第6話

「お前さん、妖怪っていると思うか?」

 何気ないことのように、文雄は呟いた。

 実際、本人もわりとどうでもいいことのようで、皺々の手で煎餅を掴んでは口へ放り込んでいた。

 帆足はもうほとんど飲みきった湯呑を手元に置いて、答える。

「いないと思います。そういうのはあまり信じていないので」

「そうか」

 その一言の後。

 文雄は思索にふけるような、ひたすらに自己へ埋没していくような深い眼差しでぽつりと帆足へ問いかけた。

「じゃあ、人の怨念ってのはどうだ?」

「はい?」

 そういうものに疎い帆足は、いまいち文雄の問の真意を掴めなかった。帆足は彼の雰囲気が何か変わったような気がしたがそれを言葉にすることなく、ただ文雄の次の言葉を待った。

 文雄の方も、帆足がそういったものに疎い人間であることを察したのか、ほっと小さく息を漏らすと、「分からんか」と小さく呟いてから説明を始めた。彼の肩に込められた力が自然に霧散していくのを帆足は思考の端に認めた。

「都会暮らしじゃあそういう手合の話はあんまり聞かないだろうが、ここらにはまだ残ってる。かつての名残とかそういう考えもあるだろうが、俺は実際にあると思ってる」

「ある……とは、なにがですか?」

「人の怨念がだよ。染みついた執念とかそういう類の念は簡単に拭い去れるものじゃあない。人の想いってのは存外に力があると思ってる。それは溶けついて、侵されて、決して枯れ落ちることのないもンだ。そういうのが、ここらにはまだ残ってる。水原集落ここを取り巻いてるンだ」

「ふむ……」

 帆足はこの時内心、大学時代に聞きかじった話を思い出していた。


 母親の元から離れ、祖国から戦場に赴いた息子はふいに、何処からか懐かしき母親の味噌汁の匂いを確かに感じた。

 後日、無事に母親の元へ帰ってきた息子は母親に伝えた。

「あの日、母さんの味噌汁の匂いがした」、と。

 すると、母親はこう答えた。

「その日、私はおまえさんの安全を祈るためにご飯を作った」、と。


 これは陰膳と呼ばれる呪術の一つだ。

 旅行などで身内が遠くへ離れる際、その身内の分も食事を用意することで旅の安全を祈る行為。

 心理学者は過度の緊張による幻臭だと言ったそうだが。


「昔から、この川には言い伝えがあってな」

 文雄の嗄声に、帆足の思考は大学の講義室から真夏の軒先へと引き戻される。

「川沿いを歩くと、足をすくわれてそのまま引きずり込まれるってな。河童じゃないぞ。河童は気分次第で誰でも襲うがここにいるのはそうじゃない。明確な意思がある」

「意思……」

「祈り実らず身を投げた者共の怨念が、有象無象と流れ行く。そこにいるのは誰かに恨みを持った誰かだ」


 "――――――十五夜に川の畔を歩いちゃダメよ"


「そいつらが、たまたま現れた自分にとって憎い人間を水底へと引きずっていくのさ」


 "――――――足首を掴まれて引っ張られちゃうんだから"


 何処からか聞こえてくる懐かしき声。

 あの後ろ姿は。

 あの手に握られている櫛は。


 朧気な記憶と交差するように、煌めく水面の情景が、泡と共に移ろう。

 絶え間なく流れる川の底に、あな、うらめしやと腕を伸ばす形無き影の群。

 流れ続ける川底ならば、その影を縫いつける楔は時と共に錆びつこう。

 そしていずれ、使いきれなかった憎悪と共にせせらぎの音に消えゆくのだ。


 ゆっくりと目を閉じる。瞼に焼きついた腐乱死体と旧い夢。

 それを払うように網戸から流れる風が顔を撫ぜる。

 再び帆足が目を開いた時、彼は眼下のダムの水面に揺れる影を見た。


 あな、うらめしや。


 彼は目をこすり、闇を注視する。

 水面は空の月を穏やかに切り取っているのみだった。

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