エネルギィゼロの日常生活

本陣忠人

エネルギィゼロの日常生活

 それは、とある昼下がりのこと。

 桜が咲いて梅が散った頃のこと。


 僕は、白銀色に鈍く光るカッターナイフの鋭く尖った先端を浮き出た血管に押し当ててから――それでも何度か思い詰めた後──いくつかの逡巡と躊躇いと戸惑いの後に、意を決して思いっ切り引いたんだ。


 痛い。


 直前に、それなりには覚悟を決めていたつもりだった。


 でもさ、予め用意した予想に反して、前もった予想とは異なって――瑞々しくてが生生しい鮮血が周囲あたりに所構わず飛び散るなんてこともなく――速度が遅くて鈍い熱が、地表を滑る火砕流みたいに不安定なスピードでじんわりと赤く広がり、蝋燭の炎を思わせる仕草で不規則に揺れる。


「これはなかなかどうして、映画で見たとおりとは…行かないね」


 事前に思ったよりも――誰が見ても分かりやすい様に、一見して想像風のフィクションみたく文字通りな出血大サービスな失血はない。そんな事実は観測できない。


 前持って用意した浅慮な感情のまま――切り裂いたばかりの真新しい跡地を軽く押すとアカにじむ。

 まるで得体の知れない莫大な社会に内包された矮小な自身の不安や世相の意見なんかを反映してるようで。


 そして、僕がここで恣意的に傷付けて、自縛的に傷付いたのは自らの動脈か或いは静脈か……うるせぇ…そんなの、知らねぇよ!


 極めて衝動的な行動じしょうについて、別に大層な理由なんて無い。


 例えば十年来の付き合いで、結婚もそろそろかなと視野に入れていた女性との関係が唐突に破綻して、敢え無く破局したとか。


 或いは新卒以降、未熟ながらも真面目に勤め上げた会社を呆気無く首になって無職にクラスチェンジしちゃったりとか。


 そんなのないよ。

 そんな劇的な展開なんかないよ。絶対ない。ありえない。間違い無く存在しない、ありえるはずがない!


 故に若しくは内的な理由として。

 僕自身が衝撃的な病気とか変化を体験したとかそんなドラマティックな心情変化は無い。

 青臭いパラダイムシフトなんて多少昔の思春期に済ませてしまって以降、良くも悪くも再発はない。


 でも、まァ――、


「何で、どうしてこんな事になっちまったんだろうなぁ…」


 右手の剃刀を投げ捨ててごろりと寝転ぶが、どうにも場所や居心地が悪い。

 大して広くも無い浴室の湿って硬い床から肌着に移った水気や湿気が酷く――どうしようもなく不快で不愉快なだけ。


 左手から伸びる赤い線と透明なそれが交わって薄く薄く伸びてから、段々とその色を無くしていく。

 時間とともに徐々に希釈されて、原初の色を曖昧に失くしていく。


 なんだか無性にぼんやりした頭で今後の展望―――なんて上等なものでは無く、二秒後の展開と現実を思い描く。


 成人男性において身体の血液はどれ位の量をうしなうと絶命するんだっけか? どの程度が境界線ボーダーなんだ? 設定されたその基準値を1mlでも超えるとすぐさま即死するのか? それとも意外と五分位とかなら案外大丈夫だったりするのか? とすると三分半ならどうだ? 生命に別状は無いものの、深刻な麻痺マヒとか障害が結果と残滓として残るのか?


 散文的な取り留めも無い思考こそが全てな気がするけれど、それで終わりだった。それまで。延長線はまだ―――、





 僕は絶命して死去して腐敗した訳では無い…と思う。

 絶する程に美しいルーベンスやミケランジェロなんかには生憎縁がない。


 だけど意識を失ってから再び目を開くまで、どの程度の休眠間隔があったかは分からない。


 下手をすれば、意識が途切れてから今迄ずっとコールドスリープ状態にあって、ここが数千年後の未来である可能性すらもある。

 その間に核戦争が世界で幅を利かせた可能性だって、確率的には決してゼロじゃない。


 益体も現実性もイマイチな重い頭で紡いだのはつまらない独り言。

 オリジナリティも欠如した既視感ありありな一言。


「あれ…知らない天井だ」


 視界いっぱいに拡がるのは無機質で冷たい白い色とそこに埋め込まれた穏やかな照明器具。ツンと鼻を突く薬品の匂いからして多分病院か、それに類する医療機関だと思われる。ひょっとしたら世界転覆を目論む秘密結社の基地かも?


 思いの外意識が固定されてきて、右手から透明なチューブが伸びているのが確認出来た。栄養や血液の供給をする為のものなのだろうが、まるで囚人を繋いで自由を奪う鎖の様だ。


 更にそこから意識を身体中に巡らせて、左手首には何やらガーゼや絆創膏なんかで治療したアトがあること。

 そして、僕の足元に頭を預けて静かに眠る女性がいることなんかを理解した。


「早穂…? なんで、ココに…?」


 何故ここに恋人カノジョがいるんだ…って、ああ、先週破局したから元恋人だった。

 彼女の立ち位置と僕達の関係性の詳細は兎も角として、何故彼女が僕すらも明確に把握していない僕の現在地にいるのだろうか? 遅いにもほどが有るストーカー?


 僕の心中に揺れる動揺が肉体を伝播して、接する彼女に物理法則として伝わった。

 そのせいか、彼女は休眠をいて覚醒へと至る様が見て取れた。


 寝起きに伴う生理現象の欠伸を小さな掌で隠した早穂と目が合う。心も擦れ違わずにこれくらい簡単に通じ合えれば良いのにな。


 即応反射的に彼女が僕の元へ飛び込んで来た。

 狂乱に頭を振る度、嗚咽と共に頬を胸に擦り付ける度に硬質な感触が当たる。アカ色の眼鏡のフレームが僕に触れる。


「良かった…! 手首切ったって。病院に運ばれたって聞いてっ! 私…その、その!!」


 君と別れた事がその原因かも知れないって思った?

 そのせいで自殺未遂の凶行に及んだかも知れないと無意味に気に病んだ?


 大丈夫。


「大丈夫、君のせいじゃない。君は悪くない。全部の理由は僕にあって、他の誰にもなければ、他の誰でもない。つまり君は違う。そうじゃない」


 衝動的な何かがあって、決定的な理由は希薄であり、決定打である絶望的な何かは一つも無かった。


 とは言え、自分のせいで泣きじゃくる女性を前にして邪険に扱うのは気が進まないし、何より互いの黒子ホクロの位置まで見知った仲であるならば尚更だ。


 彼女に近い方の腕―――傷付けて傷付いた左手は何やら痺れの様な痛みがあるので、少々遠くから右手で涙に濡れた女性の髪を撫でる。茶色の髪を掌一杯で確かめたいが、点滴のチューブが行動範囲を微妙に狭める。比喩では無くて、正真正銘捕縛の鎖だ。

 

「先週はごめん。本当に衝動的に口をついた本心じゃないの! 本気じゃない。ごめんなさい…これからは、私があなたを支えるからっ」


 彼女の懺悔を含んだ嗚咽と抱擁を全身で感じながら僕は同調と同意の言葉を口にした。その後に目を閉じた。

 

 最良でも最善でも無い僕の選択は、左手首の瘡蓋が示す通り――痛みを伴う上に適切なものですら無いんだろう。望んで選ぶべき最適からも程遠い。


 けどまあ、人生なんて多分そんなもんさ。生きるってそういうことなんだろう。


 良い感じに麻酔が効いている頭で僕は良い感じにそう思った。


「まあ、とりあえず。死ぬまで生きてみるよ」


 きっと、これからも僕達はこういう風にで、惰性のままに生きていくんだろう。

 きっと、適当に傷付けて傷付いて。その後に曖昧に許して許されて。


 そういう連なりを一生死ぬまで続けて行く。

 無様にみっともなく、何となく。覚悟もなく重ねていく。

 風がむまでくるくると各々の小さな歯車をマワしていく。


 ただ、それだけのこと。

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