第10話 正しき道

 治療のため、ウォセはブレナイトの背に乗せられ運ばれた。ムアドは牢に連れて行かれ、全ては終わった。

 砂漠で拾った卵守を見せるよう、森番はアシャに頼んだ。森番は、ハナから迷い卵守の話を聞いていたのだ。

 換羽の儀以来、アシャはあの卵守から離れたままだった。アシャが捕らわれている間、テルーの隊の動物係が世話をしてくれていた。ほかの動物たちと一緒に、森の国まで連れてきていた。

 アシャとハナとヴェンは、森番を厩舎に案内した。卵守は助けた人間を覚えていた。久しぶりに会うアシャとヴェンに、嬉しそうにすり寄った。

「ふん、うん。大きさといい、色といい、やはり、森の竜の卵だな」

 育児嚢を透かし見て、森番は言った。

「竜は不思議な生き物ね、生れた時から次の卵を持っているなんて」

 アシャは、つぶやいた。

「いかにも。だが、それよりも不思議なのは、砂漠に卵が落ちた時、なぜ卵守が拾えたのかだ。砂漠の竜の思し召しだろうか」

 森番の言葉に、アシャがふと思い出した。

「タオの砦の見張り番。あの人、わたしを捕まえた日の朝、卵守を一頭見失ったと叱られていた。この子は、その卵守ではないかしら」

 馬の様子を見に来ていたタオが彼らに合流した。タオは森番に勧められ、卵守をよく確かめた。曲がった蹄の形に見覚えがある。

「俺の所から迷子になった卵守だと思う。あの見張り番、叱り飛ばしてしまったが、今度は褒めてやらないと。そういえば、あいつはあの騒ぎから見ていな。どこへ行ったのだろう?あの見張り番こそ竜の使いかもしれない。アシャとヴェンを俺たちから逃がし、竜の卵のために卵守を砂漠に置き去りにした・・・・・・ま、そんな不思議はあり得ないか・・・・・・」

 笑いながら、タオはアシャの頭を撫でようとした。

 腕を誰かに捕まれた。ヴェンだった。タオは噴出した。ヴェンの耳はみるみる赤くなった。アシャは卵守に夢中で全く気付いていない。

「竜の元に返してやれば、近いうちに孵化するでしょう。竜は卵守の世話にならず、自分で卵を抱えます。それに、長が亡くなれば、次の長はすぐに孵化するはずですから。竜の群れの中に行けば、自然と育児嚢を開くでしょう」

 森番は手押し車にそっと卵守を乗せた。とぼけたような頼りない顔をしていても、彼は命がけで竜の卵を守った。

「よく頑張ったね。後少し、頑張ってちょうだい」

 アシャは卵守を撫で、そっと育児嚢に唇を落した。ヴェンもアシャに習った。

 森番は、卵守を手押し車から馬車に乗せ換え、森の竜の営巣地まで向かうと言った。アシャ達は城門まで付き添い、森番の馬車が見えなくなるまで見送った。

「生まれる前に、本当の家に帰れて良かった」

 アシャは涙ぐみながら言った。

「アシャ、お前も初めから湖の王宮で生まれられたら良かったのにな」

 ヴェンは馬車が消えた方を見たまま、ため息交じりにつぶやいた。

「どうかな。わたしはラッカードの商隊で生まれ育ち、とても幸せだった。湖の王宮がどんなに素晴らしい所だとしても、生まれた場所を変えたいとは思わない。同じ養い子でも、ブセア・ケルスは、・・・・・・ケルス老に実子が生まれたら自分の存在価値がなくなるなんて、そんな考えを吹き込まれて、なんて不幸。それが、あのような悪事につながった。もっと不幸だ」

 アシャは半分泣いていた。涙を拭いて、深呼吸した。

「わたしは感謝している。愛されることを疑いもせず、当然だと信じて育った。養ってくれている家族からの愛情が消えてしまう不安など、一度も頭をよぎったことは無い。とても大切にされていた証拠だ。子供にとって、一番の幸福だ。去らなくてはならない時にそれに気が付くなんて、わたしは馬鹿だ」

 アシャはとうとう大粒の涙をぬぐう事も忘れ、自分の方に向き直ったヴェンを見ていた。

「当たり前じゃないか。お前は何よりも大切だ。いつまでも。だから、湖の王宮に行ってしまっても、俺たちがくだけた言葉で話さなくなって、王女様として扱っても、よそよそしいとか家族じゃないなんて思うなよ。俺たち、ラッカードは何時までもお前と共にある。離れても、立場が変わっても、心の中では家族だ。家族の愛情は消えない」

 ヴェンは腰に付けた布で、アシャの頬の涙を拭いた。

「ハナの商隊だって、いつまでもアシャの仲間だよ」

 ハナはアシャの背を抱いた。

「跳ねっ返りの王女。毒で捕まえ、気を失っていた時に、ちゃんと印を確かめておけばよかった。そうすれば、もっと早くお前の生まれを知らせてやれた」

 タオの発言を、ヴェンは下からにらんだ。

「そんなふうに見られてたまるか」

 タオとハナが大笑いした。

 四人は城に戻った。


 城の中に入ると、アシャはハナの商隊の皆に挨拶に行った。タオはメテアを探しに行った。タフトの世話をしに行こうと厩舎に向かうヴェンを、兄の一人が呼び止めた。

「ヴェン、話がある。いいか」

 近づいたのはキリアだった。ヴェンは身構えた。最近、キリアとはうまくいっていない。 

「父に許婚の伺いを立てた。・・・・・・アシャとの」

 キリアはすぐに本題に入った。ヴェンはなんとか言葉を返した。

「・・・・・・そうか。キリアなら、王室も許すかもしれないな」

「平民とは言え、ラッカードは砂漠の王室につながる末裔。今回の活躍もある、家柄は認めてもらえるだろう。アシャを手に入れれば、父上は、きっと俺を跡取りに指名するだろう」

 キリアは、そっぽを向くヴェンの腕を掴んだ。

 ヴェンはさらに身を固くした。

「アシャを幸せにしてやってくれ。大切な・・・・・・養い娘なのだから」

 ヴェンはキリアの手を外そうとした。

 キリアは阻み、さらに強く腕を握った。ヴェンの顔を覗き込んだ。

「お前はそれでいいのか?俺は、兄弟で一番で居たいとか、父の認めた娘だからアシャを得たいとか、そんな気持ちで言っているのだぞ。お前は、鳥使いのヴェンと人に噂され、砂漠で知らぬ者は居ない。母に似た美貌で、どんな人の心も掴んでしまう。アシャも父も、お前を一番信頼している。誰からも愛されるヴェン。俺は、そんなお前への嫉妬でどろどろだ。だから、アシャが欲しい。なのに、お前は、俺を止めてくれないのか。俺も、ブセア・ケルスのように闇に落ちろと?」

 キリアの言葉が終わらないうちに、ヴェンは掴まれていた腕を一振りで振り払い、逆にキリアの胸元を掴んだ。

「もう一度言ってみろ」

 ヴェンの声は地を這うように低く、怒りにかすれていた。

「お前が羨ましい。美しく賢く、空高く飛べて、誰よりもアシャに慕われ、父に信頼され、多分、跡継ぎとなるお前が妬ましかった。だから、アシャを娶りたいと父に言った」

 キリアはヴェンに胸元を掴まれたまま、落ち着いた声で言った。本心からの言葉ではない。でも、それは言えない。

「そんな気持ちのキリアに、アシャは渡さない。アシャは、・・・・・・アシャは、俺がずっと大切に守って来た。すごく大切だ。あいつを幸せにするやつにしか渡さない。それに、俺なんか。・・・・・・嫉妬を感じるのはこっちの方だ。俺を見てみろ、キリア。病弱な生まれのせいで、この身長だ。ちっとも男らしくない。鳥に乗れることがなんだ。俺が強くなるには、それしかなかったから。キリアや他の兄たちが妬ましい。体格が良く見るからに男らしい兄たちのように生まれたかった。だから、アシャを諦めようとした。キリアなら・・・・・・なのに、そんな気持ちで・・・・・・」

 ヴェンは、廊下の壁に、キリアの背中を打ち付けた。掴んでいた胸元を更に引き下げ、利き手を振り上げ、こぶしを握った。

 キリアは殴られると思った。ヴェンに殴られれば、自分の本心も納得する。

 バキッと、キリアの顔の横の板張りの壁に穴が開いた。

「アシャに手を出すな。俺は許さない」

 壁の穴に手を突っ込んだまま、ヴェンは唸るように言った。

 キリアは、抵抗しなかった。逆に、両腕をヴェンの背中に回し、ぐっと抱き寄せた。

「ありがとう、ヴェン。どんな時も、そうやって愚かな兄を叱ってくれ。お前のように欠点を長所に変えられるように諭してくれ。俺も努力したい。したいが、不安に駆られる。時々、この立場に、次男としての責任に、自分を失いそうになる」

 キリアは、ヴェンの首元に顔を埋めて、小さな声で囁き、涙をこぼした。二人はしばらくそうしていた。泣いているのはキリアだけではなかった。

 ヴェンは壁の穴から拳を抜いた。血がにじむ手で、キリアの背中を撫でた。

「父の不在の間、キリアがずっと隊をまとめて来たじゃないか。大変な役目だ。不安で焦ったって、恥ずかしくなんかない。それぐらい、必死だったから」

 二人は体を離し、互いの顔を見た。涙と鼻水が顔にいくつもの筋を作っていた。そんなおかしな顔に、声を立てて笑った。また、涙が出た。汚れた顔のまま、更に笑った。肩を組んで、タフトの厩舎に向かった。


 森の王ゲレル・ヒューレーは、執務室で財務状況の洗い出しを大臣たちとしていた。ムアド・テクムーのせいで、豊かだったはずの森の国の国庫も尽きかけていた。

「テクムーの財産を没収しましょう。税は、今年度は無しにして、王室も苦しいでしょうが、まずは国民の生活を立て直しましょう」

 財務大臣が言った。

「軍人が多すぎます。元々農民だったのに無理やり軍に入れられ、彼らの畑は荒れたままです。彼らを解雇し、浮いた人件費を農業再開の費用にして、農民に配りましょう。そうすれば、食料供給は改善します。食料が増えれば、物価も下がります」

 別の大臣が提案した。次々に意見が出る。

「軍備のためかき集めた金属製の品は、持ち主に返せるものは返そう。市場に金属製品が出回るように、余分な金属は王室や軍隊から放出しましょう」

「植林を重点的にしましょう。軍備のために使ってしまった森林を、元に戻さなくては」

 沢山の意見が出た。ムアドのような独裁にならないよう、国を動かす仕組みを早く検討し直さなくてはいけない。若き王は大臣たちを見て心に誓った。国を継ぐ者は大勢いる。後継者を作るためによそを向いている暇はない。自分の幸せより、まずは政務だ。


 湖や砂漠の王室やその警護の者達は、数日間、森の都や王宮に滞在した。あまりにも目まぐるしい出来事は、全ての人に休息を必要とした。ウォセも体調を戻しつつあり、他の人々の旅立ち時期に合わせられそうだった。

 出発の日の早朝に、アシャの寝室に森番の使いが来た。

「昨日の夕刻に、卵守が育児嚢を開きました。数時間で竜の子が孵化します」

 アシャは手早く着替え、馬を駆って営巣地を目指した。行き先と目的を書いた置手紙を残して来た。同じ部屋のハナが目覚めたら、手紙に気づきヴェンに知らせてくれるだろう。日の出前にヴェンの寝室に行くわけにはいかない。アシャは学んだ。

 アシャが森に着くと、東の山から日が昇り始めた。森番の門に乗ってきた馬の手綱を結び付けた。戸を叩くと、中から森番が出て来た。

「ずいぶん早かったね、お嬢さん。朝食は食べたのかな?」

「まだだけど、先に卵守に会いに行けないかしら」

「いいとも」

 森番はすぐに馬を出し、アシャを連れて営巣地の中に踏み込んだ。

「竜は怒らないかしら」

 勢いで来たが、アシャは急に不安になった。竜を間近で見たことなどない。

「私と一緒だから、大丈夫。大きな音を立てない事、急な動きをしない事、何があっても剣を抜かない事、守ってください」

 二人の乗った馬は朝露を載せた草を踏み、静かに営巣地の中心に向かった。大きくて緑の鱗が光る竜たちは、丸くなって目を閉じていた。竜たちは程よい距離を取って丸まっている。彼らの群れの中心に向かうほど、一頭一頭の間隔が密になり、数も増えた。四頭の竜が、中心で卵守を取り囲むように休んでいた。森番は馬を止め、降りた。アシャもそれに従った。馬は、まだ誰も食べていない柔らかで美味しい草を静かに食んだ。二人は足音を立てないように、ゆっくり卵守に近づいた。背中の育児嚢は全て開き、中の卵は丸見えだった。卵は薄緑と濃い緑が入り混じったまだらな色をしていた。とがった方のてっぺんに穴があった。穴から丸い卵のお尻に向かって、びりびりとひびが入っていた。今も、卵の内側から、コツコツと殻をくちばしでつつく音がする。アシャは嬉しくて目を輝かせた。卵守はと言うと、背中の様子とは不釣り合いなほどぐっすり眠っていた。アシャは思わず笑った。

 森番は背中の鞄から朝食のクックを取り出した。窯で焼いたクックに、冷めた焼肉と生野菜が挟まれていた。

「朝ごはんにしよう」

「ごちそうになります」

 アシャはクックを受け取り、すかさず大きな一口をかじり取った。その様子を見た森番はクスクス笑った。アシャは少し赤くなったが、一緒に小さな声で笑った。朝食を取りながら、卵のひびが広がり穴が大きくなっていくのを見守った。時々、可愛い緑のくちばしが穴から覗いたり、片目で外を見ていたりする。竜の子供はどんな姿だろう。アシャはワクワクした。

 太陽が顔を出し切った時、上空が一瞬暗くなった。アシャが見上げると、大きな鳥が低く飛びこちらに向かってきていた。竜の背をかすめそうなくらいの高度で静かに滑空してから、その鳥は飛び去った。タフトだ。タフトが飛び去る前に、身軽な男がタフトから飛び降りた。勿論、ヴェン・ラッカードだ。ヴェンは、アシャの置き手紙をひらひらさせながら近づいた。

「どうして起こさなかった。心配したぞ」

 ヴェンは大声にならないように気を付け、口だけ大きく開けてアシャに詰め寄った。

「だって、わたしが夜も明けないうちにヴェンの寝室の戸を叩いたら、また何か言われる」

 アシャは真っ赤になりながら言った。ヴェンは赤くなったアシャに戸惑いながらも、何も言い返さなかった。代わりに、アシャの食べかけのクックに大きくかぶりついた。

「あ、あたしの朝ごはん‼」

 嗜めるアシャの声が大きくて、ヴェンは慌ててアシャの口を手のひらで覆った。

「静かにしろ」

 ヴェンは果物や飲み物、他にもいくつか食べ物を持ってきていた。三人で朝食の続きを取った。

 食べ終わった頃、卵の穴はさらに大きくなっていた。三人が見守る中、くちばしではなく、もっと大きなものが中から穴を押した。竜の子の頭だ。メリメリと小さな音がして、卵の殻が大きく壊れた。きょとんとした顔が穴の中から突き出ている。竜の子はキュウキュウと鳴き声を立てた。

 眠っていた竜たちは目を覚まし、中心に居た一頭の竜が竜の子に近づいた。くんくんと匂いを嗅いで、鼻先を竜の子のくちばしにくっつけた。

 竜の子は鳴きながら、嬉しそうにその鼻先に頭をすり寄せた。竜の子は卵の殻の中で立ち上がった。穴から前足を出し、殻の外に乗り出した。バランスが崩れ、卵守の背中から殻ごと転がり落ちた。思わず腕を差し伸べたアシャの胸に、殻を突き破った竜の子が転がり出た。

 キュウキュウ。竜の子はまじまじとアシャを見た。アシャは竜の子の頭を撫でた。ヴェンも。二人は顔を見合わせて笑った。なぜだか胸が熱くなった。

 森番はアシャから竜の子を抱きとると、一番大きな緑の竜に子を掲げた。大きな竜はゆっくりと右の前足を出した。森番は前足の上にそっと竜の子を乗せた。

 竜と人間は、有袋類や哺乳類にも通じる性質も併せ持っている。竜と人間の母親は、有袋類や哺乳類のように母乳が出て、卵から産まれた子供は食事がとれるようになるまで母乳で育つ。

 大きな竜は、右の前足を自分の腹の方に動かした。竜の子はその腹の乳に吸い付き、ごくごくと喉を鳴らし始めた。

 竜の子の左腕にとても小さな球体が握られていた。森番は無言で二人をつつき、指でそれを指して頷いた。

 竜王は戻った。卵守が守り抜いた。これからは、他の竜たちが守り育てるだろう。

 三人は卵守をねぎらい、アシャの馬に乗せて固定した。タオに返そう。卵守も、やっと自分の家に帰れる。森番は馬に乗り、卵守の乗った馬を引いて小屋に向かった。

 ヴェンは指笛を鳴らした。アシャの手を取って一番近くの竜のしっぽに乗った、二人は竜の背を駆け上がった。竜が気づいて振り払う前に、飛んできたタフトの脚に飛びついた。タフトの脚にぶら下がったまま、朝の風を切った。なぜだか知らないけれど、すごく幸せだった。卵が孵化するって素敵だ。互いに見つめ合った。そして、笑った。小さな笑い声は、大きな笑い声になった。思い切り笑った。

 城では出発の準備がほぼ終わっていた。二人は笑いながら、そこへ飛び降りた。


 湖の都への旅は順調だった。湖の国境の町で休憩した。今回は宿泊せず、遅くなっても都まで向かう予定だった。女王は尽力してくれた町の人達に感謝の言葉をかけ、情勢が安定したら街の設備を充実させると約束した。

 深夜遅く、一行は湖の都に着いた。

 城の中には、ウリ女王とダルチ王とリュイ王子、湖の宰相ヌクスと湖の警護たちが入る。ハナの隣で馬に跨っていたアシャは立ち止まった。

 アシャの馬の元に、ガル・ラッカードが馬から降り歩み寄った。

「アシャ王女様。養い娘として、今日まであなたの成長を見守る喜びを与えてくれて、ありがとうございました。ラッカードの者は、王女と共に過ごせて幸せでした。これからのアシャ王女としての未来も、これまでと同じように幸福で輝く日々が続くことを我らは祈っています」

 ガルはアシャの左手を取り、その甲に口づけた。アシャは馬上で涙ぐんだ。

「父上・・・・・・」

「さあ、王女様はお城へ」

 アシャは頭を振って涙を飛ばした。顎を上げた。

「今日まで、娘として、家族として、養い慈しんでいただき、ありがとうございました。ラッカードの者として恥ずかしくないように、今後も励んでいきます。父上、お元気で」

 アシャは目を瞬いて、涙が零れないようにした。ヌクス宰相に続き、城の門の中に消えて行った。

「元気でお過ごしください、アシャ・ヤルブ王女」

 アシャは振り返らなかった。


 深夜に湖の屋敷に着いたと言うのに、ヴェンは日の昇る前に目が覚めてしまった。物音を立てて他の者を起こさないように、そっと厩舎に向かった。もうすぐ日が昇る。薄明りの中なら、タフトも飛べるだろう。

 自分から遠ざかっていくアシャの後姿が、目に焼き付いて消えない。離れると覚悟していたが、胸の痛みは予想以上だった。

 うつむいたまま厩舎の戸を開けた。

 目を上げ、その光景を見て、ヴェンは息がとまった。

 真っ白な皮が地面に転がっている。何者かが、あの白い見事な砂漠馬の皮を剥いだのか。

「誰がこんなひどいことを!」

 ヴェンは駆け寄って皮を抱きしめた。

 その時、空気を切り裂く音がした。

 空を見ると、見たこともない大きな銀色のものが飛んでいた。

 タフトを厩舎から出し、銀色の空飛ぶものを追いかけた。タフトの羽は強く早い。普通の鳥や動物なら、すぐに追いつく。しかし、銀色のものはタフトと同じくらい早く、ついて行くのがやっとだった。

 昼過ぎ、銀色のものは高度を下げた。砂漠の真ん中、迷い卵守を拾った辺り。ヴェンも降り、タフトを近くの岩場に行かせた。

 砂漠に降り立つと、銀色のものは消えていた。代わりに、白い変な服を着こもうとしているウォセがいた。

「ウォセ?ここで何をしている?」

「ヴェン?」

「その姿は?」

 ウォセは沈黙した。

 ヴェンが見ている目の前で、ありきたりの砂漠の景色がゆがんだ。ゆらゆらと動いて見える。よく見ると、砂漠と同じ色をした大きな箱が目の前にあった。箱の扉が開いていて、中からエミナと銀色のものが出てきた。

「ヴェン、まあ、なぜここにいるのですか?」

 ヴェンは言葉も出なかった。白馬の皮を差し出した。

「驚いたことでしょう」

 エミナは皮を受け取った。

「何と言ったらいいのか。これはブレナイトの・・・・・・白い砂漠馬の皮なのだけれど、皮がはがれても彼は死んでいないの。それは安心して」

 エミナは隣にたたずむ、今は荷台のような形をした銀色の塊を撫でた。

「ヴェン、我々は重罪を犯した逃亡犯、スカー・ルンブルを追って来た。宇宙(そら)の彼方から・・・・・・」

 ウォセは片方の手で空を指さし、片手で頭を掻きながら話し始めた。

「ブセア・ケルスが、その逃亡犯だったのか」

 全部聞かなくても、ヴェンはなんとなく飲み込めた。

「そうだ。我々は仕事を終えた。元の世界に戻らねばならない」

「元々、不思議な人たちだった。砂漠の真ん中から、突然湧き出したかのように現れた。もっと深く考えるべきだった。逃亡中で、思いもしなかった。この星の人じゃないなんて・・・・・・」

 エミナが眉尻を下げてヴェンに謝る。

「ごめんなさい。みんなに知られないうちに消えようと思ったのです。慌てていて、ブレナイトの皮を忘れてしまいました。驚かせてしまいましたね」

 ヴェンは何も言えなかった。

「ヴェン、このことは、誰にも言わないで欲しい」

 ウォセが深々と頭を下げた。ふさふさとした房ごとに色の違う髪、金色がかった琥珀の瞳、森の狼の姿そのものだ。そして、エミナは『砂漠の女神の贈り物』そのものだ。ヴェンは納得できた。

「言い伝えの通りだ。『民の声に呼ばれ、戦乱の狼が来(きた)る。黒き女神、白き神馬(しんま)に跨り宇宙(そら)より舞い降りる』ドランナジュムの約束の書、始祖の言葉の予言・・・・・・」

 ウォセとエミナは、自分たちの知らない伝承に驚いた。顔を見合わせ、少し笑顔になった。

「ヴェン、今後、同じような混乱がこの星でまた起こるかもしれない。女神も戦乱の狼も、既に去った後だと聞いたら、民は希望を失う。それに俺たちは伝説の狼でも女神でもない。だから、我々の事は誰にも言わないでくれ。砂漠の果て、・・・・・・砂漠の竜のオアシスに、修行に出たと伝えてくれないか」

 ウォセの言葉に、ヴェンは首を振った。

「追いかけたけれど、追いつけなくて、どこに旅立ったかわからないと告げよう。嘘はつけない。宇宙(そら)に旅立つなら俺は追いつけないから、嘘にはならない」

 二人は頷いた。

 ヴェンの見守る中、ブレナイトが宇宙船を引き出した。擬態塗料を塗っていたコンテナは、自動で折りたたまれ、宇宙船内に収納された。ブレナイトは変形して、宇宙船の一部に組み込まれた。

 墜落した開拓宇宙船も、ウォセたちが旅をしている間に回収されたようだ。もう、惑星ラウルスには異星の痕跡は残っていない。

「ヴェン、一緒に旅をして、楽しかったです。ありがとうございました」

「元気で」

 簡単な言葉を残して、エミナとウォセは宇宙船に乗ろうとした。

 ヴェンは思わず二人に駆け寄り、抱きしめた。白い服のウォセはごわごわしたし、エミナはなんだかアシャと違って硬かった。でも、そんなことはどうでもよかった。

「ありがとう。この星を愛してくれて」

 ヴェンが砂丘の頂で見守る中、二人を乗せた銀色の宇宙船は砂を巻き上げ離陸した。一気に加速し空に昇り、雲一つない空を抜け、彼方に飛んで行った。

 ヴェンは動けないでいた。何もない空を見ていた。

 どれくらい、そうしていただろう。珍しくタフトが鳴いた。

「うん、帰ろう」

 ヴェンはタフトの太い首に腕をまわした。

 その日の夕方遅く、ヴェンは湖のラッカードの屋敷に戻り、ウォセ達が居なくなって探したけれど、追いつけなかったと説明した。

 謎の多い二人は、最後まで謎のまま。誰も、それ以上詮索しなかった。かれらは砂漠の竜の使いで、役目をはたし西の砂漠に帰ったのだと言う者もいた。ヴェンは否定しなかった。どんな形でもいい、彼らの勇気が後の世に言い伝えられてほしい。

 明日の朝、砂漠の一行は発つ。ラッカードの者たちは午後のうちに、正式に王位継承者となったアシャと別れの挨拶をすませていた。ヴェンは間に合わなかった。会えないまま旅立たなくてはならない。もしかしたら、いや、たぶん、もう二度と会えないかもしれない。

 それでもましだ。今日別れた二人とは違う。同じ星の上に居られる。同じ月を見て、同じ太陽を見る事ができる。ただ、隣に居ないだけだ。

 何でもないふりをした。妹分と別れるだけだ。

 それだけの事なのだけれど。

 ヴェンは、湖面に揺れる月を見ながら、あの笑顔を想った。


 湖の城では、夕闇の湖畔をウリ女王が独りで歩いていた。歩くたびに、腰に巻かれた組紐の鈴のかすかな音が響く。彼女は物思いにふけっていた。砂漠の王と王子は明日出発する。タオ・オビスは、彼らの臣に返り咲く事だろう。世継ぎのリュイ王子はお妃を娶り、次の王位継承者が生まれるのを期待されるはずだ。治世に関して、彼の事を心配する必要はないだろう。立派な人物なのは、ウリ女王自身が一番知っている。民のために良い治世を行い、それを幸せとするだろう。

 王族とは、そのようなものだ。個人の幸せを考えてはいけない。国全体が幸せに生活し、国が滅ばないように役目を果たす。それを成し遂げる事だけに、幸せを見出す。ウリ女王自身も、そのように律してきた。

 だが、明日からは、何を励みにこの役目を果たしていけば良いのだろう。

 ゆったりと、草木の茂る小道を進んだ。 

 背後からの気配に、女王は振り向いた。すぐそばまで、背の高いがっしりとした人物が近寄っていた。力強い腕に抱きすくめられた。この人の香りをよく知っている。

「やめて下さい」

 ウリ女王は胸を押した。たくましい胸はびくともしなかった。

「父の許可を得てきました。湖の宰相ヌクスにも。だから、私と一緒に砂漠に来てください」

 聞きなれた穏やかな声が頭の上から降って来た。女王の頭の上に顎を乗せて、その男性は続けた。

「ウリ女王、私と砂漠に来てください。湖の国には、今はアシャ王女が居ます。女王が外交で城を空ける事も許されるはず。砂漠の都を一緒に見ましょう。砂漠の王子襲名の儀式に参加して下さい」

 抱きしめたままその男性は言った。

「砂漠の城の儀式なら、わたくしが出席しても、わがままとは言われないでしょうか」

「言わせません。来てくれますか」

 腕を緩め、その男性は女王の顔を覗き込んだ。

「ほんとうに、ついて行ってもいいのですか」

「若輩者で、まだ正式な砂漠の王子の地位も無く、このような事を言える立場にないと分かっています。それでもウリ女王、貴女を離したくない。幼い時から、ずっとあなただけを見て来ました」

 リュイ王子は囁き、ウリ女王の頬にそっと右の人差し指を添えゆっくりと撫でおろした。

「わたくしは貴方より十三も年上です。母親に近いほどの年なのですよ。もっと若く、たくさん卵が産める女性の方がよいはずです。それに、湖の王族は男児を儲ける事ができないと言われています。私は相応しくありません」

 身をよじって、王子の腕から逃れようとした。

「かまわない。これまで守ってきてくださった女王を、今度は守らせてください」

「真実を告げなかったことを、許してください。ずっと苦しかった。貴方がフフ女王の王子でないと薄々知っていました。姉たちの子供か従姉の子供をフフ女王のお子様の身代わりにしたと思っていました。でも、万が一、王家の子供でなく、一般の民の子供だったら・・・・・そのことが人に知れれば貴方は殺されてしまう。わたくしは、貴方を失うわけにはいかなかった。一方でこうも思いました、貴方が王子である限り、わたくしは貴方を思うことを許されない・・・・・・」

「同じように思っていました。許されないと。でも、違った。だから、一緒に来てくれますね」

「・・・・・・砂漠の儀式には行きます。・・・・・・今の話は忘れてください。このひと時だけで、わたくしには十分です。遠く離れても、いつまでも貴方の身の安全を祈っています」

「あなたの言葉を何一つ忘れはしません。もう、離しません。そのためなら、どんな努力でもします」

 王子は額に唇を落した。

「きっと、後悔なさいます」

「しません」

 リュイ王子は手を取った。しっかりと握った。うつむいていた王女は、その手を握り返し顔を上げた。

「わたくしも、もう二度と後悔しません」

 ウリ王女は一歩踏み出した。

 不幸な者が治める国など、幸福になるはずはない。王族も、自分自身の幸せを手に入れなければ。

 二人は、ゆっくりと小道を進んだ。

「散歩が済んだら、大臣たちに明言しましょう。私が砂漠の王子になる儀式に、貴女が同行すると」

「はい」

「そのまま、結婚の儀にしますよ」

「おそばについていくとは決めました。でも、それは無理です。砂漠の国では、王族も貴族も、側室があると聞いています。わたくしをおそばに置いてくださるなら、側室で」

「何をおっしゃる。妃になってください。それに、湖の王族は側室など置きません。私が砂漠の王子になっても、育ったしきたりを変えるつもりはありません。旅の間に、皆も、貴女も、説得してみせます」

「ずいぶん自身がおありなのですね、リュイ王子」

「勿論。ウリ女王が私を想ってくださっていると知っただけで、何でもできる気がします」

「できるかしら」

「きっと、二人なら」

 小道の先に大木がある。その上の方に、なよやかな丸い葉を付けたヤドリギも見えた。ヤドリギの葉の隙間から月が見える。二人はそこを目指して歩いた。

丸く茂る葉の下で、二つの影は一つになった。 


 翌朝、旅人達は砂漠の都へ出発した。アシャは、会議室の手前のバルコニーから、行列が去るのを見送った。

 昨日、ウォセとエミナ、そして、ヴェンの姿が消えた。夕方になってヴェンだけが戻り、ウォセとエミナの後を追ったが見失ったと聞いた。二人には申し訳ないが、ヴェンだけでも無事でほっとした。

 昨日ヴェンが出立の挨拶に来なかったのは、アシャに会いたくないからではなかった。それを知って少しは慰められた。

 思い出してしまう。竜の子が生まれた瞬間、ヴェンを見た。ヴェンもアシャを見た。胸が震えた。これが自分の卵だったらどんな気持ちだろう、そう思ってしまった。この気持ちは、誰にも言えない。自分の産む卵の父親を初めて考えた。誰を考えたか、・・・・・・言えない。

 ウリ女王は砂漠への旅に同行する。リュイ王子を砂漠の王子と公表する儀式に出席する。大臣たちからそう聞いた。そして、そのまま婚儀になる可能性が高いとも。

 だから、王位継承者として、湖の国の治世のためアシャは王城に残る。

 誰かが代表となり、正しく国を治めれば、退位した王族がどのように過ごしても許されるべきだ。ウリ女王は結婚もなさらず、ずっとお一人で女王の任を務めて来られた。もう、自由を享受されてもいいはずだ。誰もがそう考えていた。

 アシャが過ごしてきた砂漠の国は素敵だ。自由に過ごせたラッカード家での生活は、かけがえのないものだった。自分が満喫した自由を、ウリ女王にも味わってほしい。

 今回もしんがりはラッカードの商隊だった。西の街道を進むひとつひとつの後姿、それが誰なのかアシャにはよくわかる。癖のある姿勢、乗っている砂漠馬、衣装、背にまとう気配。家族だと思っていた人たちが小さくなっていく。

 ウォセとエミナにもう一度会いたかった。あの大きな馬のブレナイトにも。

 そして、誰よりも、・・・・・・ヴェン。

 もう、会う事は無いだろう。涙も出ない程、心が凍る。

 ヴェンは、多分、次の長に選ばれるだろう。ヴェンには、ラッカードの長となる道を歩み、美しい妻と末永く幸せに暮らして欲しい。ヴェンの幸せだけを願う。泣いてはいけない。長きにわたって消息不明だった湖の王女として、次の王位継承者として、輝かしく人々の前に立たなくては。

 口の中で、戦士の書を唱えた。

『能力は、責任を伴う。

立場は、理性を必要とする』

 アシャは両手をぐっと握った。涙をこぼさないように瞬きをし、少し顎を上げ、会議室へと続く廊下を振り返った。ゆっくりと歩き出し、アシャを待つ大臣たちのもとに向かった。

 アシャが会議室のドアに近づくと、衛兵は敬礼し両側から開けた。アシャは彼らに軽く会釈し、室内に歩を進めた。一歩一歩、心を固めて上座の空席に向かった。

 それなのに、会議室の窓の向こうに大きな鳥の影を見るだけで、決心が揺らいでしまう。

 椅子の前に立ったまま、窓の外に視線を移してしまった。

 挨拶しなくては。視線を戻し、アシャは口を開けた。しかし、考えて来ていた最初の言葉を、どうしても思い出せない。

 アシャは口を開いたまま、窓に目をやった。財務大臣が席を立った。

「アシャ王女、何か飛んでいます。いったい、なんでしょう。確認しなくては安心して会議を始められません。申し訳ございませんが、噂に聞くアシャ王女の優れた視力で、あれは何か見極めていただけないでしょうか」

 財務大臣は窓の向こうを指さし、静かに言った。彼にもそれが何かなどわかりきっている。あの大きな鳥は、鳥使いのヴェンの乗るタフトだ。

 財務大臣はアシャに頷いた。

 アシャは窓に近づき、足元まである大きな窓を開けると、指笛を短く吹いた。

 タフトは力強く羽ばたき、旋回した。小柄な男がタフトの背から飛び、バルコニーに降り立った。ひざまずくように着地した姿勢から、顔を上げる。

「申し訳ございません。昨夕、旅立ちのご挨拶ができなかったので、タフトの背から、一目お姿を拝謁させていただこうと思ったのです、・・・・・・」

 押し殺した声で言った。

「ヴェン」

 窓の敷居から一歩も動けない。ヴェンは駆け寄った。もう一度ひざまずいて、アシャの服の裾に口づけた。

「湖の国の王位継承者、アシャ王女様の健康とお幸せ、ならびに、湖の国の繁栄を心よりお祈り申し上げます。どうか、健やかにお過ごしください」

 ヴェンは顔を伏せたまま言った。

「顔を上げてくれ、ひざまずくな。ヴェン、ちがうだろう?わたしは、何時までも、お前の家族だと言ったじゃないか」

 声が震えた。

「いいえ、貴女は湖の国の王女、アシャ・ヤルブ様。王族は、商隊の息子などに、そのような言葉をかけてはいけません」

 ヴェンは足元を見たまま答えた。アシャはしゃがみこんだ。

「ヴェンが立ってくれなくては、わたしも立てない」

 涙がヴェンの靴に落ちた。一粒、また一粒。とめどなく落ちる。

 ヴェンは顔を上げた。立ち上がり、アシャも引き上げて立たせた。

「王女は膝を折ってはいけません。学んでください」

「そんなよそよそしい言葉はいやだ。見捨てられたような気がする。ヴェンだけは、昔のように、アシャと呼んでほしい。ヴェンだけは、・・・・・・妹だと言ってくれ・・・・・・」

 涙は、堰を切ったように止められなかった。

「・・・・・・アシャ」

 ヴェンは、両手でアシャの頬を包んだ。

 すすり泣きは徐々に治まった。ヴェンは、頬から片手を外して、アシャの涙をぬぐった。

 目が合うと、ヴェンは片方の口角をきゅっと上げた。視線は、懐かしいそれに戻っていた。

「悪いが、アシャ、俺はお前の事を、一度も妹だと思ったことなどない」

 予想外の事を言われ、アシャはあっけにとられた。

「そんな・・・・・・」

「お前は妹ではない。・・・・・・俺の宝だ」

 ヴェンの瞳は、これまでアシャが見た事のない色に染まっていた。

「アシャ。俺はまるで、お前の卵守のようだった。ずっと包んで守って来た。そうやって過ごした毎日は、俺にとってこの上も無く幸せで、お前は俺の喜びの源だった。かけがえのないひと時を分け合う相手だった。アシャが本当の家に帰るまで、無事に守り通せた。自分の果たした役目を、俺は誇りに思っている。だから今度は、お前が大切な役目を果たし、俺の誇りになれ。やり遂げて見せてくれ、俺のために。そして、相応しい相手に出会い、末永く幸せに。それが、お前を守り続けた卵守の願いだ。お前の幸せが、俺の幸せ。・・・・・・いつまでも変わらす、遠くでお前だけを想い続けているから」

 ヴェンはさっと立ちあがると、見とれるような笑顔になった。身をひるがえし、走りながら指笛を吹いた。王宮のバルコニーの手すりを踏み切って、空に向かって飛び出した。タフトがその下に飛び込み、ヴェンを背に乗せた。

「アシャ、元気で」

 手を振り笑うヴェンの瞳が、泣きそうだと思うのはどうしてだろう。

 ヴェンが出発の合図をしても、珍しくタフトは従わなかった。タフトは王城の周りを旋回する。

 輝いていた笑顔が崩れ、涙が一粒零れた。タフトの翼が巻き起こす風で飛び散り、光を浴び虹色に煌めく。

 アシャの視力はそれを捉えた。考える前に体が動いた。立っていた窓の内側から、三歩でバルコニーの手すりを踏み切った。空に飛び込んだ。両手を広げ、空気抵抗をつける。

 大臣たちが悲鳴のような叫びをあげた。

 アシャに向かって急降下する羽音が迫る。強い腕がアシャをしっかり抱き留めた。

「捕まえたぞ。全く、何をしでかす」

 タフトはぐっと上昇し、城の屋根の上を飛んだ。ヴェンはアシャを強く抱きしめ、頭に頬をすり寄せた。

「ヴェン以外、誰がわたしを捕まえられると言うのだ。宝なら、誰にも渡すな」

 アシャはヴェンを見上げた。ヴェンは目を閉じた。

「・・・・・・だめだ、・・・・・・アシャ。『身分は責任を伴う、立場は理性を必要とする』戦士なら分かるだろう。やり遂げるアシャで居てくれ。そのために、守り、教え、育てたのだ。それが、俺の願いだ」

「・・・・・・やり遂げたら、迎えに来てくれるのか」

 呟きは、湿ってしまった。

 ヴェンは目を閉じたまま、軽く、頭を振った。

「さあな」

 ヴェンは瞼を開けると、右の眉を少し上げて、軽く首を傾けた。

 滞空しているタフトに跨ったまま、ヴェンはバルコニーにアシャだけをふんわり投げて下した。

「お前が幼生のままならいいのにと、思い続けていた。でも、もう思わない。強い大人になれ。俺が認めるくらい立派な統治者だと、証明してみろ。ずっと見ているから。それとも、独りじゃ、なにもできない弱虫か?」

 ヴェンは、タオの檻の時と同じように、低く張った声で意地悪く言ってにらみつけた。

「弱虫なんかじゃない!見てなさい!」

 思わず、力いっぱい言い返した。

「そうだ、アシャ。腹を立てろ。その意気だ」

「ヴェン、わざと?」

「もう一つ言っておく。二度とバルコニーから飛ぶな。・・・・・・次、俺がお前を捕まえるようなことがあったら、・・・・・・覚悟しておけ」

「・・・・・・覚悟しておく!」

 二人で新たな冒険を始めよう。それぞれの冒険。今は離れていても、いつか、武勇伝を聞かせあえる。そんな日を夢見て。

 ちがう、必ずそんな日を迎える。そのために、・・・・・・アシャは口を引き締めた。

 力強く羽ばたき、タフトは西へ向かった。タフトの羽ばたきが見えなくなると、アシャはゆっくりと振り返り上座についた。大臣たちに就任のあいさつを始めた。

「次の王位継承者、アシャ・ラッカード・ヤルブです。大臣の皆さん、どうかよろしくお願いいたします。わたしが王位を継承者するにあたり、学ぶべき事柄が沢山あります。湖の国に恥じない者になれるよう、皆が幸せに平和に暮らせる治世が出来るよう、努力します。厳しいご指導をいただければうれしいです。ラッカードの名に懸けて、この役目をやり遂げると誓います。また、ヤルブ王家の名に懸けて、王国の平和と国民の幸福を常に考えると誓います。皆さん、わたしと国民の助けとなってください」


 

『戦士を目指すならば、全てを捨てよ。

 幸せの拠り所を、富や権力に見出してはならない。

 それらを奪う事に到達点を定めるのは、更なる悪だ。

 奪っても、満たされない。

 満たされない渇望は我欲を招く。

 願いは祈りに続き、未来が開けるが、

 我欲は、争いと破滅に続く。

 戦士が剣を取り立つべきは、災いを祓う時のみ。

 忘れてはならない。 

 能力は、責任を伴う。

 立場は、理性を必要とする。

 武術を修める者は、まず、それを修めよ。

 力を追い求めるな、それこそが破滅への一歩だ。

 能力は、己のものではない。

 能力とは、先達から引き継ぎ、高めて次に預ける魂だ。

 守護のためならば、その魂は、最強の武器となるだろう』

                 『ドランナジュム戦士の書 初心』の項より



                                <了>

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卵守(ヤイサル)ードランナジュムの物語 薮坂 華依 @kijitoranon

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