言葉

 それは、直感というより他なかった。

 今日は晴明様が修行からお戻りになるのだ。そう言って、いつものように出かけていく夫を見送った後、真砂は漠然とした不安にさいなまれていた。

 武久は陰陽院で泊まり込みの修行をすると言い、一昨日から帰っていない。

 嫌な予感がする。私の知らないところで、何か不吉なことが起きようとしている。

 正午過ぎ、真砂は家を飛び出し、黄金の塔へ向かって駆け出した。

 途中、黒雲が空を覆った。


 塔の下に辿り着いた真砂が目にしたのは、地獄絵図であった。

 二振りの短刀を握ったまま、仰向けに倒れている女。

 座り込み、太腿から血を流している老人。

 片腕を押さえて跪いている少年――道兼。

 いくつかの焼死体――義賊たちと、頼忠の言葉を信じて晴明に立ち向かった検非違使、陰陽師たちである。

 両膝をつき、虚ろな目で天を仰いでいる息子。

 地に伏して動かぬ夫。

「久しいな、女。息災であったか」

 狩衣姿の男――晴明が言った。その手は一人の貴族の首を掴んでいる。その貴族が叫んだ。

「来るな! この惨状は全て、この男の手によるもの」

「降りかかる火の粉を払ったに過ぎぬ」

 晴明が貴族の体を宙に持ち上げた。貴族の口から呻き声が漏れた。

「まだ殺しはせぬ。そなたには先ほどの言葉を訂正してもらわねばならぬからな。さぁ、言え。安倍晴明は都の英雄であると」

「奴は、魔王――」

 そこで言葉が途切れた。

「世迷言しか申せぬ声ならば不要」

 放り捨てられ、貴族は倒れた。

「女よ。あれから時が経ち、一度子を産んだにも関わらず、そなたの容色はまるで衰えておらぬな。その美しさは我が力と同じ、かけがえなき宝よ」

 晴明が近づいてくる。

「そなたの声は戻してやろう。今度は是非、声を聴きながら愛し合いたい。悦びに喘ぐ声を」

「逃げろ、女!」

 叫んだ老人の顔に、晴明の手から放たれた水球が直撃し、高い音を立てて炸裂した。老人の顔の、穴という穴から血が噴き出した。

「そなたの夫はもうこの世におらぬ。だが、案ずるな。私がいる。そこで呆けている少年の、真の父親である私がな」

 晴明はあと数歩の距離に迫っている。

 声が――出せる。口封じが解かれていた。叫び出しそうになる衝動を、抑え込んだ。

 戦っていたのだ、息子と夫は。私に悟られぬよう、慎重に。命をかけて。

 夫は真実を知っていたのだろう。晴明に異常と思える程の敬意を払っていたのは、恐らく、知らぬふりをする為。

 そして、共に戦っていたからには、息子も全てを知っているはず。

「そなたは今から、この英雄の妻だ」

 真砂の目の前で、晴明が立ち止まった。

 この男は裁かれねばならない。その為に、今、何を叫べばいい? どんな言葉が目的に適う?

 武久はまだ生きている。名を呼ぶ? それだけで心を取り戻せるか?

 私に、私自身に、力があれば――。

 戦いたい。何故私は戦えない?

「力を……」

 無意識に、呟いていた。

「――力を!」

 今度ははっきりと叫んだ。

 その声に、短刀の女が微かに反応した。


 宿せ、我が身よ。力を――絶望を退ける力を。宿せ。


 下腹に掌を当て、真砂は呼びかける。


 まだ見ぬ新しき命。母の声に応えよ。悪を討て。兄を救え。


 女が、倒れたまま、二振りの短刀を互いに打ち付けた。刀身は粉々に砕け散り、金色の粒が、宙に舞った。

 道兼が、その粒に向かい、手をかざした。あたりを霧が覆った。

 武久が、霧の中で、木刀を高々と突き上げた。霧は花びらとなって、空へ舞い上がった。

 老人が、赤い絵具のついた絵筆を、花の嵐の中へ放り投げた。花びらは燃え上がり、大地に降り注いだ。

 火は、土を生じる。

 真砂の胎内から力がほとばしり、晴明と真砂の間の地面に亀裂が走った。

 轟音と共に地面が引き裂かれた。その裂け目が、晴明を飲み込んだ。

 しかし、直後、鳶に変化した晴明は、亀裂から生還し、真砂の頭上を悠々と飛びながら、勝ち誇ったように言った。

「愚か者どもめ。私が変化の術を使えることを忘れたか。せっかくの円も無意味であったな」

 ところが、晴明の体は再び大地の裂け目に吸い寄せられていく。

 落ちていく。真っ逆さまに。

 飲み込まれる間際で、晴明は人の姿に戻り、崖を掴んだ。

「これは、まさか――重力」

 晴明の掴んでいた崖が、崩れた。

 魔王を飲み込んだ裂け目が閉じると、黒雲は去り、青空が広がった。


「武久」

 呼びかけた時、武久は武弘の胸に掌を当て、一心に念じていた。

 道兼が立ち上がり、傍に寄った。

 武久が言った。

「すまぬ、道兼。しばし待て」

「我は後で構わぬ。使え」

 武久の掌が、清らかな水泡に包まれた。

「恩に着る」

 水泡は、輝く気流に変わり、武弘の胸に沈んでいった。

 少しの後、武弘の目が、開いた。

「武久」

 もう一度呼んだ。

 武久は目に涙を浮かべ、真砂を見た。

「母上」

 真砂は、引き寄せられるように駆け寄り、愛する息子と夫を抱き締めた。


 (了)

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

魔王安倍晴明 森山智仁 @moriyama-tomohito

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ