第五章

 どんなに嘆いても、朝が来て、夜が来る。それは、日常をこなさなければいけないということだ。

 そう知ったのは、父が殺され、それでも登校し、普段と変わらぬ授業を受け、家へと帰らなければならないと分かった時だ。

 自分を見つめる視線に好奇と憐憫を感じながら、勇一は足早に昇降口から外へと出た。

 煩わしい視線から解放され、ほっと息をついた勇一の背中に聞き慣れた声が届く。

「勇一」

「……那美か」

 背後を振り向いたが、隣に立つことを許したとは言い難い勇一の表情に、幾分か那美は傷ついた様子をみせたが、それよりも大切なことがあるのだと言いたげに、足早に近づくと勇一の顔をのぞき込んだ。

 まっすぐに見つめる視線には心配そうな光が浮かぶだけで、自分に向けられる周囲の雑多な感情を払いのけるだけの力を持っている。

 それに幾分か身体に入っていた力が抜け落ちる。そこまで気を張っていたつもりはないのだが、那美の顔を見た途端に緊張が解けていくのを感じてしまい、勇一は小さく息を吐き出した。

「寝てないでしょ」

 那美のその言葉に、勇一は苦い表情を浮かべる。

 違うと言い切れれば良かったのだろうが、今の勇一にはそんな単純な行動すらもが面倒な事に思えてしまい、仕方ないという口調で那美に声をかけた。

「……眠れないんだよ」

 もっとも、どう言いつくろったことろで、那美に嘘は通じない。那美に嘘が通じないのと同様に、自分にも那美が嘘をついていれば分かるのだ。小さな頃からともに過ごした時間は、二人の性格をよく知り尽くすには十分すぎた。

 それをよく分かっているからこそ、勇一は表情同様の口調でそう答えて小さく失笑をこぼす。

 その様子に、那美は一瞬どう言葉を作ったものかと思案に駆られるが、そっか、とだけ答えてゆっくりと歩く勇一の歩調に合わせる。

 そのまま家に帰るのかと思いきや、勇一は高等部から大学へと続く道を選んで、強い歩調で道を進む。

 その道に、那美は少し困ったように眉尻を下げた。

 勇一は迷う様子もなくこの道を通って、大学内にある健太郎の研究室だった場所へと向かっているのだ。少しでも情報を仕入れたいのは分かるが、今だ原因不明の爆発事故は一介の学生に過ぎない自分達に警官が情報を与えるはずがない。

 そんな事は勇一にも十分に分かっているはずなのだが、何かをしなければその気が晴れないのもまた事実なのだろう。

 黙ったまま歩いている勇一と那美だが、不意に二人とも同時に立ち止まる。

 普段ならば、それなりに人気がある道だというのに、今日に限っては生徒達の姿も見えない。それどころか、二人を圧迫するような空気を肌で感じ取り、勇一と那美は知らず知らずのうちに身体中に神経を張り巡らせた。

 自分を見ている。

 直感的に、勇一はそう判断を下す。

 突き刺さるような鋭い視線は、まるで自分を値踏みするように感じられだけではなく、勇一達の一挙一動を観察するように眺めている。

 それが分かってしまったからこそ、激しい苛立ちと険しい感情を抱き、勇一は周囲を注意深く観察する。

 特に変わったことは見受けられない。勇一が気付かなかったとしても、もし誰かがいたとしたならば、同じように周囲を警戒している那美が、勇一に注意を送りつけるはずだ。それすらもがないとなると、自分達を見ている人間は相当に注意深く自分達、いや、自分を見ていることになる。

 呼吸を整え、いつでも動けるよう足元を確かめた時だ。クツクツと小馬鹿にしたような笑い声が聞こえた。

「誰だ!」

 鋭い誰何の声をあげたのは、依然として誰の姿も見えなかったからだ。

 那美も声の主を探すようにあちこちに視線を向けているが、声が聞こえたと思える方向には、依然として声の主は見当たらない。

 息苦しい雰囲気の中、突如変化は訪れた。

 ゆらりと空気が動くのを感じる。そちらに目をやった途端、勇一は声を無くして目の前を凝視した。

 揺れ動く空気の狭間から、一人の男は現れる。

 鍛え抜かれたと一目で分かる身体を、古めかしくあちこち傷だらけの甲冑で覆い、ひどく赤茶けた髪と赤黒く輝く瞳が印象的な男が、全ての物理法則を破って勇一達の前に現れたのだ。

 驚きが一瞬浮かぶが、それ以上に頭の隅で何かが引っかかり、勇一は訝りながらも男を見つめた。

 男が自分を見つめる視線には、嘲笑と侮蔑、そして焼き尽くさんばかりの憎悪が、身体中から抑えきれずにあふれ出ている。

 見覚えのない男だ。加えて、時代錯誤も甚だしい甲冑姿は、少なくともこの世界のものではないこと知らしめている。だが、そんな感想は直ぐさま横へと押しやられた。男の瞳に宿るのは、隠すことのない殺意だ。それが、まっすぐに自分に向けられている。

「……誰だ?」

 緊張感を持って、勇一は男を睨み付ける。少なくとも、この男は自分達に友好的な人物などではない。そう男の雰囲気が語っている。それどころか、あからさまに男は自分達二人を見下しているのが、身体から発せられる雰囲気で分かってしまう。

 くっと、男の唇が弧を描く。禍々しい笑みを浮かべ、男は慇懃な口調を隠そうともせずに言葉を吐き捨てた。

「なるほどな。まだ目覚めておらんという話し、嘘ではなかったと言うことか」

「てめぇ……」

 どこかで、出会ったことがある。

 だが、それはいったいどこでだ?

 その思考に、勇一の頭は混乱する。初対面のはずの男に、何故こんな思いを抱いたのか分からず、勇一の背中に冷たいものが押しつけられる。

 殺意を向けられる覚えなど全くないはずだ。にもかかわらず、男の殺気は明確に勇一を捕らえている。いつの間にか乾ききっていた口内を湿らすために、勇一はゴクリと喉を上下に動かした。

 ふと、男が勇一の側に立つ那美の姿を認める。小さな舌打ちとを放ち、男はついっと指先を那美に向けた。

 小さく、横へと線を書くような軽い動作を男は見せる。

 瞬間、那美の身体が、見えない力で横へと張り倒された。

「那美!」

 砂埃を立てながら大地に叩き付けられた那美が、痛みのための声を堪えるような呻き声を上げる。

 何とか身体を起こそうとしているのだろう。大地を引っ掻きながら、けれども衝撃が強すぎたためなのか、那美の身体はぴくりとも動かない。

 駆け寄りたい衝動に駆られるが、今動いては殺されると直感的に悟った勇一は、何とかそれを抑えつけて男を睨み据えた。

 その視線を、男は嘲笑で打ち消す。

「覚醒もしておらぬ貴様が、俺を殺せるのか?」

「……何のことだ?」

「貴様を殺すというのに、俺がわざわざそんなことを語る必要性はどこにある」

 尊大にそう言い切り、男は腰に履いていた太刀を引き抜く。銀色の刃が陽光を弾き、まっすぐにその剣先を勇一へと向けた。

 思わず、息を飲み込む。

 向けられる剣先は、確実に勇一を殺すという意思が感じられる。

 死に対する恐怖が、じわりと身体を覆う。と同時に、何故だ、という疑問が頭の中を駆け巡る。

 この男が、何故この世界にいる?

 この男は、あの世界で……。

 その考えに、打ちのめされたように勇一は動けなくなる。自分は今いったい何を考えている。あまりにも当たり前のように、この男がこの世界にいてはいけない存在だと、何故知っているのだ?

 千々に乱れた感情の中で、それでもはっきりと理解出来ているのは、この男が自分を殺すためだけにこの世界に顕現したということだ。

 手近に、武器になりそうなものはない。いや、あったとしても、本物の刃に対して対抗出来るものは、同じく男が持つような真剣だけだ。

 いつの間にか、口の中がからからに乾ききっている。握った掌は冷たい汗を流し、勇一は近づく男との距離を測りつつ、何とか突破口を開こうと頭をフル回転させる。

 だが、浮かぶ案はどれも男の前では無意味だと理解出来てしまう。ぎり、っと奥歯を噛みしめるのは、悔しさが際立っているからだ。

 『何か』を思い出せば、この男と対等にた戦える。だが、それがいったい何であったのか、霞がかかったような記憶のでは思い出すことすら困難だ。

 きつく男を睨み付ける勇一に、男が小馬鹿にしたような笑みを見せ、ふと何かを思い出したように言葉を綴った。

「そういえば、貴様にとってはあの男は父親に当たるのか?

 そやつと同じ眼をするとは、やはり血の繋がりというのは馬鹿には出来んな」

「なに?」

「殺すには少々手間取ったが、所詮は人間。どれほどの力を持とうが、俺に適うはずがなかろうに。

 愚か者だったな、貴様の側に居た男は」

 今、この男はなんと言った。

 殺した。そう告げた男の言葉に、勇一の中でぶちりと何かが弾けた。

「父さんを殺したのはテメェか!」

 事故だと言われていた事柄は、実際はこの男が父を殺すために何かを仕掛けたのだ。

 激高した勇一の姿に、男は歪な笑みを浮かべて大仰な態度で頷きを見せた。

「そうだ。貴様を守ると抜かしただけではなく、その実あの男から得た力で俺を殺そうとしたようだがな、たかだか人間が借り物の力で俺を殺せるわけがなかろうに。

 本当に愚かな男だったぞ、貴様の父親はな」

「テメェ!」

 かっとなった勇一の瞳が、一瞬碧く染まる。

 その瞳の変化に、男は軽く目を見張るが、それ以上の変化がないことにつまらなそうに眉根を寄せた。

「思い出せずとも、力を使用出来るだけの器は出来上がっているといったところか」

 小さな呟きは、勇一には届かなかい。とはいえ、それが勇一に届いていたとしても、何のことだと疑問をぶつけられるだけで終わってしまうだろうが。

 男はつまらなそうに鼻を鳴らし、今度こそ勇一を殺すべく剣を構える。

 だが、ふと何かに気が付いたかのように、周囲を見回し盛大な舌打ちを漏らした。

「なるほど、貴様のお守りはすでについているという訳か」

「なに?」

「理解出来ぬものにこれ以上の詮索は無駄ということだな」

 そう言うと、男は太刀を鞘に戻して勇一に背を向ける。

 力の差が歴然としているのだ。勇一の力など歯牙にもかけていない様子の男に、思わず勇一は拳を握りしめた。

 父の敵だというのに、何も出来ない。悔しさと情けなさに身を焦がしながら、勇一は男が消え去るのをただ黙って見つめていた。

「ゆう、いち……」

 咳き込みながらも、何とか身体を起こした那美が勇一の様子に心配そうに声をかける。

 その声に、びくりと身体を揺らし、勇一は慌てて那美へと近寄った。

 擦過傷はあれども男の攻撃を受けた時、とっさに受け身を取ったのだろう。那美は痛む身体に騙し騙し力をいれて立ち上がろうとするが、それでもまだ上手く力が入らないのかすぐに膝をついて苦い笑みを浮かべた。

「大丈夫か?」

「うん」

 押し出すような言葉に、勇一は那美の額を軽く小突く。

 一瞬むっとしたような表情を浮かべながらも、伊達に幼なじみという関係性ではないのが分かっているため、すぐに肩の力を抜いて勇一の背後に視線を向けた。

「あの人」

「あ?」

「勇一を殺そうとしてたよね」

 確認は、那美が否定の言葉をほしがったからだ。それが分かっていながらも、勇一は否定することは出来ずに小さく頷いてた。

 何故、という疑問を抱いたのは、那美も同じだ。だが、始めから答えの見えない問いかけを抱いても、今起きた事実は変えられることはない。それに、あの男は聞き捨てならない台詞を吐き出したのだ。

 ―父さん……。

 父は、自分を守るために死んだ。

 それが事実なのだと、直感的に分かってしまった。否、理解させられてしまった。

 いつの間にか握りしめていた拳に、爪が食い込み血が流れ落ちる。それにすら気が付かずにいる勇一の掌を、那美がゆっくりと取り上げてそっとその掌を包み込んだ。

 その動作に、ようやく我に返った勇一が、那美からひったくるようにして自分の手を放す。

「勇一」

「大丈夫だ、これくらい」

「でも」

「大丈夫だ!」

 何か言いたげに眉間にしわを寄せながらも、那美は黙って自分の持っていたハンカチを取り出すと、有無を言わさず勇一の手を取り上げてその傷口にハンカチを巻き付けた。

 ぎゅっと強く巻き付いたハンカチは、瞬く間に掌の血を吸い込み紅く染まっていく。その様を見るともなしに見下ろし、幾分か冷静さを取り戻した勇一は、小さく息を吸い込むとゆっくりと長くそれを吐き出した。

「わりぃ」

「何が?」

 あえてそう問いかけられ、勇一はなんとも言えない苦笑を浮かべる。今は、自分の周囲で起きている現実を整理するだけで精一杯なのだという事を、那美は分かりきっているのだ。

 ぐしゃりと血にぬれた拳を握りしめれば、ずきりとした痛みが走り抜ける。自分がまだ生きていることの証だという事実と、それと同時に男と対峙した際に走り抜けた思考を振り返ってしまう。

 初対面のはずだ。けれども、どこかで自分はあの男と出会ったことがあると、もやのかかった記憶がそう訴える。

 それが何時、どこでなのかが分からない。思い出さなければ、とも思うが、もしも思い出してしまえば、今の生活が全て崩れさるだけではなく、常に死と隣り合わせの道に続くだけだと警鐘が鳴り響いている。

 思い出したくは無いと思いながらも、思い出さなければならない時が来たのだとどこかで囁く声がする。それに従うべきか否かの判断が出来ないのは、あまりにも常軌を逸した男の力を見せつけられたからだ。

 あれだけの力をこの世界で発揮出来るのかと、苦い思いでそう考えていることに気付いた途端、勇一は愕然としたように身体を強張らせた。

「勇一?どうかしたの?」

 那美が心配そうに顔を覗き込みながら問いかける。

 それに答えを返すことも出来ず、勇一は呆けたように空中を見据えてしまっていた。

 何故そんなことを考えるという疑問を自分にぶつけるが、それに対しての答えなどまるで見えない。喉元を緩く、まるで真綿で締め付けていくような感触が身体の中に産まれ、無意識のうちに勇一は喉を撫でつける。

 崩れていく。

 何故かそう直感した。

 今まで築いていた『普通』が、足元から崩れる音が聞こえる気がしてしまい、勇一は浅い呼吸を繰り返しながらそれを振り払おうとする。だが、そんなことをしても感じた予感は確かに勇一を縛り付け、日常が少しずつ壊されていく音に背中を震わせた。



 さして遠くもない位置で、青年は全ての様子をうかがっていた。

 もしもの事があれば自身が出向くつもりでもあったが、どうやらこちらの動きに察知したのだろう。

 何の害もなくその場から消え失せた存在に、青年は僅かに眉根を寄せて考え込んだ。

「……態々彼奴を使うとはな」

 一部族の長でありながら、その凶暴性故に一族から疎まれた存在。その危険性は世界にも影響を与えかねないと判断され、一部の者達の間で殺すことさえも考えられていたが、それを止めたのは青年もよく知る存在によってだ。

 その力は危険であっても、その存在自体が危険だと断言は出来ないはずだと、皆に説得し続けていたのは、彼女の優しさ故だったのだろう。

 それがまさか仇となって今に帰ってくるとは、青年自身どころか今は会えない彼女も考えていなかった事柄だが。

 彼女から詳細な報告は受けている。彼女はあの存在を一生涯封じることにしたのだと言っていたが、それが甘いのではないかと問いかければ、困ったように彼女は笑ってこう言った。

『まだ危険と決まったわけではないわ。確かに力は私達並みにあるけれど、それを正しい方向に導けば、この世界のためにもなるでしょう?』

 あの存在と同じく部族を収めている長の言葉だ。それは説得力を持ち合わせており、青年があまりいい顔をしていなくとも、責任は自分が取るとまで彼女は言い切ったのだから、その場は何とか言葉を慎んだ。

 確かに、世界が安定していた時には、封じるだけで十分な措置だったのだろう。だが、まさかあの戦で生き残っただけではなく、あまつえさえこちらに牙を剥くことになろうとは、彼女は欠片も考えてはいなかった事柄だ。

 そこまで考え、青年は微苦笑を浮かべる。

 平和だったあの当時、青年と彼女の挙式は時間の問題だとあちこちで囁かれていた。それが呆気なく壊されることになったのは、この人界が事の発端となる事態を引き起こしたためといってよい。

 ふっと笑みを消し、青年は苦々しい口調で呟きを放つ。

「まさか、人界であれほどの力を発揮出来たとは」

 他の世界に存在する者が、下位の世界でその力を行使するようなことがあれば、それこそ大きな歪みが起きても不思議ではないというのに、それを全く考えもせず自分勝手に力を放出する等、もはや愚行を通り越えているとしか言い様がない事柄だ。

 それとも、連中はこの人界に負荷を与えることを意図して、あの男を刺客としてこの世界に寄越したのだろうか。

 どちらにしろ、あまり歓迎出来る事態ではないのは確かな事と言える。

 覚醒の兆候はあれど、まだ完璧に思い出してはいない現状は、青年の頭を痛めるのは十分すぎる事柄でしかない。ましてや、そんな不安定な時期だというのに、あの男が現れた。これ以上、あまり悠長にこちらは構えてはいられない状況に陥ったのだ。

 無理やりにでも覚醒させるべきか。そう考えたが、だが無理に思い出させれば、力の加減が不安定になる可能性もある。

 どの方法をとろうとも、時間のなさやこの世界の負担を考えれば、こちらの出方というのは数が限られてしまうだけだ。

「厄介だな」

 溜息交じりにそう呟き、青年は今だ茫然と座り込む少年を見つめた。

 記憶に揺さぶられ、何もかもが崩れていくことを受け入れざる得ない状況に陥ってしまっているのだ。

 多少どころか、少年にとっては一大事と言っても良い事柄だろう。

 だが……。

「思い出さねば、死ぬことになるのだからな」

 こうなった以上、やはりこちらも強引な手段を取るしか術はないのだろう。そうでなければ、青年が使えていた王に、そして自分達に希望を託した者達の気持ちを踏みにじることになるのは目に見えている。

「さてどうしたものか」

 思慮深げに眉根を寄せ、青年は身体を預けていた木の幹から身体を離す。

 すでに事態は動き出している。少年がどれだけ否定しようとも、過去を変えられることは出来ない。それが、産まれる前のことであったとしても、だ。

 僅かに、苦い溜息が漏れる。

 重すぎる使命だと思う。けれど、それを託した者達の願いを踏みつけるなど、誰にも出来ることではない。

「仕方あるまいな」

 少々強引だが、力を引きずり出せばそのまま記憶も戻ってくるだろう。

 記憶の無い状態で正体を晒せば、少年は自分を否定するような言葉を投げつけるかもしれない。だが、その程度で済めば御の字というものだ。

 記憶に翻弄され、その力は不安定になるだろうが、その修正は青年が導けば力の使い方も安定していくはずだ。

 そう自分に言い聞かせると、青年の姿はその場から瞬時に消え失せる。

 誰にも見咎められることなく行われたその力は、誰も見た者はいない術だ。

 その力が、やがて少年にも現れることを知っているのは、この世界では今はまだ青年一人だけであり、渦中に置かれた少年はそれに翻弄されることをまだ知らない。

 人気の無くなった木々の間を、爽やかな風が一陣吹き抜けた。



「ただいま」

 そう言って居間を覗いた勇一は、憔悴しきった母の姿に僅かに顔を歪めた。

 ぼんやりと宙を見つめていたゆかりだが、その声に驚いたように顔を上げて弱々しい笑みを浮かべた。

「お帰りなさい。今、ご飯の用意、するわね」

「いや、俺がやるよ。母さんは、そのままそこにいてくれ」

 元々両親ともに不在がちな日が多かったため、勇一もそれなりに料理が出来る。

 キッチンに回り、勇一は冷蔵庫の中のものを適当に見繕うと、ゆかりのエプロンを身につけて手際よく包丁を使い具材を切り始めた。

 チラチラとゆかりの様子を見ながら、勇一は一気にやつれた母の姿に唇を噛みしめる。

 父が死んだのは自分のせいだと言えば、ゆかりはどんな反応を示すだろうか。

 何を、と、顔を顰めるだろうか。それとも、その言葉に縋って自分を詰るだろうか。

「……勇一?どうしたの?」

「え?」

「変な表情して」

「そんな顔してた?」

 思わずそう問いかければ、ゆかりは微苦笑を浮かべて頷いた。ゆかりの様子に、よほど自分がおかしな顔をしていたのかと、勇一は自嘲じみたものを口の端に刻んだ。

 だから、だったのだろうか。先程まで考えていた思いが、唇をついてでた。

「なぁ、母さん。俺のせいで、父さんが死んだって言ったら、どうする」

 言った瞬間、しまった、と、勇一は目を見開く。

 勇一の言葉が耳に入った途端、勢いよく立ち上がり険しい顔となったゆかりが、そのまま勇一との距離を縮めると力一杯その頬を叩き付けた。

 驚いたように、勇一は目を見開く。

 その様子を見つめながら、ゆかりはボロボロと涙をこぼして勇一の胸を揺さぶった。

「おかしなことを言わないの!そんなこと、父さんだって思ってなんかいないわよ!」

「母さん……」

「変なこと、考えないで……お願いよ。勇一、変なこと、言わないで」

 ゆかりの眦から透明な滴が流れ落ち続けながら、途切れ途切れながらも強い口調でそう断言する。その様に、勇一は小さな声を上げた。

「ごめん」

 それが聞こえたのか、ゆかりは幼子のように泣き出した。

 きゅっと拳を握りしめ、勇一は押し出すようにして再び同じ事を口にする。

「ごめん、母さん」

 そっとゆかりの肩に自分の掌を乗せ、勇一は先程まで座っていたソファーへとゆかりを誘う。

 それに逆らうことなくソファーへと戻ったゆかりをおいて、勇一は一度洗面所に向かった。洗面台近くに置かれたタオル置場から、洗い終えたばかりの厚手のタオルを取り出して、勇一はゆっくりとした足取りでリビングに向かう。

 もやもやとした、形にならない気持ちが勇一を襲う。ありがとう、そう言うべきなのだろうか。それとも、ごめんと、同じ言葉を口にすべきなのだろうか。

 いつの間にか足を止め、勇一は細く息を吐き出した。

「何してんだろうな、俺」

 母を心配させたいわけでも、激昂させたいわけでもない。だが、それでも言わずにはいられなかったのだ。

 自分のせいで、父が死んだことを。

 喉元で絡みつき、そのまま心臓まで伸びる鈍い塊のようなものが、勇一の動きを遅くする。だが、あまり遅くなればまたしてもゆかりを心配させるだけの結果でしかない。

 何とかそれを振り払い、勇一はリビングへと戻る。

 まだ涙を流すゆかりにタオルを渡せば、小さくありがとう、とゆかりは言葉を漏らす。

 それに微かな笑みを浮かべてみせると、勇一は作りかけの夕飯を完成させるべくキッチンへと戻った。

 勇一の手元からあがる音以外の音がなくなった室内は、ひどく冷え冷えとした空気に満ちあふれており、勇一もゆかりも何も言わずにただ黙ってそれを感じ取っていた。

 そんな空気を、ゆかりが不意に切り裂いた。

「……勇一」

「ん?」

「何があっても、父さんが死んだのは、あなたのせいじゃないから」

 弾かれたように、勇一は顔を上げる。

 弱々しいながらも、慈愛に満ちたゆかりの微笑みを真正面から受け止め、勇一は呼吸することすら出来ずにゆかりの顔を見つめた。

 何を、と、音もなく唇だけが力なく動く。

 目頭が、ずくりと熱を持つのを感じながら、勇一はゆるりとゆかりから視線を外した。

 ―ごめん、母さん。

 事実を伝えられないことが、これ程に辛いことだとは思わなかった。

 自分を守るために、父は死んだ。その重さに潰れそうになりながらも、勇一は奥歯を噛みしめてそれに耐える。

 何故。その疑問に答えられるのは、自分を狙った男だけだ。

「殺してやる」

 小さく呟かれた言葉は、勇一の耳にだけ響いた音。

 憎悪と憤怒が、身の内で荒れ狂う。

 今の自分では太刀打ち出来ないことは十分に承知している。けれど、それでもその思いは勇一を突き動かすには十分すぎるものだ。

「勇一?」

 不思議そうなゆかりの声に、勇一ははっとしたように顔を上げる。

 心配そうに見つめるゆかりに向け、勇一は何でも無いというように固い笑みを浮かべて頭を横に振った。



「ただいま」

「父さん、お帰りなさい」

 そう言ってリビングに入ってきた天野茂人に、那美はぼんやりと眺めていたテレビから視線を引きはがし、疲れたようにソファーへと座り込んだ父のために水を取るため立ち上がった。

 冷蔵庫から冷えたペットボトルを取り出し、那美は全身を弛緩させた茂人にそれを渡すと、心配そうに父親を見つめた。

「大丈夫?」

「あぁ。それより、勇一君はどうしてる?」

 その言葉に、那美は一瞬言葉を詰まらせる。

 それだけで何かを察したのか、茂人は忘れてくれと言いたげに目の前で手を振った。

「父さん、あのね、あの事件、どうなってるの?」

「まだ分からん」

 何時もならば事件のことを口にすることはない父が、珍しく疲れたような口調でそう話してくれる。それは、事件事態が相当行き詰まっているからなのだろう。

 那美とて、今日の昼間の一件がなければ、単なる事故だと思っていたはずだ。

 だからこそ、あんな人知を越えた存在が、健太郎を殺したとは想像だにしなかった。

 けれども、あの件を、昼間の一件を、そこにあった事実を伝えるために説明したところで、常識人たる父がそう簡単に信じるわけはない。

 結局の所、健太郎の死の原因は事故ではなく殺人だと説明出来ない悔しさが、那美の前に広がるだけだ。

 茂人に何も言えず、那美は黙って立ち上がるとキッチンへと向かう。

「そういえば、母さんは?」

「婦人会の会合。夕飯、暖めるから少し待って」

「いや、今日は着替えを取りに帰っただけだ。夕飯はいらん」

 その言葉に、那美は渋い顔で父を見つめた。三食きちんととれているのか、とその表情を読み取った茂人は、ばつの悪そうな顔で台所に立つ那美から視線をそらす。

 小さな溜息をつき、それでも味噌汁だけでもと、那美はコンロの火を入れて鍋を温め始めた。

「顔だけでも洗ってきたら?」

「そうだな。そうする」

 そんな会話を交わし、茂人はリビングの扉をくぐっていく。

 クツクツとわき始めた味噌汁に卵を割り入れ、那美は食器棚から茂人用の椀を取り出すと、頃合いを見計らってそれに味噌汁を入れた。

 程なくしてリビングに戻った茂人に、那美は味噌汁をダイニングテーブルの上に置く。

「お味噌汁だけでも、食べる時間あるでしょ?」

「あ、あぁ」

 着替えを入れた紙袋を戸口に置き、茂人は苦笑を浮かべて椅子に腰掛けた。

「そういえば、翔也のヤツはどうしてる?」

「お兄ちゃん?なんだかレポートが進まない、とか言って今日は友達の家でそれを片付けるとか言ってたけど」

「遊んでるんじゃないだろうな?」

「うーん、なんとも言えないかな」

 四つ年の離れた兄は、遊び人ではないがどこかお気楽めいた調子のある人柄だ。

 一応はレポートのためと言っていたが、遊びに行っていないとは言い切れない辺り、茂人も那美も心配せざる得ないのだから、あまり信用をされていないと言えるだろう。

「はい」

 茂人の前に椀を置き、那美もまた茂人の前に座ると、父親の顔色の悪さに心配そうに眉根を寄せた。

 無茶をするな、と言えれば楽だろうが、ワーカホリック気味の父親に何を言っても無駄なことだと分かっているため、那美は黙って茂人の顔を見つめた。

 そんな那美の心配をよそに、茂人は味噌汁をすすりながら話題を転換した。

「ゆかりさんも、勇一君も、辛い立場だからな。気をつけてやってくれ」

「うん」

 味噌汁をすすりながら、茂人は当然のことを那美に向かって話しかける。

 勇一もゆかりも、ひどく落ち込んでいるのは周囲の人間の共通認識だ。那美の母親などは毎日のようにゆかりの様子を見に隣に顔を出し、何くれと無くゆかりを支えるように行動している。那美もまた、勇一が自暴自棄にならないように側にいるのだが、今日のように足手纏いにならないためには、どうすれば良いのかがまるで分からなくなってしまっている。手元の湯飲みを握りしめ、那美は茂人に感づかれないように唇を噛みしめた。

 一番簡単な答えは出ている。

 勇一から離れる。それが最も簡単で、勇一の足を引っ張らない方法だ。けれど、今までずっと側にいる事が当たり前すぎて、単純なその方法をとる事が出来ないでいる。どうすればよいのだろうか。それだけが、那美の頭の中をぐるぐると駆け巡ると同時に、その答えを出す事を拒絶している。

「那美」

「っ。なに?」

 思考に埋没していたため反応が遅れたが、それに気が付くことなく茂人は那美に話しかけた。

「勇一君の様子はどうだ?」

「なるべく普通にはしてるみたいだけど、無理してる、かな」

 茂人にとっては、勇一もまた自分の子供同然の存在だ。心配するのは当たり前のことだろう。

 それ故の疑問に、極端に笑うことが少なくなった勇一の姿を思い出す。当然と言うべきなのか、無理をしていると感じるのは友人達にも痛いほどよく分かっている。一定の距離を持って勇一に接している友人達に比べ、那美は勇一の側でその感情の機微を敏感に感じ取りフォローをいれている日々だ。それを鬱陶しいと今の所思われていないのは、幼馴染み故だからだろうか。

 だが、今日のことを考えれば、そんな考えは自惚れだと痛感してしまう。

 ―本当に、どうしたら良いんだろう。

 側にいれば、きっと自分は勇一の負担となる。それは避けるべき事態だが、今の勇一を放っておくことも出来ない。

 どちらか一つを取れと言われても、どちらも選べずにいる自分自身に那美は湯飲みを持つ掌に力を入れてしまう。

「那美?」

「なぁに?」

「何かあったのか?」

 茂人が、訝しげに那美を見つめる。その視線の鋭さに、那美は茂人の観察眼に内心でどきりとしながらも、何とか笑みを浮かべて茂人の疑問に何事もなかったように答えた。

「なにもないけど、どうして?」

「いや……気のせいならそれでいい」

 味噌汁を飲み干した茂人から椀を受け取り、那美は立ち上がった茂人の様子を眼で追いかける。

 着替えの入った紙袋を持ちそのままリビングを後にする茂人のの後を追いかけ、那美は玄関口で草臥れた靴を履く父親の背中に向かって声をかけた。

「あんまり無理しないでね」

「ああ。母さん達にも、しばらくは帰れないこと伝えておいてくれ」

「うん、分かった」

 それだけを伝えると、茂人は急ぎ足で玄関を後にする。

 父の姿を見送った那美は、複雑な心境で玄関口からリビングへと戻ると、ダイニングテーブルの上の椀を洗うべくキッチンに向かった。

「もしも殺人だって言ったら、どうしたんだろう」

 ぽつりと呟いた言葉に、那美ははっと我に返ったように周囲を回した。

 誰もいない事は分かっている。けれど、聞かれていては困る内容なのは間違いない。

 小さく吐息をつき、那美は昼間の一件を思い出しぎゅっと拳を握りしめる。

 勇一の側にいたい。同情でも哀れみでもない。ただ勇一の側にいて、何時もの通りに振る舞い、勇一の憂いを払いたい。

 望みは、たった一つ。それだけだ。

 けれど、あの男と対峙した場合、自分の身すら守れずに勇一の荷物になるのは間違いないのもまた事実でしかない。

「どうしたら、良いんだろう」

 蛇口から流れる水の冷たさを感じつつ、那美は答えの出ない思いに手にしていた椀を握りしめた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る