想いのかたち

土御門 響

第1話

「私が死んだらどうする?」


 大学の帰り、カフェで彼女とのんびりお茶をしていた時だ。

 その日は俺たち二人とも大学は違えど三限で終わりだった。よって、放課後久々に会おうという展開になったわけで。

 俺はブラックコーヒー、彼女はミルクティーを飲んでいた。彼女がカップの淵から柔らかそうな薄桃色の唇を離し、穏やかな微笑みを浮かべて、天気の話でも振るかのように口にした台詞。

 それが冒頭のものだ。

 俺は瞬きしかできなかった。

 唐突に何を言い出す。しかし、彼女は首を少し傾けて、こちらの回答を待っていた。

 俺は小さく息を吐き、取り敢えず答えた。


「まあ……それなりに困る」

「そっか」


 あっさりした反応だ。

 大した意図はなかった、ただの気紛れということか。

 俺はコーヒーを飲み干し、頬杖をついた。


「いきなりどうした?」

「なんとなく聞きたくなった」

「そうか」


 彼女の気紛れには慣れたもので気に留めることなく、俺は通りかかったスタッフにコーヒーの追加を頼んだ。


「そっちの大学楽しい?」

「まあまあだな」

「そう」

「暇な授業もあれば、キツいのもある」

「面白いとか楽しいって形容する余地はないんだ。私は大学の講義、基本的に好きなのに」

「俺はそこまで勉強好きじゃない」


 じゃあなんで進学したのよ、と彼女は苦笑した。子供を見るような穏やかで静かな目をした彼女は同い歳に見えない。時折、彼女はこういう顔をする。

 女という生き物の精神は実年齢よりも遥かに成熟していると思う。こっちがどんなに格好をつけたところで見抜かれて、何を言っても論破されるし、正直勝てっこない。


「何でも上を目指すのが男だろ。学歴だろうが、何だろうが」

「……確かに」


 素直に頷いた彼女は、何か考えているような顔をしていた。

 微かに憂いの滲んだ瞳。俺は何も聞かなかった。聞いたところで、何かできるわけでもない。それに、彼女個人の深刻な話を聞いて、上手く何か言ってやれる自信がなかった。下手に笑い飛ばしてみたこともあるが、その時、彼女は晴れやかな笑顔の裏に激怒を押し隠していた。だから、もう俺は下手は打たない。というより、打てない。


「……そういや、ゼミで飲み会があったんだけどな」

「うん」


 話題を変えると、彼女の瞳から暗い色が消えた。今度は何があったのか、と興味津々な様子である。

 俺は内心ほっとした。彼女がたまに見せる暗さは、俺の感覚にしてみれば尋常ではない。自分の中に重いものを抱え込んで、普段は俺に見せないよう明るく振る舞っている。そして、たまにそれが表に漏れ出る。俺は、その重いものがどうしても苦手だった。どうすればいいか分からなくて、見て見ぬ振りをするしかない。


「その日、ちびっと具合が悪くてな」

「大丈夫だったの?」

「無理矢理出たんだが、帰ったら倒れ込んだ。やっぱ無理はするもんじゃない」

「今は平気なの?」

「まぁ一昨日のことで、今も少し頭が重いが……」


 大丈夫だ、と言う前に彼女はテーブルに手をついて身を乗り出してきた。


「ごめんなさい。私が会いたいって言ったから無理させて」


 俺の頬に触れ、少し額にかかった前髪を上げて額にも触れてくる。

 彼女の度胸と健気さは美徳だと思う。だが、こういう公衆の面前でも躊躇いなくやってのけるところは少しどうにかして欲しい。こちらはそちらほど度胸があるわけではない。

 それでも、彼女の小さな手が自分の肌に触れている感触というものは、とても心地よかった。


「ありがとう。大丈夫だ」

「……なら、いいんだけど」


 彼女は手を離して席に戻り、そっと笑った。


 ***


 帰り、駅の改札で別れる時、彼女は何か言いたそうにしていた。珍しく、躊躇っているようだった。

 俺が問うように首を傾けると、意を決したのか顔を上げ、俺の首に腕を回してきた。

 帰宅ラッシュで混んでいる改札前だ。周囲を行き交う人々から送られる視線が、嫌でも全身に刺さる。あまりの羞恥で顔に熱が集中する。それでも、彼女の細い腕を、耳元で囁かれた声を拒むことはできなかった。


「抱き締めて……」


 腕よりも細い、か細い声だった。縋るような響きを孕んだ彼女の声が俺の鼓膜を叩き、俺の腕を促す。

 殆ど思考することもなく、俺は求められるままに彼女の体躯を抱き締めた。

 満足げな吐息が彼女から零れ、俺の首に頬をすり寄せてきた。


「ありがとう」


 身を離す時、互いの顔が近付いたタイミングで、俺は彼女の唇に自分のを重ねた。

 俺からこういう行為をすることは滅多にないので、彼女は驚いて目を丸くしていたが、すぐ嬉しそうに瞳を細め、俺からの接吻に応じてきた。

 もう自分も彼女も大学生だ。このままホテルなりに連れ込んで抱いてしまえ、と欲求が囁くも、俺にはそれに従う勇気がなかった。

 名残惜しさを滲ませて唇を離せば、彼女も頬を染めながら寂しげに笑った。


「……じゃ、また今度」


 そんな気の利かない台詞しか言えない俺に、彼女は文句のひとつも言わず、ほんのり上気した顔のまま頷いて、踵を返しながら小さく手を振ってきた。


「うん。また」


 彼女の姿がホームに繋がる階段の先に消えてから、俺はその場を離れた。

 彼女の温もりと息遣いがまだ身体の芯に残っている。帰宅して自室に戻っても、しばらくぼんやりと窓の外を眺めることしかできなかった。


 ***


 それから、半月後のことだった。

 彼女と俺、共通の友人から突然連絡が来た。


『おい、お前大丈夫か』


 いきなりなんだ、と俺は思った。

 そして、そのままそう聞けば、其奴は知らないのかと大層驚いて、事の詳細を教えてきた。

 曰く、彼女は大学を自主退学し、親類のいる地方に引っ越したというのだ。

 何を馬鹿な、と思って彼女に直接連絡したら、すぐに返事がきた。


『珍しいね。そっちから連絡してくるなんて。いつも連絡とか何でも私からだったから、私から言わないと何もしてこないと思ってたよ。ごめん』


 そんなことはどうでもいい。

 何があった。

 彼奴の言ってることは本当なのか。

 大学辞めたのか。引っ越したって、どういうことだ。


『実は大学の学費、バイトもしてたし、奨学金も借りてたけど、払えなくなっちゃって。もっと奨学金借りればよかったんだけど、そうしたら将来のこととか少し不安で。両親も私のこと考えてくれてたけど、やっぱりこんな迷惑かけてまで、大学行くの良くないと思ったのよ』


 お前、大学の講義楽しいって言ってたじゃんか。楽しくて大学の勉強してる奴が、辞めてどうするんだよ。


『諦めなきゃいけないこともあるんだよ。どんなに好きでやってても。引っ越したのも、本当。親類がやってる会社で事務員さんが足りないって言うから、そこで雇ってもらったんだ。すごくいい雰囲気の職場だし、ここでも充分頑張っていけると思うから、大丈夫だよ』


 そうじゃないだろ。

 なんで俺に何も言わなかった。

 何の助けにもならなかったかもしれんが、相談くらいしてくれたって良かったのに。

 甘えるだけ甘えて、なんで何も……


 言わないんだ、と言おうとしたが、言葉は続かなかった。気付いたからだ。彼女が何も言わなかった理由。それは。


『だって、言ったら困らせちゃうでしょう?』


 甘えていたのは彼女じゃない。

 俺の方だ。

 関係性に甘えて、彼女に甘えて、自分のことばかり。聞きたくないことは聞かないでいて。

 彼女は甘やかしてくれていたのだ。好きにさせてくれていたのだ。

 彼女の俺に対する情の深さが、今更身に沁みた。

 こんな男を、よく捨てなかったものだ。

 捨てられない彼女も彼女なのかもしれないが、それは彼女の良さだ。美徳だ。優しさだ。健気さだ。一途さだ。

 自分よりも他人のことを優先して。終いには、自分が堕ちるところまで堕ちて。

 そして、そうやって自らが不幸になっても誰のせいにもしない。自分が悪いと抱え込む。悪いのは、自分だけでいいと。


『……ごめんなさい。黙ってて』


 遠くにいる彼女は静かに謝って、そして問うてきた。


『こんなでも、私……貴方の傍にいたい。物理的には遠いけど、せめて、心くらいは一緒にいたい。とんでもない我儘よね、ごめんなさい……駄目、ですか?』


 駄目じゃないに、決まってるだろ。

 ここまで一途な女を切り捨てるほど、俺は腐ってない。


 そう言うと、彼女は電話越しに泣いていた。

 声が震えて、滲んでいたが、とても嬉しそうだった。安心したようだった。


『ありがとう』


 ***


 俺は長期休暇になると、必ず一週間、彼女のいる町に行った。授業期間にバイトをして旅費を貯めて、彼女の顔を見に行った。

 彼女の瞳にはいつも仕事の疲れが滲んでいたが、それでも以前のような憂いは消えていた。


「私も今度はそっちに行きたいな。久し振りに」

「ああ、じゃあ俺と来いよ。せっかくだ」


 彼女の手を取ってやると、なぜか彼女は瞬きした。


「どうした?」

「手、そっちから繋いだの初めてだったから」


 そういえば、そうだっけか。

 俺の自覚のなさに彼女は苦笑気味だったけど、表情は明るかった。


「じゃあ、色々と準備しないと」

「俺が帰るまで、あと数日ある。焦らなくていい」

「うん」


 小さな町の道端を男女が二人、しっかりと指を絡め合って歩いていた。

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