第7話
曇天。
初めて陰りを見せた水原集落の空は重く、陰鬱とした感情が垂れ込めているような灰色だった。
帆足が水原集落の調査に入ってからは一週間が経過した。
集落の人間の間で帆足の噂が巡っていたようだが、小川文雄の死により、死亡する直前まで一緒にいた外部の人間ということで露骨に警戒されることが多くなってきた。
それに加えて、事件を嗅ぎつけたマス・メディアの記者たちが殺到することにより、住民たちはより口を閉ざしていった。
こうなれば調査も何もない。話してくれる人が居なければ何も出来ないのだから。
午後三時、帆足のスマートフォンのロック画面には、上司から送られてきた簡潔に『帰投せよ』の一言が表示されていた。
帆足は最後の夜、ダムの畔へと足を運んだ。
ドロっとした生暖かい湿気に包まれながら、彼はコンクリートの岸に辿り着いた。
曇り空のため、辺りは暗闇でほとんど何も見えない状態だったが、一点、ポツリと小さな明かりが灯っているのを帆足は見つけた。
そこには人の気配を感じた。
恐る恐る帆足が様子を伺っていると、向こうの方もそれに気づいたのか、ゆったりとした口調で「こんばんは」と挨拶をしてくれた。女性のようだった。
それにつられるように帆足も挨拶を返す。
「ここで何をされているのですか?」
帆足はダムに入水自殺した女の事が脳裏から離れなかった。
わざわざこの夜遅くに、こんな場所に来る人間はそう多くはいない。たまたま立ち寄ったというわけでもなく、何かしらの目的があってここに来たのだろう。
無用な心配かもしれないと思いつつも帆足はここ最近の一連の事件の流れからして陰鬱な考えが過るのであった。
されど、暗闇から帰ってきた言葉はそういったものではなかった。
「お供えをしていたんです」
暗闇の向こうで彼女が立ち上がる気配がした。傍らに灯る明かりがそれに呼応するようにゆれる。
「ここで昔、身を投げてしまった女性がいましてね。あまりにもやりきれない最期だったものですから……」
「そうですか……」
互いに名を名乗らず、顔も見えないこの状況で、帆足は奇妙な感覚に囚われていた。
"――――――この話し方、どこかで?"
彼女の話し方に覚えがあった。
あまり覚えていないが、本当に小さい頃、いつだったかも定かではない記憶に彼女と似た口調の人と話した記憶がある。場所は確か、駄菓子屋だったか?
記憶の糸を辿ろうとするもそれ以上先は断線しているようで上手く情報が引き出せない。
質問してみたいともどかしい気持ちになりつつも、帆足は彼女の話を黙って聞き続けた。
「ほんと、可哀想な最期でねぇ……。夫を事故で無くして、子供は親戚に取られるなんてねぇ……。色々な人に心無い言葉をぶつけられて、壊れちゃったんだろうねぇ……。何もかんも持ってたもの売っぱらって、大切にしてた櫛まで放おって、身を投げてしまったんです……」
帆足は自分の心臓が一際大きく振動したのを感じた。
形を失っていた記憶に、徐々に輪郭が現れるような感覚。
あの後ろ姿と、その手に握られていた櫛。
やはり、彼女は自分の――――――
その時、帆足はダムの水上から明確な殺意を感じた。
あな、うらめしや
ひたり、ひたりと、何かが近づいてくる気配を感じる。
暗闇の向こうの彼女も何か感づいたのか、小さく息を呑む音が聞こえた。
あな、うらめしや
光も音も飲み込む暗い静寂の中、確実に何かが近づいてくることだけが、帆足の五感に訴えてくる。
帆足はゆっくりと、水面の方へと目を向ける。
生暖かい空気が一変して、凍りついたかのような冷たさに変わり、帆足は呼吸が浅くなっていく。
それを見た時、彼は自身の心の裡に芽生えた感情をはっきりと理解した。
恐怖と、郷愁。
その影は間違いなく彼女だった。
その在り方は間違いなく歪だった。
幾層にも塗り固められた個人が、彼女の鎧となっている、
恨み、辛み、嫉み。
彼らは使い果たされるか、もしくは時の流れに消えゆく運命だった使いきれなかった憎悪達。
水原集落の傍らを流れる川はこのダムにつながっている。
彼らはここでずっと待ち続けていたのだろう。
帆足は自分の右胸ポケットに入れた櫛から徐々に熱が発されているのに気づいた。
影はこちらを指差すとそっと手のひらを握りしめた。
「――――――」
身体から熱が消えていく。心臓はとっくに鳴りを潜め、鼓動することをやめていた。
櫛が全ての熱を帆足から奪い去っているかのようだった。
ぼやける視界と、遠のく思考。
"――――――帰せ。私達をあの場所へ帰せ"
帆足は自らの緩やかな死を受け入れた。
帰ってきたよ、と言えば彼女たちは止まっただろうか。
いや、もう無理だっただろうか。
彼らはずっと待っていたのだから。
暗い、水底の夢から。
彼らはずっと待ち続けるのだから。
深い、水底の望郷から。
水底の望郷 猿烏帽子 @mrn69
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