静恋
奔埜しおり
それは、静かな空間で。
キィッと音のなるドアを開けると、学校の図書室特有の古い本の匂いが出迎えてくれる。
嗅ぎなれたこの匂いは、私にとってとても優しい匂い。
中に入ると、外の寒さで冷えた身体を暖房の暖かい風が静かに温めてくれる。
その風に感謝しつつ、いつも通り中央にある机に視線を向ける。
あ、またいる。
そこには、真剣な表情でノートに何か書いている、茶色いくるくるとしたくせ毛に黒縁メガネの男子生徒がいた。
すぐ横に問題集が数冊と、前に一冊問題集が開いて置いてあるので、問題を解いているのだろう。
ネクタイの色が私より一つ上の三年生であることを表す紺色であることから、受験勉強なんだと思う。
私が図書室に数週間前から通いだしたときにはすでに、彼はここで勉強していた。
この学校の自習室は二つあって、合計で三クラス分くらいの人数が入る広さだ。そこで勉強すればいいのに、といつも思う。……すごくピリピリした雰囲気で、入りづらいけども。
もしかしたら、その雰囲気が苦手なのかもしれない。
なんて、予想を立ててみることしか出来ないのは、彼に話しかける度胸が私にはないからだ。
彼の横をいつも通りすっと通り過ぎ、小説の棚へ向かう。
右から三つ目と四つ目の、横を向いている本棚の間に入る。正面を向いた本棚の、右から三番目の空間が私の一番好きな場所だ。日本人作家の小説がこの棚にしか置いていない、ということが理由の一つ。
そしてそれよりも大きな理由がもう一つ。
ちょうど棚のほうに顔を向けながら少し目をそらせば、彼の横顔が見えるのだ。
一度だけ、彼の顔を見たことがある。もちろん俯いている顔ではなく、ほぼ真正面から見た顔だ。
今みたいに司書さんがどこかに行っていて、カウンターが無人だったとき。
本を借りる手続きをしていて、なんとなく例の机の方向を向いたら、ちょうど彼が伸びをしているところを見てしまったのだ。
目が合ったわけでもなんでもないくせに、恥ずかしくなってすぐに目をそらしたのは、彼の顔があまりにも好みだったから。
俗に言う、ひとめぼれとなんだと思う。
私はその瞬間から彼のことが気になっている。
抱えていた二冊の本を元の場所に戻しつつ、次に借りる本を探す。
「ねえ」
アルトよりは少し低いくらいの聞き心地の良い低音が、私に声をかけてきた。
その声の方向に顔を向けると、そこにはいつも見ていた例の彼の顔。
ドクリ。心臓が鳴る。
「な、なんでしょう……?」
いきなり話しかけられたことに、なにかしただろうかと戸惑いつつ、答える。それだけのことなのに、顔が赤くなっていくのがわかった。
心臓の鼓動も主張するように早くなっていく。
落ち着け自分。
いつも見てた顔が私のほうを向いて話しかけてきているだけなんだから。……いや、それって結構すごいシチュエーションだよね……?
そんなことを考えていたら、はい、と本を差し出された。意味が解らなくて首をかしげると、彼は口を開く。
「この本、読む?」
「え……?」
いやいやいや、いきなりなんなんだ、この人は。思わず動きが止まると、彼はそれに気づいて少し慌てたように口を開いた。
「これ、図書室に入ったばっかの本なんだけど、君、この作家、好きだよね?」
「そうですけど、なんで知ってるんですか?」
「いつもこの作家の本、借りてるなって、この本見つけたときに思って」
それって、いつも見てたという解釈でいいのだろうか。というか、ある意味意識されていた、と言うこと?
気になっていた人に見られていたかもしれない、と言うのは嬉しいけども、それよりもなによりも、すごく恥ずかしい。顔がさらに赤くなっていくのを感じて、俯いてしまう。それを彼は悪い方向へ受け取ったようだ。
「あ、もしかして嫌だった……? ごめんね」
悲しげな言葉に、慌てて顔を上げて口を開く。
「ち、違います! 嫌ではないんです! あああ謝らないでください! 本、ありがとうございます! では!」
早口にそう言うと、私はもう限界だった。
これ以上ここにいたらきっと、ゆでだこになる。
そう判断した私は一礼して、猛ダッシュで図書室を出る。後ろから呼び止める声が聞こえた気がしたが、構わず逃げる。
しばらく走って校門を突破したところで足を止めた。肩で息をしている私を、周りにいる生徒や散歩をしている人々がちらちらと見ていくが、そんなの気にしていられない。
とうとう、話してしまった。
頬に両手を当ててみる。
熱があるんじゃないかと思うほど熱い。
走ったせい?
きっとそれもあるけど、それだけじゃないはず。
話してしまったんだ、あの人と。声も好みのタイプだったな。……いつも見られていたのかな。じゃなきゃ、好きな作家とかわからないよね。だとすると見ていたことも、ばれていた……? うわ、恥ずかしい……。
また顔が火照ってくるのを感じながら歩き出そうとして、はっと足を止めた。
私、本借りてない。明日の朝の読書の時間、どうしよう。というか、ありがとうございます、とか言っておいてあの本受け取ってすらない……。
もう一度図書室まで戻ってあの本を借りてくるか。でも、もう一度戻って同じことを繰り返さない自信もない。まず第一に自分から話しかけられるはずもない。
また明日にしよう。そう決めて、私は家へ帰った。
*
「えっ!? あの人と話したの!? 昨日!? 図書室で!?」
「
昼休み。周りの視線が気になって口の前に人差指を立てて、しーっと言うと、ごめんごめんと苦笑しながら返された。
彼女は
二年生であることを表す濃い緑の少し短くした紐タイをリボン結びでつけたワイシャツの上に、橙色のパーカー、そして、さらにその上から紺色のブレザーを着ている。身長が百七五センチなので、百五十もいってない私と一緒にいると、よく姉妹と間違われてしまう。ただそれだといいほうで、私服で一緒にいると兄妹や、恋人と間違われることもある。そのたびに彼女は爆笑するのであった。
ついでに一年生に彼氏がいる。小柄でいつもブスッとしているけれど、でもそこがまた可愛い男の子だ。
「で、どうだったの? 何か収穫は?」
先ほどまでより小さい声で、目をキラキラと輝かせながら問いかけてくる。その問いかけに、走り去ったことや、その前の会話を思い出して、思わず涙目になった。
「……どうしよう、沙弥ちゃん」
「どうした、
心配そうに私の顔を覗き込んでくる。私は彼女の両手を思いっきりギュッと握った。
「わ、私! 思いっきり走って逃げちゃったの!」
「はあ!? なんで」
「だ、だって、た、たこになっちゃうからあ!」
私が半分涙声でそう言うと、沙弥ちゃんは思いっきりため息を吐いた。
「稚奈」
思いっきりあきれられた声で名前を呼ばれる。
「人間はたこにはならない。オーケー?」
「で、でも、緊張しすぎて……」
「安心しなさい。あんたは人間だ。どんだけ緊張して倒れて相手に迷惑かけるようなことがあっても、それで面倒な女だと思われて嫌われるようなことがあっても、たこにはならない」
なんだかすごく真剣な表情でひどいことを言われた気がする。
「フォローになってないよお……」
言いながら机に突っ伏すると頭を撫でてくれた。撫でるくらいならそんなこと言わないでほしい。
「あー、ごめんごめん。もしもそう思われるようなことがあっても私が責任取ってあげるから」
「うるさい、彼氏持ちめー。爆発しろー。いっそ爆弾ブチ込んでやるー」
「あはは。それだけは勘弁して」
沙弥ちゃんは笑いながらそう言う。
「で、何があったの」
沙弥ちゃんの問いかけにムクリと突っ伏していた顔だけを上げて沙弥ちゃんを見る。
「……先輩から話しかけてくれて。この本どうだって私の好きな作家の本を渡してくれようとして」
「ほうほう、いい感じじゃない」
「で、今まで話したことないのに知ってるってことは、その、私のこと見てたわけで……」
「それで逃げたと」
「うん……」
「なんかまさに、ただしイケメンに限ると言うか、好きな人に限る、みたいな感じね」
「うるさい……」
私が小声で返すとふっと鼻で笑われた。
「だってそうじゃない? それ、何の興味もない人に言われたら引くでしょ」
「そうだけどさー……」
はあ、とまたため息を吐くと、沙弥ちゃんは少し微笑んだ。
「とりあえず、その上がり症をどうにかしないことには始まらないね」
「うん……沙弥ちゃん。どうすれば治せるかな」
きらり。沙弥ちゃんの目が光った。あれ? 嫌な予感しか……。
「決まってんでしょっ! 慣れしかない、慣れしか!」
「な、慣れですか」
いきなり大声を出した沙弥ちゃんから身体ごとうしろに引きつつ返せば、さらに沙弥ちゃんの目の輝きが増える。
「そう慣れ! ということで、今日! あの人に話しかけること!」
「え!?」
「もちろん自分からね!」
「無理っ! 絶対に無理! そんな度胸ない!」
ウィンクする沙弥ちゃんに思わず立ち上がって反論すると、ふーん、と返される。
「でも昨日逃げちゃったんでしょ?」
「うっ……」
「突然逃げといて謝りもしないわけ?」
「で、でも……」
「嫌われるわよ」
なんとか拒否しようとしたら、思いっきり低い声でぐさりと言われた。
「それは嫌……」
俯き気味に言うと、また沙弥ちゃんが頭を撫でてくる。
「なら言いに行く?」
「……沙弥ちゃんついてきて?」
沙弥ちゃんを見上げながら言う。だが、そのお願いは無情にも爽やかな笑顔で却下される。
「残念。今日はヒロ君と帰るのでついて行けないのです」
「……やっぱり爆弾ブチ込んでやるー……」
「あはは。まあ、そんな感じで、いい結果お待ちしております」
「むう……」
おどけた調子で返されて、なにも言えずにポスンと椅子に座ってそのまま突っ伏した。
本当に、どうしよう……。
*
キィッと音のなるドアを開けると、学校の図書室特有の古い本の匂いが出迎えてくれる。
嗅ぎ直れたこの匂いを、まさかこんなに緊張して嗅ぐことになるとは思わなかった。
いつも通り中央にある机に視線を向ける。
あ、またいる。どうしよう、やっぱりやめようか。
そう迷い始めたとき、彼がこちらを見た。目が合う。瞬間、頭を下げた。
「ごめんなさい!」
「え……?」
驚いたような相手の声に、さらに続ける。
「昨日、突然逃げちゃってごめんなさい! その、驚いちゃって!」
「ああ、大丈夫だよ。別に気にしてないし。というか、いきなり声かけちゃったこっちの方が悪いし」
声がどんどん近づいてくることに気づいて顔を上げると、目の前には。
「ごめんね」
頭を下げた彼がいた。
その様子に慌てて、顔の前で両手を左右に振る。
「い、いや、そんな。せせ、先輩悪くないですし、私が勝手に緊張して走って逃げただけですし……」
「緊張?」
先輩の言葉にハッとする。何を言ってるんだ私は!
「だだだだって、初めての人と会話するのって、緊張しません?」
なんとか誤魔化せた、はず。
まあ、初めての人と話すことが緊張する、と言うのは本当だし。
いや、先輩だからさらに緊張する、と言うのもあるのだけれど、それは言わない。言えない、絶対に。
「緊張かあ。俺はあんまりしないかな」
「……うらやましいです」
「そう?」
先輩が、クスリと笑う。なにに笑ったのかよくわからないので、首をかしげる。すると先輩はなんでもないというように軽く横に頭を振ってから、口を開いた。
「俺は
「えと、
こうして、私たちはやっと、お互いの名前を知ったのだった。
静恋 奔埜しおり @bookmarkhonno
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