結局、大事なのは「仁」?への応援コメント
善悪についての老荘思想の立場は、現代科学の宇宙観に共通するところがあるような気がしますね。
作者からの返信
おお!
素晴らしい!!
そうなんですよ!
無常にして無情なる自然科学こそが老荘思想の立場なんです!
そこには人為の及ばない宇宙が存在するのみなんですね。
キリスト教だと神が宇宙(自然)を創ったわけで、神はその前から存在したわけですが、多くの多神教では神は自然から「発生」し、自然は厳然とそこにあるわけです。
キリスト教から人間中心の世界観が生まれるわけですが、老荘的な世界観はそういった人間中心主義へのアンチテーゼともなっております。
最後にまとめへの応援コメント
大半が、善悪も正義も立ちどまって考えなくなった今だからこそ、このエッセイは価値があると思います。
私は「考える」にはやはり、論理とこだわりのなさが必要だと思います。
どんなに自分が正しいと考えていても、「1+1=3」とはなりませんから。そして、間違っていたと気づいても、「いや、私は1+1=3でいいんだ」となっちゃうと、対話の意味がありませんから。
今こそ哲学や冷静に物事を考える力が必要とされる時なのでしょう。
作者からの返信
コメントに星にレビューまで、有難うございます。
自分の感情を律する冷静さ。
相手の意見を聞く寛容さ。
そして間違いを正す勇気。
大事なことですよね。
空知音さんのコメントから気持ちを新たにしました。
有難うございます!
編集済
結局、大事なのは「仁」?への応援コメント
そうですね。「一人一人の良心」と「考え続けること」は密接な関係があると思います。
そのため、やはり、最後は個人個人がどう考えるかが大切になるのでしょう。
「正義」の暴走への応援コメント
マイケル・サンデルの事は横に置いても、対話が大事だということ、これはその通りだと思います。
今どれほど対話が廃れているかは、国会中継を見れば一目瞭然ですからね。
国会って議論する場のはずなのですが……。
そこでは、
「昨日どこに行きましたか?」
「これはペンです」
といった風なやり取りが延々と続いている訳ですから。
これはもはや、悲劇と言うより、喜劇ですね。
作者からの返信
そうなんです。
右か?左か?
与党か?野党か?
資本主義か?共産主義か?
男か?女か?
老人か?若者か?
全てを二項対立でしか考えなくなってしまい、そこに壁が生まれ、対話が無くなります。
実際には人間はもっと複雑な存在で二項対立だけでは説明できないことがたくさんあるのです。
あるいは対話の中から第三の道が生まれることもあるはずです。
我々は他者との「相違点」ばかり気にしていますが、もっと「共通点」を探して行くべきなのかな、と考えております。
「義」の教育の危険性への応援コメント
正義の暴走ほど恐ろしいものは無い、まさにその通りだと思います。
そのためにも、物事を客観的に見る力がいるのですが、ポストトゥルースの時代にそれがどこまで求められ得るのか、難しいことです。
「義」の見極めの難しさ。情報過多。への応援コメント
それだからこそ、情報の海に溺れないようにすることが大事なんでしょうね。それこそ「知」の出番だと思います。
作者からの返信
老荘では真知という言葉を使いますが、つまり時代や立場によって真実は変わるものだと考えました。
だから「流れ」や「全体」を俯瞰して見ることが必要で、それを真知と呼んだのです。
「義」の見極めの難しさ。情報過多。への応援コメント
すごくよくわかります!
情報をうのみにしてただ流されて生きるのではなく、自分自身はどう思うのかという自分の軸(マイメジャー)を常に意識して生きることが大切ですよね!
作者からの返信
コメント有難うございます!
大事なことですよね。
私は、哲学とは前提を疑うことであると、考えています。
情報を咀嚼し、自分自身の考えをしっかり持つことが大事ですよね。
最後にまとめへの応援コメント
興味深く読ませて頂きました。
千石さんは理系なのかと思ってましたけど、中国哲学にも造詣があるんですか?(゜-゜)
これは全然別の論なんですが、『孟子』では、「羞悪」の心が義の端だと言っています。
これを朱子が註釈して言うには「その為す所を為さざる所に及ぼせば、即ち義の端なり」とのことです。
それだけだと(´Д`)??? なんですけど、
要は、本当はいけないこととは知りつつも、いつもついついやってしまうことを、「いや、私はそういうことはしませんよ」と言い切ることが「義」の始まりなんだと言っているそうで。
これって、見様によっては性悪説と言ってること同じなんですよ。
性悪説と性善説って、結局は道徳を教えるための道具ですから、言うことも似通ってはくるんですよね。
ただ、改心させたい人に説明するときに
善→悪(今ここ)
よりは、
悪(今ここ)→善
のほうが、「自分にもワンチャンあるんじゃ」と思わせる効果が高いんでしょう。
日本で親鸞が持て囃されるのも同じ理由のようです。
英語のjusticeは、キリスト教ありきの思想ですから、意味は全然違うでしょうね。それこそ、相対性は皆無でしょう。
長文失礼しました。
ビーストランドの更新もお待ちしてます!
作者からの返信
おお!!
勉強になります!
実は私、大学で東洋哲学を少しだけかじりました。
と、言っても四書五経を諳《そら》んじる碩学《せきがく》の徒ではなく、実は、ひたすら漢文を読まされただけの浅学の徒でした……。
講義は八割寝てました(笑)。
なんで、本当にかじった程度です。
で、仕事は理系なんです。
羞悪。
恥ずかしながら初めて聞きました。
悪を羞《は》じらう、というのはいかにも儒教的ですよね。
儒教、特に孔子孟子はこの「恥」の感覚が強いです。
悪を羞《は》じらう、というのはいかにも儒教的ですよね。
儒教、特に孔子孟子はこの内面的な「恥」の感覚が強いです。
でも、儒教思想も後期になるほど外部的な「罪」の感覚に寄っていく感じがします。
そうやって、性善説→性悪説へと変わったのではないかと愚考しました。
いや、楽しいです!
遠方より朋来る有り、です!
お礼が遅れましたが、いつもお世話になっています。
興味を持っていただき、興味深いコメントまで、有難うございます。
「義」の教育の危険性への応援コメント
暴走しないためには客観的な視点を持つこと、そして与えることが重要でしょう。
たとえそれが正しい主張であっても、隣の人の感情論に一方的な視点から同調し始めるとそれは大きな波となって正義の暴走の火種になりますよね。
作者からの返信
コメントありがとうございます。
「人に与えられる」ということは「自分で考えない」という意味で使いました。
自分で考えない人は、周りの雰囲気や感情に流され暴走するのでは無いかと思います。
「与える」人が善人である保証も無いのではないか、とも思います。
そして、この対話にこそ意味が有ります。
ありがとうございます。