猫の多江子
フカイ
(掌編)
モダンなボサノバの演奏が終わった。
レコード針はLPの録音があるエリアを外れ、盤面の中心に向けて大きくスライドしてゆく。一番奥のレーベル面までスライドしきると、トーンアームのオートリフターのスイッチが作動し、針が盤面を離れる。やがてアームは自動で格納位置に戻り、ターンテーブルの回転が停止する。まるで意志があるかのように品良く、このレコードプレイヤーはそこまでの動作を全自動で行う。
音楽がとまり、部屋にさらりしたと涼風が吹いて、レースのカーテンがゆれた。
猫の多江子は不意に、眠りのなかから目を覚ました。
ふと、まぶたを開けて、そのブルーの瞳で部屋を見渡す。ぴんと立った耳を左右にふり、一応の警戒をおこたらない。
多江子の眠りは、覚醒と睡眠のあいだ、すなわちまどろみというものが存在しない。
眠りから覚めた多江子は、ソファの上に四肢で立ち、背中を丸めてすっと伸びをした。
すこしだけ凝った筋肉が、快適にストレッチされた。
そして多江子はソファから床にジャンプした。何の音も立てず、絨毯敷きのフロアに降り立った多江子は、風に誘われるように歩き出した。
ソファには、女主人のハンナが眠っていた。背もたれに上半身をゆるくもたれかけ、長い脚をかすかに交差させて、脱力した主人は、静かに午睡をとっている。
多江子はその白いむこうずねに、立ち寄りがてら、そっと身をこすりつけた。女主人はそんな多江子の愛撫には目を覚まさないことを、多江子は知っている。
数歩、あゆみを進めて体が離れると、尻尾の根元から先端にいたるまでを、器用にくねらせながら、主人のすねに撫でつけていった。
多江子はハンナの眠る部屋のドアを抜けて、廊下へ出た。
廊下の左右の壁には、女主人が古い写真機で撮影した、様々な写真が額に入れられて飾られている。
ボストンのレストランで見かけた、陶器の小さな動物たちの塩胡椒入れ。
日本の地方の寂れた駅舎のベンチに座る、ハンナの息子の横顔。
そして、多江子自身の幼かった頃の顔。
しかし多江子の身長では、等間隔できれいに並べられたそれらのモノクロ写真を見ることはできない。
また、見たとしても多江子の胸には、何の感慨も起こさない。
多江子には、親愛の情はあるけれど、思い出を楽しむ趣味はない。
去り際に向うずねを撫でる挨拶はするけれど、女主人との関係は、主従ではなく、友愛にちかい。
多江子にとって自分以外の存在は、親しい人とそうでない人、というシンプルな識別があるだけだ。
親しい人にはすこしだけ、自分の領域に立ち入ることを許す。そうでない人は、岩や雨と同じような無機物としてあつかう。
それが、彼女のスタイル。
白木の廊下へ続くキチンから、そよと吹き抜ける風は流れてくる模様。
多江子はキチンに入り、シンクの下のマットの脇に設置された、多江子専用の皿から、小さい舌を出してピチャピチャと水を飲む。そして、板張りのキチンを横切って、バルコニーへ。
多江子は風のありかをたどるように、バルコニーの引き戸の脇に設けられた、多江子用の小さなドアをくぐる。中古物件としてこの丘の上の一軒家に引っ越してきた女主人は、多江子の自由を規制せぬよう、建具屋を呼んで、多江子だけが出入りできるサイズのドアを、部屋の一階の三箇所に設置してくれた。
ドアを抜けると、海を見下ろすバルコニーに出ることができる。
物干し竿をかけるための大きな柱の影に身を寄せて、柵の隙間から、風のありかを多江子は探る。
甘い、花の香りが南から吹く風に混じっている。
季節が変わろうとしているのだ、と気づいた。
多江子がこのバルコニーに出るとき、何かに寄り添って身を隠すように行動するのにはわけがある。
以前ここでのびのびと昼寝をしようとしたとき、トビに襲われそうになったことがあるからだ。
以来多江子はバルコニーは自由とともに危険のある場所、と認識し、それに応じた行動をとるようにしている。
多江子はこのように、過去の事件や出来事から、何らかの教訓や意味を抽出し、プラクティカルに生きることが好きだ。多江子の記憶の構造は、人間のそれとは異なる。彼女の過去には
結果として、多江子は過去に必要以上に捕われず、それがゆえに、歩みが軽い。
もし人間にそんな多江子の心理が理解されるとしたら、人間は多江子を軽んじ、
しかし多江子が音もなく地面を歩けるのは、その
多江子はしかし、そんなややこしいことは考えずに、バルコニーから部屋に戻った。
今年も、きょ年と変わらず、夏が訪れようとしていた。
キチンの椅子を利用し、電話台の端に置かれたちいさな座布団に彼女は伏せた。
そして窓の外を見ながら、変わりゆく季節について、すこしだけ、思いをめぐらせた後、また短い午睡に就いた。
多江子の淡々とした日々は、明確な質量のある幸福に覆われている。
猫の多江子 フカイ @fukai
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