おばあちゃんになりたい
月嶌ひろり
待ち合わせは午後一時、吉祥寺駅の南口。
私は中央線の下り電車に揺られていた。
付き合って二年になるコウちゃんとのデートは、いつも近場だった。
二人とも学生でお金がないから、井の頭公園でお弁当を食べて、それから散歩。日が傾いてきたら、街に戻って、雑貨屋やデパートの家具売り場などを見て歩く。
日当たりの良い部屋にソファーを置きたい。窓には明るいミントグリーンのカーテン。ふかふかのベッドでぐっすり眠って、目が覚めたら、しっかりとしたつくりのダイニングテーブルで朝ごはん……。あれこれ話し合って、結局、何も買わない。でも、それが楽しい。
「いつか、結婚したら」
と真面目なコウちゃんは言うけれど、そんな遠い日の約束を私は信じていない。今が楽しければ、それで十分だった。
*
中野駅を出たところで、電車がぐんと加速した。と思ったら、いきなり急ブレーキをかけた。
ぐらり
と電車が揺れて、吊革から手を離して本をめっていた私は、大げさに倒れてしまった。
痛たたた……。
すぐに起き上がろうとしたけれど、腰が痛くて起き上がれない。そこまで強く打った覚えはないのに。
「大丈夫ですか?」
前のシートに座っていた女の子が助け起こしてくれた。
ああ、恥ずかしい。
「すみません。ありがとうございます」
「どうぞ、お掛けになってください」
と女の子がそのまま席を譲ろうしてくれた。
「いえ、大丈夫です」
と言うと、私の隣に立っていたおじいさんが、
「掛けさせてもらいなさい」
と言った。
「ハルカは最近、腰の具合が良くないんだから」
え?
と思った。
このおじいさんは、なぜ私の名前を知っているのだろう。
改めておじいさんの顔を見て、私はもっとびっくりした。顔中しわだらけになっているけれど、それは間違いなくコウちゃんだった。
私は混乱するまま、女の子に背中を支えられてシートに腰掛けた。
夢だ、きっとこれは夢だ。
手の甲をつねってみようとして、また驚いた。しわくちゃのおばあさんの手になっている。
まさか、と思って手鏡を探した。お気に入りのショルダーバッグが丸底巾着に変わっていることくらいでは、もう驚かない。
べっこう細工の手鏡を見つけて、自分の顔を見た。そして、腰が抜けそうなほど驚いた。
私はおばあさんになっていた。
*
一体、何がどうなっているのだろう?
浦島太郎は玉手箱を空けたらおじいさんになってしまったけれど、私は電車の中で転んだだけでおばあさんになってしまった。
「二十歳だったはずなのに」
呆然としながらつぶやくと、おじいさんになったコウちゃんが笑いながら言った。
「そうだなぁ。僕もよくそう思う。いつの間に、こんなに歳をとったんだろうって」
私はふと看護の授業で習った「子どもがえり」という言葉を思い出した。歳をとって、ある種の病が進み、記憶が失われていくと、小さな子どものようになってしまうことがあるらしい。私は子どものようにはなっていないけれど、自分を二十歳の学生だと思っている。こんな子どもがえりもあるのだろうか。
落ち着いて、状況を整理してみよう。
私はおばあさん、コウちゃんもおじいさんだ。一緒にいるということは、私たちは結婚して夫婦になったのだろうか。二人で電車に乗っている。私たちは、どこに向かっているのだろう?
*
電車が吉祥寺駅に到着した。
「さ、着いた」
とコウちゃんが言った。やっぱり、吉祥寺に向かっていたんだ。
「懐かしいなぁ」
駅のホームに降りると、コウちゃんが言った。
吉祥寺には先々週も来たはずだけれど、それはきっと私の記憶違いで、久しぶりなのだろう。
「そうですねぇ」
とコウちゃんに合わせる。なぜか自然と敬語になってしまった。
それにしても、歳をとるというのは大変なものだ。体のあちこちが痛くて、脚に上手く力が入らない。
二階にあるホームから地上階に下りるとき、いつも(と私が思っている二十歳の頃)なら階段を使うけれど、二人でエスカレーターに乗った。
「待ち合わせは午後一時に南口だったね」
とコウちゃん。
え?
と私はまた思った。
確かに、私たちは午後一時に吉祥寺駅の南口で待ち合わせていた。けれど、二人ともここにいる。私たちは誰と待ち合わせているのだろう?
南口に着いてしばらくすると、
「おじいちゃん、おばあちゃん」
と呼ぶ声がした。
そちらを見ると、若い男の子が手を振りながら近づいてくる。
それはコウちゃんだった。……いや、よく見ると違う。コウちゃんにそっくりだけれど、もっと若いし、特徴的な目尻のほくろがない。
おじいちゃん、おばあちゃん、と言っていた。ということは、この子は私たちの孫だろうか。
「ダイスケ、元気にしてたか」
とコウちゃんが言った。そうか、この子はダイスケ君というのか。
「うん。おじいちゃんとおばあちゃんも元気そうだね」
と言って、にっこり笑った。
なんて素敵な笑顔だろう。コウちゃんに、いや、若い頃のコウちゃんにそっくりなこの男の子が、私は一瞬で愛おしくなった。
「ダイちゃん、お腹空いてない?」
という言葉が自然に出た。
「大丈夫、食べてきたから。おばあちゃんは?」
お腹は空いていないけれど、そういえば、少しのどが乾いている。
「そうねぇ。冷たいものでも飲んでいきましょうか」
「いいねー」
とダイスケ君が相づちを打つ。
「じゃあ『レトロ』に行ってみようか」
と言ったのはコウちゃん。
そこは、二十歳だった私たちのお気に入りのカフェだった。生活費に余裕があるときにしか行けなかったけれど。あのお店は、まだあるのだろうか。
ちょうど来ていたタクシーをコウちゃんが呼び止めた。
南口からレトロまでは歩いて一〇分もかからない。タクシーを使うなんてもったいない、と思ったけれど、それは二十歳の私の感覚だ。きっと、私のためにタクシーを使おうとしてくれている。大人しくコウちゃんに従おう。
ダイスケ君が、車に乗り込むのを手伝ってくれた。
*
「おお、あったあった」
公園通りでタクシーを降り、路地を少し歩いたところにレトロはあった。
まだそこにある、ということが、こんなに嬉しいのはなぜだろう。
付き合って最初の誕生日、コウちゃんはこのお店で、アリスと三月ウサギが箱の上に載っているオルゴールを私にプレゼントしてくれたっけ。
ドアを開けて中に入ると、たくさんの壁掛け時計がディスプレイされている店内は、私の知っているレトロとそれほど変わらなかった。
「おじいちゃんはね、ここで、おばあちゃんにプロポーズしたんだよ」
アイスコーヒーを飲みながら、コウちゃんが言った。
「へぇ、おじいちゃんやるなぁ」
プロポーズ?
そうか、コウちゃんはこのお店で私にプロポーズしてくれたのか。二人の記念日や思い出の場所を大切にするコウちゃんらしい、と思った。
「おばあちゃんは嬉しかった?」
とダイスケ君が聞いた。
「そうね。よく覚えていないけれど……」
私は、その場面を想像しながら言った。
「きっと、天にも昇るほど嬉しかったでしょうね」
*
それから、井の頭公園に行った。
木々の葉がまぶしいほど鮮やかな新緑の季節。光を反射させてきらめく池の畔を三人でゆっくりと歩いた。池には、幸せそうなカップルたちを乗せたボートがいくつも浮かんでいる。
「東京の生活にはもう慣れたか?」
とコウちゃんが聞く。
「そりゃあ慣れたよ。もう一年以上経ったからね」
ということは、ダイスケ君は今、十九歳か二十歳くらいだろうか。もっと子どものようにも見えるけれど、歳を取ると、若者がそういうふうに見えるのかも知れない。
ダイスケ君が時々、私の巾着を持っている腕の肘のあたりに触れてくる。甘えているのではなく、私が転ばないように気をつけてくれているのだと分かった。
なんて幸せな午後だろう。
二十歳の頃も、コウちゃんといるときはいつも幸せだったけれど、これほどではなかった気がする。
あの頃は、いつも時間に追われていた。今は、将来という重い荷物がなくなって、時間とともに、ゆっくり歩いている感じだ。
「僕、買い物をしなきゃいけないのを忘れてた」
少し芝居がかった言い方で、ダイスケ君が言った。
「ちょっと行ってくる。その間、二人で散歩していてよ。思い出の場所なんでしょ?」
そう言うと、ダイスケ君は早足で公園出口の方に向かった。
「あいつもいっちょ前に気を遣うようになったなぁ」
とコウちゃん。
「本当ですねぇ」
と私も調子を合わせる。幼い子どもだったダイスケ君が、大人の気遣いもできるようになって……と、本当にそんな気がしてくる。
*
それから二人で池の畔を歩いた。
木の根が地面に出ていて歩きにくいところに来ると、コウちゃんが私の体を支えてくれる。
五月のやわらかい木漏れ日が、私たちの行く道を照らしている。
「ほら、あそこを見てごらん」
と言ってコウちゃんがブナの梢を指さした。
何か小さなものが動いている。
「まぁ」
と私は感激した。それはリスだった。
「まだいるんだなぁ。昔、井の頭公園でデートしたときにもリスを見たのを覚えてるかい?」
「ええ、覚えていますとも」
そのときも、コウちゃんが見つけて教えてくれ、私が「まぁ」と感激したのだった。
二十歳くらいの孫がいるということは、私たちは少なくとも七〇歳近くだろう。ということは、あれから五〇年近く経っている。その間に受け継がれてきた命がある。
「あのときのリスの子どもの子どもの子どもくらいですかねぇ」
「いやぁ、もっとだよ。少なくとも一〇代は経ているんじゃないかな。リスの平均寿命は五年くらいだから」
コウちゃんは若い頃と同じように冷静な分析をした。
理知的なのに、心は温かい。コウちゃんのそういうところが、私は好きなのだった。
そういえば、と思った。
私たちの子はどんな人だろう? 息子だろうか、娘だろうか。
どっちでもかまわない。コウちゃんの子で、ダイスケ君の親なのだ。きっと心優しい人だと思う。その人がパートナーに選んだ人も。
会ってみたい、と私は思った。
コウちゃんと私と子ども夫婦とダイスケ君。暖かい晴れの日に、公園でレジャーシートを敷いて、みんなでお弁当を食べたら最高だろうな。
*
「少し休もうか」
とコウちゃんが言って、近くのベンチに二人で腰掛けた。私が座る前にベンチの落ち葉を払ってくれるのも昔のままだ。私は、ハンカチでコウちゃんの額の汗を拭く。
ふと思い出したことがある。
付き合って一年くらい経った頃、二人でベンチに座っているとき、コウちゃんが私にこう言ったのだ。
「ハルカがおばあちゃんになっても、僕はずっと大切にするから」
私はそれをお世辞として受け取っていたけれど、コウちゃんは本当に約束を守って、七〇歳近くなっても私を大切にしてくれている。
嬉しくて、涙が出そうだ。
私は、コウちゃんの肩にもたれかかった。コウちゃんが、私の膝の上に置いている手をすっと握る。
目を閉じると、まぶたの裏に木漏れ日を感じる。
爽やかな初夏の風が木々の葉を揺らし、小鳥のさえずりが聞こえる。
ああ、幸せ。
私は、そのままウトウトと眠ってしまった。
*
どれくらい眠っていたのだろう。目が覚めたとき、私は電車のシートに座っていた。
居眠りしたときのいつものくせで、とっさに電光案内板を見た。「次は、中野駅」と表示されている。それから、腕時計を見た。針は十二時四十五分頃をさしている。時計の巻かれている腕は、二十歳の私の腕だった。
やっぱり、夢だったんだ……。
私はホッとするのと同時に、少しがっかりもした。私とコウちゃんの孫に会うのは、あと三〇年はおあずけ。
ふと気づくと、私の前に老夫婦が立っている。もちろん、コウちゃんにも私にも似ていない。
おばあさんが杖を持っていることに気づいて、私は席を譲ろうとした。
「どうぞ、お掛けになってください」
「いえいえ。どうも、ご親切に」
おばあさんは上品に微笑みながら手を振った。
「掛けさせてもらいなさい。腰の具合が良くないんだから」
と優しそうなおじいさんが言う。
「大丈夫ですよ。もうすぐ降りるんですから」
二人のやりとりを見ていて、私はまた幸せな気分になった。
いつか私も、こんなおばあちゃんになりたい。
電車が吉祥寺駅に到着すると、私は老夫婦にお辞儀をして、ホームに降りた。ダイスケ君はいないけれど、もうすぐコウちゃんに会える。そう思うと嬉しくて、自然と足取りが軽くなる。地上階への階段をはずむように下りていく。
南口に着くと、コウちゃんが先に来ていて、
「やぁ」
と手を挙げた。私も手を挙げて応える。
いつもと何も変わらない日曜日の午後。
そこでしばらく立ち話をしていると、さっきの老夫婦が、私に会釈をしながら通り過ぎた。
おばあさんの杖を持つ手とは反対の腕の肘あたりを、おじいさんが支えている。
「歳をとるって大変だなぁ」
とコウちゃんが言った。
さっき見た夢の温かさが、まだ私の胸にある。
「大変だけど、きっと、歳をとらないと味わえない幸せもあるんだよ」
「そうだね。きっとそうだ」
とコウちゃんが言って、私たちは手をつないで歩き始めた。
(おばあちゃんになりたい 終)
おばあちゃんになりたい 月嶌ひろり @hirori_ai
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