❆❆❆ 僕、そして彼女①

 僕の話を……する必要はないだろう。


 別に秘密めかして出し渋っているわけでも、語りつくすのに悠久の刻を有するほど壮絶な過去を背負っているわけでもない。


 ただどこにでもある普通の人生。


 穏やかな夕凪や一面の銀世界を連想させるには少しばかり起伏なり彩りなり温度なりがある、どこまでも尋常な人生。


 いまさら特筆して語れるようなものなど何一つ持ち合わせてはいない。

 それが僕の歩んできた道だった。

 

 それに、これはあくまでも彼女と彼、そして彼らと彼女たちの物語。


 僕なんて所詮、スポットライトを浴びて煌めく主役たちの周りを時に踊り、時に囃して盛り上げる単なる小人Aにしか過ぎす、そこでそんな端役のドラマをいちいち語っていたら舞台としての収拾が瓦解してしまう。


 いや、そもそも配役なんて大層なものを賜ってすらいないのかもしれない。


 二人の甘い恋愛譚を外野から見つめ、観測し、説明の足りないところを所々補完しながら人々に分かりやすく伝える、顔も名前も無い語り部。


 それが何一つとして成し遂げることも……成し遂げようとさえしなかった僕に相応しい立ち位置なのだから。

 

             ☆★☆★☆


 もっか夏休み中の静謐なる朝。


 優雅にティファニーで朝食をとは言わずとも、受験勉強も部活動もなく、まだ正午前にも関わらず夏の暑さにすっかり絆されて弛緩してしまった時間を、僕は読書にどっぷりと耽ることで貪っていた。


 その時読んでいたのは、終戦の間際、とある架空の寒村丸々一つを舞台にした連続猟奇殺人事件を描いたサークルドミステリーだ。


 書かれた時代も若干古く、トリックにしろレトリックにしろ、今では使い古された感のあるものばかりで新鮮味はまるでない。


 それはミステリー作品としては結構致命的な気もするけれど、それでも事件が事件を呼ぶたびに記される犠牲者や加害者、そして主役も端役も一切問わず登場人物一人一人の性格なり背景なり心の機微なりを必要以上に深く掘り下げた文章は、実に読み応えがあった。


 見ようによっては蛇足とも思えるかもしれない。


 一般的に、半端な情報、過分な心理描写などはことミステリーという分野においては読者の混乱を誘うだけであまり歓迎はされないものだ。


 しかし、どの人物の目線からも感情移入がしやすく、誰もが犯人になりえるような要素を含みつつもそれでいてまるきり関係がないようにも見え、でもやっぱり犯人はこの中に確実にいるのだろうとこちらに考えさせる筆力は本当に秀逸だ。


 作者の他の作品と比べても一つ突き抜けるその徹底した人物至上主義的な筆具合に、この作品はミステリーというより、単に物語の軸を殺人事件にすえただけで、作者は混じり気のない純文学のつもりで書いたのではないかとさえ思えてくる。


 おかげで普段はあまりこの手のジャンルに馴染みのない僕でも抵抗なく、大いに有意義な時間を過ごすことができた。


 格別僕は、読書家を名乗れるほど書物に傾倒しているわけではなかった。


 あくまで暇つぶしというか手慰みというか、その種の有り余ってしまった時間に何かしらの意義を持たせるための数ある手段の一つにしか過ぎない。


 それでもまぁ、とりあえず自己紹介をする機会があった際に『趣味は読書です』と言えるくらいには本を読む習慣が身についていただろうか。

 

 改めて自分の本棚に並ぶ背表紙を眺めると、傾向として、海外の古典小説の比重が大きいように見えた。

 

 別に日本文学や最新のベストセラ―を軽視しているわけじゃない。


 各メディアに取り上げられた話題の作品だって棚には並んでいるし、いくつかライトノベルの人気シリーズを追いかけていたりもする。


 現にこうして手に取っている本はある程度年を召してはいても未だ新作を世に送り出している現役の日本人作家のものだ。


 けれど、やっぱり海外文学。

 それも大抵の人がタイトルくらいは何となく耳にしたことがあるような、古くて有名なものが一番落ち着き、目を通す機会も多かった。

 

 誰かにどうしてか?と問われると、正直、どうしてだ?とそのまま質問をまた違う誰かにスルーパスしてしまいたくなる。


 小学生の時にちょっと背伸びして学校の図書室で借りてみた『ライ麦畑でつかまえて』が案外すんなりと読めてしまったこと。


 亡くなった親類縁者の形見として何冊か歯抜けな不完全なものとはいえ豪奢な装丁の海外文学全集を受け継いだこと。


 要因らしい要因は幾つかあれども、明確な理由らしい理由には到底なり得ない。


 まぁ結局、単純に面白いからというところに尽きてしまうのかもしれない。


 ある作家が自身の作中で古典文学について『時の洗礼を受けた』とうまい表現をしていた。


 それこそ百年単位で数えられるほど昔に書かれた物語が、その時間の中で幾度も繰り返された淘汰や精査、戦火や災害を経てもなお今時代にまで脈々と残されてきたということを鑑みれば、好みや程度の差こそあれ、それが面白くないわけがないじゃないかというのが僕の読書論だった。


 だから僕は古典を好んで読んだ。


 『嵐が丘』の嵐そのものというよりそれが過ぎ去った後の荒涼とした大地を思わせる痛々しいまでの妄執が。


 『車輪の下』の行間にまで滲み出る美しすぎる神性が。


 『風と共に去りぬ』の一周回って純真無垢とさえ言える主人公のブレることなき強さが……。


 普段は触れる機会のついぞない自分の心の色々な部分を刺激し、満たしてくれる。


 たとえ本物の読書家を名乗る人たちからミーハーだと謗られても。

 読書にまるで縁の無い人たちから気取りやがってと詰られても。

 

 僕は『洗礼済み』の判が押されたミーハーで気取った作品をこれからも変わらず読み続けていくんだろうと思った。



 「優雅に読書か。……気取ってんじゃねぇ」


 読書にまるで縁が無いガサツで粗雑な台詞に合わせて調律したようなダミ声が、僕の静かな読書空間を汚らしく揺らし、そして粉々に粉砕してしまった。


 「つーか起きてたか、バカ息子」

 

 「この通り、バカ息子は起きてるよ」

 

 「おお、夏休みだってのに関心なことだ」


 「せっかく気持ちよく寝ていたところに、どっかのダメ親父が夜中に飲んだくれて帰った音でたたき起こされ、甲斐甲斐しく介抱した後すっかり目が冴えてしまったというのにも関わらずキチンといつもの時間に起きて朝ごはんの支度やら洗濯やら掃除やらを熟す御宅のバカ息子さんには確かに関心するよね」


 「うう……頭いてぇ。二つの意味で」


 「胃にも頭にも優しい朝飯の横にそっと薬を置き、『お酒を飲むなとは言いませんが、あまり過ぎた飲み方をしては体に毒です。もう自分一人の体ではないのですよ』と一筆添えていた父親思いの息子についてどう思う?」

 

 「……正直、気持ち悪いよなぁ、嫁さんか娘ならともかく。……お前普段からあんな丸文字だったっけ?」

 

 「気持ち悪いのは二日酔いのせいだろ」

 

 「あの薬、一つも効きやしねぇぞ」

 

 「そりゃ、ただのフリスクだからね」


 「……お父さんの口臭、二日酔いよりも優先して解消しなけりゃならないほど深刻か?」

 

 「最優先っていうならもっと……いや、こういうのは自分では気づかないって言うし、言葉にして無闇に傷つけるのも……でも唯一の家族なんだから、僕は甘んじてその恨まれ役を買うべきなんだろうか」

 

 「……ああ、頭がいてぇ。色んな意味で」

 

 本当にかなり重たい二日酔いを患っているのだろう。


 自分のこめかみを大きな拳でグリグリと擦り潰すみたいにして押している、この働き盛りのグリズリーのように巨大な体躯をした髭面が僕の父親である。


 実父である。


 遺伝子学的にも戸籍的にも紛れもなく僕の第一親等である。


 どちらかと言えば小柄で細身、さきほどまでのように静かに部屋の中で本を読んでいる方が好きな身も心も文化部系である僕。


 それにこの熊男の遺伝子が少なくとも半分は含まれているという事実に、初見の人の大多数は驚きの声を上げ、残りの少数にしたって怪訝な顔をする。


 たぶん、当事者でなければ僕だって心底驚いていたんだろうし訝りの色を隠しもしなかったんだろうと思う。


 小さい頃は、お前は橋の下から拾われてきた子供なのだと大人たちに冗談を言われて悩んだこともあった。


 だけどその度、僕以上に傷ついたような悲しい目をして怒鳴り散らす父がいてくれたおかげで大して煩悶も抱かず、そのうち『実は冬眠中の熊穴の前に捨てられていたらしいです』と軽く受け流せるくらいの余裕も身についた。


 その横でやっぱりどこかシュンとして落ち込む父には少し悪いような気もしたけれど、こうやって世渡りの術を僕は幼いながらに身に着けていったわけだ。


 「それでどうしたの?」

 

 僕は眼鏡の位置を指先で直しながら言った。


 「ああ、そうだった、そうだった」

 

 口元を掌で覆い、ハーハーと息を吹きかけて執拗に口臭のセルフチェックを行っていた父ではあるけれど、首を傾げているところを見ると、この男、口はおろか体のあちこちから匂い立つ自身の生温いアルコール臭について、全く自覚がないらしい。

 

 「ちょっと出掛けなくちゃならなくてよ。下に降りて店番してくれや」

 

 「……形成外科?」

 

 「せめて歯医者にしておけや。何故に口臭なんぞで顔の作りそのものを変えなくちゃならん。つーかそれはどうでもいい。昨夜の延長戦に出張らにゃいかんのよ」

 

 「町内会の寄り合いだっけ?あんな夜中まで話し合ってまだ決まらないなんて、どんな壮大なプロジェクトがこの界隈で持ち上がってるわけ?」

 

 「いやな、後半……というか前半折り返し間際くらいから自治会長の奴が嫁さんについてグチグチ言い始めやがったのがはじまりで、その後、集まった男連中の愚痴大会みたいになっちまってよ。結局、夏祭り運営の最後の詰めを話し合う会議が、『熟年離婚絶対阻止対策会議』になってそのままお開きになった」

 

 「何やってんだよ大人たち」

 

 「まーそう言ってくれるな。あの頭が固くて融通の利かない、子供の頃から変わらずまだ俺らのリーダー気取りで偉そうにしているアイツが、生まれて初めて泣きついてきたんだ。人一倍プライドの高い良い歳したオヤジが、嫁さんから突き付けられた三行半について自分がどうすべきかわからないと恥も外面もなく涙ながらに訴える絵面を想像してみ?無碍にもできねーだろ」

 

 「……確かにあの人のそんな姿、なかなかにクルものがあるね」

 

 「だろ?そーゆーわけで息子よ、店の方よろしく。桃華とうかちゃんももうすぐ来るし、俺も昼過ぎには一旦帰って来れると思うからよ」

 

 「……わかった」


 僕はちょうど切りの良いところまで読んだ本に栞を挟み、一つ体を伸ばしてそう返事をした。


 村長の屋敷で下女として働く、若くて素朴な美しさを持つ『キミエ』に向ける村長夫人『鶴美』の理不尽かつ執拗な嫉妬模様がとても気になるところではあったけれど、『あの熊野郎とは似ても似つかんくらいお前はイイ子だな』と小さい頃から割と目を掛けてもらっていた自治会長さんの憂いを取り除くためだとあれば致し方なかった。

 

 「でも何でこの時間?他の人達だって自分の仕事や店があるでしょうに」

 

 「あー会長の奴、しばらく家に帰る気がない……というか帰れないんだそうだ、勢いで飛び出してきたものの。とりあえず昨日は魚屋んとこに泊まったみてーだけど、下手にまた夜まで時間が開くと、その間に何をしでかすかわからんから早めにカタを付けてやらんとな。……それにまぁ、殆どの奴が二日酔いで仕事どころじゃないらしい。……いやーこーゆー時、自営業や普段真面目に社畜やってるやつは急なサボりにも自由が利いていいな、ハッハッハ」

 

 「……ホント何やってんだよ、大人たち」



 戦地に赴く軍人もかくやというくらいの大義と並々ならない闘志を胸に抱いた父の背中を見送った後、僕は学校指定のワイシャツの上にエプロンを着けてから自宅の一階部分である喫茶店に降り、開店準備に取り掛かった。


 といっても主要な部分は前日に済ませていたし、他も父が出掛ける前に終わらせてしまっていたので、やることなんてちょっとした雑務くらいなものだ。


 五席のテーブルと七席のカウンターの上を水拭きし。

 フロア全面にモップを掛け。

 花瓶に活けられた花の切り口を新しいものにしてから水を換え。

 オーディオシステムの電源を入れて控えめな音量のBGMを流し。

 父の残した『本日のおすすめ』のメモを元に冷蔵庫やコーヒー豆、紅茶の茶葉なんかをチェックした後に店内用・店外用の二枚のブラックボードを更新すればそれで準備は完了だ。

 

 父が早めに出ていったおかげで、なんとなく降りてきてしまって働いたけれど、時計を見やれば開店までまだ一時間以上も余裕があった。


 やれやれ、こんな事なら小説を持ってくればよかったなと思った。


 しかし、もう一度二階に上がるのも億劫だったし、一時間くらいでは多分中途半端な、それも展開から言って結構なクライマックス部分で栞を挟むことになりそうだったので、僕は大人しく店の中にいることにした。

 

 味を確かめる目的もあって自分用にコーヒーを淹れる。


 カリカリ、カリカリ、とミルを回すたびに挽き潰される豆からコーヒーの芳しさが立ち込める。


 その香りは適温のお湯をかけて膨張させることでフィルター内で一層花開き、店内を瞬く間に満たしていく。


 そういえばこの他に代替の利かないコーヒーの香りこそ喫茶店という空間を構築する最重要の要素なのだといつか父が訳知り顔で言っていたような気がする。


 風体に似合わず随分と洒落たことをと思うけれど、実際、それ以上に似合わぬとても奥深い味のコーヒーを淹れることが出来るのだから困ったものだ。


 どうしてあの親指一本で赤ん坊の拳くらいあるのではないかというくらいに骨太な指先が、ああまで繊細で美味しい一杯を作り出すことができるのか、僕ら親子間の血の繋がりよりもよっぽど不思議でならない。


 きっかけは何だったのか、とにかく幼い時から父を真似てコーヒーを淹れてきた僕もこうして店番を任せられるくらいにまでは技術的に上達したという自負がある。


 それ故にと言うべきなのだろう。


 あと一歩、それもどうやったって今の僕では越えることのできない程開いた大きな一歩の差があるのは自覚していた。


 何が足りないのか、はたまた何が余分なのか、父に聞いてみれば何かしらヒントを得られるかもしれな。

 

 けれど、男所帯の家事全般、更には店に出す軽食や甘味類の担当を僕にブン投げている手前、普段は大きな顔をできない父がここぞとばかりに調子づく様子が簡単に想像できて無性に腹が立ってしまうので、未だ聞けず仕舞いという現状だった。


 ドリップが終わるまでのわずかな時間、僕は何の気なしに閑散とした店内を見渡してみた。


 両隣と裏側の三方を他の店舗や住宅に囲まれて、お世辞にも日当たりが良好とは言えない。


 通りに面した西向きの窓はそれなり大きく、夕刻には結構な強い西日が差し込んではくるけれど、それも一日のほんの束の間、少しの恩恵を与えただけで日差しはすぐ遠くへと過ぎ去ってしまう。


 それでも木目がくっきりと際立つ、天然色を活かすような塗装の施された壁や床板のおかげで店内の雰囲気はとても明るい。


 淡く光線の弱い照明は一見すると頼りなく感じるものの、微妙な角度や計算された配置によって不便なところはまるでなく、グラスやカップ、各種調理器具やコーヒー豆を保存している瓶などに反射するその優しい橙色の輝きは、店内に押しつけがましくない、ほっこりとした温かみを与えてくれていた。


 都会的で洗練されたシックな今風のカフェとも。

 雑多なところが味のある昔風の純喫茶ともまた違う。


 長く険しい人生の中のほんの一つまみ。

 美味しいコーヒーと耳障りの良いイージークラシック、そして集まる人々の笑顔でもって穏やかな優しい時間を少しでも提供できればいいなというのがうちの喫茶店のコンセプトらしかった。


 生まれた時からここが生活空間の一部となっている僕にとっては当たり前のことなのかもしれないけれど、確かにこの場所に座る度、我が家なり遠けき故郷なりに帰ってきたような、何とも言ない安心感を覚えるのは決して身内の贔屓目ばかりではないだろう。


 そんな空間をあんな粗暴で不器用な父が一人で作れるはずもないし、もちろんこんなあらゆる面で未成熟な僕にだって無理だ。


 店の外観や内装、メニューなど僕らがそれらを維持し、なぞることで店が円滑に回ることができるような基盤なり指針なりを築いてくれた最大の功労者が他にいた。


 ……母だ。


 正真正銘、血を分けた僕の実母であり、父の初恋と終恋(とうそぶいていた)の相手であり、僕が五歳になったその次の日に死んでしまった母親だ。

 

 母の記憶についてはひどく曖昧なものしか持っていなかった。


 何せ五年一緒にいたとはいえ、それは物心つく前の話であったし、臨終の床につくその前日まで当たり前のように暮らし、当たり前のように横にいてくれた人が唐突にいなくなってしまったのだ。


 事前の覚悟はもちろんのこと、そもそも幼い僕には実感を得られるほど死に対する理解力もなかった。

 

 特別な思い出作りや『今にして思えば』的な前触れもなく、何か記憶に深く刻み込まれるような印象深い言葉を残してくれたというわけでもなく、日常生活という緩やかな流れの中に巧妙に隠された落とし穴にはまって奈落へと真っ逆さまに落ちていくような、本当に突然の消失だった。


 毎朝、仏壇に置かれた写真で眺めているからどうにか顔は忘れずにいられるけれど、もしも、将来僕がこの家から離れることになってその習慣の輪からはずれてしまった時に、正直、覚えていられる自信がなかった。

 

 薄情だと責められても仕方がないと思う。


 実際、自分自身でさえ薄情なものだと常々思っている。


 それが特別なものでなくても何てことのない思い出はたくさんあったろうし、決して印象深くなくても多くの言葉が残っているはずだった。


 具体的な根拠も論理性もないけれど、愛されていた、愛していたという確信だけは持っていた。


 それは確かな日常の積み重ねがもたらした賜物に他ならないのだろう。


 普通の母子が普通に交し合う無償の愛。


 そう、確かに愛情はあった。


 それは成長した今でも僕の心の中の一部屋を変わらず占拠し、こちらからドアをノックしさえすればいつでも温かな気持ちを提供してくれる掛け替えのないものだ。

 

 けれど、僕は覚えていない。


 存在していたのはわかる。


 想像の産物などではなく、血の通った一個の命として隣にいてくれたのは断言できる。


 それでも存在感というものがひどく希薄なのだ。


 掛けられた言葉の優しさは覚えていても、その内容や声色までは覚えていない。

 

 一緒に歩き、引いてくれた手の柔らかさと滑らかさは思い出せても、それがどこかに向かっていたのか、はたまたどこかからの帰り道だったのか、右手だったのか左手だったのかが思い出せない。


 背は高かったのか低かったのか?

 性格は温和だったのか男勝りだったのか?

 家事は得意だったのか不得手だったのか?

 何が好きで何が嫌いだったのか?

 服や音楽の好みは?


 三十年にも満たない人生のうちで何を得て何を失い、そして幼い僕と図体ばかり大きな寂しがりな夫を置いたままどんな思いでその生涯を終えていったのか、僕には何もわからない。


 母について語れることは血の繋がりのない他人のように……いや、もしかしたらそんな赤の他人よりも少ないのかもしれない。


 二人の馴れ初めや母自身が語ったらしい半生を、酒に酔った父から何度も何度もしつこく聞いたものや、昔からの知り合い・縁者が語ってくれた数々のエピソードから母という人間に対するイメージは抱けている。


 背は低く、性格は聖母のように温和でいつでも微笑みを絶やさない、家事が得意な女性。

 生き物全般は好きだけれど羽の生えた虫類が苦手。

 暖色系の服を好み、クラシックの、それも管楽器の調べをとても愛していた母。


 それでも、所詮それは客観的な事実と考察から作り出され、与えられた人物像でしかない。


 いくら親子であっても他人同士だから主観も客観もないだなんて言い始めればまた話がややこしくなって論点がズレてしまうので敢えて掘り下げはしないけれど、僕が自身で生み出したもの、僕しか持てない、僕にしか持てない母の像というものが何一つとして無かった。


 ……それについて寂しさも感慨も何もかもが感じられない僕は、やっぱり薄情なんだろう。


 そして、薄情そのものよりも、その自分の薄情さについてあまり気にしていないことの方に何とも言えない寂寥感を覚えるだけ。


 ただ、それだけだ。



 そうこうするうちに淹れ終わったコーヒーを一口含み、とりあえず今日も及第点の仕上がりであること、やっぱり父のしたり顔がチラついてしまった不愉快さが味を濁らせていないことを確認してからカウンターの方に移って腰を落ち着けた。


 それからあれこれとコーヒーの淹れ方について考えを巡らし、何それと取り留めもないことを考えるでもなく考えながら、時折、機械的にカップを傾けては呆けたように過ごした。


 通りを行きかう人や動物や車が織りなす街の喧騒。

 夏の盛りの蝉しぐれ。

 店内に流れるピアノソナタなどが耳から耳へ、思考から思考へと抜け過ぎていく。


 孤独ではあるが一人ではない、そっと手を伸ばし、耳を澄ましさえすれば世界との繋がりを確かに感じられる、そんな心地のよい気怠さの中を僕は揺蕩っていた。


 そして、ここにきて昨晩の睡眠不足の弊害が出てきたらしい。


 軽い多幸感の揺さぶりが子守唄のように作用し、眠気がゆっくりと思考を侵食してきた。


 血中のカフェインまで微睡み、役割を放棄してしまっているのか、むしろコーヒーを一口飲むごとに眠気が回ってくるような気さえした。


 多分、殆ど意識は飛んでいたと思う。


 眠りと覚醒の境界線上を股の下にかけた曖昧模糊とした場所で夢のなりかけのようなボンヤリとした像を追いかけていた視界の端を何かが掠め、僕はハッと目を見開き、反射的にそちらの方に顔を向けた。


 あまりに反射的に反応し過ぎて、半分寝ている頭の状況処理能力が追い付かずにクラリと眩暈がした。


 よもや座りながら立ちくらみを経験することになるとは思ってもみなかったけれど、ただそんな頼りない視界と頭でも、なんとか空間に起こった変化には気がつくことができた。


 僕が座っているカウンター席の一番奥、その傍らに置いてある花瓶から花が一輪、散っていた。


 花弁の瑞々しさを考えれば鮮度の問題というよりは、先ほど活け直した時に知らずどこかにぶつけ茎に傷でも入ってしまったのか、今になってポトリと自らの自重に耐え切れなくなって落ちてしまったようだ。


 現実なんてそんなものだ。


 最初に猟銃が火を噴いたか鉈でも閃いたかと考えて一瞬でも冷やりとしたのは例の小説の影響が強く出てしまったせいだろう。


 事実は小説よりも奇なりという言葉はまったく真理だと思うけれど、実際、小説のように奇怪な事実が日常生活で起こりうることは稀であるから奇となり怪となるのだ。


 毎日に奇想天外が氾濫してしまったらそれはもはや単なる日常でしかない。


 寝惚けていたとはいえ自分の大げさかつ浅い思慮が少しだけ恥ずかしく、誰かに言い訳するかのような思わず苦笑いがこぼれた。

 

 落ちた花は、確か『トルコキキョウ』とかいう名前だったはずだ。


 一週間に一度の契約で通い、文字通り店内に花を添えてくれる近所の花屋のお姉さんがそう教えてくれた。


 その花は安価で色のバリエーションも豊富、ボリュームもあるのでアレンジメントを作る上でとても汎用性が高い物なのだそうだ。


 今回の花瓶挿しのテーマはどうやら思い切り『夏』だったらしく、ヒマワリを中心に全体的に黄色やオレンジ系が多かったわけだけれど、それらを映えさせるためふんだんに使われたのが、この淡い緑色をしたトルコキキョウだった。

 

 僕はその落ちた花をつまみ上げて掌で転がしてみた。


 花弁がびっしりと詰り、まだ開き切ってはいないためにどこかボッテリとした重さをたたえる花から、新鮮な命の重さを感じられないこともない。


 このまま放っておけば、それほど時間がかからないうちに腐乱に囚われ、艶と彩は損なわれ、最後には哀れに朽ち果ててしまう本来の寿命とは違う運命線に乗ってしまった花房。


 人の目を楽しませ、心を豊かにした過去も、成熟してより一層その美しさを際立たせたであろう未来も奪われてしまった、小さな小さな命の塊。


 紛れもなく僕の過失が招いた事態ではあるのだろう。それについてはもちろん申し訳なく思うし、素直に心の中で謝った。


 しかし、だからといって慙愧の念というか、良心の呵責を覚えるほどナイーブでも良心的な人間でもない。

 

 ただ少し。

 本当に少しだけ。

 

 このタイミングで、よりにもよって母のことを珍しく考えてしまった日に、色々と入り組んだ問題を抱えて実は結構参っていたこの夏の日に、まるで一つの答えを示唆するように、あるいは更なる混沌へと誘い導くように象徴的に茎から零れ落ちたと考えてしまうのは、やっぱり小説の読み過ぎで感傷的になり過ぎていたのかもしれない。


 

     カラン、コロン


 

 「おはようござ……え?先輩?」

 

 しばらくボンヤリとした後、花の落ちてしまったところの茎を切り、アレンジ全体のバランスをあれやこ

れやと素人だてらに整えていると、店舗の入り口に取り付けたカウベルが鳴った。


 そして途切れてしまった朝の挨拶も置き去ったまま、驚きを隠せないといった具合で目を大きく見開いた一人の少女が間を置かずに入ってきた。

 

 「おはよう、桃華ちゃん。早いんだね」

 

 「い、いえ、別にいつもこれくらいで……」

 

 「本当に?うちの親父、ちゃんとその分のお給料払ってる?もしも渋っているようなら僕の方から言っておくけど」

 

 「いえいえ!マスターにはホント良くしてもらっていますから大丈夫です、はい!あの、いつも、私が勝手に早く来てるだけで、マスターも別にいいからと仰ってくれるんですけど、でも、あの、私、ただでさえ仕事遅いし、少しでもカバーできればいいなと思って、だから、あの、ホント、私が、その、悪くてですね、えっと、その、えっと、えっと!」

 

 「わ、わかった。うん、わかったよ桃華ちゃん。マスターは悪くないし、桃華ちゃんも悪くない。誰も悪い奴はいない。悪は滅びた」


 「は、はい」


 「世界は今日も平和、愛と勇気と笑顔で溢れている。それでオーケー?」


 「ア、 アイム・オーケーです……」

 

 ビシリと女の子は親指を立てて自分が正気であることを僕にアピールした。


 軽口を真に受けて顔を真っ赤にさせたままジリジリと詰め寄ってきた、意外とノリのいいこの少女の名前は百園桃華ももぞのとうか


 むさ苦しい大男とインテリ眼鏡の小男の家族が営む我が店の紅一点アルバイターであり、僕の通う高校の一学年下の後輩だ。


 これまでの数会話で何となく察せられるとは思うけれど、まるで漫画にでも出てくるご令嬢のように何とも雅で華やかな名前とは裏腹に、実に生真面目で、小市民の標本サンプルのように謙虚かつ控えめな性格の女の子だった。


 せっかく苗字に『もも』が付いているのに『百』じゃ可愛くなかろうと敢えて『桃』。


 更にはどうせなら華やかさもプラスしたらいいんじゃないかと『華』の字を入れたという名付け親である彼女の祖父の豪胆ぶりを少しでも受け継いでくれていればいいのだけれど、とりあえず僕は今のところ、その片鱗を覗いみたことはなかった。


 「……取り乱してすいません」


 何度かスーハ―と深呼吸をする何とも分かりやすい手段を用いて桃華ちゃんは落ち着きを取り戻した。


 「改めておはようございます、先輩」


 「改めておはよう、桃華ちゃん」


 「あの、マスターは?」


 「大人の寄り合いに出陣中」


 「お、お、お、大人のですか?」


 何を想像したのか、桃華ちゃんはせっかく立ち直った精神をまた著しく乱しそうな気配をみせたので、僕は早々に軽口を引っ込めることにした。


 「いや、ダメ大人の寄り合いかな?」


 「あ、そういう意味ですか」


 「桃華ちゃんのお父さんは呼ばれなかったの?」


 「はい、昨夜は遅くに帰ってきたらしいんですけど、今朝も普段通りに出勤しましたよ」


 「まーさすがに病院のお医者さんともなると昼間から下らない用事で休めないか」


 「朝食も摂らず、真っ青な顔で出て行きはしましたけど……え?こんな時間からまたお酒を飲みに行ったんですか、マスター?」


 「どうだろう?展開によっては無きにしも非ずだけど、とりあえず真面目な話し合いみたいだよ。色んな意味で」


 「は、はぁー」

 

 「とにかく、しばらくは僕と桃華ちゃんが店番。とりあえず着替えてきなよ。大体は済ませちゃったから時間は余ってるけど」

 

 「え、すいません。私の仕事なのに……」

 

 「いいっていいって。そもそもは僕がやってた仕事なんだから」

 

 いつまでも申し訳なさそうにかしこまる彼女を、簡易更衣室も兼ねる倉庫へと押し込むように追いやり、僕はもう一度コーヒーを淹れる準備をするためにキッチンへと移った。


 僕と同じようないで立ちをした桃華ちゃんが戻ってくる頃合いには丁度コーヒーも入り、僕は彼女に先ほどまで僕が座っていたカウンター席へと座るよう促してから、その前にコーヒーとチーズケーキを並べた。


 彼女はそのコーヒーとケーキ、そして僕の顔を順番に眺めた。


 コーヒーにはクリームポットと角砂糖、チーズケーキにはミントとラズベリーソース、そして僕の顔には小さな微笑みが添えてあったけれど、残念ながら彼女が求めるような答えまでは無かったようで、僕を見つめたまま首を傾げて困ったような顔をした。

 

 「僕もこうして時間を潰してたところ」

 

 「え、でも……」

 

 「いいから。それに何もサービスで出してるわけじゃない。コーヒーの具合を見て欲しいのと、新作のケーキの味見をしてもらえれば助かるんだ。僕としては悪くないできだと思うんだけれど、やっぱり他の人の意見も聞きたいからね。どちらもお客様に不味いものを出すわけにはいかないでしょ?もちろん親父がいれば親父に頼んでいた、れっきとしたお仕事の一部だよ。だから気にしなくてもいい」

 

 彼女の性格上、黙って出しても恐縮するばかりで手をつけないのはわかっていたので、僕はあえて『仕事』だというところを強調して言った。


 建前を作ることで逃げ道ができたし、逆に食べないという方の逃げ道を塞ぐことができた。


 彼女は芳しい湯気の立つコーヒーのカップとケーキの乗った皿の間でまた何度か視線を往復させた後、ふう、と諦めたような溜息を吐いた。


 どうせ一を言い返してみても、二や三以上の言葉を並べたてて看破してくる僕との付き合い方もいい加減わかってきたようだ。

 

 「……わかりました。それでは遠慮なく頂きます」

 

 「うん、頂いちゃって」

 

 「……先輩はズルいです……」

 

 「人聞きが悪い」

 

 「そういうのは……本当になんだか……ズルいです」

 

 「ズルい男は嫌い?」

 

 「し、知りません!」

 

 またしても顔を真っ赤にしながら、チマチマとケーキをフォークで頬張る桃華ちゃんは、なんというか素直に可愛かった。


 家業がこういった生業なためにペットを飼ったことはないけれど、彼女を見ていると、きっと愛玩動物を愛でる時、飼い主はこういう気持ちになるんだろうなと、思わず口角が緩んでしまう。


 実に癒される。

 

     

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恋白夜 @YAMAYO

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