耳鳴りが止まない夜に

naka-motoo

耳鳴りが止まない夜に

僕が一人暮らしを始めてからちょうど3ヶ月経った夜のこと。

蒸し暑い空気を一旦入れ替えてからエアコンをつけた。

今週も仕事が無事に終わった安堵と幾ばくかの愚痴を肴に缶ビールをあけた。できるだけ炭酸が抜けないように静かに。

泡を作らない状態で静かに、きん、と冷えた液面を啜るのが僕なりのこだわりだ。


テレビをつけた。


特に観るべきものはないんだけれども、自分が応援しているパ・リーグのチームの勝敗だけをニュースで確認した。そのあとはただ背景として付けっ放しにしておくだけだ。


「あ」


最近ちょっと気にかかることがある。時折左耳が耳鳴りを起こすのだ。

よく蝉の鳴き声のような、なんて耳鳴りを表現する人がいるけれども、僕にはピンとこない。僕の場合は、まず最初に音が聞こえなくなるような感覚があり、次に聴力が戻ると、マイクの高音ハウリングのようなキーン、という音が鳴り始めるのだ。

中音域の人の声を聞くのには支障ないので、右利きの僕は今でも電話は左耳に押し当てて通話している。


耳鳴りの原因が何なのかはわからない。

多分、新人なので事務所の電話を僕はとりまくらざるを得ず、通話の多さのせいで難聴になっているんではないだろうかと勝手に推測している。

最初の内は寝るときにすごく気になってなかなか寝付けなかったけれども、今ではこの耳鳴りがごく自然な音になってきてしまった。


耳鳴りの度合いを確かめるため、テレビの音量をやや落とす。


神経を集中させるため、目も閉じた。


軽く酔いも回ってきたタイミングだったからだろう、僕はなんだか体がほどよく気だるく感じ、そのままごろっ、とフローリングに仰向けになった。


どのくらい時間が経ったのだろう。

自分が見上げる真上にあるLED照明に目を射られる。スマホを見ると午前1時10分だった。眠る前の作業を再開するために照明を消し、完全に部屋を暗くして左耳に再度神経を集中させる。


静かな分、耳鳴りの音量が増したような感覚になる。


こういう言い回しは変だけれども。

耳鳴りに異音が混じってくるのに気が付いた。


『なんだろ。なんの音だろ』


こう思っている内はまだ汗はかいていなかった。異音が次第に文字列となってき始めたとき、僕は背中を少し汗で濡らし始めた。


『・・・こう。・・・行こう』


行こう、って言ってるのか?


僕は体全体の疲れのせいで、その文字列の解析への集中力は普段の五割にも満たないと感じる。そして、それは僕の言い訳でしかないことも認識し始めた。


『行こう。・・・行こう』


何処へ?


『あの池に・・・行こう』


池? どこの?


『中学校の裏から続く道の池に・・・』


耳鳴りの中に混じる音のはずなのに、pcの画面にブラインドタッチでだだっと文字を連ねるような感覚の情報が脳内に入ってくる。面倒なので自分では中学校の裏道の記憶をたどることはせず、文字列の質問を続ける。


池に、何しに?


『助けに行こう』


何を? いや、誰を?


『カサノ サナを』


カサノ サナ・・・・誰だ? 誰だっけ?・・・


僕が質問を途切れさせると異音がボリュームと文字列の照度を下げ、ベースにあった耳鳴りの音が大きくなる。


「ダメだな」


僕は思考ではなく、声に出して呟いた。


再び神経を集中させる。


けれども。

異音が再び戻ってくることはなかった。



翌土曜日の朝。

僕は電車で二駅の地元に戻って、実家へは行かずにそのまま中学校の裏道を目指した。本当は自転車があった方が効率的なのだけれども、なぜか実家へ足を向ける気にはならず、歩いて池を目指した。


「おはようございます」

「おはようございます」


休日早朝のジョギングをする男性とすれ違い、向こうから挨拶を言われた。こちらも反射で返した。

それ以外の人とは一切遭わなかった。


池というのは貯水池で今はもう使われてはいない。僕が中学校の頃はまだなみなみと水が張られ、形ばかりではあるけれども保安用のロープが池の3分の2ほどの外周を囲んでいた。山深くではない、ちょっとした丘のような開けた場所にある池の水は、半分ほどまで水位が下がり、ロープはだらん、と地面に垂れ下がった状態で腐敗し始めていた。


天気が良かったので、ふうっ、と大息を吐いてみる。深呼吸をして、吸うという動作はなぜかしたくなかった。


「カサノ サナ」


全く覚えていないわけではなかった。

中学一年生の時の同じクラスに彼女は確かに、いた。クラスの中ではかわいい部類に入る女子だったと記憶している。

そして、おそらくこの場所で彼女と遭ったことも確かにあった。


この場所までトレーニングをしに来る運動部はほぼいなかった。

ただ、僕だけは例外だった。


陸上部で走り幅跳びをやっていた僕は他に同種目の選手がいないこともあり、自分のメニューを組んで1人で勝手にトレーニングしていた。しょっちゅうではないけれども時折この場所まで八割程度の疾走でランニングしてきて、そのあとストレッチと体幹トレーニング。そして草の生えた柔らかな地面の上でダッシュを繰り返すのがお気に入りだった。


その日もダッシュを10本終えて貯水池の水面を吹いて来る風を受けようと池の淵をぐるっと歩いていた。


不思議だった。


トレーニングをしている時には全く姿が見えなかったのに、いつの間にかカサノ サナが体育着で池の傍に立ち、水面を見ていた。


「お疲れさん」


僕は軽く手を上げて彼女に近づいた。


「カサノさんも自主練?」


彼女はテニス部のはずだった。いつも部員揃ってトレーニングしているはずなので不自然とは思ったけれども他に理由が思いつかないのでこう訊いたのだ。

彼女はそのまま僕の質問には答えずに、じっと水面に視線を落としていた。


「何か、いるの?」


僕は諦めずに違う質問をした。


「別に」

「あ、そう」


なんとなく彼女の横に並んで立つ。

横顔が美しい、と思った。

産毛すらきれいに整っているようだった。


ただ、肌の色だけが異質だった。


「顔色、悪いよ?」


僕の重ねての質問に、彼女は黄疸したかのような肌色の顔の正面を僕に向けた。


「ねえ、瀬戸くん」

「うん」

「ここの水って、汚染されてるの知ってた?」

「汚染?」

「そう」

「いや・・・知らなかった」

「浴びただけでね、皮膚から毒素が吸収されてね、皮膚呼吸ができなくなるの」

「へえ・・・」


僕は無理に笑いを作る。


「冗談でしょ?」

「ううん。みんな、わたしが冗談を言えないの、知ってるでしょ?」

「まあ、カサノさんは真面目だから・・・」

「それでね、水が耳に入ると中耳炎になるだけじゃなくってね、鼓膜も汚染されるの」


僕はとうとう無言になった。


「でね、ただの毒素じゃないんだよ。最初は耳鳴りがして、幻聴が聞こえるようになるの。キーン、ていう耳鳴りだけじゃなくって」

「・・・カサノさん、疲れてるんだね。付き添ってあげるから、学校に戻ろうよ」

「瀬戸くんは信じてくれるかと思ったけど、ダメなんだ」

「信じないわけじゃないよ。雨水にも酸が混じったりしてるだろうし。人体に影響はあると思うよ、ここの水だって」

「私、試して見たの」

「え」

「夕べの内に。思った通り、ほら、こんな肌になっちゃった」


突然、カサノさんが体操着の

Tシャツを脱いだ。僕は思わず視線を逸らす。

ただ、本当は見たい気もした。

容姿はかわいいと思っていたクラスの女子だ。数秒の間を置いてそっと目を向けた。


誰もいない。


無意味とは思ったけれども、念のために視界がひらけている池を一周走ってみた。

草の陰に潜んでいる、ということもなかった。草の丈が短かすぎる。


水も覗き込む。


カサノさんに言われたからというわけではないけれども、異様に緑が濃い色だと思った。池の底に生えているのだろう、藻を見ていると、池全体の底流の動きに揺れるそれがなにかの生物のような気がして、そのまま疾走で学校まで帰ってしまった。


翌日、カサノさんが絞殺された死体が貯水池のポンプ室から発見されたというニュースが報道された。ニュースでは流れなかったけれども、乱暴された跡があったらしい。



「忘れていたわけじゃなかったんだけど」


僕はあの時と同じように池の外周をぐるっと走った。

10年経ったけれども犯人は未だに捕まっていない。


それに、夕べの耳鳴りに混じった声なのか、文字列なのかも、誰のものかよくわからない。女性の声だったのか、男性の声だったのか、そもそも音声ではなかったのではないかとも思える。


ランニング用の装備はせずにシューズも単なるスニーカーだけれども、ダッシュもしてみた。7本、8本、9本・・・

とうとう10本走りきった。

高校では陸上はやらず、運動とはほぼ無縁のまま過ごしてきたが、意外と体が動くことにやや満足していると、急にふくらはぎがつった。


「お、とと」


最初はつっただけだと軽く思考したけれども、痙攣といえるぐらいのこわばりだ。ふくらはぎだけでなく、足の甲も爪先も、完全に硬直した。

自分の意思で足がどうにもならない。

多分、側から誰かが見ていたら、コントにありがちな、『押すなよ、押すなよ』的な自爆のような落水に見えただろう。

僕も池に落ちた瞬間まではこんなことを考える余裕があった。


落ちるとそこは別世界のようだった。

水中から仰向けに水面を見上げると、夏の日差しが水越しにきらきらと光っている。

プールに半潜りで見るのと同じ光景だ。


ただ、背中を何かがザワザワと撫で付けている。


ああ、藻はこんなに伸びていたんだな、とやたらと背中の神経が冴える。


耳鳴りが聞こえてきた。

しばらくするとカサノさんの顔が僕を覗き込んできた。


髪がとても長い。


肌は死人のようだけれども、目は活きていた。


『行こう・・・底へ』


カサノさんの上半身を、今度はきちんと見た。


ああ、そうか。


カサノさんは僕のことが好きだったんだな。


理由がわかったので、僕はようやく目を閉じた。







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