものです。

 無理矢理起きて妖精を探そうとする佐久間さんをいつも通り寝かせた後に温室に向かうと、妖精が赤い薔薇の上に腰掛けていました。

「ねえ、サクマの好きな色は何色?」

 いつもは佐久間さんのことなど気にもかけない妖精が、珍しく話題にしたことに驚いたのを覚えています ――――― 同時に、心の奥底で少し面白くないと思ったことも。

 記憶をたどった私は、佐久間さんがよく淡いオレンジ色のノートを持ち歩いていたことを思い出し、妖精に伝えました。

「よし、それじゃあアプリコットだ。アプリコットの薔薇の花を一本、切ってよ」

 それまでの妖精のお願いは、葉を少しばかり切ってほしいとか、あそこに水が足りないからやってほしいとか、そういったちょっとした手入れに関わることは確かにありました。

 けれども薔薇園そのものに手を加えるようなものや、花に鋏を入れるといったことは、その時が初めてでした。いくら姿が変わってしまったとはいえ、長年佐久間さんが丁寧に世話をしてきた植物園で本人の断りもなくそんなことをするのは、さすがに気が引けてしまいました。

「ねぇねぇ、お願いだよ。切り取られた薔薇だって、十分綺麗だろう? こんなに沢山あるんだし、一つ位良いじゃない」

 そうねだる妖精に結局は押し通され、ためらいながらも佐久間さんがいつも使っている園芸鋏を手に、杏色の薔薇のうちの一つに鋏を入れようとした、その時でした。


「何をやっているの、あきちゃん」

 怒りを押し殺しているような声にハッとして振り返ると、そこにはリビングのソファで寝ていたはずの佐久間さんが立っていました。

 あれほど大事にしていた植物園で、勝手に鋏を入れようとしていたのだから怒られて当然でしょう。慌てて謝ろうとする私に、佐久間さんは更に続けました。

「今、何かと話していたよね。誰と話していたの、あきちゃん」

 ソファで寝たふりをして、その後の私の様子をずっと見張っていたのでしょう。

 何かがおかしいと思っていたんだと、ぎらぎらする目でこちらを見る佐久間さんが、ゆっくりとこちらに歩いてきました。

「こそこそと何かしているとは思ったよ。見えるんだろう、妖精が?」

 私が無理矢理ご飯を食べさせ、寝かせていたお陰で、顔つきは前よりもましになったはずなのに、佐久間さんの顔は怖かった。

「何でだよ。何で僕には見えなくて、君には見えるんだ。僕が呼んだのに」

 何が違うんだ。なぁ、何でだよ。

 一歩、また一歩と近付いてくる佐久間さんからは、昔から面倒を見てくれた、優しいお兄さんの面影はすっかり消え去っていました。

 代わりに、知らない誰かのような顔をして、聞いたことも無い低い猫なで声で怒りを押し殺したまま、ゆっくりとこちらに近付いてきました。

「こんな魔術のに見えて、何で僕には見えないんだ。僕が呼びだした妖精だぞ! あの本の通りにやったのに!」

 かつて『研究会』にいた頃、何人かが私の素質の無いことを噂していた時。

 佐久間さんは一度もその話題には入らず、私のことを馬鹿にしたことも無ければ、私が魔術の実践に憧れることを止めようとしたこともありませんでした。

 それどころか、誰かを馬鹿にするようなことも、けなすようなことも無い人で、いつだって穏やかでおっとりとした人でした。

 その佐久間さんが、やはり皆と同じように私のことを落ちこぼれと馬鹿にしていたいう真実を、初めて突き付けられたせいか。

 それともそう怒鳴ると同時に私に掴みかかろうとしたからか。

 恐らくはその両方でしょう。

 頭の中が真っ赤になった私は、思わず手にしていた園芸ばさみで、佐久間さんの喉元を突き刺してしまいました。




 初めは何が起きたか、よく分かりませんでした。

 首元から血を噴き出して倒れた佐久間さんの体が痙攣しているのを、茫然と鋏を手にしたまま眺めていました。

 どれくらい経ったか、自分がとんでもないことをしてしまったと気付き、慌てて救急車を呼ぼうとした時です。

「わぁい、自由だ」

 こんな状況にそぐわない、間延びした楽し気な声が頭上からして、温室を出ようとした足を止めました。

 見上げれば、満開の薔薇の中で一際強い香りを放ちながら、あの妖精がこちらを見て笑っていました。

「ありがとう、アキ。呼び出したサクマが死んだから、もう自由の身だよ。ここから離れて、どこにでも行ける」

 私が佐久間さんを殺してしまったというこの状況にも関わらず、構わずにニコニコと続ける妖精。

 その時初めて、この呼び出された何かが異常なものだという実感が私の中に沸き起こりました。

 同時に、妖精が見えると浮かれていた今までは気にも止めなかったその見た目のおぞましさも、見ただけで感じさせる醜悪な気配も何もかもが、ハッキリと認識できるようになったのです。

 佐久間さんのあの異常なまでの妖精の本への執念も、妖精への探求も、私の暴走した優越感以外の全てが、この異常な何かのせいで引き起こされたことなのだと、水気混じりの土と花弁の香りと血の臭いが混ざった温室の中で、今更そう悟りました。

「次の満月の時までに呼び出した者が死んだから、明日の満月の夜が過ぎればこの温室の外のどこにでもいけるんだ。ねぇアキ、まずはどこに遊びに行こうか」

 いくつもの管がはみ出た口を大きく開けて笑い掛けられた途端、とうとう耐え切れなくなった私は温室を飛び出し、すっかり使われなくなった車の置いてある車庫からありったけのガソリンと、台所から火の出るものをかき集めて、薔薇の生い茂る温室に火をつけました。

 そしてそのまま隣の自宅に戻ると、玄関で気を失ってしまいました。





 私の話は、それでおしまいです。

 約束を守ってくださって、どうもありがとうございました。

 私を精神鑑定にかけるかどうかや、この話をそのまま記者の方々にお話しするかどうかは、刑事さん達にお任せします。

 けれどそれよりも前に、私を拘束した方が良いと思いますよ。

 先程から刑事さんの肩越しに、あの妖精が見えるんです。

 いくら窓を開けても薔薇の匂いが立ち込めて、さっきから息苦しいと思っていました。

 妖精は、火では殺せないんですね。知りませんでしたよ。

 だから早めに私を取り押さえないと、今すぐ後ろに立っている方の胸ポケットからペンを引き抜いて、刑事さんごと妖精を突き刺そうとすると思います。

 女子大生の力なんて、大したことは無いでしょうが、その方が刑事さんの身のためですよ。

 佐久間さんを鋏で殺してしまった私です。あの妖精のせいで何をしでかすか、わかりませんから。



 ああ―――――それにしても、外はひどい雨ですね。

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薔薇香る憂鬱 善吉_B @zenkichi_b

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