第10話(最終話)

18

 これまでに聞いたことのない、すさまじい轟音が耳をつんざいた。金属を引き裂くような、巨大なコウモリの絶叫のような、全身の骨を震わせる轟音。

 蛇の息――これが、魔力を秘めた伝説の蛇の息か、とぼんやりと思った。

 まるで、千もの嵐が火口内で荒れ狂っているかのようだった。眼を開きたい欲望を必死に抑え、トレアンダとその姉を抱きしめる腕に力を込めた。

 暴風が私の周囲で渦を巻く。息ができない。岩やその他のあらゆるものが吹き飛ばされ、転がり、ぶつかり合う音がした。

 いつまでそうしていただろう――「声」がなかったら、おそらくずっと同じ姿勢のまま、動かなかったに違いない。

「もうよい。眼を開くのだ。〈灰色の右手〉よ」

 私はゆっくりと眼を開き、上体を起こした。

 まず最初に気づいたのは、おかしなことに、すでに雨がやんでいる、ということだった。頭上からは、淡い陽光が差し込んでいる。いつしか逆巻く暴風はやんでいた。水晶山の火口は重い静寂に包まれていた。

 大蛇ナヴァーサが、じっと私を見下ろしていた。つややかだったうろこは、すすけ、ひびが入っていた。その眼は、いつの間にか灰色に濁っていた。

「ナヴァーサ……あなたは……」

「わたしは二千年間、眠り続けてきた。その二千年分を、一度に歳老いてしまったのだ……」

 私はまず、足元のトレアンダとその姉を揺すった。

 先に目覚めたのは、トレアンダの姉だった。

 彼女は、きょとんとした表情で、周りを見回した。そして怯えた様子もなく、私を見上げ、続いて弟の姿に気づいた。

「トレアンダ? トレアンダなんでしょ? ここは……レースト村なの?」

 トレアンダも目覚め、次の瞬間に顔いっぱいに笑みが膨らんだ。

「姉ちゃん、よかった! ずっと探してたんだよ! ヒジーの大鷲おおわしに乗って、水晶山までやって来たんだ!」

「ヒジーの大鷲?」

 トレアンダはわっと泣き出し、姉の胸に飛び込んだ。姉はただ、自分の身にも周囲にも何が起こったのか理解していない様子で、泣きじゃくる弟を抱きしめていた。

「ゴルカン……」

 振り返った。

 土埃つちぼこりにまみれたドゥイータが、よろめきながら立ち上がった。

「よかった……! 生きていたのね」

「きみこそ、よく私の言うことに従ってくれた。ワドワクスは?」

 私が言うと、ちょうどワドワクスが立ち上がるところだった。

「ドゥイータ!」

 彼は叫び、ドゥイータに駆け寄ると、その体を抱きしめた。

「ほかの連中たちは……?」

 ワドワクスが周囲を見回した。そのときになって、ようやく私にも火口――かつて火口であった祭壇の廃墟を見回す余裕が生まれた。

 大小の岩が転がり、土埃で煙っている。そこに、暗灰色の岩の塊が無数に立っていた。その数は百以上あるだろう。それらは、岩壁から落ちてきたものではない。縦長の岩が、まるで地面から生えている不気味な茸のように、そこここに立っていた。

 私は、その一つに歩み寄った——息を呑んだ。

 それは、かつてはマトスと呼ばれていた者の、成れの果てだった。ナヴァーサの息は、人を岩と化す力があったのだ。

 と、不意に地鳴りがした。足元が揺れ始めた。

「〈灰色の右手〉よ、感謝する。そして、謝罪する。わたしが奪った七人の乙女の命は、いかなる神の力をもってしても、戻らぬ」

「ナヴァーサ……」

「それに、そなたがたを救うだけの力が、わたしにはもう残っておらぬ。許せ」

 ナヴァーサが、その翼を開いた。風圧が、私たちの体にぶつかってきた。足元の揺れもまた、徐々に大きくなりつつあった。

 その翼の巨大さに、改めて驚きを覚えた。端から端まで、ゆうに二イコル(約六十メートル)はあるだろう。現実のものとは思えなかった。

 私の脇で、ドゥイータがゆっくりと立ち上がった。

「レグドランまでの旅が、ご無事でありますように」

 ドゥイータがナヴァーサを見上げ、言った。ナヴァーサは、小さくうなずくような仕草をした。

「へクロン神のしもべ、七十七匹の大蛇を代表して、わたしは今ここに誓おう。一旦、この地に災い降りかかることあらば、我々七十七匹が、必ずや救いに参る、と。それが、わたしの償いだ」

 そう言うとナヴァーサは、羽ばたきを始めた。灰色の土埃つちぼこりが激しく舞い上がる。巨大なナヴァーサの体が、ゆっくりと宙に浮き上がった。

 そしてナヴァーサは身をくねらせた。一度、彼女は私たちを見回すと、一気に頭上の火口から、明け方の空に向かって飛び出した。そして、ゆっくりと我々の上空で一回りした。

 そして伝説の大蛇ナヴァーサは、北方に向かって飛び去った。開口部から、その姿は見えなくなった。

「まるで……夢を見ているようだ……」

 ワドワクスが一人ごちた。

「じゃあ、すぐに目覚めないと」

 ドゥイータが言った。

 足元の揺れが激しくなっていった。水晶山全体が揺らいでいる。天蓋から、崩れた岩が次々に落ちてきた。

「もう山は保たない。どこへ逃げれば……?」

 ワドワクスが周囲を見回しながら言った。

 私は胸に手をやった――なくしてはいない。

 龍の左手の指の骨で作られた呼び子――しっかりと握りしめた。もう一度、その助けを借りなければならない。

 私はヒジーの呼び子を口に当てた。そして、強く吹いた。

 前回と同様、私の耳には何の音も聞こえなかった。

「それは何なの……?」

 ドゥイータが訊こうとしたときだった。

 心の臓が二十まで脈打つ間もなかった。

 羽ばたきの音が私たちの耳に届いた――見上げた。昇り始めた淡い太陽の光を背に、大きな翼が旋回しているのが見えた。

「あれは……?」

 ドゥイータがつぶやいた。

 真っ白な鷲が円を描きながら、ゆっくりと私たちへ近づいてくる。白鷲は、水晶山の火口へ降りてきた。

 ドゥイータが愕然とした表情になった。口を開いたが言葉が出てこない様子だった。

「話せば長い物語だよ」

 私は言った。

 白鷲ヴァムレイが、音もなく岩だらけの地面に降り立った。

 まず最初に、トレアンダが歓声を上げて駆け出した。そして、慣れた動作でヴァムレイの背中に飛び乗った。

「大丈夫だよ、お姉ちゃん! こっちこっち!」

 トレアンダの姉も、おそるおそる白鷲に近づき、トレアンダの背後にまたがった。続いて、ワドワクスの手を借りながら、ドゥイータが白鷲ヴァムレイに歩み寄った。

「なんてこと……大蛇の次は大鷲なんて……信じられない」

 ドゥイータがあえぐように言い、おそるおそる白鷲ヴァムレイの背中に上った。

「世界はまだ謎に満ちているんだよ」

 ワドワクスが微笑みながら、ヴァムレイの背中に乗った。

 出し抜けに、激しく山全体が揺れた。巨大な岩の塊が、頭上から落ちてくる。

 崩壊が始まっていた。岩壁から岩が次々にはがれ、落下してくる。足元の岩が割れ始め、冥府めいふの邪悪な生き物のように無数の亀裂が走り始めていた。

「賢き白き翼よ! フソリテスの塔へ飛んでくれ!」

 私はヴァムレイに向かって怒鳴った。

 また一度、激しく水晶山が揺れた。私とヴァムレイの間に、巨大な地割れが走った。とても飛び越えられる裂け目ではない。

「ゴルカンさん! あなたは……!」

 ワドワクスが叫んだ。

 同時に、ヴァムレイが私のほうへ首を向けた。

 私はうなずいた。ヴァムレイは羽ばたきを始めた。激しい砂煙が上がる。

「駄目! ゴルカン!」

 ドゥイータが悲鳴のような声を上げた。

 ヴァムレイが、飛び立った。

 ドゥイータとワドワクスの叫びが聞こえた。が、すぐに岩の崩壊する轟音にかき消された。

 私は、火口から空へと飛翔するヴァムレイに向かって手を振った。

 ヴァムレイは、ナヴァーサとは反対の陽光に満ちた南の空に向かった。

 そして、あっと言う間にその姿を消した。


 地割れがあちこちに走り、岩壁からは無数の岩が落ちてくる。

 私は、横たわったフソリテスの遺体に近づいた。彼の遺体は石化していなかった。彼の懐を探る。血染めの地図はすぐに見つかった。

 この場所は「くちなわの神殿」と書かれていた。地図をよく見ると、西のほうへ向かって、小径こみちが延びているのがわかった。フソリテスたちが捕まったのは、こちらの道らしい。その小径は「黄昏たそがれの回廊」と呼ばれ、途中で二股に分かれる。南西に延びる小径が、水晶山の山腹につながっていた。ほかに、外に通ずる道は描かれていない。

 問題は、その道までたどりつけるかどうか。たどりつけたとしても、そこにはアグロゥや傭い兵の生き残りが潜伏している可能性がある。

 岩に押しつぶされるか、八つ裂きにされるか。

 どちらも似たようなものだ。さしたる違いはない。

 私は剣を取った。地図を懐に押し込み、フソリテスの遺体に一礼すると「黄昏の回廊」に向かって走り出した。

 次から次へと岩が落ちてくる。さらに足元には無数の亀裂が走った。「黄昏の回廊」に飛び込んだとき、背後で一気に土砂が崩れ落ちてきた。つい一瞬前に私が通った火口からの出口がふさがれた。前進しか、私には許されないようだ。ヒカリゴケも岩とともに落ちてしまい、辺りはほとんど闇に包まれていた。

 と、不意に眼の前に、ぼうっと影が浮かんだ。大きな影だ。

 兵の生き残りか――私は剣を上段に構えた。突進した。

「待った待った待った待った!」

 叫び声が聞こえた。

 声の主は、ネストンだった。大きく見えた影は、純白のカケトカゲだった。フィンクだ。その背中の鞍には、イサーダがしがみつくようにまたがっている。

「あんた、無事だったんだね。やった! これで助かる!」

 ネストンが、喜びのあまり飛び跳ねた。やはり、大人びて見えても、まだ子どもだ。

「どこへ行くつもりなんだ?」

「わかんないよ。地面が揺れ出して、無我夢中だったんだ。走ってたら、このカケトカゲに出くわした。意外に従順だったから、イサーダを乗せたんだ」

「フィンクだ」

「えっ?」

「そのカケトカゲの名だよ。トレアンダはもう脱出した。さあ、手綱たづなを」

 私は手綱を受け取り、ネストンをイサーダの後ろの鞍に座らせた。その背後に私もまたがった。

 拍車を掛けた。

 フィンクは一度いななき、そして走り出した。

 道の分岐点は、意外にもすぐ近くだった。南西の道へフィンクを導いた。

 背後では次々に岩が転げ落ち、地割れが広がり、地鳴りは大きくなるいっぽうだった。

「光だ!」

 ネストンが前方を指さした。

 その光が、徐々に大きくなっていた。

 唐突に、私たちは陽光の下に飛び出した。

「ひゃっほおおぉうっ!」

 ネストンが歓声を上げた。そのとき、はじめてイサーダがこちらを振り返った。微笑んでいる――はじめて見るイサーダの笑みだった。

 私たちの周囲は、短い草が生い茂った草原だった。暗い回廊を走っている間に、水晶山頂上から中腹付近まで下っていたようだった。

 足元では、いまだに地鳴りが続いている。背後から、大小の岩が次々に転がってきた。私はできるだけ勾配の緩やかなところを選び、フィンクを走らせた。

 何イコル走ったか、定かでない。いつしか、私たちは平坦な土地に到達していた。私はフィンクを止めた。

「わっ、後ろ見て!」

 ネストンが叫んだ。私は背後を振り向いた。

 水晶山が、崩壊しつつあった。

 山頂付近が、まるで内部へめり込むように、崩れていく。暗灰色の煙が、猛烈な勢いで天空に向かって噴き上がっていった。最後までマトスの妄言を信じ、蛇の息を浴びた者たちのなれの果て――彼らの行き着く先は、どこなのか。

 崩壊は、長く続くように思われたが、つかの間の出来事だったのかもしれない。激しい噴煙の向こうに見える水晶山は、今までの三分の二ほどの高さになっていた。

 この地上界でもっとも美しい山――その姿は片鱗も残っていなかった。煙の向こうにそびえるのは、いびつな形をした巨大な岩の塊に過ぎなかった。

 いつしか、地響きが止まっていた。静寂が戻っている――崩壊は、終わっていた。

「助かった……のかな?」

 放心したように、ネストンは言った。

「そう。命を失った人たちも多いが、少なくとも、きみとイサーダは生きている。これからも生き続けるために、神様が――ヘクロンなのか、ほかの神かわからないが――きみたちに命を与えてくれたんだろう」

 そのときイサーダが、はじめて口を開きかけた。

「あ……」

 私はそっと、彼女の口元に耳を寄せた。

「あ、ありがとう……」

 おどおどとした幼い声が聞こえた。私はイサーダに微笑み返した。

 私は、フィンクに拍車を掛けた。

 フィンクは声高くいななき、草原を駆け始めた。


 半ば気を失いかけながらも手綱を執った。私たちがフソリテスの塔に到着したのは、太陽が傾き始めてからだった。

 真っ先に私たちを発見したのは、フィエルだった。彼女がフィンクに向かって駆け出してくるのが見えた。それからの私の意識は朦朧としていた。不意に、視界が暗くなった。


 目覚めると、私は天幕の寝台に寝かされていた。眼の前には、フィエルがいた。

「ゴルカンさん! 大丈夫?」

「フィエル……すまない、きみにはほんとうに心配をかけた。けれど、フィンクには傷一つ付けてない。約束は守ったよ」

 私が言うと、彼女は少しだけ微笑んだ。

「面会したいっていう人がいるんです。ほんとは断らないといけないんだけど……ゴルカンさんには大切な人ですよね」

 そう言い残し、フィエルは天幕からそそくさと駆け出して行った。

 入れ替わりに入ってきたのは、ドゥイータだった。

「ゴルカン……」

「ワドワクスは無事か?」

 私は尋ねた。

「第一声がそれなの?」

 私は答えを返すことができなかった。

 ドゥイータから、ワドワクス、トレアンダ、トレアンダの姉、そしてムーレグもまた、無事に塔に戻っていることを聞かされた。しかし〈ヘクロノムの騎士団〉の生き残りは、わずかに三名だけだった。ドゥイータたちを乗せた白鷲ヴァムレイは務めを果たすと、いずこと知れぬ大空へすぐさま飛び去って姿を消したという。

 しばし私たちの間に、沈黙が落ちた。

 それを先に破ったのは、ドゥイータだった。

「これから、西に帰るの?」

 私はかぶりを振った。

「いや、まだ解決していないことがある」

「そう……そうね……」

 ドゥイータはうなずいた。


 二日間、私は天幕で過ごした。そのあいだに体は、充分とは言えないにしても、かなり回復することができた。

 ネストンとトレアンダ、そしてイサーダは、フソリテスの塔で暮らすこととなった。残念なことに、彼らの両親は見つからなかった。マトスの傭い兵たちに殺されてしまったのか、あるいは水晶山崩壊に巻き込まれてしまったのか。

 ムーレグは、いっそう逞しくなったように見えた。兄と父を相次いで失った悲しみを微塵も見せず、胸を張って私に言った。

「任せて下さい。子どもたちを苦しめることは、二度とさせませんから」

 フィエルは、故郷であるサンナ村に帰ることになった。一人で帰すのは不安だったが、

「フィンクが守ってくれるから大丈夫。ゴルカンさんも早く帰って来てね」

 と彼女は笑いながら言った。彼女が西の国へ旅立つとき、フドーニは人目もはばからずに声を上げて泣いた。ムーレグの双眸にも涙が浮かんでいた。


 私には、まだやり残したことがあった。

 翌日の夜明けとともに、私とワドワクス、そしてドゥイータはフソリテスの塔をあとにした。


19

「困ります、お引き取りを!」

 私たちはオーアが引き留めるのも聞かず、屋敷を通り抜け、薬草園へと向かった。

 ここに来る理由を私から聞かされていないワドワクスとドゥイータは、戸惑いながらも、強引な私のあとについてきた。

「どうか帰って下さい! これ以上わたしたちにつきまとうのはおやめ下さい!」

 オーアは懇願するように言った。

「これが最後です」

 私が言うと、オーアの顔が一気に青ざめた。

 薬草園は、前回来たときと同様、独特の刺激的な匂いに満たされていた。

 私、ワドワクス、ドゥイータの三人は、小径を通って薬草園の奥へと進んだ。

 彼女は、前回と同様そこにいた。車輪の付いた椅子に座り、深緑色の薬草の茎から丁寧に棘を一つ一つ取っている。

「また、お目にかかります」

 私が言うと、オーアの母――ジェクとノーアの祖母は、椅子ごとこちらを向いた。

「何用ですかな? 衛士を呼びますぞ」

「すでに、呼んであります」

 私は静かに言った。

「何と……?」

 老婆の顔がゆがんだ。

 ドゥイータが一歩前へ進み出た。

「はじめてお目にかかります。わたしは、学舎でジェク君を教えていた教師で、ドゥイータと申します」

「ふん、〈汚穢おわいの者〉が何を学べるというのかね」

 老婆は吐き出すように言った。

 私は言った。

「私がここに来た理由を、ご存じのはずだ」

 老婆は答えなかった。私は続けた。

「セネクさんにもお会いしました。あなたがたの言う〈汚穢おわいの者〉であり、ジェク君がもっともしたっていた方に。ご存じでしょうか、セネクさんは亡くなられました。殺されたのです」

 老婆は表情を変えなかった。車輪付きの椅子を、きりきりきり、と音を立てて移動させ、黒い花弁の付いた灌木かんぼくへ近づいた。その漆黒の花弁を見上げると、老婆は骨張った腕を伸ばし、花をちぎり始めた。

「もうやめましょう」

 私は言った。

 老婆は手を止めた。その背中に向かって、私は言った。

「私は、友人からリリローの花を干した薬草をもらいました。導術師ならご存じでしょうが、血止めの薬です。その青い花びらは、私の傷から血を吸って、漆黒に染まりました」

 老婆に反応はなかった。いつの間にか、薬草園の隅にオーアが来ているのに気づいた。所在なげに、手の指をもてあそんでいる。

「その木は、リリローですね」

 老婆は動かなかった。しかし、オーアは息を呑み、両手で胸を押さえた。

「ゴルカンさん……?」

 ワドワクスが、眉間みけんに皺を寄せた。それには答えず、私は言った。

「リリローは、青い七枚の花弁をつけるはず。それは、ここにいるワドワクスとドゥイータならよく知っています。そうだろう?」

 いきなり質問を振られ、二人は戸惑っていた。が、ドゥイータはうなずいた。

「中央の木――そのように黒いリリローの花は、この地上には存在しない。たった一つの場合を除いて」

「やめて下さい!」

 叫んだのは、オーアだった。

 残酷なことだとはわかっていた。しかし、私はその先を続けないわけにいかなかった。

「漆黒の――闇の色のリリローの花が咲くのは、血を吸ったとき」

「ゴルカン、なんてことを……!」

 ドゥイータが悲鳴に似た声を上げた。

 ――リリロー、血を吸って、闇の色染まる。

 サンナ村で、大蛇ナヴァーサの名を呼ぶ前に、予言師フピースは確かにこう口走った。ずいぶん昔の話のように思えた。

 私はゆっくりと、黒い花を付けたリリローの灌木に歩み寄り、しゃがんだ。そして、その根元の土を手で掘り始めた。

「やめろ! やめるのだ!」

 老婆が叫んだ。しかし、車輪付き椅子に腰掛けた彼女には、止めることができなかった。

 私は土を掘り続けた。不意に、その手を捕まれた。オーアだった。

「やめて下さい! お願いです!」

 その顔は涙で濡れていた。

「もう、逃げ隠れは無用です。じきに、衛士隊も来ます」

 私はオーアの手を振り払った。彼女は、力尽きたように地面にくずおれた。

 私はさらに土を掘った。いくらも掘らないうちに、何かが指先に触れた。

 眼を閉じた。

 見たくなかった。

 これ以上、掘ることをやめたかった。が、それはできなかった。掘り進めた。

 地中から現れたのは、小さな人の手だった――子どもの手。腐敗が進み、半分は骨と化している。華奢な五本の指が、宙を摑んでいた――まるで苦悶しているかのように。一気に腐臭が鼻を衝く。

「ああああああ……」

 オーアが声を上げた。

 私は立ち上がった。そして、老婆に向かって言った。

「あなたは、ジェク君が呪技遣じゅぎつかいになろうとしていることを知っていた。ジェク君は、導術師の家のなかの男子。女子だけが術を継承できる導家どうけのなかで、彼だけは疎まれた――叔父のセネクさんのように。ジェク君だって、一人の子どもです。親の愛情を求めるのは当然です。が、導家ではそれが許されない。ジェク君は、この家では不要な存在——あなたたちの言う〈汚穢の者〉だった。そこで、彼は呪技を身に着けようとした。あなたたちの言葉を借りるならば『転ぶ』ことを選んだ。親の愛を受け取ることもできず、けがれた存在と呼ばれ、うとまれていた彼が呪技に魅入られても、誰が責められるでしょう?」

 誰も、一言も発しなかった。

 マトスもまた、フソリテスの家の中で〈聖蛇師せいじゃし〉を継承できない「不要な」存在として育った。マトスはそのいきどおりをよこしまな力に変え、地上界を支配しようとしたのだった。

「ジェク君の不幸は、それだけではなかった。彼は呪技じゅぎだけでなく、もっと恐ろしいものに魅入られた。蛇神ヘクロンのしもべの大蛇です。まったく偶然に、彼は大蛇を封印したほこらがあることを知った。彼がその祠を知ったとき、どんな思いだったか、私には想像がつきません。自分にも力を持てることを家族に認めて欲しかったのではないのか。お母さんに、お祖母さんに自分を認めて欲しかったのではないか――勝手な想像に過ぎませんが、そんな気がします。そうであって欲しいと思います」

 私はそこで一度言葉を切った。

「彼は、ただ単に欲しかったんでしょう。親の、家族の愛というものが。しかし――」

 ジェクの母親、オーアが、地面に泣き崩れた。

 これ以上言うべきなのか、迷いを覚えた。私が話しても、誰も幸福にならない。沈黙を守ったまま、この場を去ってサンナ村の小屋に戻るべきではないか。一角犬グンと一緒に、誰の人生にも関わらず、誰からも関わられることなく、ただ静かに時が過ぎて老いていくのを待つべきではないか。それが私のこの八年ではなかったのか。

 私は自らを裏切った。先を続けた。

「あなたがたは、ジェク君の気持ちを知ろうとしなかった。ジェク君は、導術師の家にとって、危険で邪魔な存在以外の何者でもなかった。だから――」

 私は老婆をにらみつけた。ようやく、老婆は顔を上げて私を見た。もはやその両の眼には、導術師としての力強い光は一片も見られなかった。

「だから、ジェク君を殺した。その方法は、わかりません。衛士隊の監察方かんさつがたが、すぐに解明してくれるでしょう。ここにジェク君の遺体は埋められた。しかしそれは、大きな間違いだった。これはリリローだった。血を吸うと漆黒の闇の色の花弁を付ける、リリローの木だった」

「いやあああああああ!」

 絹を引き裂くような悲鳴が響き渡った。振り返った。いつの間にか、ジェクの姉のノーアが、母屋から駆け出して来た。彼女にだけは、この話を聞かせたくなかった。

「嘘! 絶対、嘘!」

 ノーアの手元で何かが陽光を反射して光ったのが見えた。

 様々なことが、一瞬のうちに起こった。

 私は剣のつかを手で握った――

 ドゥイータは母親のオーアに駆け寄った――

 ワドワクスは、ノーアに向かって立ちふさがった――

 ノーアが、ワドワクスの体にぶつかった――二人の体がもつれ合い、倒れ込んだ――

 そして――静寂。

「だめえええええ……」

 悲壮な絶叫が薬草園に響き渡った。

 ノーアの手に握られていたのは、料理用の包丁だった。それは、深紅に染まっている。

「ワドワクス! ワドワクス!」

 ドゥイータが叫んだ。ノーアの前でワドワクスは倒れたまま、微動だにしなかった。

 私も走り出した。包丁を手にしたノーアに向かった。

 同時に、母屋のほうから慌ただしい足音がなだれ込んできた。七、八人の衛士隊だった。先頭には、ベリーグの姿があった。

「ああああああ……」

 今度のノーアの悲鳴は、かすれ切っていた。天をあおぎ、大きく口を開き、すべての哀しみと絶望を吐き出そうとするかのような、痛々しい顔だった。

「許して、ノーア! お母さんたちを許してえええ……!」

 娘に向かって走り出そうとするオーアを、数名の衛士が押さえつけた。それを見た娘のノーアの目つきが変わった。

「ノーア、駄目だ!」

 私は叫んだ。跳躍した。手を伸ばした。

 遅かった。

 ノーアは、包丁を自らの喉に深々と突き刺した。

 ごぼごぼという音を立て、泡立った血潮が少女の喉から噴き出した。ノーアは、そのまま声を上げることもなく、仰向けに地面に倒れ込んだ。

 私はノーアを抱き起こした。手で喉の傷を押さえた。しかし、いくら力を込めても、私の非力な指の間からは、止めどなくノーアの鮮血が、命があふれ出た。

 ドゥイータは這うようにして、ワドワクスに近づいた。が、彼はすでに身動きしなかった。彼女はワドワクスを抱きしめた。

「ワドワクス! ワドワクス! 眼を開けて! 返事をして!」

 ワドワクスの答えはなかった。

 私が抱きかかえたノーアの眼からも、光が消えていた。脈もない。瞳孔の開き切った双眸そうぼうは、灰色の虚空をにらみつけていた。

 私はノーアの亡骸なきがらをそっと地面に横たえ、眼を閉じてやった。

 そのときだった。ケラケラと嗤う甲高い声が薬草園に響き渡った。老婆だった。

「そうじゃ、ノーア。山の乳を飲んで、いい子に育つのじゃ、マンテラ神もトライアド神もご覧じゃよ。『みどりの林につるが這う。古き里の幼き娘。山鬼どもが来る前に、ムラサキイチゴをみましょう……』。綺麗なお歌じゃ、ジンパー神もおねたみなさる――」

 心のどこかが壊れてしまったのだろう。老婆はひとしきり歌うと、またケラケラと大声でわらい始めた。しかし老婆は、三名の衛士によって、取り押さえられた。彼女は抗わなかった。そのまま、薬草園から連行されて行った。

「『あおい夜空の七つの星よ。古き里の幼き娘……』」

 車輪付きの椅子を押されて連れ去られるあいだもずっと、老婆は歌い続け、わらい続けた――喉を突いて果てた孫娘のために。

 そのしわがれた声はいつまでもいつまでも、私の耳にこびりついた。

 私は立ち上がった。よろよろと歩き出した。

 ドゥイータに抱きかかえられたワドワクスに歩み寄った。見下ろした。ワドワクスの青ざめた顔。ドゥイータの震える肩。

 その脇にひざまずいた。

 ワドワクスがすでに息絶えているのは一目瞭然だった。彼の面持ちは、むしろ穏やかですらあった。暖かいものに包まれて眠る童子のようにも見えた。

 私は口を開いた。が、発するべき言葉は何もなかった。

 背後から、衛士の声が聞こえた。

「間違いありません。十歳程度の男子の屍体です。死後、ひと月ほどでしょう。背中に三カ所、刺し傷らしきものが……」

 私は拳を握りしめた。涙は出なかった――私が冷酷な人だという証だ。

 不意に、ベリーグの居丈高いたけだかな野太い声が、背後からぶつけられた。

「ゴルカン、詰め所まで来てもらおう。貴様が何を知っているのか、どうやって知ることができたのか、詳細をじっくりと訊かせてもらうぞ!」

「黙れ!」

 怒鳴っていた。

「何だと、貴様……!」

「おまえには死者をいたむ心はないのか?」

 気圧けおされたかのように、ベリーグは後ずさった。威厳を取り繕うように私に背を向けると、ジェクの遺体が埋められた黒いリリローの根元へと向かった。

 私は唾を飲み込んだ。そして、ドゥイータに言った。

「私は二度までも、きみの愛する人を奪ってしまった……」

 ドゥイータの答えはなかった。

 立ち上がった。歩き出した。

 薬草園から出た。ノーアが導術を見せてくれた小屋を通り過ぎた。

 石造りの母屋に入った。大鍋のかけられた釜のある薬草の調合室を通り抜けた。

 玄関を抜けた。林を突っ切る一本道に出た。

 空を見上げる。曇っていた。ちょうど、水晶山の山頂のように。暗灰色の雲が厚く頭上を覆っていた。

 私もあのとき、蛇の息を浴びて暗灰色の石と化していればよかったのだろうか。

「あなたは、正しいことをした」

 不意に声がした。

 背後に立っていたのは、ドゥイータだった。

 私はかぶりを振った。

「ゴルカン、あなたは生きて。あなたは生きなければならない。生き延びてしまった者は、死んでしまった人の代わりに生き続けなければならないの」

 ドゥイータは、涙をいっぱいにためた眼で、私をしっかりと見つめて言った。

 多くの人が命を落とした――あまりにも多くの咎なき人びとが。

 もう一度、空を見上げた。暗く重く灰色の雲を。

「私を――」

 顔を下ろした。ドゥイータの両眼をまっすぐに見つめ返した。

「一角犬のグンが待っている」

 歩き出すと同時に、冷たい雨が降り始めた。


「蛇神覚醒╱〈灰色の右手〉剣風抄」完

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蛇神覚醒 〈灰色の右手〉剣風抄 美尾籠ロウ @meiteido

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