第七章
阿修羅王、と名乗った秋山の背中を何とも言い難い表情で見据えながら、勇一は唇を引き結びただ黙って歩を進めていた。
そういえば、今日は学校をサボったな、と、どこか縁遠いところで考えながら、勇一はふと空を見上げた。
太陽は中天を過ぎており、ずいぶんと時間がたったのだと知らせている。それに加え、綺麗に晴れ上がった蒼く吸い込まれそうな色合いが、天空に広がりまるで覆うように視界に入ってくる。
先程まで殺すことを前提とした戦闘を行っていた自分達には、その色合いはあまりにも似つかわしくない色だと、ぼんやりとそんなことを思う。
先程まで秋山に殺されそうになったというのに、何故か心の中は秋山を信用しても大丈夫だという奇妙な感触までもが生まれている。
どうしてだと自分に問いかけてみても、ずっと昔から彼を知っているからだと即座に答えが返ってくるため、自分自身に疑問を覚えてしまう。
「不安か?」
そんな心中を察してなのか、不意に秋山、いや阿修羅王が問いかける。
どう答えたものかと考えもしたが、今だに敵か味方かも分からい人物に対して口を開く理由など無いと思い、勇一は小さな舌打ちと沈黙でその質問への返答とした。
最も、これでは阿修羅王の言葉に肯定していることになると気づき、勇一は眉間しわを寄せて再度舌を打ち鳴らす。
そんな態度に、ちらりと勇一を見た阿修羅王の表情は、どこか苦笑じみたものを浮かべるだけで、気を悪くした雰囲気は全くと言って良いほど見えない。
余裕すら感じる阿修羅王の態度に焦れたように、嫌々ながら勇一は口を開いた。
「どこに行くんだよ」
「とりあえずは、ここを出て、私の家に来てもらおうか」
「は?」
「この場所一帯は、奴が色々と細工しているからな。それを一々外しているだけの時間は無駄でしかない。
私が仮住まいとして選んだ家ならば、結界も張ってある分奴の攻撃は防ぎきれる」
「ちょ、待てよ。秋山」
「阿修羅でいい。昔から、そう呼ばれていたからな」
納得したわけではないが、阿修羅王、いや阿修羅の言葉は真実なのだろう。どこか険のある視線で周囲を見つめている様子は、嘘の臭いすらも漂っては来ない。
阿修羅と呼べと言われ、勇一はその意味を考える。
阿修羅王。
教科書などでよく見る写真では、三面六臂の姿で、まるで全てに挑むような、けれどもどこか優しさを帯びた表情をした仏教の守護神として紹介されている。
だが、目の前にいる阿修羅と名乗った存在は、全てを薙ぎ払う炎のような強い意志と、鋭い剣先を思わせる雰囲気を纏い、闘うためだけに存在する事を許された守護神と言っても良い空気を放っている。
今の自分には、心強い味方になるのだろうか。
そう自分に問いかければ、是、と瞬発いれずに答えが戻る。それは本能と、そして同時に 阿修羅をどこかで知っているからだと、朧気ながらもその背中を見た覚えがあるために判断する自分がいるためだろう。
小さな溜息をこぼし、勇一はふと朝のことを思い返して、今頃那美はどうしているのだろうかと考える。
朝は頭に血が上り、あそこまで強い言い合いをするつもりなど無かった。那美なりに考え、そして自分を心配してくれるのはよく分かっているのに、それでもその手を切り離そうとしたのは、間違いなく自分自身だ。
謝ろうとは思わない。けれど、どんな顔で那美に合うべきなのかも分からない。
それを考えれば、学校を休むことになったのは、結果的に言えば良い方法だったと言えるだろう。
「心配事か?」
「……いや」
見透かされたような疑問に、勇一は軽く頭を振って否定をする。
とにかく今は、阿修羅の言う仮住まいとやらに行き、そこで知っているであろう事を全て話してもらうべきだ。でなければ、今後の対応策も出来はしない。
学園の校門をくぐりぬけると、ふと気付いたことがあった。
今まで自分の動向を見ていた何かがなくなったことと、ねっとりとした空気の圧力がなくなっており、ずいぶんと呼吸がしやすくなっている。
これもまた、阿修羅が言っていたように、羅刹天とやらが関係しているのだろう。対峙したのはたった一度きりだが、あの男が放った殺気は思い出しても背中に冷たい汗が流れ落ちる。
いったい自分の周囲で何が起きているのだろうか。
考えれば考えるほど、勇一の頭の中は混乱するばかりだ。
けれども、たった一つ分かっていることはある。
それは、自分が殺されそうになっていること。
それだけが、たった一つの真実だ。
その理由すらも分からずにいる現状が、客観的に見てもどれほど危険なことか分かってしまうのは、羅刹天との対峙で無理矢理理解させられた。
自分には力が無い。そのはずだ。
けれど、先程の阿修羅との対戦で現れた太刀は、あまりにもしっくりと自分の手に馴染み、それが自分のものであると自然と確信を持ててしまったのもまた事実だ。
その形状を思い返せば、今にも自分の手の中で顕現しようとするその太刀の力を感じられ、勇一は慌てて思考を切り替える。
どれほど歩いたのだろう。不意に阿修羅が足を止める。
「ついたぞ」
その言葉に、勇一は目の前の建物を見て絶句した。
秋山が仮住まいと行っていた場所は、勇一が考えていた場所とはかけ離れた建造物だったからだ。
その高層マンションは、この辺りでは高級と名高く、セキュリティも万全とうたわれている有名な建物の一つだ。それを借りていると言ったが、いったいどんな手段を使えばそんなところを借りれるのだろうか。
慣れた仕草でオートロックを解除し、阿修羅は当然のように中に入る。それに引き続くように勇一が中へと入れば、小綺麗に片付けられたフロアーには至る所に生花が飾られており、その奥に構えているエレベーターはこれまた立派な装飾を施されている。
どう考えても、一介の高校生が借りて住むには不適合すぎる。
「……なぁ、どうやって借りたんだ、ここ」
「普通に借り受けただけだ。それがどうかしたのか?」
「いや……うん、そうか」
これ以上突っ込んで聞くのは憚られるように思え、勇一は言葉を濁して阿修羅の後に続いてエレベーターへと乗り込んだ。
居たたまれない沈黙を感じつつも、勇一は最上階近くまで上昇したエレベーターから降りると、角部屋の一角で鍵を差し込む阿修羅の姿に溜息を吐き出しそうになった。
ここに来るまで、色々と聞きたいことがあったはずだが、それすらも吹き飛ばすような阿修羅の住まいに気圧されたのは仕方が無いことだろう。
仮住まいと言われ、とっさに浮かんだのはごく平均的なマンションだ。そこそこ中流家庭が住まうようなものを想像してはいたのだが、そんな勇一の考えを一蹴するような住まいはどうやって借り、家賃などはどうしているのかと問いかけたくなってしまう。最も、そんな単純事項は、今の勇一には必要にない情報だというのは分かっているのだが。
阿修羅が借りているといった部屋へと入り、三和土で靴を脱ぐとそのまま阿修羅に続いてリビングに直行する。だがリビングへと足を踏み入れると、勇一は余りの生活感のなさに眉を潜めた。
ソファーセットに、ダイニングキッチン。一応テレビなども置かれているが、この部屋で寛いでいるとは思えない空気に、勇一はケトルに水を張っている阿修羅の後ろ姿に視線を向けた。
一応、キッチンには生活臭らしきものがあるため、それだけは何となくではあるがほっとしてしまう。
それにしても……。
―なんか、違和感あるな。
阿修羅がてきぱきとお茶の支度をしているのを見ると、どうにも『王』という威厳ある地位にいたとは思えない。
「そこら辺に座っていろ」
「あ、あぁ」
そう言われ、勇一はソファーに座り込むと、再度周囲を見回した。
どうやらつい最近ここに住み始めたらしい。というのは、調度品の全ての新しさと本来ならばあって当然の生活感があまり感じられないからだ。
居心地の悪さに勇一はソファーの上で身を竦める。借りてきた猫のように大人しくなった勇一の様子を阿修羅は苦笑で眺めていたが、やがて湯が沸いた音を立てたケトルからポットにそれを入れ替えると、戸棚の上にあった茶筒を取り出して手早く茶を入れた。
「ほら」
「あ、サンキュー」
出された緑茶を見、勇一は一瞬だが逡巡してしまう。毒でも入っているのではないかと疑ってしまうのは、まだ阿修羅が敵か味方か判別がつかないからだ。
そんな勇一を横目に、阿修羅は自分が入れた茶を一口飲み干す。どうやら、同じものをいれたのだから、少しは信頼しろ、との意味なのだろう。恐る恐るそれに口をつけ、勇一は熱い緑茶を舌を湿らす程度に飲み干した。
「して、何が聞きたい」
「全部だ」
「……全部、ね」
少しばかり考え込み、阿修羅は皮肉げに口元を歪めた。
「話したところで、お前は納得するのか?」
「内容によるだろ」
「確かに」
じっと睨み付けるように阿修羅を見つめ、その口が開くのを待つ。
やがて、阿修羅は大きく息を吐き出し、挑むような目線で勇一に視線を向けた。
「お前のその力は、前世の力だ」
「前世?」
「そうだ。お前は天龍八部衆の一人、
「は?」
突拍子のない阿修羅の言葉に、勇一は目を丸くする。
その様子に、阿修羅は軽く笑って懐かしむように眼を細めた。
「もう、昔のことだ。まぁ今のお前には、神力があっても、上手く使うことは出来んだろうがな」
「ちょ、待てよ。いったい何の話しなんだよ」
「言っただろう。お前は沙羯羅龍王だと。
その神力を使うことが出来るだけの身体が出来上がったからこそ、天界は羅刹天をお前の刺客としてはなったのだ」
「天界って、それは神様のことか?」
「そうだ。そして我々も、神の一員だ」
あまりにも次元のかけ離れた言葉に、勇一は引きつった笑いでそれを否定するための言葉を探そうとする。
だが、それを先回りするように、阿修羅は勇一の整理のつかないうちに言葉を続けた。
「我らは、修羅界の闘神だ。こちらの世界では、仏法守護神としてまつられているが、我らはそんな存在ではない。
戦いを本能とする、闘うべきために存在するために神々だ」
「ま、待てよ。急にそんなこと言われても」
「分からない、だろう。だが、それが事実だ」
押しとどめるような阿修羅の声に、勇一は口を噤む。
とにかく、今は阿修羅の言葉を咀嚼し、自分が納得出来るようにするだけだ。
難しい表情を浮かべた勇一に、阿修羅はひどく分かりやすく、端的に言葉を放った。
「羅刹天がお前の命を狙うのは、覚醒する前にお前を殺してしまえば、他の者達の覚醒を遅くし、殺しやすくするためだろう」
「俺以外?」
「そうだ、我ら天龍八部衆は、私以外全ての者達がこの人間界に転生している。
その神力はまだ片鱗すらも見えていないからこそ、お前を殺せば少なくとも他の者達が覚醒したところで、烏合の衆となり得ることを狙っている」
「俺の他にも、いるのか」
「そうだ。お前以外の六人は、まだ見つかっていない。
だが、お前が覚醒した以上、他の者達もそう時間をかけずに覚醒し、見つかってしまうだろうな」
「なら、俺が狙われている理由は、それを妨げるためか?」
「そうとも言えるし、そうではないとも言える」
有耶無耶にしたような答えに、勇一は唇を引き結ぶ。自分が狙われている理由は、何となくは分かった。だが、そんなことを言われたとしても、はいそうですかと簡単に頷くことなど出来はしない。
理解しがたい話しだ。自分が神の一人だといわれても、目の前の阿修羅が勝手にそう言っているだけだとも考えられる。自分がそんな存在だとは、到底思えないのだから。
難しい表情が、いつの間にか浮かんでしまう。
そんな勇一の反応が分かっていたのだろう。阿修羅は湯飲みをローテーブルの上に置くと、真っ直ぐに勇一に視線を向けた。
「お前の覚醒を妨げるため、羅刹天はお前の父親を殺した。
お前の父親は、あの御方から力の一端を受け取っていたのだろう。だからこそ、お前を守るために力を使った。羅刹天との相打ちが出来ずとも、その身に傷をつけることが出来ればと考えたのだろうな」
「やっぱり、父さんが殺されたのは、俺のせいなのか」
「そうでもあり、そうでもない。
お前の父親からも、微弱ながら、あの御方の力が流れ出ていたからな。その先を辿り、邪魔になるであろうお前の父親を殺した、というのが結果的に見てそうなるだろう」
「あの御方?」
「……おいおい、それも思い出すだろう。今聞きたいことは、別のことではないのか?」
そう問われ、勇一は言われたことを整理するために阿修羅から目線を反らせると、白いローテーブルの上でそれを固定させた。
沙羯羅龍王。
あまりにも馴染みのない単語だが、妙にしっくりとくる名前に勇一は眉間にしわを寄せる。
天龍八部衆の一人、といわれても、いまいち実感がわかないのは、阿修羅曰く記憶を思い出していないからだろう。だが、もしもそれを思い出してしまったら、自分はいったいどうなるのだろうか。
高橋勇一という人間では、無くなるのではないか。
そんな不安が、唇をついて出る。
「……俺は、いったい何なんだ」
「人間であり、神としての神力を持つ者。そういう存在だ」
「けど、俺は」
「まだ何も思い出してはいない。だから、人間だ。
そう言いたいのだろう」
ぐっと言葉に詰まりながらも、勇一は軽く頷きをみせた。
その様子に呆れるでも、ましてや落胆もしていないらしく、阿修羅は至極当然のように眼を細めた。
「まぁ、そうなるだろうな。
むしろ、それで納得でもされた場合、こちらとて対応が困るのだがな」
苦笑じみた口調でそう言われ、勇一の心に反発が芽生えるが、今そんな物を持ったとしても何の役にも立たないのは言わずもがなだろう。
短く息を吸い込み、勇一はもっともな疑問を投げつけた。
「なんで神様とやらが俺を殺そうとするんだ」
「……我らは、奴らにとって邪魔な存在だからだ」
「邪魔?」
「そうだ。あの大戦で、我らの住まう修羅界は滅ぼされた。奴らとの考えを否としてとらえたために、奴らは我らの世界を破滅へと追いやった」
「世界の破滅って……」
あまりにもスケールの大きな話しに、勇一は半ば以上ついて行けずに阿修羅の話しに耳を傾ける。
遠い目で何かを見つめる阿修羅は、あの頃を思い出しているのだろう。訥々と話しながらも、その表情は険しく、抑えきれない後悔と怒りが身の内から流れ出ている。それに気圧されそうになりながらも、勇一は疑問に思うことを阿修羅にぶつけた。
「なんでそんなことになったんだ?」
「言っただろう。我らの考えと奴らの考えが不一致だったからだ」
「我ら、って……俺達がその連中を否定したからか?」
「そんなことだけで、世界の一つを滅ぼし、世界の均衡を崩そうとは考えんさ。
むしろ、全ての世界の均衡を崩すと言われているのは、この人界だ」
「は?」
突拍子もない返答に、勇一は間の抜けな声を上げる。
そんな勇一に対して、阿修羅は静かな口調でかみ砕くように説明を始めた。
「この世界、いや、この三千大千世界の中で、神々が住まうのは人界以外の世界全てだ。我らはその三千大千世界の一角にして、六道に住まう存在だった」
「ちょ、待てよ。人界って、この世界のことだろ。この世界がなんで均衡を崩すなんて言われているんだ」
勇一の疑問に、答えたものかどうか考え込んだ阿修羅だが、やがて重い口を開き、その答えを話し出した。
「ある日、世界に歪みが見つかった。
それは小さいが、やがて三千大千世界中に広がり、全ての世界を飲み込み滅亡に追いやるだろうと言われている」
「歪み?」
「そうだ。それは、人界から産まれ、徐々に世界を犯していくとされている。
だが、それはあくまでも仮定の話しでしかない。確かに、人界には小さな歪みが常にある。だが、それがこの三千大千世界を壊すほどのものだとは到底思えない。それ故にその考えを否定する者達も現れた。それが我々であり、すなわち修羅界の者達の総意でもあった」
「どうしてだ?」
「人間の感情は複雑に出来ている。正も邪も含め、人間はそれらを上手に昇華し、様々な思いを抱きながら暮らしている。だが、それは神である我らにも同じ事が言える。正の感情も、負の感情も、我らの内に当たり前に存在するというのに、人間だけがそれを持っているために歪みが起きたに違いない。それが奴らの言い分だ」
「図分と勝手な言いぐさじゃねぇか」
吐き捨てるように勇一がそう言うと、阿修羅は苦く笑って勇一の意見に肯定を示した。
「そうだな。自分達は正しく、善神であると大見得を切っている連中だ。
我らが奴らと闘うと決めた以上は、奴らから見れば我らは悪神、邪神の類いになるのだろうがな」
「邪神……」
「奴ら曰く、邪神は滅ぶべし。それに従い、奴らは八部衆での一人であるお前を殺そうとしているのだ」
「ちょ、待ってくれ。話しがでかすぎて、理解出来ねぇ」
「もっともだ。
今のお前では、この話しを消化するのに時間がかかるのは、至極当然のことだろうからな」
そう告げると、阿修羅は冷めてしまった湯飲みを傾ける。
混乱した勇一は、必死になって今聞いたことを整理しようとする。だが、あまりに荒唐無稽な話しのために、どこをどう理解すべきなのかが分からない。
それ故、唯一理解出来たことを阿修羅に確認する。
「俺は、人界を滅亡させるべきではない方に入っていたんだな?」
「そうだ。我ら八部衆は、あの御方の意思に賛同し、そして闘うことを選んだ」
「さっきから言ってるあの御方や八部衆ってのは、誰のことだ?」
勇一の言葉に、阿修羅は一瞬辛そうな光を瞳に浮かべる。
だが、それはすぐに消し去られ、阿修羅は大切なことを告げるようにゆっくりとした口調でその名を告げた。
「……あの御方とは、
そして八部衆とは我らのこと。私、阿修羅王、そしてお前、沙羯羅龍王、そして天王、夜叉王、
「ちょ、ちょっと待てよ、修羅界って言うんなら、お前が納めてるんじゃないのか?」
闘神であり、修羅界、という単語から閃いたのは、阿修羅がその世界の王であると思ったからだ。
だが、その疑問に阿修羅は穏やかな笑みを浮かべ、懐かしみを込めてそれを否定した。
「確かに、修羅界は阿修羅衆が治めるのが筋だが、私の先代である阿修羅王が、その当時の先代の沙羯羅龍王に世界を治めるよう命じたと聞いた。
龍族は、八大龍王を何時もどこかで輩出するため、沙羯羅龍王以外の王が誕生する。他の部族の神族達は、先代が亡くなってしまえば、次に王が誕生するまで王不在で部族を纏めねばならない。それを考えてしまえば、龍族は王を途切れることなく排出する希有な一族だ。それ故に、修羅界は龍族が治めていた。あの時代も、我らが誕生する前に難陀龍王達が修羅界に顕現していたため、そのまま修羅界を統治していた。無論それに反対を唱える者は誰もいなかったがな」
「……ふーん」
いまいち納得出来はしないが、阿修羅自身がそれで良いという雰囲気を放っていたために、勇一はそれ以上のことは口にはしなかった。
それに加え、難陀龍王、という言葉に、勇一自身の心が動かされる。
始めて聞いたはずの名前だというのに、どうしてこんなにも懐かしく、そして胸の奥が暖かくなるのだろう。
自分自身でも驚くほど感情が揺さぶられる。それを悟られまいとして、勇一は小さく息を飲み込む。
だが、阿修羅にとってはそんな動揺は見透かすでもなく分かっていたことらしい。ちらりと視線を向け、勇一には分からないように口の端に笑みを刻んだ。
思い出してはいなくとも、それでも理解出来る部分は理解しようとしている。完全な覚醒を望むならば時間をかけるべきなのだろうが、すでに刺客が送られてきているのだ。悠長に構えていられる時間は無い。
それどころか、こちらは羅刹天の動向がまるで分からない。
後手に回ってしまったな、というのが阿修羅の率直な感想だ。
それに加え、元々羅刹天は修羅界にいた時から幽閉されており、どのような神力を持ち合わせているのか阿修羅は知らないのだ。
知っているのは、今は滅びてしまった羅刹衆と、羅刹天を殺さずに幽閉処分へと導いた彼女だけだろう。
粗暴さと気性の荒さは噂話しで知ってはいるが、知っているという事実がそれだけでは対策の立てようがない。
「なぁ」
「何だ?」
「羅刹天、とか言ったよな。あいつは、どんな神力を持っているんだ?」
当然の疑問だが、阿修羅とてその答えを持ち合わせていないのだ。どう答えたものかと考えていた阿修羅の耳に、軽やかな電子音が聞こえてきた。
慌てて勇一が鞄を開き、そこからスマートフォンを取り出す。
この世界の伝達手段の一つであり、便利な道具だと阿修羅が感心した代物を慣れた仕草で勇一は扱っている姿を眺めつつ、阿修羅は窓の外へと視線を向けた。
すでに夕闇が迫っている。
それほど長い時間をかけて話し合っていたはずではないのだが、自分が思っていた以上に話し込んでいたようだ。
「母さん?あ、あぁ、うん、ちょっと具合が悪くなって、学校休んだんだ……大丈夫だって。今?あー、友達の家で休ませてもらってる。ほんとに大丈夫だって、そんなに心配しないでくれよ」
電話の向こう側にいるのは、勇一の母親のようだ。どうやら授業を無断で休んだことが、学校側から連絡が入ったのだろう。歯切れ悪く説明する勇一が、それでも安心させるように何度も大丈夫だと繰り返している。
それを横目で見つつ、阿修羅は湯飲みに残っていた茶を全て飲み干した。
「そんなに夜遅くにはならないって。まぁ、帰りは少し遅くなるかもしれないけど、家には帰るから。そこまで心配しないでくれよ。うん、じゃぁ」
通話を終え、勇一は短く嘆息する。
嘘を言うのは心苦しいが、それでもゆかりを納得させるだけの状況が広がっているわけではない。今先程まで聞いていた話しを口にしたところで、納得などしないであろうし、それどころか心配事を増やすか、勇一の頭を心配するかのどれかだろう。
勇一ですらまだ理解出来ない事柄なのだから、他者がそう簡単に受け入れるだけの話しではないことは間違いないことだ。
「悪いが、俺はこれで帰らせてもらうぜ」
「その前に、その服を交換していけ。血塗れの服など着ていては、警察沙汰になるぞ」
そう言って、阿修羅は立ち上がると寝室らしい部屋へと入っていく。
言われて始めて、勇一はあの時つけられた傷口も消えうせ、切られたという事実を残すワイシャツと上着に目を落とす。
普通の人間ならば、そこに傷があって当たり前のはずだ。にもかかわらず、自分の肌は何事もなかったように切られた跡が全く見えていない。
―人間じゃない、ってことになるのか。
あの時握りしめた太刀や、異常な治癒の速さ。人間ではあり得ない事象に、勇一は軽く唇を噛みしめた。
そんな勇一の頭に、バサリと何かが降ってくる。
慌てて顔を上げれば、真新しいワイシャツと上着が床に広がる。思わず怒鳴りつけそうになるが、阿修羅の涼しげな顔を見ればそんなことも馬鹿馬鹿しく思い、勇一はワイシャツと上着を手に取ると不機嫌な声を上げた。
「洗面所はどこだよ」
「そこだ」
指を向けられた箇所に大股で歩き、バタン、と必要以上に大きな音を立ててドアを閉める。
破けたワイシャツと上着をランドリーボックスの中に放り投げ、勇一は与えられたシャツに腕を通す。背丈などそれほど違いが無いためだろう。シャツは小さくもなく大きくもなくといった所で、袖口を折り曲げるなどの細工を必要とはしなかった。
上着もまた同様で、勇一は複雑な気持ちで鏡に映る自分の姿に溜息を吐き出した。
「人間じゃない、か……」
先程考えていたことが唇をついて出た。
まだ実感などわかない。けれど、この数時間で起きたことを振り返れば、その言葉以外に口から出る言葉はないだろう。
血に染まったシャツが眼に入り込み、勇一は皮肉と自嘲を込めた笑みを口元に刻む。
自分が神の一人だったなど、今だに信じられない。それは記憶が無いからなのか、それともそのことを否定したいからだろうか。
どちらにしろ、今の勇一にはその事実は重すぎる事柄だ。
重苦しい息を吐き出し、勇一は洗面所からリビングに戻るためにドアノブを握る。
この扉を開ければ、否応なしに今まで起きたことを受け入れなければならない。それがどれほど荒唐無稽であっても、変えられない事実であり、現実だ。
「よし」
自分を鼓舞するように呟き、勇一は洗面所からリビングへと戻る。
そこには、ゆったりと優雅な仕草で茶を飲む阿修羅の姿があり、今まで話していた内容は全て嘘であったのではないかと疑いたくなるほど落ち着き払っている。
何となく苛立ちを誘う光景に、勇一は些か乱暴な足取りでローテーブルに近づくと、側に置いてあった鞄を手に取り、壁に掛けてある時計に目を向けた。
すでに夕刻を過ぎたことを示す秒針に、勇一は渋い顔で玄関へと直行するために阿修羅に背をみせて歩き出す。
そんな勇一に、淡々と阿修羅は忠告を口にした。
「……覚えておけ。羅刹天は貴様を殺すために様々な細工を施している。それがどんな仕掛けなのかは、私にも分からん。
とにかく、お前は自分の身の安全を第一優先に考えろ」
「わぁったよ」
死にたくなければ、自分の言葉に従え、と暗に込められた忠告に、勇一はぶっきらぼうにそう答えて部屋を後にする。
それをちらりと見送り、阿修羅は何かを考え込むように眼を細めた。
些か距離があるが、学園に張り巡らされている羅刹天の神力が、何かを仕掛けたことを感知出来ている。それがなんなのかは分からないが、ずいぶんと搦め手を使うものだと嘆息してしまう。
羅刹天のことだ。人間界だろうと、天界であろうと、その神力を振るうことに何の躊躇いもないことは承知している。そして何より、羅刹天は自分達八部衆の長を憎んでいることも理解している。
「厄介だな」
ぽつりと呟いた阿修羅が、自分の言葉に眉を潜めた。
自分が羅刹天の立場ならば、どう動くだろうか。
思考を切り替え、阿修羅は勇一の傍らにいた少女のことを思い出す。
羅刹天が、人間のことを軽視しているのは確実だ。その命がどうなろうと、羅刹天には関係ない。だとすれば、勇一の側にいたあの少女を駒に使う可能性は大だろう。
あの少女。確か、天野那美と言っただろうか。
羅刹天が彼女と接触する機会は、今日一日でもかなりの確率であっただろう。それを考えれば、学園から離れ、この場に勇一を連れてきた事は裏目になったかもしれない。
嫌な予感がじわりと広がる。
戦いの最中にも味わったことのあるそれに、阿修羅は苦々しい表情で窓の外へと視線を向けた。
暮れかけた空の色が、まるでそれを肯定するかのような色彩に見えてしまい、阿修羅の表情は苦々しさから厳しさへと変わる。
一度学園に行くべきだと鳴り響く警鐘に従い、阿修羅は苛立ちを込めて立ち上がると玄関に向かって歩き出した。
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