❆❆・彼

 彼の話をしよう。

 

 彼、小平銀次こだいらぎんじの人生について僕はあまり多くを語れない。


 何せ高校二年生の五月初旬、彼が時季外れの転校生として僕のクラスにやってくるまで。

 

 そして転校してきたのはいいもののそれから殆ど登校することのないまま七月に差し掛かるまで。

 

 僕と彼との人生は、一端の更に片端すら掠ることはなかったのだから。

 

 ただ、色々な偶然のような必然と、必然のような偶然。


 そして当然といえば当然の理由。

 

 そんな様々な経緯と脈絡から彼と親しくなり、それでも自分のことをあまり話したがらない彼がポツリポツリと零してきた話の断片を、少しばかりの想像と世間に公にされている客観的事実で糊付けして辻褄をつなぎ合わせてみた限り、小平銀次の人生はあまり幸福とは言い難いものだったということだけは何となくわかった。


 この街で『小平』という冠を抱くものは、時代が時代ならば条件反射でまさに平身低頭。

 

 予期せぬ災害のごとく遭遇してしまった大名行列を前に路肩へひれ伏す農民のように、恭しく道を譲ってしまいかねないほどの名士だった。


 明治の初期に開墾団が蝦夷地の方々に派遣されたところから、この街の『小平』が始まる。


 時代は日本の変革期。


 政治形態が変わり。

 思想が変わり。

 年号が変わり。

 北の果て『蝦夷地』の呼称までも『北海道』へと変わった。


 まだまだ手付かずの資源確保、勢力の南下を目論むロシアに対抗する積極的な国防など、当時の政府の思惑はままあれど、開拓有志を募るチラシに煽られて集落単位で殺到する人々にとっては、一重に一攫千金をねらう千載一遇の好機。

 

 停滞感漂う自分達の部落の閉塞的な空気に風穴を開ける一大ギャンブルであった。


 僕らが現在住まう地域の担当になった一団もその例外ではない。

 内地の寒村の将来性に見切りをつけた若い世代の多くが大志と無謀とを抱いて未開の大地へと踏み経った。


 もちろん、開発は一筋縄ではいかない。


 寒さにある程度耐性のあった彼らの想像力と順応力を易々と凌駕するほどの極寒。

 肥沃ではあるけれど固く凍り付いた手強い土。

 突発的な天災。

 過酷な環境に耐えきれずに発狂した者によって引き起こされる人災。

 

 あまたの前途ある若者が夢も半ばに落伍した。


 ようやく人の住まえる環境として体裁が整うまで、幾つもの困難が幾重にも折り重なって彼らの前に立ち塞がった。


 そんな中、開墾の創成期から集落内で代々要職を歴任し続け、明確にリーダー格として仲間を先導し続けてきたのが『小平』の一族だった。


 政府や現地住民、同じ開拓団である他方のグループとの交渉事や何度めかもわからない苦境にさらされた同士たちへの的確なフォローなどなど、影にも日向にもその功績は数知れない。


 もしも開墾が成功した歴史を振り返る機会があったなら、『小平』の存在抜きには決して語ることはできないだろう。


 時はめぐり、『小平』の振るう政治的辣腕はこの小さな集落だけでは収まりきることができなかった。


 やがて市政、道政、そして国政へと己が戦いの場を広げていったのはもはや必然だったと言ってもいいかもしれない。


 街を網羅する選挙区から圧倒的な票を集めて衆議院議員選挙に勝ったのがちょうど銀次の祖父に当たる人物の代。


 彼が政界から引退する時に地盤をそっくり継いだのが銀次の父親だ。

 

 おそらくこの二代目が『小平』史上最も政治的に高みへと上り詰めた人物だろう。


 総選挙で圧勝すること数回。

 国務大臣を拝命すること数度。

 与党執行部の幹部を勤め上げること数期。


 地元への貢献度も高く、第一次産業が経済の主幹となっている街を揺るがす由々しき法案が国会に提出された時には、造反のレッテルを貼られる恐れも十二分にあった中で気丈に雄弁に自己の主張を高らかに掲げた。


 そんな彼の姿は、テレビの前のお年寄りたちをあまねく恍惚とさせたらしい。


 現在、彼の秘書を務める三代目たる長男も内外でとても優秀な人物と噂されており、基盤も問題なく盤石であるとくれば、もはやこの街で『小平』の名は大げさではなく、神にも等しい天上のものとさえ言えた。

 

 そんな天界人である父とその領域に半身を突っ込んでいる兄の遥か下方で小平銀次は、舞い上がるべき翼も持たず、泥まみれになりながら地べたを這いずり回るようにしてもがき生きていた。

 

                ☆★☆★☆


 小平氏の教育方針は徹底していた。


 どれだけ国務大臣を務めようが、党内部に独自の派閥を持つ有力者であろうが、所詮は歴史の浅いド田舎出身の成り上がり。

 

 更には世襲によって何の苦労もせずに議事堂の席を安寧と確保したと思われていた小平氏は、与野党を問わず同じ政界の人間から相当な苦渋を舐めさせられてきたようだった。


 その悔しさを糧とし、贄として邁進した結果、今の地位を築き上げてきたといっても過言ではなかったのだけれど、それでも当時の恨みつらみは欠片ほども晴れてはくれなかった。


 自身の出身大学が地方の国立だったことを遠回しに馬鹿にされた。

 所作のいちいちがガサツであると陰でクスクスと笑われた。

 

 芸術に疎い、英語の発音が悪い、太り過ぎだ、酒の趣味が野暮だ、スーツの仕立てが時代遅れ……。


 努力にしろ能力にしろ、むしろ称賛されて然るべき多くの美点を持っていた小平氏だったけれど、実際にそれらが素直に加点対象として反映されないのが彼の生きる世界だった。


 小平氏は大物政治家である以前に、一人の根暗な人間だった。


 褒められたことよりも貶されたことを、多くの賛同者よりも少ない敵対者の方の言葉をそれはそれは克明に記憶し、いつまでもいつまでも陰湿に根に持った。


 虚栄心からくる単なる見栄であるならばまだ救いはあった。


 確固とした地位と物理的にも政治的にも強固な権力を有し、財力だって申し分なかったのだから、幾らでも代替品は見つけて心の隙間を補い満たすこともできただろう。


 しかし、小平氏のそれはもはや妄執の域にまで昇華されていた。


 ―― どれだけの成功を勝ち取ろうとも、馬鹿にした者どもを貶めてもこの傷は癒えることはない。

 今でも時折あの頃の惨めさを夢に見ては跳ね起きる。

 俺はおそらく一生この悪夢を抱えて生きていくのだろう。

 それならばせめて、せめて自分の子供にはそんな余計な荷を背負わせてなるものか……。――


 強迫観念にも似た小平氏の粘質的な遺恨の行方は、二人の愛息へとそのまま還元され、厳格な教育という形にトレースされた。

 

 小平夫妻の間に生まれた長男は、まさに小平氏が阿修羅のごとき形相で描き殴った青写真通りに成長してくれた。

 

 子守唄代わりに有名なクラシックや高尚なオペラを延々と聴かされた。

 積み木で遊ぶ代わりに参考書のうず高い山を積まれた。

 

 悪を倒すヒーローごっこの代わりに専門の家庭教師とともに論客を説き伏せるべく討論や答弁の真似事をさせられた。

 

 週に一度は美術館に行き、週に二度は日本語NGのネイティブな英語のみで半日を暮らし、週に三度は専門のトレーナーの元で体を造った。


 父親の活動拠点である首都圏の、教育レベルと寄付金の高さで有名な幼稚舎に入り、そこから続く長く狭いエスカレーターのど真ん中を悠々陣取ったまま登り切ったかと思えば、今度は更に道幅の狭いあの赤門の下をかなりの高水準を維持したまま難なく通い切り、成るべくして、あるべくして父親の政治秘書へと収まった。


 何も、彼が神童だとか天才だとかいう部類に振り分けられる人種だったからというわけではない。


 むしろ彼の本質は父親の陰湿な部分を色濃く受け継ぐばかりの、どちらかといえば凡庸的な人間だった。


 しかし、この世に生まれ落ちた瞬間から常に整えられてきた教育環境。

 それに食らいついていったたゆまぬ努力。

 

 事あるごとに聞かされてきた父親の経験則、人生観、倫理観などが相まって、彼を誰に後ろ指差されることもない優秀な男へと仕立て上げた。

 

 小平氏は大いに満足だった。


 長男のその順調な成長ぶりを、自らが書き上げた図面通りに作品が仕上がっていくその様を眺めていると、棺桶の先まで付き合う覚悟でいた煩わしい記憶と負の想いが、薄まっていくような気がした。

 


 長男の誕生から経つこと七年。


 兄の教育にかまけていたせいで随分と間が開いてしまったけれど、小平夫人は待望の第二子を身ごもっていた。


 年末の挨拶回りなどで一人地元に来ていた小平氏は、妻が予定日よりもかなり早く産気づいてしまったという一報を受け、慌てて飛行機に乗り自宅へ取って帰ろうとした。


 しかし、その日道内を襲った記録的な大寒波の影響で全便が欠航、他の交通手段も完璧に麻痺状となって空港に足止めされてしまった。


 出会ったきっかけは何の色気もロマンスもないただただ政略的な見合い結婚だったとはいえ、それでも若い時分の苦楽を共にし、汚い面ばかり垣間見すぎて人間というものにすっかり幻滅しきっていた小平氏にとって、妻はこの世で唯一信頼のできる最も清らかなる存在だった。


 その愛する妻と、二人の愛の結晶であるお腹の子供のことが心配で気が気ではなかったけれど、いくら実生活においてそれなりの力を持っていたとしても、物理的な距離や天候の問題までどうこうできるわけもない。


 また新たなトラウマでも負いかねない鬱な精神状態のまま、空港ロビーの大きな窓の外で気ままに振舞われる自然の脅威を、圧倒的なまでの銀世界を、小平氏は眺めるでもなく眺めていた。

 

 こうして小平銀次は小平銀次としてこの世に生を受けた。


 誰もが予期せぬ早産であったわりに母子ともに健康状態は良好。

 

 その吉報を聞いて小躍りするほどに喜んだ小平氏が高ぶる気持ちもそのままに、多少皮肉を込めて前日呪いに呪った景色を連想させる『銀』の一字を入れたことだけみてみても、彼の喜びが尋常ならざるものだったことがうかがえる。


 そして彼の勢いは留まることを知らず、意気揚々とこの次男もまた自分の組んだ綿密な生涯設計に沿わせて完璧に育て上げようとした。


 何せ、それまでの七年間で長男という一つの成功例を間近で見守ってきたのだから間違えようもない。


 むしろプロトタイプである長男の育成で僅かにでもほつれが見られた箇所をうまく繕ってやれば、更に優秀で立派な人材となってくれるだろうという自信と、ほんの少しの慢心もあった。

 

 けれど銀次は、本人の言葉を借りると『そんなクソ親父のクソ理想は粉々にクソ壊してやった』んだそうだ。


 健康であったとはいえ未熟児として生まれてしまった出産直後はさすがにしおらしかったけれど、ある程度大きくなってからはよく泣く乳児だったらしい。


 あれもこれも気に入らない。

 それもどれも面白くいないとでも言いたげに、両親や乳母のやる事なす事に対し、結果として是でも非でも、とりあえず泣いてから対応するというのが定形となっていた。


 手のかかる奴だと父は大いに笑った。

 天邪鬼な子供ねと母は愛おしそうに笑った。

 うるさくて勉強できないよと兄は苦笑いした。


 それから誰もが笑えなくなる状況へとおちいるまで、そう時間はかからなかった。


 しっかりとした足取りで歩行し、言葉を覚え、ある程度の自我を確立した頃、とにかくよく泣き、よく喚いて自己を主張していた乳児は、その涙腺を震わしていた無際限のエネルギーを、今度は実際的な行動の方へとシフトさせた。


 とにかく落ち着きのない子供だった。


 子守唄代わりに聴かされるクラシックやオペラのCDはおしなべて再生するオーディオごと投げ飛ばされた。

 

 積み木の代わりの参考書はことごとく千切られて紙屑へと成り果てた。

 

 ヒーローごっこの代わりの討論ごっこは講師に向かって必殺のキックやパンチをお見舞いすることでいつも幕を閉じた。


 美術館では展示品へ盛大に悪戯をし、英語の時間ではどこで覚えてきたのか汚らしいスラングばかりを連呼し、専門のトレーナーの指導を抜け出しては同じジムにあったプールで水着姿のお姉さま方に媚びを売ってチヤホヤされた。

 

 小平氏は頭を抱えた。


 どうしてだ?

 何を間違った?


 諭してもしかりつけても情に訴えたとしても、一向に銀次は思うように育ってはくれず、明後日の方角へと逞しくなっていくばかりだった。


 日本をより良い方向へと導くために毎日限界まで絞り続ける頭に、うまくいかない次男への教育に対する苦悩が幅を利かせるスペースが日に日に増えていくのを感じ、神経はじわりじわりと擦り減っていった。


 だからそれまでは頑なに毛嫌いしていた、自分の威光をプライベートな事情へと介入させることにも躊躇いがなくなっていた。


 有力者に色々なものを色々な意味でチラつかせてどうにか銀次を兄と同じ幼稚舎へと入れ、そこでも息子が伝説級に積み上げていく数限りない問題を、その度に問題にならないようにまた力を使ってはもみ消した。


 公私ともに真面目にして清廉、陰湿にしてどこまでも潔癖的な性格の小平氏にとってそれがどれくらいのストレスとなっていただろう。


 こちらは変わらず素直に優秀でいてくれる長男の姿が救いと言えば救いだったが、やはりそこは小平氏、良いニュースと悪いニュースが並んでいれば、どうやっても悪い方に気が行ってしまう性なのだ。


 健康管理に絶対の自信をもっていた彼の胃に、不穏な影がちらつきはじめたのはこの辺りからだ。

 

 そんな摩耗するばかりの日々も、ある週刊誌の記者が鼻聡くこの銀次への行き過ぎたフォローの数々を嗅ぎつけ、秘密裏に小平氏へと匂わせてきたところでとうとう我慢の限界がきた。


 相も変わらず反抗的な態度を取り続ける銀次を思い切り殴りつけ、およそ父親が息子に、というよりも決して大人が年端もいかない子供に向けてはいけないような罵詈雑言のかぎりを浴びせた。


 銀次も銀次で、語彙の少なさから言い返すことはできずとも、こちらも子供が大人に向けるにしてはあまりに鋭すぎる目を向けて対抗した。


 それが気に食わないと父はまた拳を振りかぶり、それがまた気に入らないと息子は更に目つきを尖らせた。


 状況は、二乗に二乗を重ねていくように悪化していった。

 

 しかし、やはり大人と子供の体格差、殴る方と殴られる方の立場の差では圧倒的に後者が不利な戦いだった。


 無意識にガードの姿勢をとって打ち据えられ続けた銀次の腕はダラリと力なく垂れた。

 

 生え変わりまでは随分と早い乳歯の何本かが真っ赤に染まって居間の絨毯の上に転がった。

 

 闘志がたぎる瞳は変わらず真っすぐ父親に向けられてはいたものの、さすがに虚ろな光が差していた。


 息子を更生させたい。

 自分の敷いた輝かしい明日への道はまだ閉ざされてはいない。

 これは愛情故の、深い深い親心故の鞭なのだと理解してほしい……。


 そう思いを込めて振るっていたはずの拳が、いつの間にかただ相手を打ち負かす激情だけを宿らせていたことに小平氏は気が付かなかった。

 

 一方的な暴力になり果てた親子喧嘩に幕を下ろしたのは、父でもなければ、当事者と傍観者に分かれた二人の息子でもなく、終始青ざめた顔をして立ちすくんでいた小平夫人だった。


 今まさに小平氏の最後の拳が銀次を捉えて昏倒させようかというタイミングで、父子の間に小平夫人が飛び込んでいったのだ。


 もはや前後の見境もなく烈っしていた小平氏が途中で止めることなどできるはずもなく、銀次を庇うようして抱きかかえた夫人の肩甲骨の下辺り、丁度肺の裏面部分にその日一番腰の入った重たい拳がめり込んだ。

 

 痛みと打ちどころの悪さによって銀次を抱いたまま苦しむ妻の呻き声に小平氏の熱は一瞬にして引いた。


 それどころか逆に今度は体感的に氷点下を更に下回るほどの寒気が押しよせて小平氏の体を震わせた。


 激情が吹き荒れていた室内の空気はガラリと一変した。


 気力、体力ともに尽きて意地だけで立っていた銀次は糸が切れたように力なく崩れ落ち、能面のような固く無機質な顔で傍観を決め込んでいた長男もさすがにオロオロと取り乱して世話しなく視線と体を右往左往させた。


 小平氏は何が起こったのか全く理解できないとでもいうふうに口をだらしなく半開きにしたままキョトンとした表情を浮かべた。


 夫人は相変わらず思うように呼吸ができず、漏らす嗚咽と嗚咽の間に何事か聞き取れない言葉を挟み込みながらただでさえ小さい体を更に小さくして震えていた。

 

 茫然自失としてまともな思考力など遥か遠くに吹き飛ばされてしまった小平氏ではあったけれど、それでも頭の中には妙な既視感だけがハッキリと陣取っていた。


 立ちすくむ自分。

 うずくまる妻。

 倒れ伏した誰か。

 うろたえる誰か。

 停止した時間。

 凍り付いた空間。


 ……いつかどこかで見たことのある、そしてそれを思い出す度に心の底から侮蔑を覚える光景だった。

 

 「……さい……。ご……さい」

 

 妻のつぶやきがようやく言葉らしい言葉の体を帯びてきた。

 

 「……ごめん……い……。ごめんな……い」

 

 妻は、愛すべき妻は、この世で最も清い心と体を持った妻は一体何を言っている?


 息をするのも辛いだろうに、そうまでして誰に向かって、どこに向かって、何を訴えかけているんだろう?

 

 「……ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい」

 

 ああ、そういえばそうだ。


 妻はあの時も同じように謝っていたっけな……。

 

         ☆★☆★☆

            

 

 「ここに居たのか、小平銀次」

 

 「……あ?」

 

 月は七月、季節は夏。

 場所は屋上、時間は昼休み。


 僕は小平銀次に初めてまともに声を掛け、小平銀次はおそらく転校してきてから初めて同級生にまともに声を掛けられた。

 

 「まったく、朝から休み時間の度に探してたよ。まさか普段は閉鎖されてるここにいるだなんて盲点だった」

 

 七月といえば夏のはじまり。

 いくら北海道の夏は涼しいというのが定説とはいえ、この街は大きな山脈にぐるりと周囲を囲まれた冬は厳しく夏も厳しい内陸部。


 盛り始めたばかりの夏の太陽は容赦も遠慮も思慮もなく降りに降り注ぎ、校舎のコンクリートをジリジリと焼いていた。


 遮るもののない屋上はその極みと言っても過言ではない。

 

 貯水タンク(なんのための貯水なのかはわからない)と書かれた流線型のアルミボディは触るまでもなく、落とした卵をサニーサイドやハードボイルドを通り越して消し炭にしてしまうのではないかというほどの高温に熱されていそうだ。

 

 銀次はそんな日差しをうまく避けるような日陰の場所をしっかりと確保して寝そべっていた。


 その位置取りの迷いのなさと、そこはことなく場に漂う安定感から、彼がどうやらこの時刻のこの場所に来るのはその日初めてというわけではないことが一目でわかった。


 「どうやって入ったんだろう?職員室から正式に借りてきた鍵がこうやって僕の手元にある上に、ドアに壊されたような形跡も見当たらない。下の進路指導室の窓からよじ登って来るにしても、無駄をとにかく省いたこの無個性な校舎のノッペリした外壁じゃまともな足場だってない」

 

 「…………」

 

 「ピッキングでもしたのかな?でもあれって意外に難しいものらしいよね。僕も子供の頃針金二本使ってそれらしい顔しながら家の玄関でやってみたことあるけど全然ダメでさ。フィクションの世界なら割と簡単にやってるけど、実際の話早々うまくいくもんじゃない。それにほら、あれって結構跡残っちゃうんだ、引っ掻き傷みたいなやつが。それでも懲りずに何回もやってたら結局ドアノブ駄目にしちゃってさ、鍵穴がバカになって。父親にこっぴどくしかられたなぁ。そんな三流の腕じゃ直ぐに捕まっちまうだろうが!どうせやるならもっとうまくやれ!だって。我が父ながら怒るところのポイントがちょっとおかしいんだよね」

 

 「…………」

 

 「さて、ここまで可能性を潰していくとなると後は何が残るんだろう?合鍵説も捨てがたいけれど、五月に転校してきたばかりの君が、授業どころかまともに学校にさえ登校してきていない君が、職員室から屋上の鍵を盗み出してわざわざサボりスポットの確立のために合鍵を実費で作るというのもおかしな話だ。サボりたいなら堂々と来なければいいし、一人になれるところは他にも意外に多かったりする。校舎のはずれの空き教室とか、廃部になった部活の部室とか用具室とかね。それに勝手な所見だけれど、君はそんなものに、そんなことのために自分の労力と時間を割くタイプじゃないだろ?そして所見ついでに言うなら、この学校のОBとか親戚のお兄さんが昔、彼らの労力と時間を割いて作った鍵を君に継承したという線も消えるかな。だって君は、そういう縁というか人とのつながりを疎ましく思う人間なはずだ。……当たってる?」

 

 「…………」


 「あとは……そうだなぁ。ここはいっそフィクション云々という話は野暮と開き直って君は空を飛べるか瞬間移動でも使える超能力者だという説なんて面白いかもしれない。そりゃ、こんな人気のない屋上に寝転がって風と戯れ、太陽と遊んでいるような男だもの、異世界の侵略者から僕らを守るために敢えて他人と距離をとり、覚醒した能力でもって日夜別次元で学園異能バトルを繰り広げているのかも。……ううん、一見馬鹿げているようで一番説得力があるのは多分君の醸し出す雰囲気のせいだろうな、きっと。どう?実は右目か右手が突発的に疼く例の持病を患ってるんじゃないかな?」


 「……ふう」


 「あーそれ没収」


 一つ呆れたように嘆息して制服の夏服であるワイシャツの胸ポケットに手を突っ込んだ銀次ではあったけれど、そこから取り出して一本咥える前に、僕は彼の手からタバコの箱をひったくった。


 「…………」


 「別にタバコを吸うなとは言わない。確かに僕らは高校三年生、もうちょっとばかり成長の糊代はあるけれど、君は最低限男としての体面は保てるだけの身長はあるし、肉付きだって良い。成長の打ち止めポイントが前倒しになってしまっても大きな問題はない。それに今から将来の肺疾患についてあれやこれや神経質になる方がかえって健康には悪そうというのが僕の持論なんだ。というかそもそも僕には君の成長やら健康やらに口出しできるような筋合いなんてないし、ぶっちゃけ興味だってない。だけど吸うなら家とか人目につかないところ、もしくは人目についても制服姿でだけはやめてくれ。ただでさえ小さくて狭くて閉鎖的な田舎町だ、衆人環視、善良な街の皆様方が直接注意することはなくても、それとなく警察に電話したりご近所に言いふらしたりしてこの学校の評判を貶めることになる。そしてどうしても校内で吸いたい、横暴な教師なり退屈な学校なりに対するささやかな反抗をしたいなら人目についてもつかなくてもいいし、制服だろうが私服だろうが全裸だろうがなんでもいい。ただ僕の目の届かないところ、僕の全く関係ないところでやってくれ」


 僕は夏の日差しさえ陰らんばかりにニッコリと笑った。


 「僕に実害が及ばなければ君はいくらでも自由にしていればいい」


 「……お前何?」

 

 ここでようやく銀次は僕の方を見てくれた。


 随分と身勝手なことを言ったし、やったし、正直怒って殴りかかってくるくらいは覚悟していた。


 あえてそういう風に仕向けたところもある。


 けれど、僕を真っすぐに見据える彼の瞳には不思議と怒りの色はなく、ただ何気なく道を歩いていたら未知の生物にばったり遭遇してしまい、自分がどう振舞うのが正しいか迷っているような困惑した目つきだった。

 

 「お前何様?」

 

 「君のクラスの委員長様。品行方正、成績優秀な優等生様。おまけにまだ内密な話ではあるけれど生徒会長様やら運動部の部長様やらを差し置いて、大学の推薦入学がほぼ確定している我が校の代表者様、かな」

 

 「なるほど」


 「だから学校の評判やら自分の保身やらを気にしてたってわけ。入学以来、ただそれだけを当てにしてやってきたからさ、今更内定が取り消されて受験勉強するのも馬鹿らしい。というか無理。ていうかヤダ。だから何度でも言う。僕の輝かしいキャンパスライフと残り数か月の穏やかなスクールライフのために僕の近くでは問題を起こさないでくれ」

 

 「……くだらねぇ」

 

 「くだらないよなぁ」

 

 「ゲスい」

 

 「ああ、とことんゲスい。反吐がでちゃうね」

 

 「……そこまでは言ってねぇよ」


  そして銀次は、今度はズボンの左ポケットから違う銘柄のタバコを取り出して一本口に咥えた。


 この様子じゃ右のポケットや片隅に置かれた通学カバンからも手品みたいにポンポンと万国旗さながらに色々な種類の箱が出てくるのではないだろうか。


 ただ一本咥えたまではいいけれど、ライターも持たず、いつまでも唇の端で弄ぶばかりで一向に火をつける様子はなかったので、今度は僕も取り上げることはしなかった。

 

 「……それで?」

 

 少しの間を開けてから、銀次は言った。

 

 「その委員長様が俺に何の用なんだ?」

 

 「不良少年の……更生?」

 

 「なんで疑問形」

 

 「自分で言っておいて面白味のない答えだなと思ってさ。僕のアドリブ能力もまだまだだ」

 

 「用は?」

 

 「君のノリの悪さも大概だね」

 

 「用」

 

 「わーついに漢字一文字になった。次はひらがな一文字になるのかな」

 

 「…………」

 

 「ごめんごめん、冗談だよ冗談。せめて怒ってくれればいいんだけど、その憐れむような眼差しじゃこの鋼のごとき頑強な精神でもさすがに耐えがたい」

 

 「で」

 

 「結局一文字になるわけか。……あれだよ、進路希望票。六月の初めに配られたやつなんだけど君だけがまだ。担任にせっつかれてさ。優等生の鏡たる僕としては教師の頼み事にはニコやかに応えないといけない」

 

 「適当に書いておいてくれ」

 

 「うん、そう言うと思って適当に『就職』と書いて出しておいた。だからその事後報告」

 

 「……」

 

 「適当に『進学』だと具体的にどこそこの学校だとあれこれの学科だとか書かないといけないし、生徒会がそれを集計して具体的な受験校の割合みたいなのを出したいらしくてさ、さすがにそこまで適当だと一生懸命に働いている人たちに申し訳ないから『就職』にしておいた。どういうわけかこっちは特に数値化しないらしい。まあ、腐っても田舎でもとりあえずはこの街一番の進学校。就職組はほぼ皆無だし、後輩たちにとって参考になる資料作りをっていうお題目ならやっぱり進学組をフューチャーするよね、そりゃ。あ、ちなみに希望職種は適当に事務業全般・内務職にしておいた。具体的な企業名こそ書かなかったけれど、無茶じゃない程度の待遇面やら各種福利厚生の希望とか、自分の能力を社会のために役立てたい云々とか、それなりに考えている風に書き足しておいたから、突き返される心配は無いと思うよ」

 

 「……そうか」

 

 「お礼ならいいよ。委員長として当たり前のことをやったまでだから」

 

 「ご苦労さん」

 

 「労いもいいよ。僕が僕の保身のために勝手にやったまでだから」


 「……なぁ、これ、取らねぇの?」

 

 銀次は徐に自分の口の端を指さした。

 もちろん唇は取れない。

 彼が言っているのは火の点かないタバコのことだ。

 

 「吸わないの?」

 

 「吸っていいのか?」

 

 「取っていいの?」

 

 「……確かにとことんゲスい」


 そこでどちらともなく口をつぐみ、どちらともなく空と空との間にある中空に目を向けた。

 別にそこに何があったわけでもない。


 僕は僕で色々と整理することがあり、彼は彼で考えをまとめることがあったのだ。


 重くも軽くもない程よい沈黙が屋上を満たす中、グラウンドや開け放した窓からは昼休みの喧騒が多少くぐもりながらも耳に入ってきた。


 押し迫る期末テストの圧力に幾らかピリピリとした空気が校舎全体を覆っているような気もするけれど、特にどうということない平日の、なんてこともない昼休み。


 火の点けられないタバコは相変わらずただ弄ばれ、夏は陰ることを知らず。


 優等生はいつまでも優等生で、不良少年はどこまでも不良少年だった。

 

 もちろん、この段階で僕は銀次の生まれや育ち、今の彼を構築してきたであろう人生の背景も表舞台もその裏側も、何一つ知る由もなかった。


 それでも、昼休みというこの限られた時間内、しかも何一つ核心的なことには触れない短いやり取りの中だけで、僕は小平銀次という男の人となりをある程度把握できたような気がした。


 それでは小平銀次についての考察。


 中肉中背の肉を少し削り、背の部分を少し嵩増ししたくらいの体躯だろうか。

 

 同じ男からみても顔立ちは均整が整っていると断言できる。

 けれど、繊細さと大胆さ、緻密さと豪胆さとを併せ持ったような、どこかとらえどころがない印象を見るものに与え、その腰のすわりの悪さから、十人が十人振り返る満点の美男子というわけにはいかなそうだ。


 それでもイイ男なことに変わりはない。


 地毛なのか染髪なのか判断しにくいほど微妙にくすんだ艶のない長髪は日陰の中に溶け込み、彼のわずか数センチ先でギラギラと煌めく日差しとの対比も相まって、佇まいが一枚の絵画を思わせた。


 声は低い。

 それもただ声帯の変化に伴う声変わりだけでは到底出せないであろう、耳よりも体の方にずっしりと響いてくる、言葉を言葉以上に重く相手に訴えかける心地よい低音だ。


 信念なのか思念なのかはわからないけれど、それは何か揺るぎないモノを己の内に秘めているのを図らずとも仄めかすのに十分説得力のある声だった。


 頭の回転はすこぶる良い。

 僕がくだらない言葉遊びや安直な挑発であえて濁した言葉の裏は確実にとらえられ、それへの対処も実に的確なものだ。


 戯れを戯れとして楽しめる度量の広さと思考の柔軟性、皮肉やあからさまな煽りにも微動だにしない心のゆとりもある。


 なるほど、小平銀次。

 君はやっぱり僕が思っていたような人間みたいだ。


 事前にある程度彼の情報を収集、そこから性格を綿密に分析、幾通りかの仮想を経たのち、傾向と対策を万全に練り上げて声を掛けた。


 そして僕が屋上のドアを開けた時、色々と試すような物言いをした時の、その目、その挙動、その感情の揺れ具合。


 そのいちいちが、僕の良く知る、かつては本気で自分の半身とさえ思えた彼女のそれを自ずと思い出させた。


 「ククク……」


 と僕の思考をブツ切るように、銀次は突然笑い声を上げた。

 かなり卑屈な笑い方だったけれど、下品に見えないのが不思議なものだ。

 

 「そのゲスさ、計算高さ、外面と要領の良さ、他人の心理を読み解く巧みさ、そしてそれを恥も外聞も罪悪感もなく活用する……いや、活用できる狡猾さ。簡単に自分の本心をつかませない飄々としたところ……俺は嫌いじゃないな」

 

 「……僕も割と嫌いじゃないんだよ」

 

 どうやら彼も彼で僕のという人物についての考察を頭の中で繰り広げていたようだ。

 

 「観察眼、審美眼も鋭いし、分析力だって相当だ。空気も読めるし、それに伴う自分の振舞い方をわきまえている。さすが優等生、頭がかなり回るな。顔だって悪くない。さぞや女にモテるんだろう」

 

 「その台詞をそのまま返すよ、とまさか言う日が来るとは思わなかった」

 

 「政治家に向いてるよ、お前」

 

 「あの『小平』のお墨付きなら素直に誇らしいね」

 

 「どの『小平』だ?」

 

 「小平銀次、十八歳。身長174センチ、体重68キロ。血液型はABのRhマイナス。趣味は川釣り、特技は合気道。その場で豆を挽いたブラックコーヒーしか飲みませんっていうクールな外見とは裏腹に実は結構な甘党。睡眠時間が不十分だとくっきりとした二重が三重ないし四重になるのが密かな悩み」

 

 「いや、どこの『小平』さんだよ、そいつ。名前しかあってねぇよ」

 

 「政界の巨星、与党の顔、衆議院議員・小平卓こだいらすぐる幹事長を頂点とする生粋の政治家一族。品行方正、公明正大、文武両道、百戦錬磨、海千山千の『小平』さん」

 

 「まぁ……あってるか」


 「小学生向け四字熟語辞典みたいな大げさな表現が何よりもしっくりくる、それが『小平』。で、君はそこの筆頭である小平氏の次男坊」


 「俺はその『小平』じゃねぇよ」

 

 「ん?」

 

 「俺は『小平』であって『小平』じゃない」

 

 「うーん、やっぱりそういう言い回しが好きなお年頃?」

 

 「俺は……」

 

 僕の軽口をあっさりと無視して、銀次は続けた。


 まさに澄み渡るという表現が相応しい雲一つない殺人的なまでに晴れ渡った青空を見上げる彼の横顔は、憂いや感傷の色を帯びるでもなく、歓喜や悲哀に満ち溢れているわけでもなくただただ無感情だった。


 それが僕の胸をチクリと刺激した。

 ……まったく、そういう顔をするのは一人だけで手に余るっていうのに。

 

 「俺はお前の言うあの『小平』の人間じゃないんだ。根底が違う。根っこどころじゃないか。茎から葉っぱから花から実から……いや、そもそも『種』の時点でもう間違っているんだ」


 放り投げるようにしてぞんざいに続いた言葉にもまた、何ら感情らしい感情は含まれていなかった。

 それこそ根から果実の末端まで、何もかも。


 「……自分には何も無いとでも?」


 思わず僕がそう小さく呟いたところで昼休みの終わりを告げる予鈴が鳴った。


 外向きのスピーカーが丁度この屋上と真下の部屋との間部分に備え付けられているらしく、校舎内やグラウンドで聞くものとは比較にならないほど音量が大きかった。


 普段はどこか平和的に間延びして聞こえるチャイムではあるけれど、盛大に音割れを起こしたそれは、終末の訪れでも宣告しているかのように随分と破壊的な音だった。


 僕と銀次とは、そんな音の乱流の中で互いの目を見据え合った。

 やはり彼の目からも顔からもどのような感情も読み取れなかった。


 僕の方はどんな目で、どんな顔で彼を見ていただろう?


 いつも優等生然とし、その実、計算高くて要領がよく、狡猾で空気が読めるがこちらの真意は読み取らせない、そんな人間にちゃんと見えてくれているだろうか?

 

 「……携帯、鳴ってるんじゃないか?」

 

 暴力的なチャイムの余韻もまだ耳に冷めやらぬうち、銀次がそう僕に言った。


 学校内ではマナーモードに設定しているために着信音は鳴っていない。

 しかし、確かに携帯電話を入れている学生服のポケットから断続的な振動を感じた。


 本人ですら言われるまで気づかなかったというのによくわかったものだ。

 

 顔や家柄だけじゃなく耳も良いか。

 これで目と鼻までよかったらどこに彼の隙を見つければいいんだろう。

 

 「出ないのか?」

 

 「……大丈夫。相手も要件もわかってるから」

 

 「女か?」


 「まったく、勘までいいのか(ぼそり)」


 「なんだって?」


 「何でもない。彼女が作ってきてくれたお弁当を一緒に食べる予定だったんだ。それなのに僕がいつまでも音沙汰が無いもんだから心配したんだろうね」

 

 「礼でも労いでもない謝罪ならいるか?」

 

 「もらえるなら」

 

 「やらねぇけど」


 「くれないの?」

 

 「本当にほしいか?」


 「もらえるなら」


 「まぁ、やらねぇけど」


 「何んだろう、この無意味なやり取り?」


 「そもそも意味なんてないんだろう?」


 「……どういうこと?」


 「言わせる気か?ここにこうしてお前が、不良少年の更生だの事後報告だのアホみたいな理由をつけ、せっかくの恋人との時間を削ってまでわざわざ俺のところにやってきた意味だよ」

 

 「意味なんて……別に」


 「…………」


 「……何?」


 「……ああ、なるほど」

 

 少し強めの風が一陣吹き抜けた。


 高気圧の子供が背に乗って縦横無尽に遊びまわってでもいるかのような熱を帯びた生温い風が、銀次の艶のない髪を撫でていった。

 

 「女か?」

 

 『女か?』……台詞も声もトーンも先ほどと全く同じ質問だった。


 聞く人によっては何の脈略もない意味不明な問いにしかならなかっただろう。


 しかし、その質問に含まれる言葉の本質はまるで違うものだと僕はわかったし、そんな風に僕が察したであろうことを当然のように銀次も見透かしていた。

 

 「お前何?」


 「ただの委員長だよ」


 「はぐらかすなよ。……お前、の何?」

 

 「ただの幼馴染だよ」

 

 「はぐらかしてるわけじゃなさそうだな、その様子じゃ。……それで?ただの幼馴染様がどうしてそんな顔してる?」

 

 「どんな顔してるかな?」

 

 「買う気も度胸もないくせに毎日ショーウインドウから眺めていた楽器が、ある日突然、誰かに買われてソウルドアウトの札が掲げられていた少年の顔ってところか」

 

 「……なんだよそれ。わかり難い」

 

 「わかってんだろ?」

 

 「わからないよ」

 

 「……悪かったな」

 

 「謝るなよ」


 「悪い」


 「謝るなってば」

 

 「謝罪を欲しがったのはお前だろ?」

 

 「……ゲスい」

 

 「ああ、ホント反吐がでるくらいにな」

 

 色々と聞きたいことや考えなければならないことがあった。


 やはり意図的にでも無意識的にでも核心に触れない会話ばかりで、何一つはっきりとしたことはわからないままだった。


 噂通り本当に彼女と付き合っているのか?

 どこで彼女と出会った?

 どんなことを彼女と話した?

 そもそも彼女にちゃんと人を愛することができるのか?

 君はちゃんと彼女を愛しているのか?

 彼女のどこを好きになった?

 彼女は君のどこを好きになった?

 彼女の体に触れた?

 彼女の心に触れた?


 ……あの海に、僕がついぞ辿り着けなかったあの深く美しい海に潜って、彼女と同じものを君も見ることができたのか?

 

 だけど僕には聞く気がない。

 度胸だってない。


 そもそもあの初雪が降り注ぐ児童公園で彼女との関係を自ら壊した僕に、聞く聞かない以前に資格なんてないんだ。


 ……だけど、だけど、だけど……。

 

 「……一つだけ聞いてもいいかな」


 ――だけど。

 

 「なんだ?」

 

 ――だけど。

 

 「……その……」

 

 ――だけど。


 「ん」


 ――だけど!


 「……そのタンクに入ってる水って、何のための貯水だと思う?」

 

 「は?」

 

 予想外の僕の質問に、さすがに銀次も面食らったようだ。

 感情の起伏に乏しい彼の顔が、この日初めて明確な表情を帯びた。

 

 「災害時の飲み水にしては衛生管理がずさんだし、スプリンクラー用の水はちゃんと別のタンクにパイプが通っている。……いや、ホント。生徒会の手伝いとか教師からの頼まれごとでここに来たことは何度もあるんだけれど、その度に何なんだろうって気になっていたんだ」

 

 「……ク……ククク……」


 銀次が笑った。

 

 「ハーッハッハッハ!」


 彼のまとう雰囲気に似合うニヒルに歪んだ露悪的な笑みではなく、まるで幼子のように無邪気に爛漫に、腹を抱え、心の底から楽しそうな声を上げて笑った。


 相変わらずの年不相応な厚みのある低音ではあるけれど、実に楽し気な声が蒼天高く吸い込まれていった。

 

 その気持ちの良い笑いにつられて僕も何だか可笑しくなってきた。


 そして笑った。

 負けじと創面を崩しながら大声で笑った。

 

 笑わずにはいられなかった。


 僕は何を言ってるんだ?

 

 銀次と美海が仲睦まじげに繁華街を歩いていたという噂を聞いた日から、何を迷い、何を考え、何をしていたんだろう?


 まったく、彼の言う通りだ。


 美味しい弁当を拵えてくれた恋人との約束を反故にし、下らない理由をでっち上げてまで彼に接近し、まるで心理カウンセラーにでもなったつもりで値踏みしてまで、結局、僕は何がしたかったんだよ。


 ああ、馬鹿らしい。

 ……本当に、僕は馬鹿らしい。

 

 再びチャイムの音がすさまじい音量でスピーカーから吐き出された。

 なんとなくより力強く、本格的に荒ぶっているように聞こえるのはやっぱり本鈴と予鈴との差分なのだろうか?


 それとも受け取る側である僕の心情の相違なのだろうか?

 

 「……これの中身だけど」

 

 チャイムが鳴り止み、あの騒音の中でもまだ笑い続けた僕らが落ち着いた頃合いで、銀次は自身の頭上にある給水タンクを指さしてそう切り出した。

 

 「実は魔界からの刺客に対抗するためのマナを密かに貯め込んでいるんだぜ」

 

 「……もうはっきりと言わせてもらうよ。この中二病」


 こうして僕らは友達となった。


 それも上辺だけの付き合いではない。

 かの有名文学で耳馴染みのある、竹馬の友というやつだ。

 

 あれだけ一緒にいた成瀬川美海という存在をその枠におさめることのできなかった僕にとって、生まれて初めてできた無二の親友だった。


 そしてそれはたぶん、小平銀次にとっても同じことが言えるだろう。

 

 もちろん、『親友』だなんて明確な言葉、どちらがハッキリと言うわけがない。

 

 いつだって僕らの会話には核心も確信も革新もありはしない。

 いつだって僕らの会話は駆け引きや探り合い以上の意味を持ちはしなかった。

 

 ……それでも、やっぱり。


 小平銀次は僕の一番の友達であり、この世で唯一の理解者だった。

 

 この時も、あの時も。

 やがてくる、訣別の日を迎えてもなお。

 

 それだけは決して揺るがない。

 ……揺らいではくれないんだ。

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