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最後にまとめ」への応援コメント

  • 自分の作品でも正義について考えた結果、主人公達が「考え続ける事が大事だ」としているので、大変共感しました。

    作者からの返信

    ありがとうございます。

    これからも、考え続けていきます!

  • 南総里見八犬伝という作品は、義や仁の玉を持つ者たちが集まり悪を討つというものでした。

    娯楽としての作品ですが、やはり道理なるものに従うものを正義と捉えています。

    大衆文化が今日の正義を育んできた、そう思えるエッセイでした。

    ありがとうございました。

    作者からの返信

    コメント有難うございます。

    私も里美八犬伝は大好きです。
    深作欣二監督の映画を何回も見ました。

    仁義礼智孝忠信孝悌ですね。

    儒教では八徳と言われます。

    仁義礼智信の五徳に次ぐ徳です。

  • 上手くまとめられましたね!

    作者からの返信

    有難うございます!

    読みやすいよう頑張ったので、そう言っていただけると安心します。

  •  大半が、善悪も正義も立ちどまって考えなくなった今だからこそ、このエッセイは価値があると思います。
     私は「考える」にはやはり、論理とこだわりのなさが必要だと思います。
     どんなに自分が正しいと考えていても、「1+1=3」とはなりませんから。そして、間違っていたと気づいても、「いや、私は1+1=3でいいんだ」となっちゃうと、対話の意味がありませんから。
     今こそ哲学や冷静に物事を考える力が必要とされる時なのでしょう。

    作者からの返信

    コメントに星にレビューまで、有難うございます。

    自分の感情を律する冷静さ。
    相手の意見を聞く寛容さ。

    そして間違いを正す勇気。

    大事なことですよね。

    空知音さんのコメントから気持ちを新たにしました。

    有難うございます!

  • 興味深く読ませて頂きました。

    千石さんは理系なのかと思ってましたけど、中国哲学にも造詣があるんですか?(゜-゜)


    これは全然別の論なんですが、『孟子』では、「羞悪」の心が義の端だと言っています。
    これを朱子が註釈して言うには「その為す所を為さざる所に及ぼせば、即ち義の端なり」とのことです。

    それだけだと(´Д`)??? なんですけど、
    要は、本当はいけないこととは知りつつも、いつもついついやってしまうことを、「いや、私はそういうことはしませんよ」と言い切ることが「義」の始まりなんだと言っているそうで。

    これって、見様によっては性悪説と言ってること同じなんですよ。

    性悪説と性善説って、結局は道徳を教えるための道具ですから、言うことも似通ってはくるんですよね。

    ただ、改心させたい人に説明するときに

    善→悪(今ここ)

    よりは、

    悪(今ここ)→善

    のほうが、「自分にもワンチャンあるんじゃ」と思わせる効果が高いんでしょう。

    日本で親鸞が持て囃されるのも同じ理由のようです。


    英語のjusticeは、キリスト教ありきの思想ですから、意味は全然違うでしょうね。それこそ、相対性は皆無でしょう。


    長文失礼しました。
    ビーストランドの更新もお待ちしてます!

    作者からの返信

    おお!!
    勉強になります!

    実は私、大学で東洋哲学を少しだけかじりました。
    と、言っても四書五経を諳《そら》んじる碩学《せきがく》の徒ではなく、実は、ひたすら漢文を読まされただけの浅学の徒でした……。
    講義は八割寝てました(笑)。
    なんで、本当にかじった程度です。

    で、仕事は理系なんです。

    羞悪。
    恥ずかしながら初めて聞きました。
    悪を羞《は》じらう、というのはいかにも儒教的ですよね。

    儒教、特に孔子孟子はこの「恥」の感覚が強いです。
    悪を羞《は》じらう、というのはいかにも儒教的ですよね。

    儒教、特に孔子孟子はこの内面的な「恥」の感覚が強いです。

    でも、儒教思想も後期になるほど外部的な「罪」の感覚に寄っていく感じがします。

    そうやって、性善説→性悪説へと変わったのではないかと愚考しました。

    いや、楽しいです!
    遠方より朋来る有り、です!

    お礼が遅れましたが、いつもお世話になっています。

    興味を持っていただき、興味深いコメントまで、有難うございます。