第六章
ガチャリとドアを開けると、そこには当然のように那美が玄関前に立っており、ふわりとした笑みとともに挨拶を口にした。
「おはよ」
「……おう」
何事もなかったようにしているために忘れそうになるが、あの男と出会った時には那美もまたあの場にいたのだ。命を落とすかもしれないのを分かっているのか、と詰め寄りたいが、那美の性格を考えれば、そんなことは百も承知で自分の前にいるのは分かってしまう。
気遣うな、と言えれば良いのだろうが、勇一自身、どこかで那美に頼っている節があるため、その言葉を飲み込んで那美の隣へと歩を進めた。
「今日も学食?」
「いや、今日は弁当だ」
「そっか。言ってくれれば、家で作るからいつでも言ってね」
「わりぃ」
「なにが?」
クスクスと小さく笑みをこぼす様に、勇一の表情も幾分か柔らかなものになる。
若干身体から力が抜け落ちた事に気付き、勇一は那美には分からないように小さく息を吐き出した。
何故自分が命を狙われているのかは分からない。けれど、あの男はまた近いうちに自分を狙って現れるだろう。その時、那美が近くにいたらどうなるだろうか。
命の保証は出来ない。あの男は、自分の近くにいる那美のことなど塵芥ほどにしか考えていない。それを払う事に、何の躊躇もなく那美を殺してしまうことは、先日の件でも実証されているのだから。
「那美」
「ん?」
「お前、俺の側に」
「いるわよ。言っておくけど、これは、自分の意思だから」
勇一の言を先に取り上げ、那美はややきつい視線で勇一を見つめる。
どこか怒ったような表情に気圧されながらも、勇一も負けずに視線に力を込めて那美を見つめた。
「どれだけ危険なことか分かってんのか?」
「分かってるわよ。だから、側にいたいんじゃない」
「何だよ、それ」
「だって、あたしが側にいれば、勇一無茶な事しないでしょ。
どうやっておじさんを殺したのかも分からないだけじゃない。この間だって、訳の分からない力を使ってきた相手なのよ。
そんなのを相手にして、勇一が無事で済むわけないでしょ。そんな事、黙って見過ごせって言うの!」
「お前が盾にでもなるって言うのかよ!」
「そういうこと言ってるわけじゃないわよ!」
「同じ事だろ!あいつは俺を殺そうとしてるんだ!お前まで巻き込まれて、父さんのようになったらどうなるんだよ!」
互いに一歩も引かず、声とともに感情が高ぶっていく。どちらも大切だからこそ、互いの安否を気にしているのは二人ともよく分かってはいるが、勇一も那美もどちらも自分の言い分を引こうという気配はない。
睨み合うようにお互いに眼をそらそうともせず、歩みを止めた二人の周囲の空気が急速に冷えていく。その様をチラチラと眺めながら通り過ぎる者達は、登校風景に似つかわしくない雰囲気に首を傾げつつも歩調を緩めることはなかった。
そんな中、二人の様子に待ったをかけるように恐る恐る声をかけてきた者がいた。
「あの、先輩方、どうしたんです?」
驚いたような響きは、舌戦をする二人の姿など見たことがないからだろう。恐る恐る声をかけたのも、あまりに勇一と那美の雰囲気が常とは違ったためだ。
「……須田君」
「お前、朝練は?」
二人の視線が、声の主、須田忍に向けられると、須田は困ったような表情を浮かべて交互に勇一と那美を眺めると、今までの険悪な雰囲気がなくなったことに胸をなで下ろしたように肩を落とす。ほっとした表情を浮かべた後、須田は苦笑で勇一に語りかけた。
「大学の事件が落ち着くまで部活は中止になってます。
多分、先輩には伝わってなかったかもしれませんが」
「んな話しあったのか?」
「先輩が休んでる間に伝えられたことですからね。っていうか、天野先輩もなにも言わなかったんですか?」
「伝えるチャンス、逃してたから」
口籠もりながらそう答えた那美が、小さく息を吐き出す。
これ以上のことは、もう話すことはない。そう語る雰囲気に、勇一もまた同意したように肩を竦めた。
二人の様子に首を傾げながらも、須田は勇一達に向かって呑気ともとれる疑問を口にする。
「それより、どうしたんです?こんなところで言い合いになるなんて、先輩達らしくないですよ?」
「そう、かな……でも、たまには、こんなこともあるわよ」
「そうだな」
互いの意見の食い違いのためか、ぎすぎすとした言葉尻になるのは仕方が無い。
不思議そうな須田の視線に耐えきれず、勇一は急ぎ足で通学路を進み出す。その後を慌てて追いかけたのは、須田一人だけだ。
那美はゆっくりとした歩調で勇一達と距離を取り、唇を強く引き結んで学園に向かっている。
背後の那美にちらりと視線を送りながらも、それでも勇一はあえて那美を置き去りにするために歩く速度を速めた。
「せ、先輩?」
二人の姿を交互に見やり、須田は勇一の背中に向けて那美をおいていくのかと暗に問いかけてくる。
それに答えず、勇一は苦い表情で眼前を見据えた。
あんなことを言うつもりはなかった。
自分を案じてくれるのはありがたいが、もしも自分の目の前で那美が殺されるようなことにでもなったら、力の無い自分を勇一は責め続けるだろう。
那美とて、それくらいは分かってくれているはずだ。だが、たとえ理解していたとしても、感情面で那美はそれを拒絶している。そんな那美の考えくらいは、勇一自身よく分かっている。そして同時に、勇一の考えも那美には筒抜けになっているのは、長年の付き合いから察せられる。伊達に幼馴染みなどやってはいない関係の二人にとっては、今回の件で互いに譲れない一線を作り上げてしまったと言えるだろう。
「くそ」
小さくそう悪態を吐いた勇一が、自分に突き刺さるような視線に顔を上げて周囲を見回した。
顔を上げそちらを向けば、どこか挑発的な表情を浮かべた、道場で紹介された秋山が佇んでいた。
軽く頭を下げて秋山の前を通り過ぎようとした時だ。勇一の耳にしか聞こえないような声で、秋山は語りかけてきた。
「無様だな」
「なっ!」
あまりの言い様に、勇一は秋山を睨み付ける。
くいっと、秋山は顎を人気の無い方向へと動かす。ついてこい、と語る背中に、勇一は黙ってその後をついて行くべく、踵の先をそちらに向けた。
「あれ?先輩?遅刻しますよ」
「先行っててくれ、須田」
「へ?」
「用事を思い出した」
「はぁ?」
納得出来ないようだが、それでも行けという仕草をされればその場から立ち去るしかない。チラチラと秋山と勇一の姿を見つつも、須田は登校者の列に混ざり、その場から立ち去った。
近寄れば、秋山は人気の無い方向へと歩き出す。
沈黙したまま秋山の後を追っていけば、勇一達は高等部と大学や中等部に繋がる道へと入り込み、二人は生徒のために設けられた小さな東屋付近へと近づいた。
梢に泊まった小鳥達が、二人の存在に何かを感じたのか、慌てたようにその場から羽ばたいていく。
その様子にさえ感情を逆なでされてしまい、勇一は秋山の背中にそれを叩き付けるようにして疑問を飛ばした。
「何のようだ?」
「……用件ならば、分かっているのではないか」
禅問答のような答えに、勇一は一瞬だがその言葉の意味を考える。
とはいえ、思い当たる節などまるで無いのだからどう答えて良いかも分からない。
むしろ、勇一は秋山に対して何らかの用件を持っているという訳ではない。それ故に、秋山が何故自分をここまで連れてきたのかまで察することは出来ない。何しろ、出会った回数は片手以下の回数でしかないのだ。そこから答えを導き出せというのは、少々酷なことと言えるだろう。
今まで我慢していたが、秋山が何も伝えないことに対して苛立ちを感じていた勇一は、剣呑な口調と先輩だという事を忘れた言葉遣いで問いかける。そんなことを気にすることもなく、秋山はごくごく自然な態度で勇一と向き合った。
それだけのことだというのに、勇一はぎくりと身を固くする。
気圧される。ただそこにいるだけだというのに、秋山から放たれる『何か』が勇一の身体に絡みつき、自然とその動きを止めてしまっていた。
あの時と同じだ。
脳裏に過ぎったのは、自分を殺そうとしたあの男と対峙した時に感じたものに似た空気だったからだ。今にも切り刻まれそうなほどの緊張感に、勇一は渇いた喉を湿らせるようにゴクリと唾を飲み込んだ。
「……何のようだ」
再度同じ事を問いかけ、勇一は秋山との距離を測りつつじりじりと足元を確かめるように靴底を動かした。
勇一の動きは、いつでも攻撃出来るような動作だ。それを見ながら、秋山はそのための時間を与えるかのよう、口の端に非憎げな笑みを刻みつけつつ、勇一の動きを悠然と眺めていた。
「死にたくなければ、避けろ」
「なに?」
言われた事を、理解する間もなかった。
秋山の右手が緩やかに動く。その手には、いつの間にか一振りの太刀が握られていることを視界で確認し、勇一は秋山との距離を取るために足全体に力を入れる。だが、刹那の差でそれは間に合わなかった。
制服の上着やワイシャツだけではない。心臓のぎりぎり上を切り裂かれ、真っ赤な血がその場に咲き誇る。
「っ!」
斬られた、と思った直後に痛みが走る。
何が起きたのか理解する前に、勇一は鞄を放り投げて秋山の動きだけに集中するために視線を秋山に固定させた。
ぽたぽたと剣先から深紅の滴が滴り落ちる。その様にぞっとしたものを感じながらも、勇一はこの場をどうすべきか必死に頭を回転させる。
だが、良案など一向に見つけられず、勇一の心臓は早鐘のように鳴り響き、それは耳奥でもひどく耳障りな音となって聞こえてきた。
―殺されるのか?こんなところで?
否、とどこかで誰かが叫ぶ。自分は、こんな所では死ぬわけにはいかない。自分には、多くの者から託された何かがあったはずだ。それを叶えず、何も思い出せぬままに死んで良いはずがない。
ドクン、ドクン、と、血の流れと連動するかのように、鼓動が全身を駆け巡る。
死ぬわけにはいかない。
そうだ。自分が死ねば、何もかもが、それこそ自分の命に刻まれた願いが終わってしまう。
それだけは、決して許してはいけない行為だ。
はぁ、はぁ、と唇から出る荒い呼吸を行うたびに、その思いが強くなっていく。
そんな勇一を冷静に見つめる秋山が、巫山戯るでもなく淡々と口を開いた。
「どうした?死にたいのか?」
「ふっざけんじゃねぇ!」
反射的に叫んだ途端、勇一の右手に熱い塊が手中する。
それを握れ、と本能が叫ぶ。何の躊躇いもなく、勇一はそれに従い右手の熱をつかみ取るように握りしめた。
瞬間、閃光が勇一の手から迸る。
あまりの目映さに思わず眼を眇めれば、光が剣の形を形取っている。
だが、光はすぐさま形を崩し、ゆらりゆらりと陽炎のように掌に収まるだけだ。
―イメージしろ。もっと強く、イメージし、思い出せ。
頭の隅で、そんな言葉が聞こえてくる。
もっと強く、自分の記憶の奥底にしまわれた形を思い出せ。
ゆらゆらと光が形を作っては崩れていく。その都度自分の中にある何かを必死にたぐり寄せ、勇一は光を自分の記憶の奥底に隠れていた形へと作り替えようとする。上手くいかないことに苛立ちを覚えながらも、それでも勇一は先程一瞬だけ形を見せた剣の形を、脳裏に強く思い返した。
複雑な手順を踏むのではない。ただ、自分が今まで忘れていた剣を呼び起こすだけの話しだ。
そうだ。自分は知っている。あの剣は、自分が使い、そして、自分にとって馴染みがあり、振るうことに躊躇いなどなかったものだ。
その瞬間、光が明確な形を作り上げた。
完全な形となったそれの姿に、勇一は安堵を覚える。
現れたそれを握りしめ、勇一は再度剣を振りかざした秋山の太刀を受け止めるべく、それを目の前へとかざした。
がきん、と、鉄同士がぶつかり合う鈍い音が響く。
目の前で火花が散り、勇一と秋山は至近距離で睨み合う。
秋山から伝わってくるのは、紛れもなく殺気だ。けれど、あの男と決定的に違うのは、自分を殺すにはあまりにもその殺意が弱すぎる。まるで、自分を試すかのようなその力加減に、勇一は訝しげな感情を抱いた。
ぶつかる瞬間は、一瞬のものだ。けれども、秋山の実力は太刀から伝わって来る力の大きさに直結し、今の自分では秋山を倒すことが出来ないと判断が出来てしまう。
いったん勇一から離れた秋山が、トン、と身軽に大地を蹴りつける。真っ直ぐに自分に向かってくるのは、秋山は己の実力をよく知りつくしているだけではなく、勇一の力量を量ろうとしているからだ。
受け止めるだけでも精一杯の勇一に比べれば、秋山は余裕を残してまるでその重さすらも感じさせないように太刀を振るっている。
それを受け止めながら、勇一は不意に懐かしさに襲われた。
こうやって、以前も秋山と太刀を合わせたことがあった。何故だろうと、頭の隅で考えてしまう。だが今は、そんな感慨に浸る暇はない。
切り結ぶ中、ふと勇一は秋山に違和感を覚えた。
秋山の身体を力一杯押し返し、勇一は秋山との間合いをとる。
今の自分よりも力が強いというのに、何故秋山は自分をひと思いに殺さなかったのだ。
疑問がその瞳に過ぎったのを見たのだろう。秋山は口の端に笑みを刻みつけて勇一の手に握られた太刀を見やった。
「一応は、太刀のことを思い出したようだな」
「は?」
どこか楽しそうに、秋山は勇一の姿を眺める。まるで訳が分からないどころか、何を言われたのか分からず、勇一は数度目を瞬かせた後、ふと自分自身の右手に視線を向ける。
次の刹那、現実に戻った勇一の表情が驚きで強張った。
勇一が今手にしているものは、立派過ぎるほどの一振りの太刀だ。使いやすさに重点を置きながらも、その柄には精緻な細工が施されている。ただ一つ欠点をあげるとするならば、柄の頭上に何らかのものをはめ込むような細工あるが、今はそこに填め込むべき何かが欠けているぐらいだろう。
手にしっくりとなじむその剣は、今の自分には始めて見るものだというのに、すんなりと自分のものだと理解してしまう。
ずっと昔に自分はそれを握りしめ、幾千もの戦場で戦ってきた。
そこまで浮かんだ考えに、勇一は愕然としたようにその剣を見つめた。
「これ、は……」
「それさえ出せれば今の所は上出来だろう。
「ちょ、待てよ!どういうことだ!」
「そのままの意味だ。お前はまだ完全に記憶を取り戻していない。このまま奴らの思惑通りにお前が殺されては、こちらが困るからな。
お前は、私と同類だ。全て思い出せば、それに納得するだろうが、今のままでは無理な話しだろうからな。力の一端だけを無理矢理に引き出した」
「羅刹天?」
「お前の父親を殺した者の名前だ。お前を殺すためだけに、こちらの世界に降りてきた。
実力は……お前は身をもって知っているはずだ。まぁ、お前が力を取り戻せば、奴など簡単に殺せるだろうがな」
「な……」
殺す、という単語に、勇一は軽くだが動揺する。確かに、自分を狙ってきた相手を倒す意思はある。だが、殺人行為を簡単に行えと言われても、今の勇一にはその考えすらも思わなかったことだ。
そんな勇一の心を見越してか、秋山は素っ気なく、だが本音を隠すこともなく言い放った。
「殺さなければ、殺されるだけだ」
「待てよ!何の理屈でそんなこと言えるんだ!」
「我らの世界は、常にそれがつきまとっていた。殺すか、殺されるか。安寧な時代の前には、それが普通だった。
それは、お前も知っていることだがな」
微妙な言い回しに、勇一は眉を寄せる。
今、秋山は『我ら』と言った。だが、何故そこに自分が含まれているのかが全く分からない。
そんな勇一の様子に、秋山は口の端に笑みを刻んだ。
「無理に思い出さずとも、その内全てを思い出さざる得なくなる。お前の宿命は、そう決まっているのだからな」
「何、言って……」
すでに理解の範疇を超えた秋山の言葉に、勇一は知らず知らずのうちに秋山を睨み付けていた。
その眼光の鋭さに、秋山は面白そうにくつりと喉を鳴らし、自分の上着を勇一に投げつけた。
「その血を隠すのに、それは必要だろう。貸しておいてやる」
そう言われ、勇一は始めて自分の胸に燻っていた熱がなくなっていることに気付く。
慌てて切られた胸元を見てみれば、傷口すらも残っておらず、何事もなかったかのような肌を晒している。
唯一切られたことを物語っているのは、じっとりと染み付いた真っ赤な血の跡と、鋭利な刃物で断ち切られたことを物語る上着とシャツだけだ。
呆然としながら、斬り付けられた上着に指先を這わせる。
まだ乾ききっていないため、真っ赤な液体が勇一の指先に絡みつく。それは確かに勇一が切られたことを物語り、血を流した事を雄弁に物語っている。だが、傷跡も、痛みもなくなった身体は、それすらもなかったことにしてしまったように感じとり、勇一の背中に冷たいものを押しつけた。
「……お前、いったい何者だ?」
「知ってどうする?」
「お前が敵じゃない証拠はどこにある」
「そう、だな。確かに今のお前には判別の難しい事柄だったな」
苦笑でそう言い切り、秋山は真っ直ぐに勇一に視線を固定させた。
「
「阿修羅王?」
その名前だけならば、教科書に写真付きで載っていた。だが、目の前の青年と、教科書の写真はあまりにもかけ離れた容姿をしている。
三面六臂の姿が頭の中に浮かぶが、それ以上に目の前の青年が名乗った名前はすんなりと勇一の頭に染み渡る。
訝しげな勇一の表情に一瞥をくれ、秋山、いや、阿修羅王は用件は終わったとばかりに勇一に背中を向けた。
「あ、おい」
「話しを聞きたければ、ついてこい。
最も、今以上に混乱するのは必定だろうがな」
一瞬の躊躇の後、勇一は秋山、いや、阿修羅の後を追うように足を動かす。
それが、今までの平穏から遠ざかる一歩だと知らずに。
空席になっている勇一の席を見つめ、那美は密やかな溜息をついた。
自分よりも先に教室に来ているはずの勇一が、今だに姿を現さなかった事に対して、ほっとしている反面、すでに午前中の授業は終わり、午後の授業が始まってもまだ現れない事に何かあったのではないかと勘ぐってしまう。最も、今朝の険悪な空気を思い出してしまえば、どうしても勇一に対してぎくしゃくした行動に出てしまうだろう。
あんなことを、言うつもりはなかった。だが、口から出たのはかわいげの無い言葉ばかりだ。それは、冷静になった今ならば分かる。
けれども、勇一の側にいたいと願うのは、那美自身譲れない事柄なのは確かなことだ。
何時もの勇一ならば、無茶なことはしないだけの分別は備えている。だが、あの男を目の前にして、勇一は冷静に事を運ばないだろう事は、あの男の挑発的な態度や冷ややかな目線だけで十分なことだろう。
「だから、側にいたいんじゃない……」
ぽつりと呟いた言葉に、那美はきゅっと唇を噛みしめる。
自分の身を守れるかと問いかければ、それは否だと言うことぐらいは理解出来ている。
だが、それは勇一も同じ事だ。あんな訳の分からない力の前に、勇一が太刀打ち出来るとは思えない。
どうすれば、勇一の足を引っ張ることなく側にいられるだろう。
あの男が現れてから、ずっと考えていた事柄に再び思考が傾いていく。
側にいたい。離れたくはない。だったらどうすればよい?
答えならば、非常に簡単かつシンプルだ。
強大な力。
その力が欲しい。
それも、自分ではなく勇一を守るためだけの力が。
けれどども、どれだけそれを願ったとしても、ただの人間である那美にはあの男のような常人では計り知れない力など持てるはずもない。
あの男は、人間ではない。
それくらいは、簡単に察しがついている。
人間ではない『何か』。それが、あの男の正体だ。
圧倒的な力の前では、ただの人間である自分は単なる役立たずでしかない。それぐらいの事は、十分すぎるほどに分かりきっている。
だからこそ、少しでも力をと渇望してしまう。
ぎゅっ、と拳を握りしめ、那美は勇一の座る席に再び視線を送る。
すでに五限目の授業が終わり、もうすぐ六限目が始まる時間帯だ。教室移動もないために、教室内はクラスメイト達の雑談が楽しそうに交わされ、何時もと変わらない日常が繰り広げられている。
それを視界に入れつつ、那美は僅かに眼を細めた。このまま、勇一が教室に現れる可能性が限りなく低い事を、薄ぼんやりと、けれども強い確信が那美の中で根付いていた。
何か、あったのだろうか。
もしや、またしてもあの男が何かを仕掛けてきたのではないか。
それとも、何か別のことに巻き込まれているのではないだろうか。
そんな負の思考が、那美の心の中を占領する。
どうして自分には守るための力が無いのか。
それがどれほど身の丈を知らない思考だというのは、那美自身よく分かってはいる。けれども、どうしても考えざる得ないのだ。
自分に力があれば、と。
そんな心の隙を突くように、囁くような声が直接那美に語りかけてきた。
―力が欲しいか?
突如脳裏に響いた声に、那美はびくりと身体を硬直させた。
素早く周囲を見回してみるが、声の主らしいものは全く姿が見えない。冷たい汗が、那美の背中に流れる。自分の心を見透かした相手に対して、那美の本能は警告をがんがんと鳴り響かせていた。
息が苦しい。喉元に何かが絡みつき、那美は呼吸だけではなく言葉を放つことも忘れたかのように、ただただ動くことも出来ず自席で硬直するだけでその声を聞いていた。
―力が、欲しいか?
もう一度問いかけられた言葉は、余りにも甘美な響きを持っている。
もし自分に力があれば、勇一のことを守れる。
その思考を読んだように、声の主は優しく、そして毒を込めて那美の心に囁きかけた。
―力があれば、お前の望みは叶うのだぞ。
欲しがっていたものを提示され、那美の心は警告を無視してその言葉について考える。
もしその言葉が真実ならば、自分は勇一を守り抜けるのだ。
それを見越したのだろう。声の主はゆったりと、優しく語りかけてきた。
―この力を手に入れれば、お前は彼奴を守れる。どうだ、この力受け入れるか?
ぐらりと心が揺らぐ。
受け入れれば、そうすれば、勇一の側にいられる。
だが、その力を受け入れればどうなるのだろう。
危険だと、本能が判断を下している。だが、それ以上に自分の望みを叶えたいという欲望が、それ以上に勝ってしまった。
「……受け入れる、わ」
小さな、けれども決意を込めた言葉が、唇をつく。
その瞬間、甲高い哄笑が脳裏に響いた。
勝ち誇ったような、そして、愚かな選択をした那美を嘲笑うような、そんな笑い声を聞きながら、急速に那美の意識は闇に墜ちていく。
「那美!」
友人の驚きの声が、遠くから聞こえる。それに対して、大丈夫、そう言いたかったが、全身から力が抜け落ちる感覚に引き寄せられ、ブツリと全ての物事が切り離される音が那美には聞こえたような気がした。
がたん、と、大きな音を立てて、投げ出されるように那美の身体は床に倒れ込んだ。
「ちょ!誰か!那美が!」
慌てふためきつつ、那美の友人は気を失った那美の身体を揺さぶり、教室内は一気に騒然とした雰囲気に溢れる。
保健室へ、と現れた教師に怒鳴りつけられて、友人の何人かが意識を失った那美の身体を持ち上げると、そのまま教室を後にする。
その様子を隠れ見ていた青年は、己の思惑通りに事が進んだことに喉を震わせ、自分の手に繰り糸が着いたことを確認する。
人形は手に入れた。これを操れば、こちらが一方的に出ずとも面白い結果が出るのは間違いないだろう。
今だ力に目覚めていない少年は、この手駒に対してどのような表情を浮かべ、どう対処するのだろう。
大切なものを少年が全て失えば、少しは己の中にある憤怒と憎悪は薄くなるだろうか。
そう考え、頭を横に振る。
馬鹿馬鹿しい考えだ。自分はあの方以外の者を殺すことに躊躇いはない。今回の件が上手くいけば、あの御方の助命だけでも嘆願出来るのではないか。
そんなことを考えつつ、人形として選んだ少女の顔を眺める。
真っ白な顔色で意識を失った少女に、少しばかり自分の意識を刷り込ませる。
あの者を殺せ。
これで、あの少女は自分の命に従って動く生き人形になった。
時間はかかったが、手順は揃ったといって良いだろう。
後は、少年を呼び出し、その首を取れば良いだけだ。
少女が我に返る時は、少年が死んだ時。
その時あの少女がどうなるかなど、こちらには関係が無い。壊れようが、狂おうが、どうでも良いことだ。
ただ、気がかりがあるとすれば、少年の側にいる存在が介入してきた時だ。
あの男は、少年を守るためにあの人形を殺すことを躊躇わないだろう。
まぁ、その時は自分が彼らの前に立ち、実力を持って少年の首を取れば良いだけのことだろうが。
「さて、見物だな」
そう呟き、青年は唇の端を歪につり上げる。
用件が済んだ以上、ここにいる必要は無い。
己の打った手札に絶対の自信を持ち、失敗ということを全く考えることなく、青年はその場から消え失せた。
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