第9話 戦乱の狼
日が沈んだ。ろうそくが柔らかな明かりを投げかける。夕食のテーブルには、誰もいない。捕らわれの王達が席についているはずなのに。ムアドは召使たちにそう命じたし、逆らえばどうなるかよくわかっているはずだ。
「客人が席に着くのが遅いではないか」
大声を出し召使たちの反応を待ってみたが、何の返事も無かった。
「どうしたのだ。だれか、これへ」
ムアドは数回、召使を呼んだ。
席についてみたが、返事はなかった。違和感を覚える静寂に、急き立てられるように立ち上がった。怒りを知らしめたくて乱暴に歩いたが、分厚い絨毯は足音を吸い込む。ムアドは絨毯のない石の床の場所まで移動し、靴のかかとで床をけった。大きな音が鳴り響いた。
しかし、誰一人、召使は出てこない。
広間の入り口まで来た。入り口の左右に居るはずの衛兵も居なかった。何という職務怠慢だろう。
足音も荒く廊下を進んで行く。謁見の間にも誰も居なかった。灯りだけが煌々と燃えていた。廊下をどんどん進んで行く。湖の王妃とアシャを閉じ込めた部屋の前にも、兵は居なかった。ムアドは扉を叩こうとした。怒りに任せた拳が扉に当たると、扉は簡単に開いた。
ムアドは驚きに固まった。
そっと扉を押し、数歩部屋に入った。
誰も居ない。女王もアシャも消えていた。
ムアドは慌てた。
廊下を走り、同じ棟の端の部屋まで行った。やはり兵はいない。勢いよく戸を押し開くと、何の気配もしない。むいたままの果物が、一つだけ机の上に乗っていた。ムアドは王の居室の棟に向かった。王を閉じ込めていた部屋は、戸が開け放たれていた。床が乱れたままだった。ムアドは床に走り寄って、毛布を触った。
もう、冷えていた。
「彼らが逃げたぞ!捕らえよ‼」
ムアドは叫びながら城の玄関に走り出た。
城の玄関にも、兵は居なかった。どこにも兵も召使もいない。
ムアドは王宮の門まで行った。そこにも誰も居なかった。
夕刻前まで、この国も他の国々も、もうすぐ世界は全て自分のものになると思っていた。ムアドは、自分の空っぽの手のひらを見詰めた。
手には何もない。
掌を額に当て、ムアドはうずくまった。
質素な服を着てやせ細った人たちが、王宮の門の前に集まりだした。彼らは宰相が推し進めた軍事強化のために、それまでの豊かな生活が壊され困窮し、乞食に落ちた人達だった。ある者は元は木彫り職人、木は戦闘用の松明に利用された。ある者は、寺の鐘を武器にするために持っていかれた。ある者は、軍備のために引き上げられた高い税を払うために農地や山林を売り払い、生活の糧を得るためのもとで全てを失った。そのような、やせ衰えて不満を募らせ、うつろな目をした者達が、集まって輪を作った。十何人という弱い人々が、一歩ずつムアドに近づいた。
「城に近づくな、お前たちのようなものが近付ける場所ではない、身をわきまえよ」
ムアドは、じりじりと自分に向かってくる人々に向かって叫んだ。一人の女が足元の小石を拾った。彼女は、それをムアドに向かって投げた。小石はムアドには当たらなかったが、石畳にはねて音を立てた。それをきっかけに、小さな小石がパラパラとムアドに降りかかった。小石は雨のように止まなかった。ムアドは、小石を避けようと両腕で自分の頭や顔を覆った。
人々の輪はじりじりとムアドに近寄り、一人がムアドの上着を引っ張った。一人が手に持った木切れで殴りつけた。無力だったはずの人たちが、雪崩のように、たった一人のムアドに襲い掛かろうとした。
「暴力はやめよう、こいつと同じになってしまう」
一人の人物がそれを止めた。そして、続けた。
「裁きは我々でなく、掟通り、裁判でしてもらおう」
そう言ったのは、鐘を取り上げられた寺の僧侶だった。
襲い掛かろうとしていた人々は我に返り、手にした木切れや小石を捨てた。
「そうだ、こんな奴を殴っても、自分が汚れるだけだ」
「奴なんか、俺たちに殴り殺されるなんて、楽な死に方をさせられない」
「衛兵!こいつを捕らえて牢に入れろ」
「そうだ‼」
「我らが、こいつを捕らえたと王にお知らせしよう、もう一度、ゲレル・ヒューレー王に戻ってもらおう。統治宣言をしてもらおう」
人々は口々に言った。
「ゲレル王、万歳‼」
痩せた人々は雄叫びを上げた。
人々の声を聴き、王城の召使と兵たちが門に集まった。
召使や兵がとらわれの王たちが逃げたと知ったのは、夕食を知らせた時だった。広間への移動を促そうとしたら、三つの部屋の全てがもぬけの殻だった。扉は外から鍵がかけられ、衛兵が見張っていた。窓は外から鎧戸の閂が掛けられたままだった。どこから逃げたのか、見当もつかない。誰も手引きをしていない。
彼らは喜び、逃げ出した王達を尊敬した。王たちが安全な場所につくまで、ムアド・テクムーに気付かれないようにした。召使は、王城の門近くの食堂で、今後どうするか議論していた。衛兵たちも城門から少し離れた路地で集まり、ムアドを拘束するべきか、兵の判断で実行して良いものかと相談していた。
人垣をかき分け、衛兵たちはムアドを囲んだ。
「我らの森の国の王、ゲレル・ヒューレー様を脅し、監禁し、王位を奪おうとした罪、および、砂漠の王子や湖の女王と姫、湖の宰相を誘拐し監禁した罪で、ムアド・テクムー、貴方を逮捕します。貴方は牢に入り、正しき裁判で罪を裁かれます。手錠をかけますが、不服は有りますか」
手順通り衛兵は尋ねた。
「逮捕だと?私は王にふさわしいはずだ。先王の時代から、私が国を切り盛りしてきたのだ。私は悪くない。これまでのどの王よりも長く、平和に国を治めた」
ムアドは抵抗し、衛兵の胸倉を掴んだ。衛兵は眉一つ動かさず、何をされても手を出さなかった
「いいえ。あなたは国を荒らした」
衛兵の後ろに居た僧侶は言った。
「この国はかつてないほど貧しく不幸です。あなたを取り囲む、彼らを見てみなさい」
僧侶が指さす方向には、先ほどまでムアドを取り囲んでいた乞食たちが肩を寄せ合いひしめいていた。森の民と言えば、砂漠や湖の民が憧れるほど、豪奢で華美な文化を誇る豊かな国だった。ムアドが宰相になり私腹を肥やし、軍と兵を増強するほどに、国民は貧しくなっていった。
「私が正しいと、証明してやる」
ムアド・テクムーは衛兵を押しやり、高圧的に怒鳴った。どんどん数を増やしていく、自分を取り囲む痩せた人々を睨みつけた。
「絶対に、私が正しい」
ムアドはさらに叫んだ。
「申し開きは、法廷でお聞きします」
衛兵はムアド・テクムーに静かに手錠をかけた。後ろから背中を押し、極めて紳士的にムアドを牢に連れて行った。衛兵たちは、これまで自分たちを脅し意のままに操っていた男を、半地下の一番厳重な牢に入れた。
ムアドが居なくなった王城に召使たちは戻った。
一日も早く王が戻り元の生活ができるように、彼らは働き始めた。一人の衛兵が早馬を駆った。ムアドの逮捕を王に知らせるためだ。王がたどる道は一本道。道は湖の国境へと続く。
明け方、逃げ出した王たちの一行は、湖の国境の町に着いた。静かに町に入り、往路で世話になった宿の戸を叩いた。早朝にもかかわらず、宿は温かく迎えてくれた。宿の者は、王達の安全に安堵した。町の人々すべてにその知らせは届けられ、湖のはずれの町は、一気に明るい空気に包まれた。そして、ある者が言い出した。
「きっと、森の町の人達もゲレル王の安全が知りたいはず」
町の者は同意した。王の居場所は告げず、安全が確保された事だけ知らせようと、数名の者達が国境を挟んだ隣町に知らせに行った。そこから先は、森の国の民で伝言してもらえばいい。
これまで、隣り合う森の民に対して友好的な関係があったわけじゃない。いつも、いがみ合って争ってきた。だが、共通の敵を倒すためには、それを忘れられる。
王達が宿屋の寝室に入り食事と休息を取った頃、今度は湖の都の方から、大勢の屈強な姿の集団が、国境のこの町に着いた。
町の人たちは、ムアドの配下の森の兵たちだろうと身構えた。
先頭に立ち、男たちを率いているのは年配の女性だった。双眼鏡を渡されたガル・ラッカードは、喜びの声を上げた。
「テルーの商隊だ。うちの者もいるぞ」
ガルは息子たちを伴って、テルーの一行のもとまで行った。
「テルー、来てくれたのか」
ガル・ラッカードは両腕を広げた。
「ガル・ラッカード、まだこんなところに居たのか、とっくに森の国の都に着いていると思った。もたもたするな。王を助けに行くぞ」
男勝りの口調でテルーは言った。ガルは笑った。
「その必要はない」
「なんだと。私は、あの策略家のムアド・テクムーにいいように森から追い払われ、謀反を止めることもできなかった。ただでは済まさない。さあ、行くぞ」
ガルは小さな声でテルーの耳元で言った。
「大丈夫だ。王達はご自分で逃げられた。我々が援助して、この町に居る」
周りの供の者に聞こえない声の大きさになるように気を付けた。
「なに?何を言った?」
テルーは王を助けたい気持ちがあまりに強くて、ガルの言葉が耳に入らない。
「テルー、落ち着け。詳しく説明する。お前と二人で話したい。あの宿について来てくれ」
ガルはなだめた。
「一人にはさせられない」
テルーの右腕の若い男が言った。
「では、二人で」
ガルは、女商隊長マキシ・テルーと側近の屈強な若い男を連れて、宿に向かった。
宿の入り口で、二人をヴェンが止めた。
「申し訳ない、こちらで武器をお預かりする」
ヴェンの言葉に側近の男が声を荒げた。
「何を言う。誰に対して物を言っているのだ」
ヴェンは冷静だった。
「大変申し訳ございません。裏切るなどと予想もしなかった立場の、宰相のムアド・テクムーが王に刃を向けたのです。誰に対しても、用心する事をお許しください」
男は一瞬むっとしたが、見上げるヴェンの威圧に負け、刀を渡した。
ガルは三階の南側の部屋にテルーを連れて行った。ガルがノックすると、
「入ってよい」
と、しっかりとした若い男の声がした。ガルは扉を開け、二人を先に入れた。
二人は息を飲んだ。
そこには、農民の服装はしていても、明らかに高貴な若い男が居た。
緑の瞳は逃亡の旅の疲れも見せず清んで輝き、後ろで無造作に束ねた銀の髪は朝日に輝いていた。長身の彼は、ゆっくりと立ち上がり、右手を差し出した。
「マキシ・テルー、そなたも助けに来てくれたのか」
テルーは言葉も無く王の手のひらを両手で包み、細かく肩を震わせた。
「よくご無事で。ムアド・テクムーから逃げられたのですね、本当に良かった」
「心配をかけた。申し訳ない」
ゲレル王はテルーの丸っこい肩を軽く叩いた。
「そなたも、ありがとう」
テルーの右腕の男にもゲレル王は言った。
「王、湖の都に残っている森の民にも、王のご無事をお知らせします。きっと、ムアド・テクムーが寄せ集めただけの輩は逃げ出すでしょうし、まともな兵は王の元に集まるでしょう。さあ、すぐに出発を!」
「ありがとう、テルー。だが、私も逃げた兵も走り通しだ。すぐに戦えるだろうか?」
「テルー、王はお疲れだ。今はお休みいただこう。我々で計画を立てよう」
はやるテルーに、ガルは言い聞かせた。
「その通りだ。失礼した」
テルーは我に返った。テルーの目は赤く充血し、喜びで輝いていた。子供のようだ。こんな純朴な中年女が、豪商の長とは。欲が深いくせに汚い商売には手を出さない、子供のような純粋さ。計算高いくせに、素朴な温かさにあふれている。少しばかり愚かに見える一面も、放っておけない気がして周囲の人間を引き付ける。
その姿を見て、ヴェンは決心した。きっと、この部屋に居る者は信用できる。
「実は、危険はまだ去っていません」
口を開いたヴェンに、部屋の皆が注目した。
ヴェンは懐から薬包紙を取り出した。ガル・ラッカードは思わず言った。
「湖のテルーの屋敷で、私が王の小鳥から託されたものか?薬師に渡したはずだか」
テルーと右腕とゲレル王は、驚いてガルを見た。ガルは、王に毒が盛られていたことについて説明した。
「砂漠のダルチ王が湖の都におつきになってすぐに、ご挨拶に行ったのだが、王は臥せっておられて、会えなかった。王の飼っている小鳥が飛んできたので、口笛で呼ぶと、小鳥は私の指に止まり、こっそりと薬包紙を託したのだ。それには毒が付着していた」
「わが商隊の屋敷で、そのような不祥事があったとは。申し訳ございません」
右腕の男は、テルーの代わりに詫びた。
「これは、それより前に手に入れました」
ヴェンが言った。
「では、それは、いつ、どこで?」
ゲレル王は、ヴェンに聞いた。
「はい、砂漠の王城で。王に呼ばれて城に行くと、王は体調不良で会えないと、宰相のブセア・ケルス殿に言われました。やはり、王の飼っている小鳥のメルが飛んで来て、私にこれを渡しました」
ヴェンは再び薬包紙に目をやった。
「湖の私の屋敷と、砂漠の城、その両方で同じ毒が仕込まれたのなら、その両方でダルチ王の近くに居た者、もしくは、その両方で誰かを使って毒を盛れる者・・・・・・・あの、白い馬に乗っている男と女の身元はよくわからない。疑わしくないか」
テルーは、ウォセとエミナについて聞いた。
「そうだとすると、テルーの屋敷には行けても、砂漠の王城は難しい。さらに仲間がいれば可能だが」
ガルは答えた。
「この薬包紙に毒があるかどうかはまだわかっていませんし、父が見つけた薬包紙と一致するとは限りません。一つだけわかっているのは、森の王の危険は去っても、砂漠のダルチ王の危険はまだ去っていない。ムアド・テクムーと手を組んでいるのかいないのか、それはまだわかりませんが、ムアドとは別の悪人が居るはずです」
ヴェンはガルを見詰めて言った。
「言う通りだ、ヴェン。テルーの屋敷での薬包紙の事があったから、テルーから剣を預かったのだな」
ガルはヴェンに確かめた。
「はい」
「あたしを疑ってくれるとは、なかなかいい跡継ぎだね、こんなきれいで純真な顔をして、いろんなことを飲み込んでおける。お前にそっくりだよ、ガル・ラッカード」
テルーは怒らず、笑って尊敬のまなざしを送った。
「何もかも隠せない貴方とは反対ですね、我が長マキシ・テルー殿」
テルーの右腕の男はややからかうように言った。
「それがあたしのいいところだ」
テルーは笑った。
「時間を取って申し訳ございませんでした。どうかお休みください。後は私たちにお任せを」
ガルは王に一礼し、部屋から出た。他の者も後に続いた。
テルーは自分の商隊が集まる町の広場に向かうと、王が無事にムアド・テクムーの手から逃れた事を説明した。そして、昼過ぎまで休息と食事を取り、午後から今後の作戦を説明すると告げた。伝令には、湖の都の戻り、森の王が無事に助けられたと皆に知らせるようにと言った。伝令は僅かの休息と食事ののち、今来た道、湖を目指して再び駆けだした。
ガルとテルーの相談は次のようにまとまった。まずは、森の王の統治宣言をする。森の王宮で行う。再度、ゲレル・ヒューレー王が正真正銘の王だと内外に知らしめるには、このまま砂漠と湖の王達や宰相が同席することが望ましい。従って、全員で森の都に戻る。
次に、ムアド・テクムーの裁判を行い、彼の処分を決める。三国がかかわったものであるから、引き続き三国の王が裁判に出席する。
最後に、湖、砂漠の都の王宮に、それぞれの王と王位継承者を送り届け、ムアド・テクムーの放った毒を操る裏切り者を見つけ出し、捕らえて処罰する。
森の国の奪還計画は、食事をしながら、見張りを交代するときに、休息を交代するとき、隊の中で伝えられた。
「アシャ大丈夫だったか」
人々が食事と休息を求め行き交う中、呼び止めたのはヴェンだった。ざわめく周囲から、急に切り離されたように感じた。
「何とか。ヴェンに教えられたことが、とても役に立った」
アシャは、所々とりもちがくっついたままの左手を振って見せ、笑った。
「傍に居てやれなくて悪かった。それを取るには灰がいるな・・・・・・毎度毎度、普通の人には思いつかないことばかりやってくれる。よく思いついたな。頑張った」
ヴェンはアシャの頭に手を置いた。
「ヴェンの言ったことを、いつも思い出して行動した。だから、ヴェンが居なくても、心が共にあるような気持がした。ヴェンの事を考えると勇気が持てた」
「そうか」
まるで、子犬がほめてもらおうとお座りをして尻尾を振っているようだ。ヴェンは真っすぐなアシャの視線を受け止めきれなかった。ふと目を逸らしてしまい、頭をぐりぐりと撫でてから、乱暴に放した。
「どんな時でも、俺の心は、アシャ、お前と共に在る。ハナが心配していた。顔を見せてやってくれ。俺は兄たちと居る」
ヴェンは踵を返した。前を向いた途端、話し合う兄弟から一歩離れてこちらを見るキリアに気づいた。キリアはアシャを見ていた。そこから、アシャが見送るヴェンに目を向け、視線がぶつかった。
隣に行くまで、キリアの視線はヴェンから外れなかった。
「ヴェン、アシャに親しくするな。俺たちは、もう、同じ身分ではない」
「すみません」
深く頭を下げた。
「今後、わきまえろよ」
キリアは冷たく言った。
「言い方があるだろう、キリア。ヴェンは、アシャの無事を確認したかっただけだ。それに、俺たちまで急に程度を変えたら、アシャはどれほどきつくなるか考えてみろ」
穏やかにハルトが言った。
「湖の都でアシャがはっきり次期王位継承者と認められるまで、とりあえず、俺たちは兄妹のままで居よう。そうしないと、アシャがかわいそうだ。それに、王族が幸せだなんて俺は思わない。ラッカードのままの方が、アシャは幸せかもしれない」
クムトが残念そうに言った。
キリアは、仲裁を試みたハルトとクムトに苦々しく言った。
「アシャが湖の姫と分かった時点でわきまえるべきだ。変な親しさを見せる方が、後で辛い。それに、豪商とは言え、ただの商人の養い娘でいるより、王女と認められた方が幸せに決まっている」
キリアの言い方に引っかかるものがある兄弟たちは、眉をしかめた。今度はヴェンが仲裁した。
「なれなれしくし過ぎた俺が悪い。今は、森の王の儀式を滞りなく行う事が先だ。つまらない事で兄弟がもめている場合ではない。申し訳なかった、兄上」
キリアを睨んでいた兄弟たちは穏やかな表情に戻り、互いに肩を叩きあった。
皆、疲れていた。ちょっとしたことで苛立ちやすい。自分たちだけではないだろう。動物たちも、兵たちも。
ほかの者たちに、労いの言葉をかけに行かなければ。ラッカードを名乗る以上、立場をわきまえなければならない。
ウォセ・カムイは、エミナと共にガル・ラッカードの部屋に呼ばれた。砂漠の宰相ブセア・ケルスと、ハナとテルーもそこに居た。ヴェンは控えていた。
「ご用件は、どのようなことでしょうか。私どもでお役に立てるのでしょうか」
無言のウォセの代わりに、エミナが聞いた。
「森の王の統治宣言を行うために、必要なのだ」
砂漠の宰相ブセア・ケルスが口を開いた。
「・・・・・・そうなのですか」
エミナは無表情で頷いた。
「だから、それを渡せ」
ブセアは苛立たし気に言った。
「・・・・・・何をお渡しせよと?」
話が読めないウォセが、とうとう口を開いた。
ブセアは、ウォセの腰の剣を指さした。
ウォセは剣に手をかけた。ウォセが剣を抜こうとするのではないかと、ヴェンは剣の柄を握った。
ウォセは剣を抜くことなく、鞘ごと腰から外した。
「この剣は、役には立たないと思うが」
ブセアは細めた目で、ウォセを値踏みするように見た。
「お前は何者だ。出身地は。父の名は。答えられるか?」
ウォセは答えなかった。
「それをどこで盗んだ」
「お言葉ですが、宰相。ウォセは盗みを働くような男ではありません」
ハナがかばった。
「紹介状も持たず、出身地も親の名も答えない流れ者だ。信用ならん。その剣をどうやって手に入れた」
「先ほど申し上げた通り、砂漠で拾いました。流砂の中で見つけました」
ウォセは静かに言い、にらみつけるブセアにたいしてひるまず静かな琥珀色の瞳で見つめ返した。ウォセは、飄々としていた。まるで、崖の上に一匹で立つ褐色の森の狼のようだ。孤独で気高い。
そして、目を細め腰を落とし、ウォセの周囲をゆっくりと歩くブセアも獲物を狙う灰色の砂漠狼のように見える。
「宰相、彼を責めるために来てもらったわけではない。協力を頼むために来てもらったはず。ウォセ殿、どうかその剣を渡してくれ」
テルーはきっぱり言った。
「お渡しするほどの品ではない。見た目がいいから威嚇のために腰に差しているが、この剣は抜けない。武器にはならない。なぜ、使えない剣一つで、こんな騒ぎに?」
ウォセは近付くブセアから距離を取り、後ろに下がった。
二人の間に、エミナが割って入った。
「夢枕に、高貴な竜が立ったのです。この剣の持ち主に届けろと。持ち主以外には、決して渡してはいけないと。でも、私たちは誰が持ち主なのか知らないのです」
テルーは、それがとっさに言い始めた嘘だと知らずエミナの言葉に満面の笑みになった。
「だったら、本物だ!」
「竜王の守護があったから、エミナを占えなかったのだね」
ハナまで、喜びの声を上げた。
「はい」
エミナは無表情に嘘を重ねた。
アンドロイドとしては、嘘をつくのは心苦しい。正確な情報を常に提供したいものだ。だが、今、ウォセを守るにはそうするしかない。世間を上手くわたっていくために、『知っていても全ては言わない』以外に、『嘘も方便』と言う処世術を、エミナは既に身に着けていた。
「ウォセ、エミナ、ここまでその剣を守って来てくれてありがとう」
テルーはにこやかに言った。剣を手にしたウォセは、事態が呑み込めない。
「特別なものなのですか?」
「驚かないで。その剣は、森の竜の守りし剣。森の王位を継ぐ者だけが抜ける剣なの。私は見たことが無い。だけど、ウォセを見て、テルーとブセア殿がそう言って・・・・・・」
ハナが、剣について説明した。
ウォセは自分の手にしている剣をまじまじと見た。
「王位継承者の剣?この剣が?」
「そうだ。お前のような輩が持つものではない。こちらで預かる」
ブセアが剣に手を伸ばそうとした。テルーが近づき、ブセア手を自分の持つ剣の柄で止めた。
「ブセア・ケルス殿。なぜあなたは、それほど剣を手にしたがるのだ。ここまで守ってきたウォセに、森の王城まで預けておいてもかまわないではないか。ウォセから直接、王に渡してもらおう。精霊もそれを望んでいると、エミナが言っている」
「いや、・・・・・・こちらで預かるべきだ」
ブセアは意見を曲げなかった。ヴェンは訝った。なぜ、手元に置くことにこだわる。森の王に渡すより前に、どうして剣に触れたがるのか。考え付くのは、たった一つだ。
何か細工をして、儀式を妨害するつもりではないか。
そうだ、それしか思いつけない。
考えろ。砂漠の都でも、湖の都でも、王のそばにいるのが当然なのは誰だ。王が薬包紙をラッカードに渡すときに、自分の手でなく小鳥を使うしかなかったのは、誰を疑っていたからなのか。森の宰相と手を結び、三国を手に入れようとする悪事を考え出せる知恵者は誰だ・・・・・・。ヴェンが抱えていた形を持たなかった疑いは、ついに確信になった。
「ではこうしましょう。この剣は二人に預けたまま、テルーの商隊の見張りを彼らに付ける」
ガルが提案した。その口調で、ヴェンはガルも同じことを考えているのかもしれないと感じた。
「いいな」
「そうしよう」
テルーとハナが同時に言った。彼女たちも、同じ考えだろう。
「ダメだ」
ブセアだけが反対した。
「三対一で、決定ですね」
ガルは静かに言った。
「私は宰相だ。商隊の長の意見など、私の意見と同じ重さではない」
「おっしゃる通りかもしれない。でも、それは砂漠の国の問題であった場合だ。砂漠の宰相、ブセア・ケルス殿、あなたは森の民ではない。今話し合っている剣は森のもの、森の問題だ。ここにいる者たちの中で、森の国について発言力があるのは、森の国一番の豪商テルー。テルーと剣を見つけたウォセ、雇い主のハナで話を決めるべき事。宰相もほかの者も、本来は部外者だ」
ガルは静かに話を整理した。
「ガルの言うとおりだ」
商隊の長たちは頷いた。
「勝手にするがいい。それで問題が起きたとしても、お前たちの責任だ」
ブセアは足音も荒く部屋から出て行った。ヴェンは、いつもより感情的なブセアを、何とも言えない気持ちで見送った。
「ヴェン、湖の薬師を呼んでくれないか」
「はい、父上」
薬師を見つけるのは簡単だった。ダルチ王の部屋で、様子を診ていた。
「父上、薬師をお連れしました」
「入れ」
「王のご様子は?」
「かなり回復していらっしゃいます。しかし、元の体調に戻るまでは、まだ少し」
薬師は静かに答えた。
ヴェンは懐に手を入れ薬包紙を取り出し、黙って薬師に差し出した。
「申し訳ございませんが、・・・・・・ここには道具が有りません」
「調べられないか。残念だ」
ガルの言葉に、薬師はうつむいていた。だが、意を決したように顔を上げた。
「手がかりぐらいは・・・・・・」
薬師は薬包紙に小指を付け、止める間もなく口に含んだ。
「危険です」
ヴェンは薬包紙をひっこめたが、間に合わない。
薬師は、しばらく考えてから答えた。
「・・・・・・多分、同じものです」
エミナが近づき、同じ振る舞いをした。ヴェンも薬師は止めようとしたが、素早い動きに追いつけなかった。
「同じかもしれません」
控えめな意見を述べ、ウォセに頷いた。エミナの舌は、一瞬で物質を分析し一致を確認していた。
ヴェンとガルは視線を交わした。二人の疑いは確信になったと、理解しあった。
テルーの右腕が、ウォセたちの見張り役を連れてきた。
「ヴェン・ラッカード、あの時は失礼した。白い馬のあなた達も」
男は部屋に入るなり謝った。タオから逃げた旅の終わりに、通りで揉めた相手だった。
「大丈夫。そちらにも理由があったのだろう。一つ聞きたい。蒸し返すつもりじゃない、確かめたいから」
ヴェンの言葉に、見張り役は気持ちよく答えた。
「何でも聞いてくれ」
「ハナの占いの店に水筒を奪いに来たのは、あなたたちだったのか?」
「ハナの店に?いや」
「ハナ、言うのをずっと我慢していました。でも、今は言うべき時、口を出させていただきます。店を襲ったのは、純粋な砂漠の民です。この方々ではありません。ヴェン、私が保証します」
「エミナ、やはり、そうか」
ヴェンもガルも頷いた。
「大通りで水筒の印をとがめたのは、わけがある。森の国では、ボロー家の者を見たらすぐに捕まえるようにムアドにずっと言われていた。砂漠の王子の誘拐にかかわった、莫大な賞金が出ると。俺たちは、皆、信じていたから・・・・・・。だから、・・・・・・申し訳ない」
テルーの部下は深々と頭を下げた。
「砂漠でも同じ。いや、それ以上。ボロー家については、口にするのもはばかるほど。でも、俺はその印の意味を知らず、・・・・・・愚かだった」
ヴェンはつぶやき、項垂れた。
「どちらにしても、今はもう、ボロー家の印は、お尋ね者の証ではない。二つの国の王家を救った英雄の印だ。さあ、解散だ」
ガルが、にこやかに話し合いを終わらせた。それぞれが仲間の元に戻り、明日に向けて準備した。
ウォセとエミナは、ブセアとの約束通り見張られることになった。小さな部屋に連れていかれた。二人は、寝台に片腕をつながれた。水が枕元に置かれ、見張りたちは出て行った。鍵がかけられる音がした。
男が出て行くとすぐに、エミナが話しはじめた。
「ウォセ、人がいて言えなかったことがあるのです」
「なんだ」
「スカー・ルンブルが誰か分かりました。引っ掻いた皮膚片も、爪についた血液も、この星のものでない人物がいました」
「そうか」
「驚かないのですね」
「ダルチ王に薬を盛った奴と同じだろうな」
「ええ、薬包紙にも、わずかに彼の汗が付いていました」
「そうか・・・・・・」
「今の所、部屋の外に見張りもいるし、怪しい者は近づいてきていません。私が透視で外を見張っています。剣をスカーに奪われて、細工をされる心配もないです。ですから、主はゆっくり休んでください」
エミナは嬉しそうにウォセを見上げた。主と言う言葉を使うのも久しぶりだ。
「ありがとう。そうする。エミナ、この星のごたごたが落ち着いたら、すぐにスカー・ルンブルを逮捕しよう。あともう少しだ。頑張れそうか」
「はい、勿論」
「なあ、エミナ、俺たちを見張っている男たちは、本当は、俺とこの剣の護衛なんじゃないのか?」
「ええ、私もそう感じました」
「監視するふりをして、剣と俺たちを厳重に守る策だ。賢い人たちだ」
「私、この星の人達が好きです。もうすぐ、この世界から立ち去るなんて悲しいです。ウォセは任務の度に、こんな気持ちを味わうのですか」
ウォセはすぐには答えられなかった。しばらく目を閉じてから。
「俺は、ほら、エミナほど純粋に作られていない。高性能の人工知能じゃなくて、・・・・・・。だから、辛くない。俺はもっと、下(げ)種(す)な人間・・・・・・いや、人間とも言えないものだから。平気だ」
「嘘をつかないでください。どうして悪人ぶるのですか、ウォセ」
手が縛られていて良かった。そうでなければ、ウォセを抱きしめてしまっただろう。
「エミナ、俺は何歳だと思う」
「見た目は三十六歳ぐらいです」
「実は、百年近く生きている」
「そうですね」
「驚かないのか」
「知っていますから。ウォセ、主との契約の時に、貴方の遺伝子を検索させていただきました。貴方が誰か、私は知っています」
「分かっていて、主にしたのか?」
「ウォセ、貴方はハイブリッドヒューマン。でも、ちゃんと人間です。優秀な人を生み出すために、遺伝子操作されただけ。群れ、つまり人間社会の保護を最優先に行動するよう、ほんの少しだけ狼の因子を取り込んでいる。でも、ほかはすべて人間の遺伝子。人権や尊厳が認められるべき人間です。作戦のために利用され、犠牲にされる道具ではありません。犯罪者の確保という、重大な任務だとしても」
エミナは虚空を睨んだ。
「俺たちだって、アンドロイドや機械を利用している」
「ウォセは、契約した私達を使用する権利があります。でも、権利を振りかざさない。ウォセの目的に共感できるから、私もブレナイトも協力するだけです。でも、銀河平和維持協力組合は違う。貴方に爆弾を埋め込んで、脅して仕事をさせています。ムアドと同じではないですか。こんなのおかしい。これまでに何度も、ウォセの爆弾を解除する演算しました。でも、私にもできないのです。ウォセ、あなたから爆弾を取り出せない」
「知っていたのか、爆弾のことも。ああ、そうだ。命じられて、命を縛られて、俺は使命を果たしている。だけれど、もし爆弾が仕込まれてなかったら、俺は任務を投げ出したと思うか?素朴で未来あふれるこの星の人たちを、犯罪者の好き勝手にさせるような奴だと思っているのか?」
「いいえ、ウォセ。あなたは何があっても、この星を間違った歴史の流れから守ろうと、任務を遂行したと思います」
「だったら、爆弾があってもなくても、俺にとっては同じだ。その事は忘れてくれ。それに、もう百年も生きている。これ以上、長生きしたいと思っているわけじゃない。任務が嫌なら、とっくに起爆させている。好きでしているこの仕事だ、余計な心配をするな」
ウォセは目を閉じた。孤独でも平気だと思っていた。でも、今は理解者が常に隣にいて、命や心を案じてくれる。自分は守る側だけだと思っていた。エミナは、ウォセを守りたいと言ってくれる。それに、見張りのふりをして、テルーの者たちも二人を守ってくれている。ハナだってそうだった。いつだって、誰かが自分を守ろうとしてくれていた。
よく考えたら、この旅の前だって、いつもブレナイトが守ってくれていた。通信員の女性だって案じてくれた。自分が孤独だと思い込んでいたのは、愚かだった。
守られてもいいのだ。強い仲間たちがいる。もし、自分が動けなくなっても、誰かが、特に機械の二人なら、必ずウォセの目的を遂行し続けるだろう。
「エミナ、頼みがある。この胸のペンダントは、護送用ポッドを呼ぶためのものだ。今は、この星から少し離れた場所で待機している。スカー・ルンブルの人工衛星を停止させないと、ポッドを破壊されてしまう。衛星の攻撃を止めてから、ポッドを呼ぶのだ。俺が任務遂行前に動けなくなったりしたときは、エミナが俺の代わりに遂行してくれ。俺のただ一つの願いだ。それから、俺の指紋認証かDNA認証で小型宇宙船を隠したコンテナが開く。それで、ブレナイトと元の世界へ帰ってくれ」
ウォセは、灰色のペンダントを示した。
「任務遂行を約束します。でも、ウォセ、そんなことが起こらないように、私が貴方を必ずお守りします」
「約束だ。俺が死んでも死にかけも、任務を最優先するのだ。絶対だ」
「命より、任務ですか。初めて会ったとき、ウォセは、命を生み出すより尊い仕事はないと、私に言いました」
「一つの命より、この星の、いや、宇宙の、より多くの命と幸せを選ぶだけだ。任務を命より優先しているのではない」
「私にとっては、主が全てです。ほかの命なんてどうでもいい。何よりも、ウォセの命を守りたい。それは、間違っていますか?」
真っすぐ見詰める青い目に、ウォセは息を飲んだ。視線をそらし、壁を向いた。
「お前の主が、自分の命よりも大切に思う使命だ。主の願いだ。銀河平和維持協力組合の任務遂行だと考えるな。この世界を守ることが、主の願いだ」
「主は、自分の命よりも、他人の命が大切なのですか。私には理解できません」
「大丈夫だ、理解する必要はない。俺だって理解できない。なぜ、自分がそう願うかなんて」
ウォセは力なく笑った。
「了解しました。理解できなくても、主の願いを叶えます」
エミナは寂しく笑った。
「それでは、私の推測するスカー・ルンブルのこの星での名を申し上げて、互いの意見が同じだと確認したいのですが・・・・・・」
エミナが言いかけた時だった。鍵が外され、扉が開いた。
「夕食だ。見張っている間は手は自由になる。なゆっくり食事をしたらいい」
テルーの商隊の男が、焼肉や果物が満載された皿を持って入って来た。
「ナイフとフォークは持ち込みが許可されなかった。それからクックは品切れだった」
男は二人の拘束を解いた。
見張りが外に立つときは、二人を寝台につながなくてはならない。親切心から、見張りは外に行こうとしなかった。ほかの人に聞かれるわけにはいかないから、スカー・ルンブルの話の続きはできないままでいた。手を拘束されたってかまわない。二人になりたかった。スカーの話だけでなく、話したいことがまだあった。今回の任務で、命を落すことになるだろう。それは、覚悟できている。だから、その前に伝えたかった。
一番大切な言葉を言えないまま、夜は更けていった。
スカー・ルンブルは焦っていた。謀反の首謀者に挿(す)げた傀儡(かいらい)の男は、期待外れだった。計画が狂ってしまった。もっとうまく、この星を手に入れるはずだったのに。これでは元の平和な世界に戻ってしまう。
今から十七年前、砂漠の子供の誕生をいち早く祝うために、王室の卵守が育児嚢の口を開ける何週間も前から砂漠の都に滞在していたその男は、暇を持て余していた。時間を潰すために、男は、さほど力のない大臣や彼らの部下たちの、知られたくない事実や弱みを探り出し、チクチク突っついたり脅したりして暇つぶしをしていた。彼は、握手をしながら相手の心臓を指すほどの、たくらみに長けた男と聞いていて、まだ若かったスカー・ルンブルは恐れていた。スカー・ルンブルには知られたくない重大な秘密が沢山ある。
王宮に仕える養父の仕事を手伝い、一人で書物をより分けていた時だった。その男は彼に近づいて言った。
「お前も残念だな。まるで本当の息子のように、大切にしてもらっていたのに。あの御年で、父上に初めての卵が産まれたと言いうではないか。お前のその立場もこれまでだな」
そう、その男、森の宰相ムアド・テクムーは、嬉しそうに彼に告げた。でも、彼は養父からそのような事は聞いていない。他の人からも。
「何のことですか。父上が卵を授かるなどという事は有り得ませんよ。それに、もし、卵が産まれても、私はずっと父の息子です」
にこやかに言い返した。ムアド・テクムーは、彼の耳に口を寄せた。
「どうかな?気高く強いはずの砂漠の王、ダルチ・ミドゥバル殿でさえ、孵化する卵が女か男かで大騒ぎしている世の中だ。自分の本当の息子を得る事が、どんなに大切か分かるだろう?お前の父は、あの御年で初めて得られた卵だ。もしも女子だったとしても、きっと夢中になるだろうな。かわいそうに。行く先に困ったら、何時でも迎えてやる。知っているよ、お前が養子だってことぐらい」
ムアドは、彼が大きな衝撃を受けた様子に満足し、すぐに他の獲物を探しに行った。誰かの心に突き刺さる言葉を言うために、ムアドは砂漠の城をさまよっていた。
そう、ムアド・テクムーは、陰険で策略家で、相手が傷つき苦しむのを見るのが大好き。でも、王位など狙っていなかった。そんな器でもなければ、そこまで野心家でもなかった。今、持てる力で相手を苛む。それで満足な男だった。
スカー・ルンブルは、その日、家に帰ると養父に聞いた。
「お父上が卵を得たとお聞きしました。本当ですか」
「誰に聞いたのだ」
その声は、低い。
「森の宰相、ムアド・テクムー殿に」
「余分な事を言ってくれたな」
養父は深いため息をついた。
「本当なのですか」
「恥ずかしいが、本当だ。この年で、しかも、妻として迎えることのできない身分のものだ。都の外の屋敷に住まわせ、彼女にも、孵化する子供にも、十分な生活をさせてやるつもりだ。だが、今後も公表するつもりはないし、家族として迎える予定はない。正式な息子はお前だけだ。だから、不道徳な形で卵を設けた父を、どうか、許しておくれ」
養父は頭を下げた。
「そうなのですか」
「他の者から聞くより前に、私が言うべきだった。悪かった。お前に嫌われるのが怖くて、なかなか言い出せなくて。孵化する子供は、表に出せない者としても、そなたの兄弟になる。孵化したら仲良くしてやってくれ。私が死んだら、お前が私に代わって彼女たちを養ってくれ」
養父は彼の肩を叩いた。
彼は、顔色を無くしたまま頷いた。
それからも、王宮でムアド・テクムーと顔を合わせる度に、スカー・ルンブルは秘密の養父の卵についてチクチク言われた。
「本物の自分の子供が孵化してしまえば、お前のような養子は用無しだ」
「私だったら、卵が孵化する前に、お前を処分するな」
「お前の父の仕事の跡継ぎは、別の者に決まっている。そのうち継ぐようだ。そろそろ歳だからな」
「お前は跡継ぎにはなれない」
ムアド・テクムーは、彼の心を苛む言葉を浴びせ続けた。スカー・ルンブルはムアド・テクムーにこれ以上攻撃されたくなかった。精神的な負荷で、何か問題を起こしそうで怖かった。だから、自分が逃げて来た世界の技術を使って、ムアドを制御することにした。
ある日、いつも通り、彼が独りで書物を片付けていると、ムアドは言葉をかけにやって来た。
「こんなに真面目に尽くしても、無駄なことだ。お前は家から追い出されるのだぞ」
「構いませんよ」
珍しく、彼は言い返した。
「生意気な」
ムアドは彼の襟首をつかんだ。彼はそれを待っていた。
「おやめください」
おびえたふりをして、身を縮めた。ムアドは油断したようだ。彼の育った世界の武器を、ムアドに使った。身体の動きを封じる程度の電流が流れるスタンガン。ムアドは倒れた。
彼はすぐに書庫の戸を閉じ、鍵をかけた。
ムアドの左内頚動脈に、予め用意していた武器、ナノロボットを含んだ生理食塩水を打ち込んだ。ナノロボットは血液の流れに乗って脳内に入り、瞬時に脳組織にいきわたった。脳内血管の、内皮細胞に固着したナノロボットは、彼の命令を信号化し、ムアドの脳に電気的刺激として伝える。彼はムアドの頸動脈をしっかり抑えて止血した。十分な止血が済んだとき、ムアドは意識を取り戻した。
「大丈夫ですか、ムアド様。急に倒れられたのですよ」
彼はにこやかに優しく言った。
「さあ、その懐にお持ちの毒を私に渡しなさい。どうせ、持っているだけで、使う相手に困っていたのでしょう」
彼が言うと、ムアドはおとなしく懐から小箱を差し出した。
「父の卵の事は誰にも言ってはなりません。私が養子だと誰にも言ってはなりません。それから、今後、私に付きまとわない事」
彼はムアドに告げた。告げなくても、考えるだけで命令に従うはずだが、つい、口に出してしまった。
「了解いたしました」
「後はいつも通り過ごせばいい。それから、命令の返事は要らない」
そう言うと、彼はムアドを立ち上がらせ、彼の部屋まで肩を貸した。そして、床に休ませた。
「あまり、無理をされませんように」
彼は片方の口角を上げ、黒い笑いを浮かべた。ぞくぞくと鳥肌が立つほど気分がよくなった。一人の人間を、森の宰相を支配できた。支配は、甘美だ。
それから、彼にとって穏やかな日々だった。ムアドに脅されることは無くなった。穏やかなのはそのせいだけではない。力を手に入れた喜びで満たされていた。
自分の手に毒を持っているのは、何とも心沸き立つ。自分のさじ加減一つで、人の命が操れるのだと思うとうっとりしてしまう。使わなくても、いや、使うはずなどなくても、力を手に入れた気分は最高だ。それまでの、将来を心配し、身を小さくして過ごす生活とはまるで違った。
王の卵を抱えた卵守が育児嚢を開ける日が近づいた。王城は興奮と不安とで沸き立っていた。今度こそ王子であって欲しいと、召使も兵も、大臣も、皆祈っていた。
王の卵が孵化する一月前、王との夕食に養父とともに招かれた。
「卵が孵化するとは、このような高揚した気分なのですね。城は今、期待で明るくなっています。王の喜びが、城中を都中を、明るくしているように思えます」
養父の言葉に、同席していた砂漠の宰相、ボロー・オビスが同意する。
「わが息子、このタオが孵化した時の事を思い出しました。天にも昇る心地でした」
ボロー・オビスは、換羽したばかりの息子のタオの頭を撫でた。大人のつもりのタオは、笑顔で抵抗していた。
苦いものがこみ上げた。
スカー・ルンブルには、両親は居ない。人工子宮の中で生まれた。彼以前にも同じような子供は大勢生まれたし、彼の後にもそれは続いていた。実験的な、遺伝子操作されたハイブリッドヒューマンの量産施設。親とは何か、彼にはよく分からない。
彼は養父を親として慕っていた。この世界に逃れ、右も左もわからず、砂漠の真ん中で干からびかけていた彼を助けた養父。彼がくれたのは、水だけでなく、衣服や住む家だけでない。この星の言葉を教え、進歩するスカーを励まし、支えてくれた。スカー・ルンブルの喜びの全て、それが養父だった。養父が喜ぶから、学問に励み、書物をあさった。養父が彼に笑いかけてくれるだけで幸せだった。しかし、自慢の息子タオ・オビスを愛おしそうに撫でる、宰相のボロー・オビスを見ると、胸の中の怒りに火が付いた。
本当の息子とは何だ。
血縁とは何だ。
決して、手に入れることができない。
元いた世界は、酷いものだった。動物のように扱われた。厳しい訓練の続く日々、脱落した同胞はどこへ行ってしまったのか。想像するのも恐ろしい。
苦しい訓練が終わった先に、夢の生活があるわけではない。普通の人間ができない過酷な仕事が待っている。仕事を成し遂げたら、楽しい日々が来るのではない。永遠に仕事は続く。自爆装置を体に埋め込まれ、死ぬまで。
許せなかった。こんなひどい生活も、暗黒の将来も、自分を勝手に生み出した奴らも。だから、自爆装置を埋められる前夜、施設を爆破して逃走した。そう、スカー・ルンブルの犯した犯罪は、政府の秘密機関『ハイブリッドヒューマン育成施設』の破壊だった。スカーは捕まり、永遠に収監されると裁判で決まった。スカー・ルンブルは、自分の行ったことを悪だと思っていない。悪いのは政府だ。政府の過ちを正すために、施設を破壊しただけだ。犠牲者が出たのは仕方ない。仲間たちを犠牲にする政府と何が違う。自分の身を守ろうとして何が悪い。
だから、もう一度、移送中にスカーは逃げた。
この星に逃れ、身を隠した。自由に、平和に、静かに暮らしたかっただけだ。自分の人生が欲しかっただけだ。
しかし、・・・・・・。
「実の子とは、このように貴く、嬉しいものなのか、これまで、思いもしなかった」
笑顔でボロー宰相と話す養父に、彼は冷気を感じた。
「子供が孵化するのは、何よりもうれしい。男子でも、女子でも、どんな姿でも、自分の子はかわいい」
ボローはタオ・オビスの肩を抱く。
「公にしていなかったが、この息子は、実は養子。実の子のように思い、大切に愛してきた。この息子さえいれば実子など要らない、そう思っていた。だが、このおいぼれも初めて自分の卵を得た。身分のない女の卵。だから、公表しないつもりだった。家族にもならないつもりだった。だが、王やボロー様の様子を見ると、考えを改めたくなった。この息子の兄弟として迎えるのも、よいかもしれない」
養父はにこにこしながら言うではないか。
愚かなムアド・テクムーの言う事など、嘘だと思っていた。
自分の養父に限って、そんなことは無いと思っていた。いつまでも、自分だけを愛してくれると信じていた。
でも、違った。
彼の体に戦慄が走った。自分を変わらず愛すると言っていた養父は、簡単に気持ちを変えてしまった。実の子、血を分けた子供とは、それほど大切で愛おしいものなのか。
彼は頭の中で、冷徹にムアドに命令を出した。ムアドの頭の中のナノロボットが、彼の思念を受け止め、脳細胞に伝達する。
まず、目の前にいるタオ・オビス、本物の父の愛をほしいままにしているこの少年をさらって監禁させろ。盗賊か奴隷商人か、お前の手先の誰かに。実の父の愛を受けるなど許せない。そして、ボロー・オビスに、息子の命を盾にして悪事を成し遂げさせろ。そうだ、王の子供が生まれたら、彼に殺させろ。実の子の大切さを父に教えるボローなど、破滅してしまえ。
これほどの愛情を一身に受ける王とボローの子供など、殺してしまえ。ボローも殺してしまえ。
元はといえば、王のせいだ。王がこれほど子供の誕生を喜ばなければ、養父は考えを変えなかったはずだ。砂漠の王も敵だ。いつか、殺してやる。
彼は自分の部屋の地下室に行くと、ムアドに与えたナノロボットと同じものを作り始めた。
そのあとは、簡単だった。操られたムアドは、砂漠の王の卵が孵るのも待たず帰国する。その際、タオ・オビスは誘拐された。ボロー・オビスのもとに、脅迫文が送られる。王の卵を壊さないと、息子の命はないと。だが、ボローはなかなか実行しなかった。実の息子を取らず、王の子供を優先するつもりか。もし、そうであったら、スカーのその後の行動は変わったかもしれない。
ボローは、王子が生まれた夜、とうとう、王子とともに姿を消した。
彼は、小型飛行物体を、王宮の屋上から砂漠に飛ばした。小型飛行物体は赤外線で砂漠の生き物を見つけ出す。砂漠狼の群れを見つけたら、近づいて、ナノロボットを含んだ弾を彼らに打ち込む。彼は思考で命令するだけだ。
「砂漠狼よ、都の外の立派な屋敷の中にいる卵守を、すべて食い殺せ」
養父の卵だけでなく、無関係の卵守も食い殺されるだろう。大切な目的のために、犠牲が出るのは仕方がない。養父の卵を産んだ女がどこの誰かも、彼は知らないのだから。
命令ではなかったが、頭の端で考えてしまった。
「湖の女王の卵ももうすぐ孵化する。それに、これからも卵は生まれるだろう。王室の、幸せな親子など許せない」
まさか、ムアド・テクムーが、湖の都に殺害に向かうほど自分の意のままだとは思ってもいなかった。
王子が行方不明になり、ボローが失踪した。悲しみに暮れる王、大臣たちをまとめる者がいない。王宮の執政は混乱を極めた。それに乗じ、ボロー家の者を皆殺しにする命令を、スカーは王に代わって発令した。
ムアドを使って一つを思い通りにすると、次を考えてしまう。支配する快感は素晴らしい。この星すべてを手に入れよう、そう決めたのはいつだっただろう。別に、悪いことをしているのではない、砂漠の王は子供への執着から国庫を空にし、民を飢えさせている。そのような悪い王を排除するのはよいことだ。能力のあるものが国を治めるべきだ。正しいことをなすのだ。そのために、多少犠牲が出ても仕方がない。
毒薬の力も、科学の力も、言葉の力も、権力ある地位も、素晴らしい。それを手にした自分を誇りに思う。その力を使うのはいい気分だ。人を愛し愛を得ようとするなんて、ばかげていたのだ。それに、もう、彼の愛を受け取る人間は居ない。養父は、この手で消した。
彼は、砂漠に隠しておいた宇宙船を組み立てなおした。人工衛星の管理システムを整えた。この星の天候も、人々の動きも、全部把握できる。この星に降りようとした宇宙船も、破壊してやった。他にも武器を作り、自分の部屋の地下の書庫に置いている。
順調だったのに。もう少しで、この星のすべてを支配できたのに。もしかしたら、この星を足掛かりに、ほかの星にも手を伸ばせたかもしれない。彼を苦しめたあの施設を作った政府に、仕返しできたかもしれない。
なのに、ムアドは失敗した。
腹立たしい。
ラッカードの長と末息子がいなかったら、テルーが居なかったら、タオ・オビスが生き残っていなかったら、行方を消した王子も王女も見つけ出されなかったら、得体のしれない白い馬の二人が居なかったら、スカーの計画は成功したはずだ。
でも、大丈夫だ。明日行われる、森の国の統治宣言とムアド・テクムーの裁判が楽しみだ。平和になど終わらせはしない。明日こそ、自分の力をこのちっぽけな星の人間たちに見せ付けて、全ての権力を手中に収める。ムアドに隠れて操るのはもう終わりだ
すべての人にひざまずかれ、あがめられるのは、どんな気分だろう。
想像するだけでぞくぞくする。
翌日、各国の王たち、ゲレル王の脱出に協力した商隊や警護の者は、早朝に出発した。昼過ぎに森の都につき、休息の後、王宮の儀式の間に集まった。
「ただ今から、ゲレル・ヒューレー王の統治宣言を行います」
テルーが高らかに宣言した。
森番が前に出た。ウォセとエミナも王の前に進んだ。
「正しき持ち主へ」
エミナはウォセの剣を腰から外し、恭しく掲げた。森番は一旦受け取った後、剣をエミナに渡し、エミナは剣が抜けないことを確認した。続いて、森番も抜けないことを示した。
「森の竜の守りし剣、森の王、ゲレル・ヒューレー殿にお渡しする」
森番は、王座に座るゲレル王に剣を捧げた。
王は立ち上がり、緑の鞘に包まれた大きな剣を受け取った。
「森の竜の守りし剣、我が引き継ぐ」
ゲレル王は、胸の前で剣を水平に構えた。右手で剣の柄を握り、左手で鞘を握った。大した力を必要とせず、するすると刃が現れた。
「おおっ」
地鳴りのような感嘆の声が、儀式の間に広がった。
ゲレル王は、剣先を天に向かって高く掲げた。高窓のステンドグラスから降り注ぐ日光が、剣の刃に降り注ぎ、緑がかった光を反射した。
「ゲレル王、万歳!」
一人が叫ぶと、声を合わせて繰り返される。
「ゲレル王、万歳‼」
「ゲレル王、万歳‼」
拍手に包まれた。
王は窓に向かった。足元まである窓は大きく開かれ、城の中庭には、森の民たちが集まっている。ゲレル王が剣を掲げる姿に、彼らも歓声を上げた。
「ゲレル王、万歳‼」
ところが、そこに、歓声とは別の声が響いた。
「私にも抜ける‼」
裁判のため、牢から引き出されたムアド・テクムーの声だった。
万歳の声が止まった。城はしんとした。
「こんなもの、コツがあるだけだ。私だって抜ける。私だって、王になれる」
怒りに憐みが混じった視線が、囚人となったかつての森の宰相に注がれた。
「やらせてみては」
ため息をつきながら、砂漠の宰相ブセア・ケルスが静かに言った。
ゲレル王は、剣を鞘に納め、左手で突き出した。
ムアドは足かせのおもりを引きずりながら、ゲレル王の前まで行った。ムアドは剣を受け取り、王と同じように構え、右手で柄を握った。
剣は、抜けるのか。
それとも、抜けないのか。
儀式の間の人々は固唾を飲んだ。
ステンドグラスの光が、ムアドに青い光を投げかけた。
スカー・ルンブルは、隠し持った磁場装置のスイッチを入れた。
森の剣は、剣と鞘が磁石の力で強く結びついている。剣の柄をつかんだ者が特別な静電気を帯び、特別な磁力を持っていると、剣の磁極が逆転し、反発する力で抜ける仕組みだ。森の王族の特別な体質を証明するための剣。前回の儀式でそれを知った。
エミナはスカーの動きに気づいた。スカーの機器が剣に作用しないように、周囲に磁界を張った。人間の目には地場は見えない。だが、エミナには検知できる。
太陽光発電から得てきた電力だけで、磁場を維持し続けるには無理がある。限られたエネルギーで、いつまでスカーに対抗できるだろうか。核エネルギーシステムを作動させるべきか、エミナは迷った。
ウォセの顔を見た。ウォセならどちらを選ぶだろう。この星を核で汚染するリスクと、ムアドが剣を抜いてしまう事態。
ムアドは、剣を引き抜こうと顔を真っ赤にしている。だが、剣は全く動かない。
「ウォセ、私、力が尽きそうです」
「わかった」
ウォセは頷いた。
「無理なのは明白だ」
ウォセはムアドに向かって重々しく言った。
「もう、諦めなさい」
ウォセの言葉に続き、森番がムアドの腕を取って止めた。
「そんなはずはない」
ムアドは、森番の手を振りほどき、突き飛ばした。
「十分だ。それ以上、森の竜の守りし剣を汚すな」
ゲレル王は、ムアドから剣を取り上げた。
もう一度、王を讃える万歳の声が広がった。
ムアドは引き連れられ、儀式の間から去った。王は、再び剣を抜いた。
緑色に光る刃の輝き、森の民は、穏やかな時代の到来に期待を膨らませた。
ふらつくエミナをウォセが抱き上げた。エネルギーが尽きかけ、動けなくなったのだ。だが、周囲には、森の王に感動して腰が抜けたかのように見えた。
「ウォセ、すみません。日の当たるところへ連れていって下さい」
ウォセは、一番近い日向、祝福を受けるゲレル王の横に立った。群衆に手を振るゲレル王の隣で、エミナを抱いたまま笑顔を作った。苦し紛れのウォセの行動は、人々に誤解され、より感動を生んだ。王のために砂漠を超えて剣を運んだ二人を、群衆は喝采した。
湖の女王とアシャ、砂漠のダルチ王とリュイ王子も、並んで群衆に手を振った。
「我らも行こう」
テルーが言い、商隊の者や救出に関わった警護の者達も王達の後ろに立ち、群衆に手を振った。
「さあ、ムアドの裁判を始めなくては」
ゲレル王が動いた。エミナとウォセを除いて、皆、裁判所に移動した。
スカーは訝しんだ。なぜ、磁場発生装置がうまく作動しなかったのだろう。あのままムアドに剣を抜かせるはずだった。そうなれば、森の王の権威は失墜する。
抜いた剣で、ムアドに王族達を殺させるつもりだった。そのムアドを、自分が切り捨てる。
民衆が納得する形で権力の座につく。
最高のシナリオのはずだった。
誰がどうやって妨害したのだ。そいつをつぶしてやる。苛立ちが募った。だが、表面は平静を装い、気づかれないよう、遅れないよう、人々とともに裁判所に入った。
裁判所に着いた時、既にムアドは被告席に居た。審議席には、通常は無作為に選ばれた国民が座る。今日は大臣や議員、軍の各隊長、町や村の代表者が座っていた。王たちの一行は、傍聴席に座った。
裁判長が入って来た。木槌を打ち、裁判の開始を宣言した。
「裁判を始める。罪人、ムアド・テクムー。罪状、謀反の実行者として、友好国への不適切な武力行使、各国の王・女王・王位継承者・宰相の拉致・監禁、政治の私物化、軍の私物化など。以下、事件の概略を述べる。継承権が無いにもかかわらず、森の国の王位を継承しようと目論んだ。また、森の国の軍隊を謀反のために利用し、軍事強化のための重税で国民の生活を立ち行かなくした。以上の罪について審議する」
「裁判長、ムアドは首謀者だ」
大臣の一人が意見した。
「いいえ、首謀者は別にいる」
検事が言った。
理由を知っている者以外は、どよめいた。どよめきが収まった時、エミナとウォセが入ってきた。
「その首謀者は、巧妙にムアドを操っていた。ムアドに悪事をくりかえさせ、三国の王権を手に入れさせる。そののち、謀反の罪でムアドを罰して、自分自身が権力を手にするつもりだった」
立ち上がった検事が続けた話の内容に、審議官は驚きの声を上げた。それぞれが口々意見を言い、裁判所は騒然とした。
「静粛に」
裁判長は木槌を打った。
「では、その首謀者は誰ですか?」
砂漠の宰相、ブセア・ケルスが口を開いた。
検事は何も言わず、右の眉をピクリと動かした。
「証拠を提出します。湖の都のテルーの屋敷で、王の小鳥が私に運んできました」
ガル・ラッカードは、薬包紙を提出した。
「これに付着していた毒物が何か、湖の薬師が調べました」
ガルの後を、検事が続けた。
「証拠を提出します。砂漠の都で、同様に手に入れました」
ヴェン・ラッカードも、薬包紙を提出した。
「先ほど、森の薬師が調べ、この二つは同じ毒だとわかりました。十年以上前に、ムアドが毒薬使いに作らせた毒です。証言もあります」
検事が言った。
「ムアドの毒であれば、やはり、ムアドが悪事を働いたのではないか」
ブセアは検事に向かって指さした。
「私がこれを手にしたときも、その数か月前も、ムアドは砂漠にはいなかった」
ヴェンが一歩前に出た。
「では、砂漠の都と、湖の都で王とともに過ごした者だけが、毒を盛れたのですね」
陪審員席に着いた大臣の一人が言った。
「その通りです」
検事の重々しい言葉に、場内の人々は頭を上げた。ムアドと連絡が取れる人、ムアドを操れる立場の人、そして、砂漠の王に、常に一番近い人物、・・・・・・それは、唯一人。
砂漠の宰相、ブセア・ケルスは人々の冷たい視線を浴びた。
ブセアはひるんだ。
上手く切り抜けられるはずだ。自分よりも賢い人間はいない。落ち着いて立て直そう。なんとか誤魔化し、切り抜けられる。無遠慮な視線を無表情でやり過ごし、頭を巡らせた。
ところが、その中に、他とは違う視線を感じた。
焼かれるような視線。
誰だ。
ブセアはその視線の先を見た。
とても小さい男だった。絶対的な正しさを確信している目だ。ブセアに罪人の烙印を押し、ブセアの正義を否定する目だ。
あいつは貧相な体格の上、王族でもなければ貴族でもない。豪商の息子とは言っても、末の息子だ。なのに、なぜそんなに自信に満ちていられるのだ。前から気に入らなかった。何の権力もないくせに、なぜそれほど堂々とできるのだ。なぜ、「鳥使いのヴェン」などと、通り名まで手に入れられる。何もないくせに、人に褒めそやされ、・・・・・・愛される。
許せない。
その瞳を恐怖に塗り替えたい。命乞いをする姿を見てみたい。
善人のふりをして過ごすのはやめだ。ああ、そうだとも、自分がムアドを操ってやったのだ。驚くがいい、そして、恐れろ。恐怖で支配してやる。どうだ、見てみろ。
ブセアは心を決めた。大きな声で言い返した。
「証拠はたったそれだけですか?」
温厚な仮面をかなぐり捨て、氷のような水色の瞳を上げた。両親に孵化を待たれ、卵にひびが広かるのを見詰められただろう幸せな人々を見渡した。彼らには分からないだろう、ブセアの気持ちは。
「教えてやろう。私は、老ケルスの実子ではない。養子だった。養父、老ケルスは、私をただ一人の息子として大切にしてくれた。しかし、都の外の女が養父の卵を産んだ」
ブセアは語り始めた。
「知っている」
タオは言った。その言葉は、苛立ちの火に油を注いだ。
実の父に愛され、輝いていた少年の日のタオを思い出す。その思いが、目の前の景色を朱に染める。
「砂漠のダルチ王の子供の誕生が近くなり、期待に胸膨らむ王とボロー宰相が、子供のすばらしさを語り合った」
「当然の事だ」
湖の宰相ヌクスは相槌をうった。
「養父は、実子を得る喜びを目の当たりにして、自分の卵とそれを産んだ女を正式に迎えようかと考え直した。王とボロー宰相が養父の考えを変えたのだ。では、養子の私はどうなる?国の大切な役目を担えると思っていたのに、養父のために血のにじむ努力をしたのに、幸せになれると思ったのにすべてが無駄だったとは。だから、ムアドに意のままに操れる術をかけた。手始めに、息子自慢をしたボロー・オビスから息子を誘拐させてやった。砂漠の王子を殺さないと、息子の命は無いと脅させた」
ブセアが一度、言葉を切る。タオはブセアを見詰めた。
「お前の父はお前の命を選ばなかったぞ、タオ・オビス。王子を殺さなかったからな」
ブセアは満足げに言い、冷たく笑った。
「息子の命より、王子の命を選んで当然だ。どれほど辛くても、国を守るため、多くの民を守るために、父の判断は正しい。だが、俺のことも必死になって守ろうとしてくれた。そこから先は知っている。父は砂漠の王子を湖の王宮で育ててもらうように、王子を殺さずに連れ出した。代わりに、湖の女王が新たに生んだ卵を託された。ムアド・テクムーが奪おうとしていたから」
タオ・オビスは、静かに言った。
「湖の卵のことは、私は命じていない。頭の隅で、幸せな湖の王室も不幸になればいいと、考えたかもしれない。でも、実行したのはムアドだ」
冷笑を浮かべ、ブセアは無責任な返事をした。
「なぜ、老ケルスとダルチ王に毒を?」
ヴェン・ラッカードが聞いた。ヴェンの言葉に、場内はざわついた。
「ダルチ王については、お前が疑っているのではないかと気づいてはいた。養父のことまで見抜くとは、残念だ。きちんと、自分で説明したかったのに。なぜわかった、ヴェン?」
「愛する者を誰かに奪われてしまうなら、その者と共にどこかに消えてしまいたい。誰にも奪われない世界に行ってしまいたい。それが叶わないなら、誰にもとられないようにしてしまいたい。・・・・・・かなわぬ思いがあるときは、だれしも頭の中によぎる。・・・・・・悪魔のささやきだ。・・・・・・。だが、心ある者は、それを実行しない」
「笑わせるな。実の父に愛されているお前には分かるまい。養父の寵愛を失い、捨てられる者の気持ちを。そのようなみじめさはまっぴらだ。そうなる前に、・・・・・・こっちから消してやる」
「養父に手をかけて、気が晴れたか?」
ヴェンの言葉に、ブセアは両手を見た。この手で養父に毒を盛り、この腕の中で養父は息を引き取った。最後まで疑いもせず、ブセアを残して死ぬことを気づかい、孵化するはずの子供の将来を心配をしていた。腕の中で静かに冷たくなっていった養父、昨日のことのように感じる。養父が気持ちを変えなければ、こんなことにはならなかった。
「実子のすばらしさを気づかせたダルチ王こそ、私の不幸の始まり。だから、いつか消してやろうと思っていた。三つの国を手に入れるにふさわしい準備ができた。だから、少しずつ疑われないように毒を飲ませ弱らせたのだ」
「では、なぜムアドを巻き込んだ?巻き込むのは、ほかのものでもよかったはずだ。森の宰相を巻き込まなければ、これほど大きな問題にならなかった」
ヴェンの若々しく端正な容貌は、少年時代のタオを思い出させた。そうだ、だからヴェンが嫌いだった。養父の愛情を失うのではないかと、衝撃を受けたあの日を思い出してしまうから。
「知りたいか、ヴェン。ムアドは砂漠の王城に滞在している間、事あるごとに私を脅した。実子が生まれたら養子は捨てられると、会うたびに言われ続けた。私を脅すムアドが怖かった、憎かった。だから、ムアドを利用することにした。彼が卑劣な男なのは有名な話だ。彼を利用して悪事をさせても、だれも疑わない。なのに、ムアドは見込み違いだった。しくじってばかり、森の竜の剣一つ奪う事も出来なかった。ボローの息子は死んでいなかった。王子も、王女も」
ブセアが描いた権力への道筋に、ヴェンは恐れを抱くだろうと思っていた。自分を恐れ、この力にひれ伏す。
だが、ヴェンは、にやりと笑った。
ブセアは戸惑った。
「なにがおかしい」
「挑発に乗って、全て吐いてくれましたね。貴方の発言は、完全な自白です。」
ヴェンはとん、と手すりの上に座った。
ブセアはやっと気が付いた。ヴェンの策に落ちたのだ。ここは、二人きりの場ではなかった。皆が見ている、聞いている、裁判の場だ。
なぜだ、なぜ、こんな小さな若造の視線一つで、口を滑らせてしまったのだ。なぜ、・・・・・・。
「裁判所で、人々の前で罪を自白した。あなたはもう、宰相ではない。罪人だ」
ヴェンは腕を組んで、同じ視線で言い切った。
こうなったなら仕方がない。全て破壊してやる。最大の力を見せてやろう。
「それがなんだ。私には、お前たちにない力がある。こんな裁判など関係ない。お前たちすべてを消してやる」
ブセアはこぶしを握り言い返した。
乾いた音が響いた。
裁判長が、木槌を叩いたのだ。
「本人の自白と、証言、証拠により、二名を有罪と決定する。実行犯ムアド・テクムーは終身刑。首謀者ブセア・ケルスは森の竜の生贄。反対意見はありますか?」
裁判長の決定に、陪審員席の人々は誰も反対しなかった。
「直ちに、営巣地へ連れていけ」
裁判長は大きく張りのある声で言うと、再度、木槌を打ち付けた。
ブセア・ケルスは駆け出した。衛兵たちは間に合わない。裁判所のガラス窓を突き破り、王城の広場に向かった。ひしめいていた見物人は、もう帰宅し誰もいない。広場を突っ切り、反対の建物を目指す。部屋の荷物の中に入れた人工衛星のコントローラー、それを手にすればこんな奴らはすべて消える。ブセアは部屋に飛び込み、旅支度の皮製の箱を引き寄せ、急いで鍵を開けた。
だが、彼以上の能力がある者たちがいた。エミナとウォセだ。二人が窓から飛び込んだ。
「観念しろ」
「言っていろ」
ブセアは別の窓を破り、再び広場の中央に走り出た。通信状況が良い場所でなければ。
二人が近付くと、ブセアはコントローラーを掲げた。
「近づくな。近づくとこれを押す。押したら、どうなると思う?」
二人は立ち止った。
「想像もつかないだろう?野蛮な星の、野蛮な奴ら。お前たちなど、全員死ねばいい」
ブセアの言葉が終わらないうちに、人とは思えない素早さでエミナは飛びかかり、コントローラーを奪った。反対の手で、ブセアの頭を殴った。ブセアは意識を失った。
「攻撃衛星のコントローラーですわ」
エミナは爪の下から情報端末を引き出し、コントローラーにつないだ。
「攻撃スイッチが押されてしまいました。・・・・・・でも大丈夫。突破しました。書き換えています。衛星の機能停止まで、一分です」
「よくやった、エミナ」
「人々を退けておかなければ」
こちらに向かう衛兵や警護に、エミナはコントローラーを振って見せた。
「これは危険なものです。私が、安全にするまで、どうか、近づかないでください‼」
皆はその場で止まり。じりじりと下がった。
スカーは意識を取り戻し、寝そべった自分の上に乗るエミナに殴り掛かった。ウォセは片手でそれを止め、もう一方の手で、自分のチタン製のペンダントを外した。
「スカー・ルンブルだな。銀河平和維持協力組合、犯罪者確保部門工作員、ウォセ・カムイだ。銀河平和維持協力組合法に基づき、貴様を確保する」
ウォセはペンダントをスカー・ルンブル、つまり、ブセア・ケルスの首に掛けようとした。
「衛星機能停止まで後四十秒。・・・・・・攻撃指令が始動するまでに止められるでしょうか」
今のエミナは、衛星制御に集中していて、体の方はあまり動かせない。暴れるブセアにてこずった。
「素直に確保されてくれ」
ウォセはスカー・ルンブルに言い聞かせた。
「お前が銀河平和維持協力組合の工作員だと?地球の人間には見えない。そうか、俺と同じハイブリッドだな?それに、あの女の動き、アンドロイドか?」
ウォセはスカーの言葉に疑問の表情をし、首を傾げた。
「お前もハイブリッドだと?嘘だろう、俺以外にそんな奴は造られていなかったぞ」
「自分以外にハイブリッドが居るのを知らない?まさか、・・・・・・お前なのか、ウォセ・カムイ。初めて造られた伝説の人狼。お前の成功のせいで、俺たちは大勢造られた」
「大勢?俺とお前以外に?」
「何も知らされてなかったのか、ウォセ」
スカー・ルンブルは悲しげな瞳でウォセを見詰めた。
ウォセは動きを止めた。
「仲間がいたのか?」
「ああ、大勢。俺たちは仲間だ。でも、仲間全員が健康体だったわけじゃない。人工子宮の外では生きられない者もいたし、ほとんどは短命。まともじゃない奴らも多かった。生き延びた健康体は、お前のように強くなるため、訓練、訓練の毎日だった。みんな、苦しんでいた。生きる希望なんてなかった」
「仲間たちが・・・・・・そんな・・・・・・」
ウォセが押さえつける手を緩めた。
「だめです、ウォセ。スカー・ルンブルの作戦です。情けをかけてはいけない」
エミナは悲鳴のような声で叫んだ。
「でも、仲間だ」
「二十秒で衛星機能停止。ウォセ、それまでは奴の口車に乗ってはいけない」
ウォセはペンダントを持った手で、スカーの頬をなでた。
「もっと仲間の話をしてくれ」
ウォセの声は懐かしさにかすれた。
「ウォセ、だめです」
エミナの悲痛な叫びは、ウォセには聞こえていなかった。
「俺には、守るべき仲間が他にも大勢いるのか」
ウォセの声は喜びで震えた。
「いや、もう苦しむ仲間は誰もいない。俺がその施設を壊してやったから」
スカー・ルンブルは、ウォセに磁場発生装置の先端を押し付けた。先端のカバーは外れ、コイルが露出していた。
「十秒」
エミナのカウントダウンが続く。
体に押し当てられた武器に気づきウォセが身を引くより、スカー・ルンブルが早かった。
スカーは声を立てて笑い、スイッチを入れた。
高圧電流が、ウォセの腹部に流れ込んだ。ウォセの四肢がけいれんする。眼球が上転した。体中の産毛が一気に濃く長くなり、人間とはかけ離れた姿になった。天を仰ぐ顔は前後に伸び、唇からは長い犬歯が飛び出した。
「・・・・・・」
ウォセは声も無くその場に崩れ落ちた。
エミナはウォセに走り寄った。
「泣いて悲しめ。お前の主は死んだ。次は俺と契約するか、アンドロイド女」
スカー・ルンブルはあざけった。
「ええ、私はアンドロイド、主の命令は絶対です」
力を無くしたウォセの手から、エミナは素早くペンダントを取った。スカー・ルンブルの首にかけ、胸に押し付け、起動スイッチを押した。
「主の願いを叶えます‼」
『確保モード開始。対象者はスカー・ルンブル。遺伝子サンプル採取』
ペンダントが音声ガイダンスを開始した。
エミナは、暴れるスカー・ルンブルを押さえ続けた。
『遺伝子照合、・・・・・・確認。直ちに護送用ポッドが到着します。工作員は到着まで確保を継続』
「衛星停止まで、五秒」
エミナは小さくつぶやいた。
「お前は何者だ。ただのアンドロイドじゃないな」
逃げようと身をよじりながら、スカー・ルンブルは聞いた。スカーの手足の産毛が濃くなった。エミナは眉一つ動かさない。
「私は、M―226型をベースにした特注品です」
「ウォセは高性能アンドロイドを持てるほどの身分なのか、俺とは大違いだ。一人目のハイブリッドだから特別待遇なのか?どうして、それが俺じゃないのだ」
「違います。ウォセは特別待遇ではありません。あなたよりずっとひどい生活です。百年以上、頭の中に爆弾を埋め込まれ、犯罪者を追う仕事をやらされてきました。たった一人で、ずっと・・・・・・。貴方の人工衛星が、宇宙船を攻撃しました。貨物として積載されていた私は主の星まで到達できず、契約解除されました。ウォセは憐れんで、仕方がなく私と契約しただけです。四十九名の乗組員が死にました。沢山の機器も。私は、彼らの遺伝子情報も、職歴も、家族構成も、疾患歴も、これから開拓先で行うはずだった仕事内容も、全部記憶しています。これからもっともっと、その記録は続くはずでした。それを、あの攻撃が突然止めたのです。許しません。あなたも、あの衛星も。ですから、衛星を機能停止させます。・・・・・・二秒」
スカーは人間離れした筋力でエミナを振り払おうとした。産毛は濃くなり、犬歯が尖り始めた。
「一」
エミナの電力は残り少ない。スカーを何時まで押さえ続けられるだろう。
「〇」
上空で、大爆音がした。遠巻きに見守る人達は耳を塞ぎ、身を低くした。
「機能停止です」
エミナはスカーより冷淡な微笑みを浮かべた。
『五秒後に、ポッド到着。座標、固定。動かないように』
チタン製のペンダントが告げる。ペンダントは変形して広がり、スカーの胸から肩、腹部、首、頭部に、するすると巻きついて行く。スカーの上半身を覆いつくした。スカーはエミナから逃れようと暴れ続けた。電子音のカウントダウンが続く。エミナは最後の電力を振り絞った。
『四』
『三』
『二』
『一』
『固定解除』
エミナはスカーを放し、草地に座った。
上空の飛行物体から光が降り、スカーの体を包んだ。緑色の光に包まれ、スカーは手足をばたつかせながら上昇して行く。スカーは丸い飛行物体に吸いこまれ、開口部は直ぐに閉じた。瞬く間にポッドは宇宙空間へ飛び去り、見えなくなった。
「宇宙(そら)から来た緑の竜が、ブセア・ケルスを喰らって飛び去った!」
遠巻きにしていた誰かが言った。彼らにはそう見えたのだ。
「森の竜ではなく、宇宙(そら)の竜が刑を執行に来たのだ」
人々は、不思議な光景について口々に話した。
エミナはウォセを助け起こした。ウォセは産毛も牙も消え、人の姿に戻っていた。
ウォセは息をしていなかった。心臓も動いていなかった。力の抜けた、見た事も無い穏やかな顔だ。このままにしてあげた方がウォセは幸せなのだろうか、十分長く生きたと言っていた。
でも、それはできない。どうしてもできない。
エミナは心臓マッサージをはじめた。口から息を吹き込んだ。何度も何度も続けた。遠巻きにしていた人たちも走って来た。エミナが施す蘇生術を見守った。
ウォセの心拍は戻らない。
「ウォセ、私を独りにしないでください‼」
エミナは叫んだ。
電気ショックを与えられるほどの電力は残っていない。
エミナはウォセの胸に崩れ落ち、顔をうずめた。
「戻ってきてください、おねがいです・・・・・・」
悔しくて、拳を胸に打ち付けた。
・・・・・・。
ドクン。
エミナの耳に、心拍が聞こえた。
「ウォセ?」
エミナはがばっと起き上がった。
「死なないで!」
心臓マッサージを再開した。数回でウォセは息を吐いた。直後、大きく吸った。
「ウォセ‼」
「何をしたらいい?エミナ?」
アシャが聞いた。
「祈って、呼びかけて、さすって、ウォセが戻るように。お願いです、ウォセを助けてください。ウォセ、生きて!」
エミナは泣きながら心臓マッサージを続けた。
ウォセは咳をした。苦しそうに眉をしかめた。
「ウォセ、分かる?」
ウォセは目を開けた。
「奴は?・・・・・・逃げたか?」
かすかなかすれ声。
「いいえ、ちゃんと捕まえました。ウォセの言う通り、代わりに遂行しました。貴方の命よりも使命を。私の事、ほめてください」
エミナは笑った。でも、涙は止まらなかった。
「ありがとう、よくやってくれた。辛かったろう」
ウォセは微笑んだ。エミナは心臓マッサージをやめた。
エミナがこの世で失いたくないただ一つのもの。その琥珀色の瞳が、輝いて見つめ返す。
ウォセはエミナの腕を引っ張った。
「あ、危ないです」
エミナはウォセの胸に倒れ込んだ。起き上がろうともがいたが、ウォセは腕を緩めなかった。エミナの髪に、顎を擦り付けた。
「頼む。もう少しこのまま」
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