鐘の音
空がきれいな程、その青に手を伸ばしたくなる。
海が澄んでいる程、その透明に沈みたくなる。
それは別に自殺願望でもなんでもなくて、唯の興味。
綺麗だから、それに溶けてしまえたらどんな綺麗な自分になるんだろうとか
そうなったら誰が自分に気づいてくれるのか、なんてわがままな興味。
昼下がりの教室、苦手な数学の授業。誰だってこんな空想に浸りたくもなる。
これは別に誰かに話すでもなく、夢想して、また目が覚める。
今こんなことを考えていることさえ、誰も知らない。
今この教室にいる級友たちも、教鞭をとる先生も、隣で眠る結も、
一番近くあるべき家族も知らない。
誰も、僕を知らないまま。
日常は誰かの犠牲と我慢でできているなら、それは誰だ?
誰が誰の為に、その命を燃やすのだろう?
____僕の命が燃えているのは、何の為____?
「__相心。」
「!!」
「当てられてるよ」
結がこつこつと僕の机をタイプする。
飛躍した思考から一気に急降下させられた後の心臓は、ひどく煩い。
悪夢から飛び起きた時みたいな、あの鼓動。
身体が内側から叩かれるような鈍い揺れと不快感。
初夏の教室は蝉の啼く声で日常から切り取られる。
夢想の中のあの青い空は目を覚ました先でも僕を吸い込もうと青々としている。
「ぼーっとしてんなよ
先生が笑いながら教科書のページを指示した。
まだ頭がぼーっとしている。 教室がひどく狭く感じる。
「え、あ…。」
僕の、苗字。そう、自分の姓だ。何もおかしなことなんてない。
今までずっと、番号のように呼ばれてきたじゃないか。
「体調でも悪いのか?」
「い、いや、寝ぼけちゃってて…あはは…」
「おいおい、しっかりしろ」
白々しい白昼夢をごまかした僕の横で、結はまた眠っている。
真昼の光の筋に抱かれながら、彼はどんな夢を見ているのだろうか。
____夢、唯の空想を。
「結、さっきはありがとう。助かったよ。」
「んぁ…?さっき…?」
ざわつく休み時間の教室は蝉の啼き声さえも殺して拡大する。
そんな騒音のなかでも彼は眠れそうだった。
僕の声で起こされて寝足りないのか、眠そうな目を擦っている。
こんな寝起きの不機嫌な声を聴き慣れていることに納得がいかなかった。
「僕が当てられてたの教えてくれたでしょ」
「…あぁ、そういえばそうだった…。」
「うん、おかげであんまり怒られずに済んだよ。ありがとう」
「別に、俺が起きた時にちょうど相心が呼ばれてたからさ」
やっと眠気が覚めたらしい結はへにゃりと笑った。
そんな彼を見てざわめく女子生徒の声が鼓膜を劈きそうになる。
「あ、次移動教室か!やっべ、忘れてたっ」
「そうだよ、早くいこう。遅れたらあの先生煩いからさ」
そうして僕らは切り離された教室から抜け出した。
蒸し暑い廊下の夏の香りが僕らを追い越そうとしている。
さっきの白昼夢の中に飛び込んだようなあの感覚は、
そのあとからもう僕の空っぽの身体を訪れることはなかった。
ただ、何かが居なくなってしまったような穴だけがそこにあっただけ。
一度空いてしまった穴は切り取ることはできない。
それは、頭のいい学者でさえもできないと分かり切っていることだった。
そう。分かり切っていることだ。
なのに、僕の身体の奥で燻ぶる何かが思考を手放さない。
その思考の更に向こうを忘れないように、抗っているようだった。
「あっちぃ~」
遠くで聞こえる蝉の声がやたら僕の鼓膜を打ち鳴らす夕方。
結は暑苦しい長袖のまま、襟元をパクパクさせて外気を求めていた。
「もうすっかり夏だね」
僕らは帰り道に買ったアイスの棒を咥えながらカゲロウを探していた。
見つけてしまえばきっと今以上に暑さを感じてしまうのに。
「そう言えば、今日返ってきたテストどうだった?」
「平均ギリギリだった、やっぱり数学苦手だよ僕」
道端の小石をカツンと蹴る。
小石はカゲロウの揺らめきに吸い込まれて何処かへ行ってしまった。
「でも前より上がってんじゃん!やっぱ俺の教えたとこ出ただろ?」
そう言って結は嬉しそうに笑う。
嬉しそう、というよりはヤマが当たったことでご機嫌なようだ。
「あれね。おかげで助かったよ、今回そこしか解けなかったし…。」
「マジかよ相心、ほんと数学苦手だな~」
笑う結の足取りが遅くなっていく。それは目的地が近くなってきた合図。
世界から切り取れないそこに、否が応にも帰らなくてはいけない。
それ以外に帰る場所など知らないのだから。
「…あついな。」
「…うん、ほんとにね。」
結は、咥えたアイスの棒を手に取って誰に言うでもなく呟く。
僕も呟き返す。蝉の啼き声がうるさくて、お互いの声など聞こえない。
杏色の空が黒く滲んでいく。
僕らは、何も言えなかった。
世間話だって、馬鹿な話だって、沢山あるのに。
いや。言えないんじゃない、言わないんだ。少なくとも結はそうだろうな。
沈黙だってもう何とも思わないけれど、僕はこの時間が嫌いだ。
何も言えない僕が、ひどく惨めに見えるから。
「…あ、着いた。」
はっとして顔を上げると、白くて頑丈そうな壁。
少ない窓から見える灯りは何故か、暖かそうには見えない。
無機質で、こんな暑い夏の中でもひんやりした結の家。
結が、帰らなくちゃいけない場所。
「あ…ほんとだ…。…じゃあ」
「ん。…じゃあ、また明日な!相心」
結は白い歯をにかっと光らせて、手を振る。
ぶんぶんとおおきく振る腕が飛んでいかないか心配だ。
「…えっと、帰んねーの?」
結は少し怪訝そうな顔で僕をみた。
結は絶対に家に入るところを僕に見せない。
理由は分かっていた。分かっているからこそ、いつも立ち止まってしまう。
それが無神経なことだってことも分かっていた。
「…いや、帰るよ。また明日ね。」
へらっと笑ってみせた、君が大嫌いな嘘つきな笑顔だ。
カゲロウも、もう何処かへ行ってしまったのだろうか。
乾いた暑さが飽和したアスファルトを踏みつけながら、僕は帰路についた。
誰が為に鐘を鳴らす。 薮柑子 ロウバイ @wisteria1230
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