第八章

 ゆっくりとした足取りで家路へと向かう勇一が、ふと知り合いの姿を見つけて足を止めた。

 勇一に気付いたのだろう。急ぎ足でこちらに近づいてくるのは、那美の兄である天野翔也しょうやだ。どこか苛立ちに満ちた表情の翔也は、勇一の背後に視線を向けた後、そのまま勇一に苦虫を噛みつぶしたような声で質問を口にした。

「那美は一緒じゃないのか?」

「あ、あぁ。今日は、ちょっと、色々あって」

 少しばかりばつの悪さを感じながらそう告げると、翔也は意外そうな表情で勇一を見やる。

 勇一の父親が死んでから、那美は勇一の側を離れず、その心情が癒やされるのを待つために一緒に下校していたのだから。

 だからこそ、翔也は顔を顰めて頭をかきむしりながら、苛立った様子で大きく息を吐き出した。

「あいつ、何やってんだ。訳分かんねぇメール送りつけやがって」

「メール?」

 不思議そうに聞き返せば、翔也は尻ポケットから携帯電話を取りだし、それを画面に呼び出すと、勇一に携帯の画面を読むように眼で示した。

 首を傾けながらも、勇一は翔也の携帯画面に映し出された文字を読み、愕然としたように身体を硬直させた。

『天野那美は死んだ。それを確かめたければ、最初に出会った場所に来い』

 何が起きたのか一瞬だけ理解の範疇超えたが、すぐにそのメールを送りつけた人物の存在が誰であるかが分かってしまう。

 羅刹天。

 回りくどいやり方だが、あの皮肉と人間を、いや、勇一を見下している男は、よりにもよって勇一を追い詰めるためだけに那美を道具にしたのだ。

 ギリ、っと奥歯を噛みしめる。

「勇一?どうした?」

「あ、いや」

 よほど険しい顔をしていたのだろう。翔也が不思議そうに勇一の顔を覗き込み、自分の持つ携帯に表示された文字面と勇一を交互に見やる。

 何とか顔面の筋肉を総動員して普段通りの顔を作り上げると、勇一は翔也に何時もと変わらぬ口調で話しかけた。

「俺も那美を探すよ、翔也兄。

 とりあえず、見当つけて、俺も探すから、心配すんなって」

「そ、そうか?なら、頼むわ。おれも、心当たり探すから」

 首を傾げつつも、勇一の言葉にどこか安心したような色を瞳に浮かべ、翔也はポンと勇一の肩を叩いてその場から立ち去る。

 それを見送り、勇一は硬い表情で歩き出した。

 最初に出会った場所。

 そこがどこなのか、思い出すまでもない。

 急ぎ足で学園に向かう道筋を辿りながらも、先程の文面が頭の中で何度もよみがえってくる。

 ―天野那美は死んだ。

 何を根拠にそんなことを伝えてきたのか。

 那美が死んだ。

 そんな馬鹿げたことになっていたら、天野家は今頃もっと騒がしくなっていたはずだ。

 だが、那美の死体が発見されたわけでも、那美が死んだという事実すらもなく、至って普段通りの光景が広がっているだけだった。

「那美……」

 また、自分の周りの人達が巻き込まれた。

 自分が原因で、周囲の者達は否応もなく全てに巻き込まれていく。自分が中心にいながらも、知らぬうちに周りにいる大切な人達は渦中の中に力ずくで引きずり込まれていく。

 父だけではなく、このままでは那美までもいなくなる。

「那美っ!」

 無事でいてくれ。

 その願いだけが勇一の中で渦巻く。

 あんな馬鹿げたメールを送りつけたのは、ただの冗談だったと、ただ単に困らせただけだったと、那美が少しばかりばつの悪い表情で言ってくれれば、きっとこんな不安は消え失せるだろう。

 だが、今の那美がこんな馬鹿出たメールを送りつけるわけがない。それだけは自信を持って断言出来る。

 これは、あの男が、羅刹天が送りつけたものだ。

 自分の周囲の人間を操り、勇一を嬲り殺すためにだけ仕組まれた罠だということは、十分に承知している。

 無論勇一があのメールを無視することが出来ないと、羅刹天は始めから予測していたはずだ。

 勇一のすぐ側にいて、当たり前のように隣に立っていた存在に目をつけたのは、羅刹天だけではなくとも簡単に想像出来る事だ。

 こんな事ならば、もっと早くに那美を遠ざけるべきだった。

 だが、そんなことを考えても、きっと自分は那美を避けることは出来なかっただろう。

 那美がいてくれたからこそ、父親の死を何とか受け入れ、そして普通に接してくれたことで自分を保つことが出来たのだ。

 今、もしも自分を支えてくれる存在がいなくなってしまえば、きっと勇一は酷く簡単に壊れてしまうだろう。

 父が死んだと知らされた時以上に、それこそ今まで踏ん張ってきていた勇一の足元は簡単に砂のように崩れ去る。そしてそれ以上に、感情面すらも砕けてしまうだろうのは瞬時に分かってしまっていたことだ。

 日の暮れた空の下、常夜灯に照らされていながらも、学園の門は暗闇を纏って勇一が来るのを待ち受けていた。

 いつの間にかからからになった口の中を湿らせるため、勇一は大きく息と唾液とを飲み込む。

 威圧感が、学園の中から漂ってくる。

 それに気圧されながらも、勇一は学園の門を潜り抜け、あの時、那美とともに襲われた場所へと真っ直ぐに向かった。

 薄暗いながらも、等間隔で置かれた明かりのおかげで、足元が狂うということもなく、勇一は緊張した身体から力を抜くためにそっと息を吸い込み、慎重にあの時羅刹天とであった場所へと足を踏み入れた。

「那美!」

 大きな声を張り上げ、勇一は周囲を見回す。

 人影も、人の気配すらもないそこは、本当に那美がいるのかと疑問を覚えてしまう。だが、自分達は確かにここで襲われた。それは、間違い無い事柄だ。

 じりじりと、時間だけが過ぎていく。それに比例するよう、勇一の心の中は焦りと苛立ちを増していき、小さな舌打ちを鳴らすと再度周囲を探すべく歩き出そうとした。

 その時だ。

「勇一」

 小さく、けれどもはっきりと聞こえた声に、勇一は動きを止めて声の上がった方向へと視線を向ける。

 ゆらりと、まるで存在感なく佇む那美の姿に、勇一は安堵と同時に違和感を感じた。

 まるで幽鬼だ。そこにいながら、そこにいないような、明確な気配が感じられない様子に、勇一はゆっくりと那美に近寄った。

「那美、大丈夫か?」

 そう声をかけた途端、弾かれたように那美が動いた。

 とっさに、勇一は那美から距離を取る。だが、腹部に感じた灼熱の塊に、勇一はそれを押さえつけるために手を当てた途端、ぬるりとした感触を覚え、驚愕を顔に貼り付けて那美を見つめる。

 那美の手には、いつの間にか一振りの短刀が握られている。その刃先からは、ぽたぽたと深紅の雫が流れ落ち、勇一を傷つけたことを雄弁に語っていた。

 ゆるりと那美が顔を上げる。じっとその顔を見つめれば、那美の瞳には全くと言って良いほどに意思がなく、まるで出された命令を忠実に実行するための人形のように感じられた。

「那美!」

 勇一の声にすら反応を見せず、那美は持っていた太刀を真っ直ぐに勇一に向ける。

 驚きに身を固めた勇一の様子に、那美の唇が緩やかに弧を描く。

 殺意が、その瞬間叩き付けられる。間違いなく、那美は勇一を殺そうとしているのだ。それを命じたのが誰であるかなど、考えるまでもない。

「隠れてないで出てこいよ!羅刹天!」

 そう吠えた途端、クツクツとおかしそうに笑う声が響き渡る。

 声の上がった方向、那美の背後へと鋭い視線を向ければ、悠然とした態度で近くの樹に身体を預ける羅刹天の姿が現れていた。

 声と同様に、その表情はひどく楽しげなものを浮かべている羅刹天は、些か芝居じみた動きで勇一へと軽く頭を下げてみせる。

「さて、どうだ?俺の書いた脚本は?」

「悪趣味すぎるな」

「それはどうであろうな?

 そこの小娘は、力を求めた。その願いを俺は叶えてやっただけだぞ」

「ふざけんな!那美がそんなこと」

「勇一を守りたい」

 勇一の言葉を遮るように、淡々と那美がそう告げる。感情の全くこもらないその声ではあったが、その内容に勇一は那美の顔を凝視し、それが真実なのかを見極めるように眼を細めた。

「勇一を、守りたい」

 再度同じ事を繰り返した那美の声には、嘘偽りの無い真摯な響きが宿っている。

 またしても自分が原因なのかと、勇一は頭を横殴りされたような衝撃に身体を強張らせた。

「那美……」

「でも、あたしじゃ、勇一を守れない。勇一を守るのには、力が足りない。だから」

「俺を殺せば、少しはお前の気がはれるのか?」

 ことり、と那美が首を傾げる。

 自分の行動と、真意である言葉とのちぐはぐさを考えているのだろう。己の手に握られた短刀に目を落とし、そこに流れる赤い液体に僅かに驚いたように目を見張る。

 それを見た勇一は、まだ那美が完全に羅刹天に操られたわけではないと直感的に理解した。

「那美!」

 強い呼びかけに、那美の表情が苦悩に歪む。

 自分がいったい何をしているのか、それを考えようとしている那美に向けて、羅刹天は小さく舌を打ち付けた後、苛立たしげな声で那美に命令を下した。

「何をしている!お前の役目は、そいつを殺すことだ!」

「殺す……?」

「そうだ。奴を殺せば、お前の言っていたことが適うのだぞ」

 その言葉に、那美は頭痛を堪えるような表情を浮かべ、己の手に握られた短刀に目線を落とした。

 殺す、と、那美の唇が音もなく動く。

 その様子を見つめながら、勇一は那美との位置を量りつつ、何時でも那美の手から短刀を奪えるように爪先に力を入れた。

 だが、勇一を襲うはずの那美は、酷い痛みを堪えるような表情を見せながら、呻くような声を上げた。

「……違う」

「那美!」

「違う。あたしは、勇一を……」

「殺せ。そうすれば、お前の望みが叶うのだぞ。

 さっさと奴を殺せ!」

 羅刹天の言葉に、びくりと那美の身体が震えたかとおもうと、そのまま手にした短刀を振り上げ勇一にそれを振り下ろすために近寄った。

 ガキン、と、金属同士がぶつかり合う音が周囲に響く。

 目の前で起こったことに、勇一の判断がとっさに遅れる。

 勇一の目の前には阿修羅が現れており、那美の手にした短刀と阿修羅の持つ剣とがぶつかり合っていた。

「何をしている!」

 阿修羅の一喝が、勇一の耳朶を打ち付ける。

 那美の身体を力任せに押し返し、阿修羅は鋭い眼光で勇一を見つめた。

「あれは、お前を殺そうとしているのだぞ!躊躇うな!たとえお前のよく知る者であっても、羅刹天によって操られている以上は敵と見なせ!」

 その言葉に、勇一の頭に血が上る。

 那美を敵と見なせというが、そんなことが出来るはずがない。にもかかわらず、阿修羅は簡単に那美を殺せと簡単に言ってのけたのだ。

 感情のまま、勇一は阿修羅へと怒鳴りつけるように言葉を放った。

「っざけんな!那美はまだ自我が残ってるんだぞ!そんなこと出来るわけがないだろ!」

「自我が残っている?」

 僅かだが、阿修羅の眼が驚きに見開かれる。

 ちらりと那美に視線を向ければ、確かにその瞳には戸惑いと苦悩とがせめぎあい、羅刹天の命に従って良いものかという疑問が浮かび上がっている。

 普通ならば、人間よりも上位の存在である羅刹天の声は絶対のはずだ。にも関わらず、那美はそれに従うということに疑問を持っている。

 ―それだけ、強い信頼関係を持っているということか。

 那美の中には、勇一という存在が強く焼き付けられているのだ。それは、少なからず勇一の側にいた時間や、互いの信頼関係が強く起因しているのは明確なこと事実と言えるだろう。

 だからこその、逡巡。だからこその、疑問。

 羅刹天に従うべきか否かの判断が、那美の中では揺れ動いているのが現状だ。

 だが、少なくとも現在は、そんな小さな事にかまっていることは出来ない。那美は、勇一の敵となっているのだ。

 その事実があるだけで、阿修羅には那美を殺すことには十分な出来事と言えるだろう。

 そんな阿修羅の思考を読んだのか。勇一が鋭い声を発した。

「まだ那美は奴の配下じゃねぇ!殺すことは許さねぇぞ!」

「ならばどうする!このままでは確実のお前は殺されるのだぞ!」

「そんなことにはならねぇ!」

 強く言い切った勇一の身体から、ゆらりと何かが立ち上る。

 それを見た阿修羅と羅刹天が、揃って息をのんだ。

 強い闘気。その昔、修羅界に存在した時に纏っていた、王と呼ばれた者達だけが持つことを許されたその空気は、その場にいた者達を圧倒せんばかりに膨れあがっていた。

 いつの間にか塞がった傷口から手を放した勇一の右手に、阿修羅と対峙した時に現れた太刀が握られている。

龍牙刀りゅうがとう……」

 呆けたように、羅刹天が呟く。

 完全な形状ではないが、それでも沙羯羅龍王が持つことを許された太刀。

 その力は、羅刹天も聞き及んだことがある。

 水を意のままに操り、その力は阿修羅王の持つ修羅刀に匹敵する力を持つと言われるそれは、自分等及びのつかぬ力を持つ太刀だ。

 恐怖が、羅刹天の背筋を這い上る。

「何をしている!さっさと沙羯羅龍王を殺せ!」

 だが、勇一の気配に圧されたのか、那美は呆然とその場に立ち尽くし、手にしていた短刀をいつの間にか大地に落としていた。

「……違う……あたしは、勇一を殺したいんじゃない」

 ようやくのように絞り出された声は、那美自身の意思を明確に表していた。あり得ない事態に、阿修羅と羅刹天は驚いたように那美を見つめた。

 瞳はまだどこか薄ぼんやりとしているが、確かな意思がその中で小さく灯り、やがてそれが強い力となって現れた。

「守りたい、それだけで、良いの」

 ぽたり、と那美の眦から透明な滴が流れる。

 その様子に、阿修羅は僅かな驚愕を込めて那美を見つめた。

 そんなはずはない。

 それが阿修羅の感想だ。

 神である羅刹天を受け入れた時点で、那美は羅刹天の人形同然の存在となったはずだ。にも関わらず、那美は自力でそれを脱しようとしている。

『人間には、無限の可能性がある』

 何時だったか、難陀龍王がそう告げたことがある。

 そんなことがあるのだろうかと疑問に思っていたが、それを今、阿修羅は目の当たりにしているのだ。

「人の持つ可能性、か」

 やや呆然としたままそう呟いた阿修羅にかまわず、勇一がひときわ強い声で那美を呼んだ。

「那美!」

「……勇一?」

「そうだ!戻ってこい!」

「何をしている小娘!お前の役目は奴を殺すことだ!奴の言葉を聞くな!俺の命に準じろ!」

「あ……あ……」

 羅刹天の怒声に、那美が耳を塞ぎ頭を激しく横に振る。

 その様子に、羅刹天が業を煮やしたように那美に近寄るや、荒々しく那美の頭髪を持ち上げると、大地に落ちていた短刀を蹴り上げて無理矢理にそれを那美に握らせた。

「お前の役目は、奴を殺すことだ!分かったならそれをさっさと実行しろ!」

 だが、その言葉を聞いた瞬間、那美が羅刹天から逃れるために身体を無理矢理に遠ざけようと腕を突っぱねる。

 ブチブチと何本か髪の毛が引きちぎられるが、それでも羅刹天から逃れることが出来ずにいる那美が、大きな声でそれを拒否した。

「いや!あたしは、勇一を守るの!」

「小娘!俺の命が聞けんのか!」

 苛立ち紛れに、羅刹天は那美の頬を殴りつける。

「那美!」

 だらりと力が抜けた那美の手から、短刀がこぼれ落ちる。その様に舌を打ち付け、羅刹天は荒々しく那美の身体を放り投げた。

 潰れた呻き声が、那美の口から漏れる。

 それにすら怒りを覚えたのか、使い物にならなくなった玩具を壊すかのように羅刹天は那美の腹を何度も蹴りつけた。

「止めろ!」

 勇一の制止の声が聞こえたのだろう。那美の唇から、小さな声が漏れ出る。

 聞き届けるのが困難なはずのそれは、けれどもしっかりと勇一の耳に届いた。

「勇一を、守りたいの」

 その言葉に、勇一の目頭が熱くなる。

 どんなことになろうとも、那美は自分の側にいることを選んでくれた。

 その事実が、勇一の身体に眠っていた力を呼び覚ます。

「止めろ!羅刹天!」

 憤怒を隠そうともしない勇一の口調に、羅刹天が忌々しげに勇一に視線を向け、その瞳を見た途端ぎくりと身体を強張らせた。

 いつの間にか、勇一の瞳の色が変わっていた。

 黒かった瞳が、深い水底のような、藍色のがかった蒼に変わっている。

「覚醒、したのか」

 今までは力は封印され、その片鱗すらもみせてはいなかった。

 だが、今は違う。

 瞳の色が変わると同時に、その身体からは今までとは全く違う、神として存在していた頃と変わらぬ神力が抑えきれずにあふれ出ていた。

 龍牙刀を構え、真っ直ぐに羅刹天を睨み付ける勇一、いや、沙羯羅龍王と呼んだ方が今は適切な存在となった姿に、羅刹天は知らず知らずのうちに那美から離れ、腰から引き抜いた太刀の刃先を真っ直ぐに勇一に向けていた。

 勇一が放つ存在感に、阿修羅は満足げな顔をする。

 八部衆の中でも、沙羯羅龍王の神力は阿修羅並みの力を持っていた。それ故に、天界は勇一の覚醒を恐れたのだ。

 切っ掛けがなんであれ、勇一は八部衆としての神力を取り戻した。

 その事実に、安堵と、抱えていた使命を一つ果たせた事に、阿修羅は知らず知らずのうちに詰めていた息を吐き出した。

「さて、どうする?」

 どこか小馬鹿にしたような阿修羅の声を切っ掛けに、羅刹天が勇一に向かって雄叫びを上げて斬りかかる。

 それを難なく龍牙刀で受け止め、勇一は焦りに満ちた羅刹天の顔を睨み付けた。

「テメェだけは、俺の手で殺してやる」

 この男のせいで、父は殺され、那美は人形のように扱われた。

 怒りは頂点に達し、許すという行為自体浮かび上がることはない勇一の考えを、羅刹天は肌で感じたのだろう。

 だが、羅刹天とて修羅界の神の一人なのだ。その神力は勇一に及ばずとも、覚醒直後の今ならば、羅刹天の技量でも何とか切り結ぶことも可能なはずだ。

 ギン、と、重く鋭い音が勇一と羅刹天との間で何度も上がる。

 その様子を見ながら、阿修羅は力なく倒れる那美に近寄り、その身体を持ち上げる。

 殴られた頬は腫れ、唇から細く血が流れ落ちている。呼吸も浅く短いながらも、何とか内蔵破裂からは免れており、無事とは少々言いがたいが、間違いなく生きていることを阿修羅に伝えていた。

 治癒術は苦手ではあるが、せめて呼吸を楽にしてやるために、阿修羅は那美の額に手を当て自分の神力を流し込む。

 その最中も、勇一と羅刹天は激しい攻防を繰り広げ、周囲の地形を変えながら互いの隙をうかがっていた。

 覚醒して間もない勇一の方が不利なはずだというのに、羅刹天は幾分かの焦りを覚えながらも太刀を握りしめる。

 今ここで破れるわけにはいかない。

 それだけが、羅刹天の頭を占める。

 阿修羅王だけではなく、沙羯羅龍王まで覚醒させたとあっては、天界は自分を捨て駒にして次の策を練るだろう。そうなれば、自分が願ったことすらもが適わなくなる。

 あの方だけは、自分の命を救ってくれたあの女性だけは、何があっても守るのだ。

 その思いだけで、羅刹天は剣を振るう。

 他の八部衆の命などどうでも良い。ただ、八部衆の中でも優しさに溢れていたあの女性だけは、何があっても自分の手で守りたいのだ。

 勝手な願いだと分かっている。天界がそれを許すはずがないことも分かっている。

 だが、何があっても、願いが叶う切っ掛けが僅かでも残っていれば、それに縋る事は自分でも許されるはずだ。

「貴様さえ死ねば、俺の願いが叶うのだ!」

 そう叫び、羅刹天は勢いよく剣を振るう。

 それを綺麗に受け流しながら、勇一は羅刹天の剣戟の隙間をついて細かな傷を作り上げていく。

 だが、それは勇一も同じだ。

 力業は、羅刹天の方が上だ。所々から血を流しながらも、勇一は幾分か冷静さを取り戻し、その動き一つ一つを読み取りながら羅刹天の剣先を反らせていた。

 このままでは拉致あかない。

 それは、勇一も羅刹天も切り結ぶ中で同じ思考に至ったことだ。

 剣を互いに弾き飛ばし、二人は自分達の間合いを作り上げる。

 じりじりと爪先を動かし、互いに動かしやすいように剣を握りしめ、見極めるようにじっと互いの動きを観察する。

 ピンと張り詰めた緊張感を破ったのは、羅刹天だ。

「死ね!」

 吠えるような声とともに、上段に構えた太刀を勇一の脳天に打ち込むべく剣を振り下ろす。

 それをはね飛ばし、勇一の太刀先が羅刹天の喉元を捕らえる。

 鈍い感触が、勇一の掌全体に伝わる。

 我に返ったように勇一が目を見開き、目の前で信じられないものを見るかのような羅刹天の表情が焼き付けられた。

 龍牙刀は、間違いなく羅刹天の喉を貫き、その命を絶ちきったことを知らしめている。

 殺した。

 その事実に、勇一は茫然としながらも龍牙刀を引き抜く。

 血飛沫を上げ、羅刹天の身体が大地に転がる。呆けたようにそれを見つめる中、驚いたことに羅刹天の身体がボロボロと土塊のように崩れ落ち、その形を無くしていく。

 今まで闘っていたことを物語るのは、龍牙刀から流れ落ちる赤い血潮と、両手に残る命を絶った事を知らしめる重さだけだ。

 殺さなければ、殺される。

 それは十分に理解出来ていたことだ。

 憎悪と憤怒に支配されていたとはいえ、殺すということが何を意味するか理解していたかと聞かれれば、勇一は否と答えるしかないだろう。

 誰かの命を絶つ。

 それがこんなにも簡単に行うことが出来、そしてこんなにも重いものだとは、考えていなかった。

 自分が殺した。

 その意味を考え、勇一の背に冷たいものが流れ落ちる。

 自分は、これから先、この血塗られた道を歩いて行かねばならないのだ。

 自分の命を守るため、と言う大義名分があれども、それを背負いきれるのかと自分に問いかけてみる。

 だが、その答えが見つからない。

「俺は……」

 ぎゅっと龍牙刀を握りしめ、勇一は上がっていた呼吸を整えるために大きく息を吸い込む。

 現在の自分が決めたわけではない。

 それは、過去の、前世の自分が決めた道筋だ。

 思い出せていないから、と言う理由だけで、誰かの命を奪う行為を許容したわけではない。それでも、呆気なく生命を奪った行為は、確かに勇一の心に大きな傷をつけた。

「やったな」

 びくりと肩を跳ね上げ、勇一は声の上がった方向へと顔を向けた。

 那美を横抱きにした阿修羅が、勇一の側による。

「那美……」

 まだ頬は少し腫れているが、呼吸は楽そうになっている那美の姿を見た途端、目頭が熱くなった。

 生きている。

 それだけで、少しは自分が背負ったものが軽くなった気がする。

 那美の頬に、ぽたりと雫が落ちる。

 それが自分が流したものだと気付くのに、勇一はしばらくの間気付くことが出来なかった。

 いつの間にか流れ出した涙のせいで、那美の姿がぼやけて見える。

 だから、分からなかった。

 いつの間にか、勇一の頬に誰かの手が当てられていることに。

「……勇一?」

 涙のせいで気が付いたのだろう。不思議そうに、那美が勇一の名を呼ぶ。

 どうしたの?大丈夫?

 そう語る那美の大きな瞳に、勇一はぎこちない笑みを浮かべ、恐る恐る那美の頬に指先を当てた。

 暖かい。

 ただそれだけだというのに、勇一の涙腺は決壊したようにボロボロと子供のように涙があふれ出た。

「勇一」

 驚いたように、那美は阿修羅の腕の中から身を起こす。

 その様子を見てだろう。阿修羅が那美の身体を大地に下ろすと、よろめきながらも那美は勇一へと近づいた。

 そっと、那美が勇一の眦を掬う。

 たったそれだけだ。それだけのことだったが、勇一の中で何かが破裂した。

 ぎゅっとその身体を抱きしめ、その温もりに勇一はぎりっと奥歯を噛みしめる。

 護れた。

 失いたくないものを、かけがえのないものを、自分は護ることが出来た。

「勇一?ほんとに、大丈夫?」

 落ち着かせるように背中を撫でる那美の掌が、ひどく暖かく感じる。何時もと変わらずに接してくれる存在が、これ程までに自分を落ち着かせてくれるとは、今まで思ってもみなかった。

「……那美」

「なぁに?」

 柔らかな声が、耳朶を打つ。

「那美……那美……」

 何度も何度もその名前を呼び、自分の腕に収まった存在がここにいることを確かめるように腕の力を強くする。

 本来なら痛いほどの力だというのに、那美は痛みを訴えることなく、ただ勇一のされるがままに抱きしめられ、小さな苦笑を浮かべてみせた。

 やがて、勇一が落ち着いた頃を見計らったように、那美が苦笑から悲痛な表情を浮かべて、はっきりとした口調で勇一に語りかけた。

「ごめんね、勇一。辛い思い、させちゃったね」

「なに、言って……」

「全部、覚えているから。勇一を傷つけたことも、勇一を殺そうとしたことも」

「な……」

 言葉を無くしたような勇一を、那美は真っ直ぐに見つめる。

 どんな罰でも受ける覚悟を決めた瞳に、勇一はどのようなことを話せば良いか分からず困惑の色をその顔に浮かべた。

 黙って今までのことを見ていた阿修羅が、ゆっくりと勇一に近づく。

「その娘の記憶を封じることは出来るぞ」

「阿修羅!」

 慌てたように、勇一が阿修羅に視線を向ける。

 確かに、こんな記憶を持つことは那美には重すぎるだろう。だが、そんなことを簡単に決めてしまって良いとは思えない。この件に巻き込んだ原因は、勇一にある。だが、那美は勇一を責める言葉を一つも発していない。それは、自分が勇一を追い詰めたことを理解しているからだ。

 その証拠に、那美は真っ直ぐに阿修羅の顔を見つめた。

「記憶を封じられても、自分がやったことを忘れるなんて出来ない。

 だって、これは私が選んで、そのせいでこんな結果になったのよ。それを忘れてしまうことは、もしかしたらもう一度こんなことを起こすかもしれないじゃない。そんなこと、もう二度としたくない」

 強い意志を込めた那美の言葉と瞳に、阿修羅が驚いたような表情で那美を眺める。

 真っ直ぐに、自分の犯した罪を受け入れるその姿勢に、阿修羅は幾分か考え込むように眼を細めた。

「……やはり、人間とは面白いものだな」

「阿修羅?」

 那美をかばうように抱きしめていた勇一が、不思議そうに阿修羅に視線を送る。

 ふっと、阿修羅が笑みを漏らす。それを見た途端、勇一は阿修羅が那美の記憶を封じることを止めたのだと理解した。

 ほっとしたように腕の中にいる那美を解放し、勇一は周囲を見回し軽く眉を寄せた。

 戦闘の爪痕が色濃く残る周辺を見ていると、先程自分が手にかけた羅刹天のことを思い返してしまう。

 あの男は、強い願いを持っていた。

 それが何かは分からない。だが、羅刹天は羅刹天なりの考えを持って自分と対峙した。

 それを忘れてはいけない。

 それが、自分が殺した者に対しての贖罪だ。

「勇一」

 心配そうに、那美が声をかける。

 まだ硬い表情だが、何とか笑みを浮かべた勇一の掌を、そっと那美が包み込む。

「あたしも、背負うから」

「那美……」

 どこか泣き出しそうな表情で笑う那美の手を、勇一は強く握り返した。

 神力を思い出しても、側に変わらずいてくれる者がいる。

 それだけで、勇一は立ち上がり、前に進むことが出来る。

「ありがとな、那美」

「え?」

 驚いたような表情を浮かべた那美に、勇一は子供のようにくしゃりとした表情を浮かべると、再度自分が闘った場所に視線を向けた。

 これから、これが日常の一つに組み込まれるのだ。

 爪が食い込むほど握りしめた掌の痛みが、それを忘れるなと告げている。

「逃げたいか?」

 不意に阿修羅に問いかけられ、勇一は軽く目を見開く。

 それが許されないことだと分かっていての質問だと気付き、勇一は小さく息を吸い込んだ後、決意を込めて答えを返した。

「そんなこと、する分けねぇだろ」

「そうか」

 どこか安心したような、凪いだような口調に虚を突かれながらも、勇一はちらりと阿修羅を見やる。

 すでに闘神としての表情を浮かべている阿修羅の姿に、勇一もまたいつの間にかつられたように先程思い出した神力を纏う。

 その力強い雰囲気を、那美は少しばかりの驚きと寂しさを浮かべながら見つめる。

 幕は切って落とされた。

 これで、天界は自分達に次々と刺客を送り込んでくるだろう。

 その時は、自分達は闘ってそれを退けるしかない。そのことを十分に理解させられた今回の出来事は、今はまだこの場にいる者達だけが知る事実だ。

 他の八部衆の目覚めの切っ掛けは、ここから始まる。

「負けねぇよ」

 呟きは、勇一の耳朶にだけ響いたものだ。

 この先に何が待ち受けていようとも、それを乗り越える。

 その決意を込め、勇一は強い意志を込めて空を見上げた。



 水晶球が映し出す光景を見ていた四人の内、一人がつまらなそうに吐き捨てた。

「やはり羅刹天では無理だったな」

「どうするつもりだ、毘沙門天」

 ややきつい口調で問いかけたのは、羅刹天を人間界に送り込むことを渋っていた増長天だ。

 それに軽く肩を竦め、毘沙門天は先程まで地上の様子を切り取りもせずに描き出していた水晶球から視線をそらす。

「最初から、期待などはしておらんかったからな。この結末も当然考えていたことだ。

 むしろ、この天界にとっての厄介ごとの一つを片付けてくれたと考えれば、多少は御の字というものだろう」

「毘沙門天」

 多少の頭痛を堪えるような口調でたしなめたのは、持国天だ。

 溜息を吐き出し、持国天は水晶球に視線を戻す。

 羅刹天と沙羯羅龍王、いや、高橋勇一という人間の覚醒の様子をつぶさに見ていたからこそ、これから先のことを考えれば問題は山積みとなったと言えるだろう。

「これで、他の者達の覚醒も確定したな」

「良いではないか。個別で叩き潰すよりも、確実に纏めて息の根を止めることが出来るのだからな」

「話しはそう簡単に出来るものでもないだろう」

 毘沙門天の言葉に、僅かに疲れたように広目天がそう告げる。

 これで、八部衆達の覚醒は始まり、阿修羅王や沙羯羅龍王の元に集うのは確定事故となった。

 戦が、始まる。

 相手は八人しかいないとはいえ、修羅界を統治していた神々だ。その実力はあの大戦を経験した者ならば、彼らが持つ力の強さは身にしみてよく分かっている。

 そして、今度の戦場はこの天界で広がるのだ。

 平穏と安寧が広がるこの天界で、戦を行うとなればどうなるのか。ろくに戦闘経験のないものが多くなったこの世界で、まともに相手が出来る者達はほんの一握りであろう。

 問題点を挙げればきりが無いだけではない。戦の準備として、彼らと戦えるだけの兵を育て上げなければならない。

 時間が無いな、と言うのが毘沙門天以外の四天王の一致した考えだ。

 そんな彼らの様子をどこか小馬鹿にしたように眺めた後、毘沙門天はどこか皮肉げな視線を水晶球に向ける。

「さすがは邪神の筆頭、と言うことだろうな。

 この天界を戦場にするのは少々酷なことだが、奴らを今度こそ殺し、天界の意思を全ての者に晒すのは良い機会だ」

「毘沙門天。お前はこの世界が、焔と血に染まることになることを考えていたのか?」

「奴らの息の根を止めるためならば、多少の犠牲はやむを得ないと言っているだけだ」

 冷静にそう言い切られ、増長天は息をのむ。

 毘沙門天は、八部衆が揃うことを始めから予測し、そしてこの天界で戦の火が燃え上がることすらも計算に入れていたのだろうか。

 背筋が寒くなるような思いを振り切るように、増長天は軽く首を横に振る。

 自分達が甘かったのだろうか。時間はまだあると、八部衆の気配をいち早く感じられると、そんな風にどこか気楽に考えていた事は否めない結果が、今こうして目の前に繰り広げられていることに、増長天は小さく舌を打ち付けた。

 そんな増長天達を尻目に、毘沙門天は冷ややかな表情で水晶球に映し出される人界の様子を眺める。

 人界で戦を起こすことなど出来ない。そんなことをすれば、今まで保たれていた小さな歪みは大きくなり、他の世界に対しての干渉をひどくするのは目に見えた結果といえるだろう。

 だからこそ、次に八部衆達との戦を行う場は、この天界以外しかあり得ないのだ。

 最初から覚悟は決まっていた。それは、誰よりもいち早く難陀龍王の亡骸を見、その首を目の前で取り上げた時から、毘沙門天の心の内では八部衆との戦いは始まっていると考えていた。

 自分がもしも逆の立場ならばどう考えただろうか。

 復讐の念に支配されただろうか。それとも、世界の終わりに絶望を抱いただろうか。

 詮無い考えだと思い直し、毘沙門天は苦い気持ちを僅かに吐息に混ぜる。

「やはり、覚醒したのですね」

 不意に聞こえた女の声に、毘沙門天以外の三人は鋭い視線をそちらに投げつけた。

 敵意にもにたそれを恐れるでもなく、現れた女、愛染明王は水晶球の前に佇むと、一瞬悲しげな光をその瞳に浮かべる。

 それに気付いてはいたが、あえてその事に触れず、毘沙門天は義務的な口調で愛染明王に問いかけた。

「お前はどう思っているのだ?」

「わたくし、ですか?」

「そうだ」

「そうですわね。彼奴等が人界にて転生した以上、こちらが大々的に攻撃を仕掛けるわけにはいきませんし、出来れば八部衆揃った状態で、修羅界に導き、そこで息の根を止める、と言うことも考えられますが」

 その言葉に、虚を突かれたように増長天が目を見開く。

 確かに、それも一つの手ではある。だが、彼らが滅んだ故郷を目にすることはあり得るのだろうか。

 その疑惑に答えるよう、愛染明王は淡々とした声を上げて言葉を続けた。

「この天界に直に赴くことは、彼らにとっても一種の賭けのようなもの。今は閉ざされたままの大冥道を通って天界にやってくるのは、彼らにとっては少々酷なことということでしょう」

「どういう意味だ?」

 愛染明王の言葉に、広目天が訝しさを隠そうともせずに尋ねる。

 それに僅かの口角を上げ、愛染明王は酷く冷ややかな笑みを浮かべた。

「人間の身体で、こちらの世界に赴くことは想像以上にその身体に負担をかけることになりましょう。ならば、まず先に修羅界へと足を踏み入れ、神力をその身体に馴染ませる必要があるかと」

「……確かに」

 唸るように持国天がそう声を絞り出し、深々と息を吐き出す。

 そんな三人にかまわず、毘沙門天は冷え冷えとした声で愛染明王に問いかけた。

「それは、お前の意思か?」

「……これはわたくしの、いえ、明王一族の意思でございます」

「兄王亡き今、貴様が明王一族の長代理であったな」

「えぇ。わたくしは、兄である不動明王に変わり、明王一族の意思と、この天界への反意がないということの証として、ここにいるのですから」

 二人の間に、一瞬だが鋭く切り裂くような空気が流れる。

 だが、それは愛染明王が視線をそらせたことで消え去った。空中に浮かぶ水晶球に視線を向け、愛染明王は感情の消え去った顔を向けていたが、やがて何かを吹っ切ったように水晶球から離れる。

「お忘れ無きよう。わたくしは、己の意思でこの善見城にいることを」

 そう言い置き、愛染明王はその場から立ち去る。

 その様子を黙って眺めていた毘沙門天は、先程まで愛染明王が見ていた水晶球に眼を戻した。

 映されるのは、世界の崩壊など知らずに動き回る人々の群れだ。もしも世界の崩壊が始まったことを知れば、天界とは違った意味で平和を享受する者達はどうするだろうか。

「毘沙門天」

「ん?」

「あの女の言い分にも一理ある。修羅界への監視も考えねばならんかもしれんな」

「あの荒野の監視は簡単なことだが、奴らと十分に戦える者は数が少ない。

 奴らの覚醒もそれほど急には起こらんだろうからな。今の内ならばきたえられる兵士も出てくるだろうな」

「愛染明王の言葉に頷くのは我慢ならんが、そうもいっていられぬ状況か……」

「増長天。あまりあの女を敵視するな。明王一族が我らに反意を示せば、あの女はこの場で切り捨てられる。不動明王亡き今、愛染明王まで失うことになれば明王一族は我らの敵になるかもしれんのだぞ」

「それくらいは分かっている」

 窘めるような持国天の言葉に、増長天はふて腐れた表情でそう言ってのけた。

「しかし……切れる女だ」

「あぁ。傀儡だ人形だといわれているが、あの女は、大局を見る目がある」

 持国天と広目天が難しい顔でそう会話をする中、毘沙門天は興味を失ったかのようにその場から離れようとする。

「毘沙門天?」

「次の手を考えるのは後だ。今は帝釈天様に全ての報告をするのが先だからな」

 そう言ってその場を立ち去る毘沙門天の姿に呆気にとられたような三人だったが、慌てて毘沙門天の後を追う。

 確かに、今やらねばならないのは、叱責覚悟で帝釈天に報告することだ。

 静かになった室内で、ふわりふわりと様々な映像を映し出す水晶球の中に、阿修羅王と沙羯羅龍王として覚醒した勇一の姿が一瞬映し出される。

 その場にいる者の思念を受け止めて映像を映し出す水晶球は、誰もいなくなったことでほのかな光を放つ単なる巨大な水晶へと変わっていった。

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