終
たとえどんなことがあろうとも、夜が明け、日は昇る。
目覚めはすっきりとは言えないが、それでも重い身体を引き起こして勇一はぐっと背筋を伸ばした。
何時もと変わらない朝だ。けれど、どこか違和感を覚え、勇一は軽く眉根を寄せた。
肌を刺すような空気と、何かしらの気配。自分に対して敵対意識を持ってはいないが、それでも今まで感じたことがなかったそれらに、勇一は小さな吐息をつく。
覚醒したせいなのだろう。何時もとは違う感覚に戸惑うが、それでもこれからはそれらを相容れながら日々を過ごさなくてはならないのだ。
「……なんだかな」
苦笑交じりの独り言は、むなしく部屋に響いただけで勇一は溜息をついてしまう。
変わらないはずの日常は終わり、異質と感じている空気が日常となるのだ。
素早く制服に着替え、階下に降りていく。
「あら、おはよう、勇一」
「おはよう」
まだ顔色は悪いが、それでも気丈に振る舞うことが出来るようになったゆかりは、勇一の前に朝食を用意すると、勇一の座る席の隣の場所に弁当を置いた。
今だに慣れない家の中の様子は、家にいることが当たり前だった健太郎の存在がなくなったからだろう。だが、それでもこの空気は、二人にとって慣れなければならない事であり、乗り越えなければならないことだ。
「大丈夫か。母さん?」
「何時までもくよくよしてたら、父さんに怒れるでしょ。これから頑張らなきゃ、父さんも安心出来ないだろうし、みんなにも迷惑をかけることになるしね。空元気も元気、って言葉があるくらいだもの。
勇一には隠したって分かっちゃうだろうから、今言うけど、まだ立ち直るまでにはいたってないけど、もう、大丈夫よ」
ふわりとした笑みを浮かべたゆかりは、そう言って湯飲みを両手で掴み、そっとその中身を飲み干した。
その様子を眺めながら、勇一は朝食をかき込んでいく。
大丈夫とは言えないが、母もまた前を向いて歩き出したのだ。自分までもが暗い雰囲気を出していても始まらないと考えつつ、勇一は朝食を平らげると両手を合わせて声を上げた。
「ごちそうさま」
「はい、お粗末様」
毎食後のやりとりを交わし、勇一は食器類をシンクに運び、テーブルに立てかけていた通学鞄を手にする。
それを暖かな視線で見るゆかりに、勇一は短く声をかけた。
「いってきます」
「行ってらっしゃい」
リビングを出、何時ものように靴を履いて外に出れば、家の壁に寄りかかっていた那美と目が合う。
「おはよう」
「お、おう」
平時ならばどちらもちょうどの時間に扉を開け、自然と通学路を一緒に辿るのだが、今日に限って那美はそれをせずに勇一のことを待っていたらしい。
壁に預けていた背中を持ちあげると、那美はどこか悪戯っぽい笑みを浮かべる。
「驚いた?」
「当たり前だろ」
「うん。それならいい」
そう言った那美の表情は、安堵に溢れている。どうやら昨日のことを気にしていたのだろう。
勇一のことを心配しての行動に、勇一は微苦笑を浮かべて那美の隣に並んだ。
心地よい沈黙を保ちながら通学路を進む勇一と那美は、ふと目の前に現れた人物にほぼ同時に顔を見合わせ、そのままそちらへと歩を進めた。
「……何のようだ?」
「お前のお守りに決まっているだろう」
悪びれもせずにそう言い切られ、勇一は阿修羅に隠すこともなく嫌そうな表情を浮かべる。
その様子を見、那美はプッと小さな笑みを吹き出して、そのままクスクスと可笑しそうに笑い出した。その様に思わず那美を睨み付けてしまえば、那美は何とかそれを押さえ込んで勇一に話しかけた。
「子供じゃないんだから、我が儘は言わない方が良いわよ」
「誰が子供だよ!」
「阿修羅から見れば、あたし達は子供と変わらないわよ。
ね、そうでしょ」
「まぁ、そうだな。
まだ神力の使い方も覚束ない以上は、子供と変わらんからな」
どこか揶揄う様な口調だが、言われた内容は否定出来ない事のために、勇一は苦虫を噛みつぶしたかのような表情を浮かべる。
そんな勇一の行動に阿修羅は僅かに微苦笑を浮かべ、隣に立つ那美へと視線を向けた。
どこかすまなそうな光を瞳に浮かべた少女は、阿修羅の視線を感じたのかそちらに目線を向け、少し困ったような表情になる。
本来ならば引き離されてもおかしくはないが、勇一がどこかで那美に対して支えとしてみている節がある。もしも支えを失えば、勇一の神力は安定することが難しくなる可能性が高いだろう。それ故に、阿修羅はあえて那美を勇一の側に置いているのだ。
そんな阿修羅の考えが分かるのか。那美は黙ったまま軽く頷き、今だに不機嫌そうな勇一に呆れたような声をかけた。
「ほら、遅刻するわよ。さっさと歩かなきゃ」
「わぁったよ」
ふて腐れたような口調でそう言い放ち、勇一は先頭を切って歩き出した。
思わず、阿修羅と那美が顔を見合わせ、二人同時に苦笑を浮かべた。
勇一の背中を見つめていると、不意に勇一が阿修羅へと声をかける。
「なぁ、阿修羅」
「何だ?」
「他の八部衆の居所は分かってるのか?」
「いや。
どこかで神力の一端でも見せれば、すぐに分かるだろうが、今の所その兆候は見えていない。お前のように、僅かでも神力か記憶が戻っていればすぐに分かることだがな」
「俺達以外の連中が目覚めない可能性は?」
「それはない」
力強い断言に、勇一は思わず振り返り阿修羅の顔を凝視する。
それを受け止め、阿修羅は口角を持ち上げた。
「目覚めたお前の神力は、他の八部衆にも伝わっている。それに触発され、他の者達も神力に目覚めるはずだ」
「ずいぶんと買いかぶってくれてるな」
「それだけ、お前の神力が強いということだ」
あっさりとそう言い切られ、勇一は虚を突かれたように眼を見開く。
自分の神力が、それほどまでに強いと思えない。それが顔に出たのか、勇一の表情が苦虫を噛みつぶしたようなものへと変化した。
それを見つめ、阿修羅は瞳の中に鋭いものを交えて勇一に視線を送る。
以前ならば、それだけで気圧されただろう。だが今の勇一にとっては、それを恐れることなく受け止めるだけの胆力はついている。真っ向からその視線を受け止め、勇一は小さく舌を打ち付けた。
きょとんと眼を瞬かせた那美が、二人の顔を交互に見やる。
二人の身体から発せられる気配に少しばかり居心地の悪そうな表情を見せた那美に対し、勇一はポンとその頭を叩いて歩き出した。
「ちょ、勇一」
「遅刻すんだろ」
「それはそうだけど……」
納得しかねるような那美の口調に、勇一は自然と笑みを顔に浮かべた。
普通の人間ならば、勇一と阿修羅の間に流れた気配に後ずさりしかねないというのに、那美はごくごく普通のことのように二人の雰囲気を受け止めていた。
それだけだというのに、普通に側にいてくれる那美の存在は、勇一にとってはひどく有り難いものに感じられる。
ありがとう、と言う言葉を口にするの簡単なことだが、それを言葉として伝えることは何とはなしに恥ずかしく思えてしまうため、勇一は慌てて近寄った那美の姿に思わず視線を反らせてしまった。
その態度を不思議そうに小首を傾げつつも、那美はちらりとゆっくりと歩いている背後の阿修羅に視線を向ける。
それを受け、阿修羅は失笑を浮かべて肩を竦めて見せた。
「どうした?那美」
「どうもしてないわよ。ただ……」
「ただ?」
「なんかのけ者になったみたいで、ちょっと腹が立つだけ」
「何だよ、それ」
「べっつにー」
ぷいっと拗ねたように横を向き、那美は足早に勇一の前に出ると、くるりと回転して勇一へと向き直った。
拗ねていた表情は消え失せ、どこか悪戯っぽい笑みを見せた那美に、勇一はつられたように苦笑を浮かべた。
「勇一、遅刻するわよ」
「お前なぁ、それ、さっき俺が言ったことだぞ」
「あれ?そうだっけ?」
とぼけたようにそう告げた那美に、勇一は呆れきったように溜息を吐き出す。だが、すぐにそれは消え失せ、勇一は吹っ切ったように歩き出した。
その後ろ姿を眺めていた阿修羅だが、勇一の耳に届くだけの小さな声を発した。
「これからが、大変だぞ」
「わぁってるよ、それぐらい」
くっ、と拳を握りしめ、勇一は阿修羅の言葉を胸に刻む。
もはや後戻りは出来ない。自分の道は、すでに決定づけられているのだから。
「勇一?」
不思議そうな視線を寄越す那美に、勇一は何でも無いと言いたげに首を横に振る。
守りたいものが、ある。
そのための力なのかもしれない。
そう考え、勇一は前を向いて歩き出す。
後ろを振り返ることもせず、前だけを見て歩き出した勇一の姿に、阿修羅は眩しいものを見るように目を眇める。
『頼むぞ』
託されたものは大きく、重い物。けれど、勇一を見ていれば、それが苦であるとは思うことはない。
揺るぎの無くなった勇一の背中は、阿修羅の眼からみても頼もしさが垣間見えるだけではなく、これから集まるであろう八部衆にとっても良い方向へと導かれるだろう事を予測させた。
立ち止まってしまった阿修羅に気づき、勇一と那美は歩みを止めて背後を振り返る。
「阿修羅?」
「どうかしたの?」
勇一と那美の声に、阿修羅は柔らかな笑みを口の端に浮かべる。
守るべき者を得た者は、強い。
それは、当たり前のことであり、自然なことと言えるだろう。
勇一もまたそのことを本能で理解しているはずだ。
「いや、何でも無い」
そう答えた阿修羅の姿に、勇一と那美は怪訝そうな表情を浮かべるが、答えが返ることはないと感じたのか、勇一はすぐに歩き出した。
慌てて那美もそれについて行こうとするが、勇一とは違い何かを察したのか、微苦笑を浮かべ軽く頷いてみせる。
守られるだけではなく、勇一の足手纏いにはならない。そう言っている那美の瞳は、勇一同様の強さを持っていた。
選択は間違っていなかったことに対し、阿修羅は先を行く二人の背中を見つめた後、ゆったりとした動作で頭上を見上げた。
「これが、始まりだ」
その呟きに、阿修羅は少しだけ驚いたような表情を浮かべる。
それは、誰に向けていった言葉なのか。
阿修羅自身でも分からないその言葉の先は、けれども事実であり、変えることの出来ない現実だ。
小さく吐息をつき、阿修羅もまた勇一達に続いて歩き出した。
その様子を感じ取り、勇一は背後の阿修羅に一瞬だけ視線を向ける。
阿修羅が何を考えているのかは分からない。だが、自分の周囲が変わってしまったことは、言葉にされずとも理解出来ている。それは、肌で感じる空気だけではない。自分の内側から生まれる表現しがたい熱の塊が、全身を駆け巡り指の先までその力が満ちあふれているのだから。
「勇一」
「ん?」
「大丈夫よ」
勇一の考えを見抜いたかのような那美の言葉に、勇一は一瞬だけ眼を見張る。
自分は大丈夫だ。
自分の周りには、力を与えてくれる者がいる。それだけを知っていれば、自分はこの先も歩き続けることが出来る。
幾分か張り詰めていたものが溶け落ち、勇一は知らず知らずのうちに笑みを浮かべていた。
「那美」
「なに?」
「ありがとな」
きょとんとした表情の那美の頭を、勇一は軽く掻き回す。
そんな勇一の態度に、那美は一瞬だけ子供扱いするなと言いたげな視線を送りつける。
だが、すぐにそれを消して思わずと言ったように吹き出した。
「なんだよ」
「さぁ?何だと思う?」
とん、と勇一の前にでた那美は、お返しとばかりに勇一の額を軽く指先で叩き付ける。
何をされたか一瞬分からなかったのか。勇一は小突かれた額を軽く押さえ、そしてそれが意趣返しだったと思い至り、苦笑を口の端に刻む。
日々が変わったとしても、那美は変わらずに側にいてくれる。その存在感の有り難さを感じながら、勇一は歩き出す。
この先、何が待ち受けているのかは分からない。
けれど、大丈夫だ。
まだ、全てを思い出したわけではない。けれど、徐々に覚醒していけば、全てのピースは揃い、側にいた仲間達のことも思い出していけるだろう。
「大丈夫」
そう呟き、勇一は蒼天を見上げる。
この向こう側に、自分達を見つめているだろう『敵』がいる。
「見てろよ」
相手に届くかどうか分からないが、自分がなすべき事は一つだ。
不敵な表情を見せた勇一は、力強く歩き歩き出す。
迷わずに進め。
ふとそんな声が聞こえたような気がし、勇一は視線を周囲に巡らせる。
よく聞いた、そして懐かしさに溢れたその声に、勇一は見えぬ相手に対して軽く頷いていた。
「勇一ー」
かなり前へと進んだ那美が、笑いながら勇一に声をかける。
その声に圧されるようにして、勇一は再び歩き出した。
龍王奇譚 第一章 龍王覚醒 10月猫っこ @touko10439
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