第9話
17
重苦しい沈黙が、冷えた洞窟に充満していた。
辺り一面に、焼け焦げたり斬り捨てられた兵士と
私は、三人の子どもたちをできるだけ屍体の山から離れた、広間の一角へ移動させた。
新たに兵士や
「寒くないか?」
私は尋ねた。
トレアンダとネストンは、かぶりを振った。しかし、イサーダという名の少女は、かすかに体を震わせていた。私は血と
「汚くてごめん。ここから出られたら、暖かい毛布と美味い食事を約束するよ」
少女は無反応だった。
「寒くて震えてるわけじゃねえんだ。怖いんだ」
ネストンがうつむいたまま言った。
「だって、あんな目に
トレアンダが言い
ネストンが、唐突に顔を上げた。
「絶対に許さねえ。こんな小さな子に、あんなことしやがって……」
「それ以上、言わなくていい」
私は遮った。
「腐った大人たちには、我々大人たちが必ず罰を与える」
「でも、悔しいよ。ずっとここでワドワクスさんたちを待ってるの? ぼくたちも、イサーダの復讐をしたいよ。自分の手で姉ちゃんを見つけたいよ」
トレアンダが言うと、ネストンが小石を摑み、壁に向かって投げつけた。
「くそっ、俺たち、何もできねえのかよ!」
私は、ネストンが小石を投げた岩壁を見つめた。そのまま、視線を岩の天井へ上げた。
「アグロゥ……」
私はつぶやいた。
「何? 人喰い鬼がまた出たの?」
トレアンダが、ややおびえた声を上げた。
「いや……やつらは、あっという間に現れ、そして生き残りもまた、すぐさまどこかに消え去った。傭い兵のように、回廊の奥から現れたようには思えない」
「そう言や、そうだ。やつら、どっから来たんだろうな?」
ネストンが、私の視線を追った。
「見えるか?」
私は、岩壁の一角を指さした。地面からおよそ二十エーム(約六メートル)ほどの高さに入った縦長の亀裂だった。よく見ると、その亀裂の周囲に、どす黒い血痕らしきものがべったりと付着している。
「あそこから、人喰い鬼が逃げたんだ! きっと、秘密の通路なんだよ」
トレアンダが叫んだ。
「でもその先は、アグロゥどもがうじゃうじゃいる巣につながっているかもしれねえぜ」
ネストンが言うと、トレアンダは途端に意気消沈した表情になった。
「行ってみる価値はある」
私は言った。
「でも、イサーダが……」
トレアンダが不安げな声を漏らした。
私は左腕の矢の傷を見た。すでに薬草は血をたっぷりと吸って真っ黒に染まっていた。まだ痛みはあったが、血は止まっているようだ。傷口もふさがりかけている。私は黒く変色した薬草をはぎ取り、乾燥したリリローの青い花弁を新たに傷口にかぶせ、布きれでしっかりと巻いて縛った。
私は立ち上がり、周囲に散らばる屍体を改め始めた。兵士の屍体の腰帯から、まだ充分に使える短剣を二本見つけ出した。トレアンダとネストンに、一本ずつ差し出した。怪訝そうな顔で、二人の少年は短剣を受け取った。
「ネストン、きみは、ここでイサーダを守ってくれ」
「いや、俺も……」
私は抗弁しようとするネストンを遮った。
「彼女の命を守るのが、きみの使命だ。その短剣は、見かけは悪いが刃は充分に研ぎ澄まされている。一突きで、敵を倒せるだけの
「じゃ、トレアンダは……?」
「それは、彼自身が決めることだ。そうだろう?」
「う、うん……ぼくは……行くよ」
ためらいがちにトレアンダは答えた。
「覚悟はできているね? 進む道は誤っているかもしれない。それでも、ついてくるか?」
「うん。行くよ。だって、ぼくが行かなきゃ誰がお姉ちゃんを助けられるのさ」
トレアンダが笑ってみせた。私はうなずいた。
「決まりだ」
岩壁を登るのに、トレアンダはさして苦労しなかった。身軽に岩の突起に摑まり、亀裂まであっという間にたどり着いた。
「わっ、血だらけで臭い! でも、奥まで続いているみたいだ。青く光ってる」
私のほうが、岩壁を這い上がるのに一苦労だった。ネストンに足を押し上げてもらい、ようやく亀裂にたどり着いた。
間違いない。この奥に、通路が続いている。幅はおよそ二エーム半(約七十五センチ)ほど。全体にうっすらとヒカリゴケが生えており、ぼんやりと青白い光を放っている。
私は一度亀裂から外に顔を出し、ネストンに手を振った。彼も振り返した。そのときだった。イサーダもまた、おそるおそる私に手を振ってきた。
私はイサーダに微笑みを返した。
そして、亀裂の内部に入った。
アグロゥたちの通路は、彼らの独特の不快な臭気と、血の臭いに満たされていた。至る所に血だまりができている。トレアンダも必死に恐怖に耐えているのが伝わってきた。が、かすかに空気の動きを感じた。この先に道が続いている証拠だ。
曲がりくねった上り坂の通路を、十イコル(三百メートル)ほど進んだだろうか。前方のヒカリゴケの青い光が、よりいっそう明るくなっていた。私たちは歩を早めた。
唐突に、通路は終わった。
眼前に巨大な円形の空洞が広がった。淡い光で照らされている。
水晶山の山頂――かつて水晶山が生きた火山だった頃の噴火口だ。
見上げると、巨大でいびつな楕円形をした口が、頭上にぽっかりと空いていた。小雨が降り注いでいる。いつしか、夜が明けていたのだろう。巨大な口から見える空は、かすかに明るかった。
火口は、直径がおよそ五イコル(約百五十メートル)はあるだろう。底部から、頂までの高さは、およそ二イコル(約六十メートル)。私たちがいるのは、その岩壁のちょうど中腹付近だった。ここが、大蛇のための神殿なのだ。
そして、火口の中央に「それ」はいた。
一見すると、岩の塊のように見えた。しかしよく見ると、ゆっくりと規則的に動いている――呼吸をしているのだ。
とぐろを巻いた大蛇だった。
トレアンダが声を上げそうになったのを、私は手で押さえて制した。
その胴の太さだけで、私の身の丈ほどはあるだろう。その全長を確かめることはできない。しかし、少なくとも一イコル(約三十メートル)を超えるのではないか。
その
大蛇の前に、紫色の長衣の人影がひざまずいていた。彼を半円形に取り囲むようにして、さらに百名あまりの人々が同様にひざまずいている。大蛇の〈
私とトレアンダは、岩を伝って、ゆっくりと降り始めた。
やがて、眼下の様子が少しずつ把握できるようになった。
とぐろを巻いた大蛇は、ちょうど祭壇のようにしつらえられた、漆黒の直方体をした岩の上に鎮座していた。大蛇には
大蛇の座る岩の祭壇には装飾などなかったが、それは鏡のように磨き上げられていて、
そして祭壇の前、もっとも大蛇に近いところに、小さな人影が立っているのが見えた。大蛇に背を向けている。体に合わない大きな紫色の上衣を着せられた人影は、腰の辺りまでの長い黒髪が印象的だった。小人族だ。眼を閉じ、まるで立ったまま眠っているかのようだった。
「ね、ね、姉ちゃん……!」
トレアンダの顔が見る見るうちにゆがんだ。
「間違いないのか? きみのお姉ちゃんなんだね?」
トレアンダは今にも泣き出しそうな面持ちになり、言葉を発せられずに震えていた。
私はトレアンダの肩にそっと手を置いた。そして、二人して雨に濡れて足場の悪い岩壁を、慎重に、しかしできるだけ素早く下り続けた。トレアンダは身軽に地面に飛び降りた。が、私は無様にも地面に転がり落ちてしまった。剣と
今にも駆け出そうとするトレアンダを、私は慌てて止めた。火口の端の岩の陰で、私たちは息を潜めた。
声が聞こえた。
「エサエルプ・エカゥ・イム・イロゥ・トゥナイグ・ヘクロネカス!」
神殿であるこの火口全体に、そのかすれた声は響き渡った――マトス。
祭壇の前にひざまずいている人影こそが、マトスだった。紫色の長衣を着て、銀色の蛇の装飾品を肩から掛けているのがわかった。長衣は雨に濡れそぼって、裾からはしずくがしたたり落ちている。
「〈大くちなわ様〉、どうかお目覚め下さい。混沌と邪教のはびこるこの地上に、〈大くちなわ様〉の聖なる吐息をお与え下さい――」
そのときだった。不意に火口内がざわついた。マトスも顔を上げた。
ちょうど、私とトレアンダのいる反対側のほうから、複数の人がもみ合う音が響いた。そして、うめき声。兵士たちが一斉に剣や槍を構えるのが見えた。火口のアグロゥたちが群れたまま、一斉にそちらへ近づいてゆく。
おかげで、私たちの周囲からはアグロゥの姿がいなくなった。私とトレアンダは、少しずつ岩陰に隠れながら移動した。
出し抜けに、マトスの笑い声が響き渡った。
「なんと、なんと。滑稽な姿ではないか?」
五、六名の兵士たちに取り囲まれて現れたのは、フソリテス、ドゥイータ、そしてワドワクスだった。三人とも、剣を奪われている。さらに、醜悪なアグロゥたちが二十匹あまり「しゅう、しゅう」を激しい吐息を漏らしながら、彼らを遠巻きにしていた。
「これは可笑しい。実に、滑稽。よくぞここまでたどり着けたものよ、老いぼれよ」
マトスがあざ笑いながらフソリテスに言った。
「笑止千万なのは、こちらだ。貴様の言葉に〈大くちなわ様〉はお答えにならぬ」
フソリテスが毅然とした口調で答えた。
「〈
「兄者? わしには、〈聖蛇師〉を
フソリテスが答えた瞬間、はじめてマトスの声に怒りがにじんだ。
「そうだな……いつだって弟などいなかった。フソリテスの家に、『弟』などいなかった。〈聖蛇師〉になれぬ者は、『人』ですらなかった」
「わかっておるではないか、騙りの〈聖蛇師〉よ。貴様は人ではない。いや、人であることを貴様自らやめたのだ。堕ちたものだ」
「ええい、黙れ黙れ黙れ! この者どもをこちらに連れて参れ!」
マトスの命令で、数名の兵士が駆け出した。兵士たちは、フソリテス、ドゥイータ、ワドワクスの三人を、フソリテスの前まで連行した。三人はひざまずかされた。すぐさま、その背後に槍を持った兵が一人ずつ付いた。
「今、ここで首を刎ねても構わん。が、死ぬ前に面白いものを見せてやろう。この私が――いないはずの弟である私が、〈聖蛇師〉として〈大くちなわ様〉とともにこの地上界を駆け巡るその瞬間を!」
しかし、フソリテスは笑い出した。
「〈聖蛇師〉を騙る貴様に、そんなことは決して無理だ」
「どちらが『騙り』か、すぐにわかるだろう」
「いかにも。すぐに、わかろう」
フソリテスの声は冷静だった。マトスは兄から視線を外し、祭壇に体を向けた。そして、蛇神への呪文を再開した。
「ウォン・ティ・エトゥ・エミット・イルフ・レヴォ・ナイルハディオ!」
ゆっくりと二十数えるほどのときが過ぎた。しかし、何も起こらなかった。
大蛇も――トレアンダの姉も、身じろぎ一つしなかった。
焦った面持ちのマトスが長衣を
「なぜ、〈大くちなわ様〉は目覚めん? もう七つの心の臓は手に入れたはず」
「それがわからぬとは、やはり、騙りは騙り」
マトスの表情が怒りにゆがんだ。唐突に、近くの兵から剣をもぎ取ると、フソリテスの首にその鋭利な切っ先を突きつけた。
「教えろ! すべての呪文は試した! 何が足りんのだ? 何をすれば、目覚める?」
「ほう、今度は助けを求めるか、騙りの〈聖蛇師〉よ。たとえ我が首を刎ねられようと、貴様に教えるはずがなかろう」
渋面を作ったマトスは、フソリテスの首から剣を離した。が、すぐさま隣のドゥイータの喉元に剣の切っ先を押しつけた。
「ならば、この女の首を
フソリテスの顔に、狼狽のいろが走った。
私も、この岩陰から飛び出したかった。しかし、遠すぎて間に合うはずがない。剣の
そのとき、ドゥイータが口を開いた。
「フソリテス様、大蛇の秘密を守るためなら、喜んでわたしの首を差し出します」
「ほう、見事な心がけだな」
マトスは、聖人らしからぬ嫌らしい笑みを浮かべ、ドゥイータを見下ろした。そして、剣を構えた。
が、次の瞬間だった。ワドワクスが兵を振り払い、ドゥイータの前に転がり出た。仰向けに倒れたまま、彼は叫んだ。
「駄目だ! 殺すなら、僕を殺せ、血に飢えた詐欺師よ!」
マトスの顔に勝ち誇った笑いが浮かんだ。
「これはこれは美しい自己犠牲か。ならば、そなたの願い、かなえてくれよう」
マトスが剣を振り上げた。
「ワドワクス!」
ドゥイータが叫ぶのとほぼ同時だった――剣が突き出された。
その切っ先が貫いた――フソリテスの胸を。
愕然とした表情で、マトスは剣から手を離した。ふらつきつつ、後ずさる。
「フソリテス様!」
ドゥイータがフソリテスににじり寄った。が、彼女は兵士に捕まり、引き戻された。
「あ、あ、あ、
マトスの両眼に、恐怖と絶望の色があふれた。
フソリテスは、胸に剣を突き立てたまま、なおも穏やかな笑みを浮かべていた。
「マトス……やはり、そなたは未熟だ……いつまでたっても」
「お、教えろ……教えるんだ! どうすればいい?」
いつの間にか、マトスの声色は卑屈になっていた。
「マトスよ、
「真の名? 何だ、それは? 教えろ! 教えてくれ……!」
「わしを、ほんとうの『兄』と思うのであれば……〈大くちなわ様〉は、レグドランへお送りせねばならぬ。真の名は……」
フソリテスの声がかすれた。マトスは、その顔を兄に近づけた。
「何だ? 真の名とは……?」
マトスは懇願するように言った。
「真の名は……」
うめくように言うと、フソリテスは、自ら両手で胸に突き立った剣の刃を摑んだ。
「そなたにだけは、教えられん!」
フソリテスが、一気に剣を柄まで胸に突き通した。貫通した切っ先が背中から突き出した。
「フソリテス様!」
ドゥイータとワドワクスが、同時に叫んだ。
フソリテスは体をくの字にねじ曲げ、そのまま横ざまに倒れた。
フソリテスは、大蛇の祭壇を凝視したまま、動かなくなった。
真の〈
そのときだった。マトスが地面にひざまずいた。言葉にならぬ悲鳴を上げた。マトスは、拳で地面を何度も叩いた。
彼を取り囲む兵士たちも、その他の者たちも、誰一人微動だにしなかった。
また一つ、失われるべきでない命が、失われた。
私の全身のあらゆる場所が痛んだ。
左肩を摑んだ。傷口を見る。リリローの青い花が、また血を吸って黒く染まっていた。
その刹那――様々な光景が、一気に私の脳裏を駆け巡った。
フィエル。リリロー。ノーア。サンナ村。フピース。ガラミの術――
まさか、と思った。
顔を上げる。
祭壇の上の大蛇――目蓋のない、濡れた眼。
そのときに、私は確信した。
大蛇は、すでに目覚めている。そして、我々の行ないの一部始終を見つめている。
剣を抜いた。それを左手に持ち替えると、右手で弩弓を摑んだ。
トレアンダも、慌てて真似をして彼の短剣を抜いた。
岩陰に隠れながら、一気に祭壇へと走った。誰も、私たちに気づいてはいない。
いや、大蛇だけは気づいているかもしれない。
マトスは、いまだに地面にうずくまり、拳を地面に叩き付けている。それは怒りなのか、絶望なのか、あるいは実の兄を殺してしまった悔恨なのか。
祭壇の背後に回った。
フソリテスたちを連行してきた兵士が、私たちに気づいた。彼らは一斉に槍を構えた。
右手で
飛びかかった。兵の胴を
私は祭壇を回り込んだ。マトスの長衣を摑んだ。全力で引き寄せる。剣をその喉に突きつけた。
「き、貴様……ゴルカン……!」
マトスがあえいだ。
八年前ですら、この距離でこの男の顔を見下ろしたことはなかった。八年前、テジンの都で少女キロエをはじめ六人もの少女の命を奪い、そしてドゥイータの兄、フラッカルを殺させた張本人が、今、私の握る剣の下でひざまずいている。
「マトス……」
私の手の内に今、あのマトスがいる――今すぐこの男の首を
後ろに控えていた五十名あまりの兵士たちが、一斉に武器を構えて祭壇を取り囲むのが視界の片隅に見えた。
トレアンダが、姉のもとへ駆け寄った。
「姉ちゃん! 助けに来たよ! 眼を覚まして!」
しかしトレアンダの姉は祭壇の前で、じっと凍り付いたように立ち尽くしていた。
私は、ドゥイータとワドワクスの背後の兵に怒鳴った。
「二人の
兵士は不承不承、二人の
ドゥイータはすかさず、その兵士の槍をもぎ取った。ワドワクスも、彼女にならう。
トレアンダが不安そうな顔を私に向けた。
「ゴルカンさん……お姉ちゃん、目覚めない。どうしよう」
すると私の剣の下で、マトスが吐き捨てるように言った。
「それ
そしてマトスは、大声で笑い出した。私の構える剣など存在しないかのように。あたかもすべてに勝利したかのように。
我知らず、私の腕に力がこもった。握った剣の刃がマトスの喉元の皮膚に食い込んだ。一筋の赤い血が流れ出す。
が、マトスはそれすらを面白がっているかのように、私の顔を見上げ、笑い続けた。
私は奥歯を噛み締めた。怒りに捕らわれるな――そう自分に言い聞かせた。大きく息を吸い、吐き出す。
フソリテスの言葉を思い出せ。私は記憶を探った。
〈聖蛇師〉とは大蛇の真の名を受け継ぐ者、とフソリテスは言っていた。〈聖蛇師〉は、大蛇が地上に災厄をもたらさないよう、見守る者。
フソリテスは命を落とした。しかし――
大きな賭だった。そしてそれは、あまりにも不利な賭だった。
私は剣の柄でマトスの後頭部を殴りつけた。マトスはうめくことすらなく、気を失って地面にうつ伏せに倒れ込んだ。
私は、ゆっくりと〈
トレアンダが不安そうな眼で見上げてくる。私は微笑んだ。が、その笑みはきっとこわばっていたことだろう――これからやろうとする大それた試みを前にして。
私は大きく息を吸った。
何日前のことだったろう。
フピースは言った――大くちなわが、南へ飛ぶ。
その前に、フピースは確かに、ある言葉を私に告げた。
「ナヴァーサ」
私はトレアンダの姉に――そして大蛇自身に――呼びかけた。
「ナヴァーサよ。あなたはずっと目覚めていた。そして、我々の愚かしい所業をずっと見ていた。そうですね?」
沈黙――
やはり、賭には負けたのか。
そのときだった。
トレアンダの姉が口を開いた。
「今、わたしは〈聖蛇師〉が無惨に命を落とす様を見た。おまえは〈聖蛇師〉ではない。なぜ、我が名を知っておる?」
少女の口から、まぎれもなく大蛇――ナヴァーサ自身の言葉が発せられていた。
いつの間にか、音もなく大蛇ナヴァーサはその鎌首をもたげていた。その高さは、三十エーム(約十メートル)にも達しているだろう。そこから、彼女――大蛇ナヴァーサは、じっと私を見下ろしていた。その口からは、ちろちろと青黒いい舌が出ている。
神殿全体にいる者たちから、どよめきの声が上がった。
「いかにも、私は〈聖蛇師〉ではありません。しかし、ひょんなことからあなたのお名前を知ることとなりました。もっとも、あなたがお答えになるまで、それに確信はできなかったのですが」
トレアンダの姉――大蛇ナヴァーサは笑った。
「わたしを
「いいえ。ある少年が、あなたを目覚めさせようとしました。あなたは半ば眠っていたので、覚えておいででないかもしれない。しかし、すでに六つの心の臓を手に入れ、そして少年による目覚めの術――エ・カーワの術をかけられたあなたは、祠の中で眼を覚ました。きっとまだその頃は、真の姿になっていなかったことでしょう」
私の言葉に、大蛇ナヴァーサとトレアンダの姉は、同時に首をかしげるような仕草をした。
私は続けた。
「あなたが七つ目の心の臓を手に入れたのは、おそらくまったくの偶然です。哀しい偶然です。ある少女が一人でやって来たのです。まだ真の姿になっておらず、体が小さかったあなたは、
私が言うと、ナヴァーサは一瞬、考える面持ちになった。が、すぐにその顔を私に向けた。トレアンダの姉は、静かな口調で言った。
「そう……よくは覚えておらぬが……確かに、わたしは乙女の心の臓を喰らったのだろう。だからこそ、今ここにおるのであろう。つまり……わたしのために、咎なき七人の乙女が犠牲になった……おまえはそう申すのだな?」
「そうです。あなたの力を悪用しようと企んだ者たちが――ここにいるマトスとその手下たちが――子どもたちの命を奪い、あなたに捧げたのです」
そこに割り込む声があった。
「しかし、七人目のティマーだけは、あなた自身が殺した!」
ワドワクスだった。彼はまっすぐに大蛇の眼を直視していた。
ナヴァーサとトレアンダの姉が、同時にワドワクスに顔を向けた。じっと彼の姿を見つめる。
しばし沈黙が下りた。
「ならば……わたしの罪は重いな」
トレアンダの姉は静かに言った。
ワドワクスは勢い込んで答えた。
「そう、僕は、あなたに心の臓を抜かれたティマーの亡骸をこの眼で見ました。そのときに感じた怒りは、今でも消えたわけじゃない……!」
身を乗り出そうとするワドワクスの肩に、ドゥイータが歩み寄り、そっと手を置いた。そしてドゥイータは、意を決したように、大蛇ナヴァーサの鎌首を見上げた。彼女は、冷静な口調で言った。
「その罪を責めることが、誰にできましょう。神――そして神の
「難しいことを問う。そなたはどう思う?」
トレアンダの姉――ナヴァーサは静かな声で尋ねた。
「わたしにはわかりません。わたしは、神ではありませんから。そして、神でなくてよかった、と思っています」
ドゥイータはナヴァーサの顔を真正面から見据え、答えた。
トレアンダの姉は、
「ならば、わたしはその罪を背負い、償わねばならぬな」
「そのお言葉を聞き、少しは心が晴れました」
ドゥイータが言った。
トレアンダの姉とナヴァーサは同時に、私のほうへ顔を向けた。
「わたしを目覚めさせようとエ・カーワの術をかけた子どもがいると申したな。その者はどうしたのだ?」
「……彼の姿は、ここにはありません。どこにいるかもわかりません。ナヴァーサよ、あなたはご存じありませんか?」
「残念ながら、〈灰色の右手〉よ、わたしにもわからぬことはある」
私は胸を
「なぜ、私のことを?」
再びナヴァーサは笑った。
「我が名を知っていながら、おのれのことを知らぬとは。〈灰色の右手〉よ、何が望みだ?」
私はナヴァーサをじっと見返した。
「ナヴァーサよ。あなたこそ、望みは何ですか?」
大蛇ナヴァーサの面持ちは変わらなかったが、トレアンダの姉は、明らかに不意を衝かれたような表情になった。
「何と申した? わたしの望み……? おまえは……不思議なことを問う……」
私は、トレアンダの姉の肩に手を置いた。
「あなたのお仲間……生みの親も、北方の
「何が言いたい?」
「しかし、今のあなたは自由だ。あなたはもう、
と、そのときだった。強い力で唐突に背後から突き倒された。私は剣を取り落とした。いつの間にか、マトスが短剣を構え、私の上に馬乗りになっていた。
「そんな馬鹿なことをさせてなるものか! みなの者、この流れ者の
マトスの短剣の切っ先が、私の喉に食い込んだ。マトスが勝ち誇った顔で私を見下ろした。マトスは私の顔に唾を吐きかけた。
マトスは顔を上げ、大蛇に手を差し延べ、怒鳴った。
「ナヴァーサよ! おまえは〈聖蛇師〉に従わねばならん! それが、十二賢者と蛇神ヘクロンとの契約。私の知恵とおまえの力、それがあれば、全地上界をひざまずかせることなどたやすい。さあ、力を貸すのだ!」
唐突に、甲高い笑い声が神殿全体に響き渡った。それは、もはやトレアンダの姉ではなく、ナヴァーサ自身の口から発せられていた。
「面白い。おまえは、なんと面白いことを言うのだろう」
マトスの顔に満面の狂喜が広がった。
ナヴァーサは、その鎌首を高々と持ち上げ、水晶山の火口全体をゆっくりと見回した。集まる人々や兵、さらにアグロゥたちの口から、
「よかろう。ここに集う者どもよ。この〈聖蛇師〉の言葉を信ずるならば、我が真の力を、しかとその眼を見開き、脳裏に焼き付けよ!」
そしてナヴァーサは、同時に私とワドワクス、ドゥイータのほうを向いた。
「そして、この〈聖蛇師〉を信じぬ者たちよ。しっかりとその目蓋を閉じ、決して何も見てはならぬ」
しばし、私とナヴァーサの眼が合った。ナヴァーサが、うなずいたように見えた。
マトスは私から離れ、ぎらぎらと眼を輝かせ、祭壇の上のナヴァーサへ歩み寄った。
「おお、ナヴァーサよ! 見せてくれ、そなたの真の力を!」
ナヴァーサは、口を大きく開いた。青黒い舌と真っ白な尖った歯が、くっきりと見える。
そして、ナヴァーサは大きく息を吸い込んだ。その太い胴体が、さらに膨らんだ。
とその瞬間に、トレアンダの姉が、呪縛から解かれたかのように、地面にくずおれた。
「姉ちゃん!」
トレアンダが叫び、姉を抱き起こした。
私は叫んだ。
「眼を閉じろ!」
その声が、ドゥイータとワドワクスに届いたかどうか、わからなかった。
私は跳躍した。トレアンダとその姉の上に覆い被さった。二人を力の限りに抱きしめた。そして、しっかりと眼を閉じた。
ナヴァーサが、
「蛇神覚醒」第十話へつづく
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