ライターズ:モノローグ
白椋広通
我が名は
女は逃げていた。
名前は、橘 蜜柑。今年で二十四になる、極々一般的な会社勤めの女だ。
朝は目覚ましの時計に目覚め、昼はぶっとり太った上司にいやみを言われ茶を運び、夜はコンビニでビールを買い、飲み、一日の鬱憤を晴らす……そう、そんな極一般の女だ。
ただ、あえて言えば多少好奇心が強い女であり、その好奇心を抑えきれない、という癖があったが……それでもそれは常軌を逸したものではなく、あくまで平凡を通り過ぎないものだった。
その日も彼女は、そんな好奇心に駆られたにすぎない。
茶が温いと上司に愚痴をこぼされ、そのことに対して、私は茶運びするために会社に来たんじゃない! と反発しながら、コンビニで買った生ビールをぐびり、と飲んだ、会社からの帰り。彼女は自宅近くの川にある水路に目がいった。
都市部の下水道に繋がっていると言われるそこは、普段は人が入れないように鉄格子によって閉ざされているのだが、なぜか今日に限ってそれが外されていた。
しつこいようだが、あえて言う。それは単なる好奇心にすぎない。ただ、酒に酔った勢いがあったことは事実で、その日の鬱憤晴らしに、なにか小さな謎解き、冒険が欲しかった、という気持ちがあったのも認める。それでも、それはやはり人間の好奇心を越えるものではないのだ。
彼女はふふんと意気込んで、水路の中に入っていく。気分はインディ・ジョーンズか、トム・ソーヤだ。すぐに下水特有の複合臭が鼻を刺したが、彼女の歩を止めるには至らなかった。
水路の中はトンネル状をしていた。真ん中を下水が通る水路が走り、その両隣には人一人が歩けるほど――一メートルあるかないか――の通路が存在する。彼女はその上を、若干滑りが強いその通路の上を歩いていった。
最初は、暗闇に響く、カツン、カツンという靴音を楽しんでいたが、数十分も続けていたところで、急に足が止まった。
突如鼻を刺した臭いが、変わった。
下水とは違う、酷く人間臭い臭いがした。
肌が、静電気に触れたように、小刻みにぴくりと弾く。
酔いが急に覚めた。冷水を頭から被されたような感覚に陥る。
彼女は聞いた。聞きたく無い声を聞いた。
それは、人間のあえぐ声。
それは、何者かの悦ぶ声。
それは、人間の絶望した声。
それは、何者かの狂った声。
それは、人間の肉が放つ音。
それは、何者かが放つ、音。
それは、視覚に収めなくても分る、最悪の結末。
それが、彼女の行く先、数歩先の曲がり角の先に存在する。
彼女は、その時点で逃げるべきだった。それも走ってではなく、彼ら(・・)に気付かれぬように、ゆっくりと、慎重に。
でも、悲しいかな。彼女にはそれが出来なかった。
彼女は脂汗を滴らせながら、足を進ませる。
後悔しかないはずなのに、彼女の好奇心は、それを許さない。
そして、彼女は角の先を見てしまった。
そして、幸運な事に、その場景を詳しく記憶することはなかった。
一人の女が、死んだ瞳でこちらを見ていた。その女は獣のように四つん這いで、衣類はびりびりに裂かれていた。
その後ろには……
彼女の記憶はそこで途切れている。
彼女はそこで悲鳴を上げ、走り出した。
来た道を戻っているつもりだが、それが本当にそうであったかは狂ってしまった彼女には、もはや分りもしない。
ただ、彼女は走った。
未知なる恐怖、知りたくも無い恐怖。
あれはなに? あれは?!
あの、怪物はなに?!
そう、後ろにいたのは人間ではない。複数のなにか。
人間だったら、彼女はここまで狂わなかっただろう。人間が人間を犯す。これはある意味起こりうることだから。
でも、今は違う。明らかに違うのだ。こんなこと、あってはいけないはずなのだ!
あぁ、神様!
彼女は走った。
涙、汗、涎、鼻水。恥も知徳も捨て去って、残ったのは純粋な野生の記憶。
恐怖から逃げる獣の記憶。
と、彼女はそこで、こけた。
痛い。
痛覚が彼女を、彼女として覚醒させる。
顔にべっとりと、粘液がまとわりつき、あぁ、と間の抜けた声を上げた。
滑りやすかったのはこのせいか。粘液に満たされた通路。むしろ今までこけなかった事が不思議なくらいだ。
……粘液?
ハッとした。
そして彼女は体を上げ、水面に目がいき……
目があった。
目があう?
なぜ? なぜ?
なぜ、水面に目が浮かんでいるのか?
水面一面にある、目はなんだ? まるで無数の蛙が水面から顔を出しているような、この光景はなんだ?
……分らない……わけじゃない。
分りたくないのだ!
彼女は構わず前を向いた。
彼女の眼に映るのは、十数メートル先に見える、下界の景色。月の光に照らされた光景。
そう、あと十数メートルなのだ。
彼女は体を起こし、走ろうとし……
再び通路に叩きつけられた。
バッと後ろを見た。
足首に、手が張り付いていた。
化け物が彼女の片足をつかんでいた。
化け物は、膨れ上がった大きな目と、うっすらと灰色がかった緑の鱗を持っていた。いうならば、魚が人になったような姿。もしくは蛙が二足歩行を覚え、魚の仮面を付けた、そんな姿。人間あらざる、化け物がそこにいた。
化け物は次々と水面から飛び出し、飛沫を彼女に浴びせる。
彼女は必死に悲鳴をあげ、体をひたすらジタバタさせるが、それも化け物の握力の前にはなんの意味も持たない。複数の腕――水かきのついた、水棲動物のソレだ―――が、彼女の腕や、首を押さえつける。
涙が顔をつたう。悲鳴にならない声が上がる。
悦ぶ声。仰向けに通路に叩きつけられる。嫌だ。こんなことって! 出口は目の前なのに。痛い。死にたい。恐い。恐い弧和弧和子和子和子wコア子こあkをあ……
服が剥ぎ取られた。
白い素肌が外気に、瘴気を帯びた外気に触れる。
駄目だ。
声も出ない。
声がする。
これは呪文か?
ふんぐるいむぐるうなふくとぅるふるるいえうが=なぐるふたぐん
いや、こんなことどうでもいい。
奴等は悦び、そして私は絶望を知る。
そして……
そこで、時間が停止した。
絶望に歪み、きたる最悪の瞬間を予想していた彼女――蜜柑が、突如もたらされた静寂に、え、と声を漏らした。
まるで先ほどまで襲われていたのが嘘なのかのように。
目を開く。悪夢はまだ続いている。奴等はそこにいて、まだ蜜柑の体を押さえつけている。
が、彼らの動きはなにもかも停止していた。
なにが起きたのか? それも分らず呆けると……
かつん……かつん……
いつから音がしていたのだろう。静かに、それでいてなんだか荒々しく、靴の音が響き渡る。
蜜柑は肌寒さを感じ、音のする方を、首だけ向かせ、それを見た。
かつん……かつん……
月光を浴び、出口から誰かがこちらに歩いてくる。
黒のライダースーツに身を包んだ人間。首元から、白いマフラーがゆっくりとなびいている。
かつん……かつん……
蜜柑は気付く。自分の感じている肌寒さが一時的なものではなく、実際に外気温が下がっているからだということに。蜜柑は気付く。自分を抑えている化け物が、急に体を――鱗につつまれた、魚のような体を――振るわせ始めたことに。
かつん……かつん
黒のライダースーツの人間が静止した。
顔は見えない。ただ、体格、身のこなしから男だと思われる。しかしその身のこなしは凡人のものではない。
異質な、少なくとも蜜柑には縁のない、身のこなし。隙のない、ツワモノの動き。
と、ライダースーツの男は突如、懐から何かを取り出した。
右手には、骸骨を思わせる、それでいて、なんだか悲しげな仮面。
左手には小さな、それでいて、今蜜柑を取り押さえている化け物よりも、濃い瘴気を持った、小さな棒。
化け物が、蜜柑の枷を外した。
びくり、と蜜柑を置いて、一歩後退する。
男は両腕をクロスした。
右手は顔に。左手はベルトに。
―――変身
闇に包まれた世界で、月光を背に浴びながら、彼は確かにそう、宣言した。
刹那。
周りの空気がぐん、と冷え固まり、蜜柑を濃霧が襲った。
*
その日、とある田舎の村にて事件がおきた。
普段から事件という事件のない、静かな村だったので、村に在住する警官は一人ないし二人ほどというもので、いたって平和な村だった。
いや、それは表向きは、というべきだろうか? だからこそこんな事件が起きたのだろうし、火元の無い場所に煙は立たない。
都市部からすすんでこの村に来た新米の警官は、その日に起きた事件が今でも忘れず、悪夢にうなされている。
その日、彼は自転車にまたがり、村の中で最も活気のある店並みを進んでいた。
もともと数の多い村ではないが、質素で、目新しいものを快く思わない人間が多いせいか、ここ最近の過疎化の心配は、この村にちっとも陰を落とさない。
一日に数回あるかどうかの、車の行き来を隣りに見ていた彼は、ふと肌寒さを感じた。
最初は気のせいかと思ったが、そうではない。不意に感じたものが次第にはっきりし、気付けば辺りに風がふきあれ始めた。そよ風から、人の帽子をかっさらうほど成長し、すぐに強風に変わる。ふと見上げると、どす黒く濁った雲がとぐろを巻いていた。
――ッ! と目深に帽子をかぶりなおした彼は、今日の天気を思い出してみた。とくに辺りに前線はなく、ハリケーンがきそうな大きな積乱雲も辺りには見えない。
そう、見えない。村の外に見える山々の後ろには青々とした空が覗いている。
バカな、と新米警官は目を丸くした。この風、そして、この頭上の雲。これはこの村にのみかかっているのだ。
なんだかおかしい。そう思った矢先だった。
何の前触れもなく、彼の前に何かが落ちてきた。
それはドゴン、と鈍い大きな音を立て、地面にめり込んだ。不意に気になった彼は自転車を飛ばされないように支えながら、落下地点を覗いてみる。
それはくるぶしから先の、人間の足だった。
新米警官は、ア、と悲鳴をあげ、自転車に乗せていた手を放してしまった。
切断、いや、人外の力で引きちぎられた足である。全体的に擦り傷が走り、足の周りを所々赤い結晶が覆っている。……結晶。驚きおののいている彼には分かりもしないことだったが、それは凍結された血液にほかならなかった。
事件である。これは、この村初めての事件である。人体バラバラ切断。なんてことだ、畜生。新米警官が神に嘆くと、急に風がやんだ。
え、と新米警官が空を見上げると、一瞬なにものかと目があったような気がしたが、すぐに風が吹く前、青空に変わっていた。
いや、それだけではなかった。
新米警官は悲鳴を上げることも忘れ、その光景の一部始終を見てしまった。それはあまりに現実離れした光景であり、平凡な新米警官を呆けさせるには申し分ない光景だった。
――即ち、天から人間と、人間のカケラが堕ちて来た。
天から落ちてきた人間は、地面に体を叩きつけられ、身動き一つしなかった。新米警官はその現実離れした光景を呆然と見つめていたが、数秒と経たない内に堕ちて来た人間のカケラに、正気を引き戻された。
ぼど、ぼど、ぼど、と鈍い音を立て、堕ちてくる部品。
二の腕。
太股。
肩。
胸。
指。
腕。
脚。
手。
それだけでも、彼を発狂させるには申し分なかったが、一番彼の心臓にナイフを突き刺すほどの衝撃をあたえたものは、一番最後に堕ちて来た。
ごつん、ごろごろ……。
それには髪の毛がついていた。元々は美しい、金糸を思わせる素晴らしい髪であったろう、濁ったブロンド。その所々に、赤い結晶がこびりついている。髪の毛はばりばりと音を立て、転がる度に不快な音楽を奏でている。
そして、ソレは新米警官の前で、一度止まった。
女の、生首。据わりは良くない。力で引きちぎられたような切断部分には、背骨の一部が肉と赤い結晶に包まれ、まだ首から伸びていて、顔には無数の切り傷が走っていて、鼻はもう半分凍傷で失われ、口はこれでもかと開かれ、伸びた舌が、はっきりと黙認でき、目は――何を見たらそんな風になるのだろうか、目玉が零れ落ちそうになるまで飛び出て、実際、片方の目は眼窩が開いていて、その顔はとにかく、恐怖、恐怖、恐怖……。
新米警官は悲鳴を上げて、どたん、とその場にしりもちをつき、あ、あぁぁぁっと情け無い声を出して後退した。
なんてことだろう。誰がこんなことを。いや、むしろこれは人間の仕業なのか? こんな、こんなむごい、いや、こんな人間離れした行為は……人間にできるのか!
新米警官はうわごとを漏らしながら、突如視界に動く物体を見つけ、さらに悲鳴を上げた。
彼の視線の先で、何者かが蠢いていた。
それがなにかに気付いた彼は、嘘だ! と思わず叫んでしまった。
動いていたのは、パーツより先に落下した、人間だった。
男のようだった。ただ、彼も体中に無数の切り傷が刻まれ、片腕と、片足が、引きちぎられていた。白いシャツは赤く染まり、所々でばりばりに崩壊、もしくは凍結してしまっている。
男はぶるり、と体を震わせ、顔だけをくい、と上げる。
ひどいありさまだ。人間らしい顔は、もはや左目と口のみを残すだけで、ほとんどを凍傷にやられている。
男は、辺りを少し見、新米警官の前に静止している首を見つけ、ゆっくりと体を動かし始めた。
本当にゆっくりだ。おそらく痛みはないのだろう。切断箇所が地面に押さえつけられても、彼は首に向かって、一直線に進む。
首に手が伸びた。彼は優しく、それでいて人間らしい感情に身をぶるぶると震わせていた。
誰の首かをしっかりと、確認し、体を震わせ、ゆっくりと抱く。何度も首がその腕から、堕ち、それでも彼は何度もその首を抱き、口をあわあわと揺らした。
何度も、何度も。それは新米警官の恐怖さえも打消し、人間らしい感情を抱かせた。
それは、悲しみ。
愛するものを守れなかった怒り。
何も出来なかった、自分への怒り。
全てを失った、絶望と、失われない世界への羨望。
もしくは……悔しさと、憎悪。
悪徳にまみれた、薄汚れた、それでいて哀しいかな、人間誰しもが持っている、確かな憎悪。
そう、憎悪。悲しみの憎悪。悪徳の憎悪。愛するものを奪われた憎悪。ちっぽけな自分に対する憎悪。怒りをも越える憎悪。不条理と、理不尽にまみれた憎悪。ぬぐいきれない、ぶつけようのない、憎悪。
耐え切れなくなった男は、誰もいない(・・・・・)空に慟哭した。
声にならない声が、辺りを振動させる。皮膚が裂けようと、体が崩壊しようと、終わる事のない呪いの言葉。それしか彼にはできず、彼はただ天に叫ぶ。
その時、確かに新米警官は見た。彼の生きた左目に流れる、一筋の線を。紅の涙を。
とめどなく流れる、真っ赤な、真っ赤な、紅の涙を。
結局、この事件は人の手にあまる事件とされ、遺体ともども、人外専門のとある機関に運び出された。事件全てはその機関が管轄し、永劫、暗闇の中に封印された。
もはや、その話が残っているは胡散臭いゴシップ紙と、その機関の名前。
『ミスカトニック大学』、だけである。
*
――復讐。
彼が最後に残した言葉はそれだけだった。
それを聞いた人間は、ほとんどいなく、ただ一人、彼を蘇生させた科学者だけだった。
濃厚な、憎悪だ。
何があろうと、どんな犠牲を払おうと構わない、憎悪。
科学者はうっすらと笑んで、悪魔のように、彼に選択を与えた。
即ち――生か、人間としての死か。
しかし、科学者には分っていた。答えなど、随分昔から決まっている。
憎悪は枷だ。憎悪は強い枷だ。命をこの世界に結ぶ、窮極にして、絶対の枷だ。
故に。科学者は分っていてこの選択を与えた。
結果、この日、一人の人間が死んだ。
その後残ったものがなんなのかなど、言う必要も無い。
*
「―――」
生らしい生を感じることなく、彼は眼を覚ました。
痛みはない。ただ、体中に流れる、不快な感覚に眉をしかめた。
次に意識が覚醒する。ここはどこだ。俺は誰だ。これは――。
記憶があまりにあやふやで、不確かで、彼の頭の中をかき乱した。
しかし、残っていた知識から、彼のいる空間が一つのドアしかない部屋であり、その中には鏡と、白いシーツのベッドだけが鎮座していることが分った。彼はそのベッドの上に横になっていたのだ。
ぼんやりと、天井に浮かぶ裸電球を見つめる。
ここはどこなんだ。誰も答えてくれない謎を、ぼそりと心で呟く。
体を起こした。まずは自分が立たされている状況を認識しなくてはならない。
見れば、その体には無数の縫い痕が走っていた。指先から、頭まで。まるでバラバラの体を縫い合わせたかのような、不恰好な体だ。そして、そんな彼の腹には、真新しいベルトがまいてあった。
「……これは……」
驚き、呆れ、彼は口を紡いだ。果たしてこれはどういうことなのか。これはもともと生まれついてのものなのだろうか。それとも……。
彼にはなにも分からなかった。記憶が、特に自分に関する記憶が、彼には欠落していた。
「……目覚めたようだね」
「!」
声がした。顔を上げると、そこに一人の男が立っていた。
若い。二十、いやそれよりも若い。まるで子供のような年頃だ。が、彼の放つ異様な雰囲気がそれを否定した。
少し緑がかり、一本妙な癖毛がある髪。白い肌に、絵画の薄幸の少女を思わせる、美しい顔立ち。白いシャツ、白いパンツ、白い履。その上にこれまた白い白衣を着こなしている。ただ、瞳だけは黒く、じっとベッドの上の彼を見つめている。
その視線はどこかなつかしかった。それは敵意にも似て、同属の匂いのする視線。
「……あなたは……一体……」
「誰か、とでも言いたいのかな?」
目の前にいる白衣の男が、彼の言葉を遮った。
白衣の男はまるでオペラの俳優のように、手振り、身振りと、大げさに応答した。
「なんと。世界の頭脳たる僕を知らないとはね。情け無いじゃないか。まぁいいよ、教えよう。僕はウエスト。ハーバート・ウエストだ。その哀れな体によく刻むことだね」
それはあまりに上空からモノを言う、大層偉ぶった物言いだった。美しい顔がニコリと笑うが、彼にはナイフを突きつけられたような感覚しか残らなかった。
「ドクター。そう呼んでくれたまえ。……たまにファーストネームで僕を呼ぶ【セクハラ下等教授】もいるけど、僕はそれ、嫌いなんだよ」
分ったかな? と、白衣の男――ドクターは、彼の眼を覗いた。その目は程よく濁っていた。狂人の目だ。どぶ川のように濁った、人らしからぬ瞳。
そんな彼の感想を理解したのか、しなかったのか。ドクターはふっと彼から視線を外し、部屋の鏡を覗いた。
「ここ、ミスカトニックで教鞭をふってあげている。言っとくけど、これは僕の最大の慈悲で、だ。ここ、勘違いしないでね」
なんて物言いだろうか。礼儀もなにも知らない、子供の物言いだ。彼の中に、ふつふつと小さな苛立ちが浮かび……
「――そして、君を蘇生させた、君の命の恩人でもある」
結びの言葉に思考が停止した。
「……な……」
一瞬、彼が何を言っているのか分らなかった。蘇生。それは一度死んだものに使うものではなかったか。
戸惑い、慌てる彼を横目で見、両手を上げてドクターはため息をついた。
「どうやら君は覚えていないのだね。まったく。これだから知能レベルの低い輩は困る」
ドクターはゆっくり息を吐き、とびっきりの笑顔を彼に向けた。
「君は僕の作品なんだよ。題名は『復讐者』。奴等への飽くなき憎悪に身を焦がす……哀しい哀しい人間さ」
ふく、しゅう?
彼は呆けて、その言葉をぽつりと呟いた。
と、突然彼の中で何かが弾けた。
少女が笑った。
少女が泣いた。
少女が照れた。
少女が頬を染めた。
少女の唇が触れた。
少女を胸に抱いた。
少女が泣き叫び、俺に逃げたいと言った。
少女は助けてといった。
少女は助けてといった。
少女は、少女は……
風が吹いた。風は俺ともう二人を乗せ、天へと運んだ。
風が吹く。
風が吹く。
風が吹く。
嬲られた。嬲られた。嬲られた。
少女は嗤う。
少女が壊れる。
少女がなにかに変わる。
少女が割れる。
少女が割れる。
少女が折れる。
少女が砕ける。
少女が弾ける。
少女が嗤う。
少女が飛ぶ。
少女が開く。
少女が切れる。
少女が、少女が、少女が、少女が……
俺の全てが目の前で。声とともに肉に変わる。
俺はどうしていたのか。
その現実に身を焼かれ、そして、上にいる奴に気付く。
星を思わせる光が二つ。
道化に悦ぶ、星が二つ。
貴様か。
貴様なのか。
貴様が、
貴様が、貴様が、貴様が、貴様が、貴様が、貴様が、貴様が、貴様が、貴様が、貴様が、貴様が、貴様が、貴様が、貴様が、貴様が、貴様が、貴様が、貴様が、貴様が、貴様が、貴様が、貴様が!
俺の全てを奪ったのか!!
「あ、あああああああああああああああああああああ」
彼は吼えた。体を掻き、頭を掻き、ベッドを叩き、いたるところに呪いを吐き、ひたすら吼えた。
狂いたかった。忘れたかった。
情報が駆け巡る。いたるところから記憶が浮かび出て、彼の体を蹂躙する。
あらゆる思考が奔る。あらゆる痛みが奔る。
殺して欲しいと思うほどの空しさ、儚さ、哀しさが奔る。
あ、あ、あ、あ!
あぁ!
体に奔る記憶と思いがゆっくりと一つの意思に収縮する。
憎い。
あいつが、奴等が、世界が、全てが憎い。
俺から全てを奪った、笑顔、希望、涙、愉快、願い、憤怒、絶望、切望、幸せ、未来、過去、今、体、影、面影、魂、心、記憶、存在、全てを奪った奴が、奴の存在を許す世界が憎い。
憎い、憎い、憎い。どうしようもなく、全てが憎い!
体が燃える。血潮の代わりに流れるソレは憤怒よりも熱く、絶望よりも冷たい憎悪。
あ、あ、あ、あ!
あぁぁぁ!
何処だ、何処だ、何処だ、何処だ!
今すぐ貴様を殺してやる、否定してやる、ことごとく、全てを否定してやる!
何処だ!!
彼を構成するのは、果て無き憎悪だった。
哀しいくらい彼にはそれしかなく、それ以外を求めていなかった。
そして『人間』を否定するほどのそれは、彼に変化を与えた。
それを彼は理解できていなかった。
痛みも、快楽もない。あるのは癒しがたい憎悪だけ。憎悪こそが彼であり、憎悪に取り付かれた『元人間』が彼だった。
彼は変貌した。
もう、人間でさえないのだ。
彼はそれを鏡で確認してしまった。
鏡には霜が張っていた。その中に。曇った鏡面の先に、己が憎む存在がいた。
星のような双眸がそこにいた。
鏡の先に?
いや。
あれは……あれは。
ソレは肉を持ち、彼を睨んでいる。
つまり。
彼の体はバネのように弾き、起き上がった。
ろくに床に着地する前に目の前のドクターの喉下を襲った。
右手による一瞬の一撃。それを避けることもできず、ドクターはその勢いで部屋の壁に叩きつけられた。
蜘蛛の巣状の罅が壁に走り、部屋どころか、その場の空間ごと振動させた。
が、ドクターの目に驚愕はなく、痛みさえも浮かんでいなかった。
「………言え」
彼は、言った。震える声で言った。
「言え!」
彼は己が瞳で、鏡の奥にいたものと同じ、輝く双眸でドクターを睨んで叫んだ。
「俺に、俺に何をした!」
暴発する想いに部屋が一気に凍結した。
その凶暴性、その人間らしからぬ風貌。全てが彼に教えてくれた。
これでは俺は、まるで俺は――
奴と同じではないか!
「……なにを今さら」
ドクターはぽつりと言った。
「……な、ん、だとッ!」
「君は自分が普通の人間だと本当に思うのかい? 僕の完成品たる君が。……やめてくれ。人間は死んだ人間を蘇らせることはできんよ。人間を創る事などできん」
一瞬、ドクターの、ハーバート・ウエストの顔が一変した。まるでどっと老けて、世界の心理にたどり着いた老賢人のような、若しくは古代中国の仙人のような、そんな顔だった。その目に宿るのは今までの態度が嘘のような哀しみ。痛みを知る人間の視線だった。
しかし、それは一瞬だった。ドクターはフッと表情を戻し、彼の右手の隣に立った(・・・・・・・・・・)。
「!」
彼は驚愕する。いつの間にか彼の右手は空を掴み、己が捕らえたはずの人間が、自分の隣に立っていたのだから、当然といえば当然だ。
ドクターはうっすらと笑った。
「思い出したようだね。けっこう、けっこう。なら詳しく思い出させてあげよう。君のいきさつを」
そして、ドクターは語った。
彼は、地面に叩きつけられたあの時から、もう死んでいたようなものだったと。
ただ、復讐に身を焦がす彼の意思に気付いたドクターが、人ならざる術で蘇生させたこと。
その体は、もはや人間ではないこと。
「そうだよ。今、君の体に流れているのは、君が最も憎む存在。ヤツの力だ。君は――限りなく旧支配者(ヤツラ)に近しい」
彼は、うろたえた。己が手を見る。指を動かし、口を動かし……人の体温を越えた獄低温。故に体が熱い。死んでいく体が熱いのだ。
「君の体は既にヤツラの力に染められていた。故に簡単に死ななかった。が、同時に君はあれに抗い続けた。その結果が君だ」
ドクターはぼうと、死んだような瞳で彼を見つめた。ぶるぶると震える、哀れな化け物を見つめた。
「でも、あえて言おう。君はまだ人間だ。どうしようもなく……哀しいくらいに人間だ。……心までヤツラと一緒なら楽だったろうにね」
「……にんげん……だと」
彼は吼えた。
「ふざけるな! なぜ俺が……最も許されぬヤツの力で生かされなければならない! これのどこが人間だ! 俺のどこが人間だ! なぜ……なぜ!」
「君は復讐したいのだろう」
彼は、ハッとした。
「君は何もかもを捨ててでも、復讐したいのだろう。君から全てを奪ったヤツに。『風に乗りて歩むもの』イタクァに」
「……い……た……くぁ」
「覚えておきたまえ。それが、君が最も憎むヤツの名前にして、君の体に流れる力の源流だ。如何なる時もヤツは君の中にあり、君を苛み続けよう。しかし、君はその代わりに力を得る。人間をやめたものが持つ、絶対の暴力を。ヤツを始めとする、旧支配者達と戦い続け、復讐し続ける力を」
ドクターは一息いれ、懐から小さな棒を取り出した。彼には棒にしか見えなかったが、実際はPCなどに用いられるフラッシュメモリであった。
「これは、『断罪の章』という魔導書の電子計算版ラテン語訳の写本データだ。己が闘争心、己が憎悪を抑え切れないときに、そのベルトに差し込むと良い。旧神の一柱がどんな気まぐれか、人間に残していった希望の一つだ。君の力の制御に役立つだろう」
ドクターは彼の隣り、ベッドの上にそれを投げ捨てる。
彼はそれをじっと見つめる。
「死にたいかね。ヤツラと同じになるくらいなら死にたいかね。やめておきなよ。君はまだ人間だ。カレ等に最も近しいが、君はまだ、どうしようもないくらい人間だ」
ドクターは言う。そこにはもはや最初のような態度は見られなかった。あくまでも静かで、凪の海のような冷たい静寂がそこにあった。
「もし、まだそれを疑うなら、自分の足を見てみることだ」
彼は、言われたとおりに従った。
彼の足は、しっかりと床を踏みしめていた。
ここから一歩も退かまいと、しっかりと。
けして、浮いていても、誰かの力を借りているわけではない。
己が足でしっかりと立っている。
「君はまだ、自分の足で立っている。ヤツではない。ヤツラではない。でももし……それでもそれを疑うなら。戦い続けるのが辛いなら、復讐なんかが莫迦らしくなったなら、化け物みたいな自分に耐えられないなら……」
ドクターは、仮面を取り出した。
不思議な仮面だった。一見は骸骨のような、不気味な仮面だ。それには大きな複眼のような赤い目二つあり、表情もなにも読めない、虫のような残忍さもあった。
それでいて、この仮面は泣いていた。
赤い両目から、赤いラインが、紅の涙が流れていた。
消せる事の無い、哀しみの印。
消えることの無い、痛みの印。
そんな運命を思わせる、不思議な意匠。
ドクターはそれを彼に差し出していた。そして言う。
「――【仮面レイダー】を名乗ればいい」
「……かめん……れいだ……あ」
「その昔実在したという、酔狂な、それでいて癒しがたい痛みを負って人のために戦い続けた、男たちの名だよ」
ドクターはそう言って、仮面もベッドの上に抛った。
彼に背を見せ、部屋のドアに手をかける。
「……ま、好きにしなよ。僕がするのはここまでだ。あくまでこれは僕の善意を持った主観的提案だ。君がどうするかは君しだい。死にたければ死ねばいい。―――あぁ、もし将来人が食べたくなったならもう一度ココに来てごらん。今度は人間として殺してあげるよ」
そう言って振り返った顔には、出会った当初の、愉快そうな笑顔が浮かんでいた。
「なんにしても、決めるのは君だ」
ドクターは「また後で答えを聞かせてくれ」といって、部屋を去っていった。
部屋には、すっかり意気消沈した、彼だけが残されていた。
その瞳は、悲哀に満ちた、哀れな人間の瞳。
その瞳から、どうしようもなく、紅の涙が流れていた。
*
「……や……ぃあ!」
蜜柑は自分を襲う濃霧に悲鳴を上げた。肌を刺す冷気が痛い。どうやらこの濃霧は瞬時に空気中の水分が凍結し、霧になったようだった。
前が見えない。あたり一面が見えない。
自分を取り押さえている力は既になかったが、それでも体から力がごっそり抜けていて、動く事はままならなかった。
それにしても……。蜜柑は混乱する頭をふり、先ほどまでの光景を思い出した。
黒いラーダースーツの人間。彼は一体誰だ。彼の眼には化け物に襲われている自分の姿が見えていたのだろうが、彼はもしかして私を助けに来たのだろうか……。
蜜柑が淡い希望を描いた時、彼女は悲鳴を上げた。
濃霧の中をきって、一つの影が彼女の隣を歩いていた。
影は大きな赤い目を持っていて、人間らしからぬ顔をしていた。体は黒い。しゅうしゅうと音を立てながら、体のあちこちから、白い煙が出ている。
一見それは、光る目をもつ、化け物のように蜜柑は見えた。
ソレは蜜柑の悲鳴にふと歩みを止め、彼女を見た。が、ソレは再び、何事もなかったように歩き出した。
そこでゆっくり、霧が晴れてゆく。
霧が完全に晴れて、蜜柑がバッと後ろを振向くと、先ほどの化け物の正体がわかった。
彼女を守るように、黒のライダースーツの男が立っていた。
頭から出ている黒い髪はハリネズミのようにとがっていた。首元からなびく白いマフラーは、寒さをものともせず、緩やかになびく。よくよく見るとライダースーツの周りには小さな装甲のようなプレートがついていて、その間から、白い煙がまだ、糸を引いていた。
彼だったのだ。
蜜柑が生唾を飲み込み、体の震えをおさえようと、自分を抱く。
自分を襲っていた魚みたいな蛙みたいな化け物は、彼から距離をとって、まだそこにいた。
じりじりと距離を縮め、口をパクパク動かしながら、ときおり蜜柑を見ている。
……わたしを……あきらめていない……!
蜜柑は体を強く抱いた。恐い。ほんのさっきまで襲っていた恐怖がぶり返し、思考がショートする。
「…………ろ」
「……え」
声がして、蜜柑が顔を上げた。混乱する頭でも、なぜかその声だけは、聞き取ることができた。
「……にげろ」
それは目の前の男が口にした言葉だったのか。語句のイントネーションが微妙だ。日本人の話し方ではなかった。いやむしろ、そのしわがれた声は、人間のものとは思えなかった。
そして、蜜柑の返事を待つ前に、ライダースーツの男は、魚人――あの魚みたいな、蛙みたいな化け物は、こう言う方がしっくりくる気がした――に向かって走りだした。
がんがんがんがん! 通路を走るたびに、ライダースーツの男の足元が凍り、男はその上を割りながら走っていく。
魚人がびくりと震えた。まさかこちらに来るとは思っていなかったのだろう。しかし、その様子にはまだ、余裕がみえていた。
魚人の幾人が背をそらせた。ごぼり、という音が鈍く響く。
と、奴等は口から大量の水を放出した。
水流ではない。短く放出されたそれは、水の弾丸である。
ライダースーツの男の前に着弾。通路がばりばりに砕ける。すごい破壊力だ。が、ライダースーツの男はひるまなかった。
無数の水の弾丸が、彼を襲う。
駄目! 当たる! と蜜柑が悲鳴をあげようとすると……。
ライダースーツの男は左手を一閃させた。
それだけで充分だった。
「……うそ」
蜜柑がその場景に、自分が混乱していることも忘れ、呆けた。
ライダースーツの男が左手を一閃させた瞬間、白い冷気が放出され、空気中の水分ごと、水の弾丸を凍らせてしまっていた。ごつ、ごつん、と水の玉が落ちていく。
魚人は驚愕しているようだったが、その顔の特徴ゆえに分りにくい。
その間が魚人たちの命とりだった。
がっ!
通路上の先頭にいた魚人の頭に、ライダースーツの男の右拳がめり込んだ。それだけに飽き足らず、ライダースーツの男は前進し、魚人を通路に叩きつける。
数秒、あたりが静寂に包まれた。
彼の右手からは白い煙がもうもうと湧き出し続けている。ライダースーツの男が顔を上げた。
骸骨にも似た、それでいてなんだか哀しげな、仮面。
赤い目が輝き、次の獲物を探す。
彼によって、通路に叩きつけられた魚人は、頭を綺麗に粉砕されて、もはや動かぬ肉塊へと変貌していた。
世界が動き出した。
残っていた魚人たちは一斉に水路に飛び込み、ライダースーツの男から距離をとる。
逃げる様子はない。自分の得意とするフィールドに移動しただけである。その証拠に、水面からは大きな目玉が蛙のように浮き出て、ライダースーツの男の出方を待っている。
ライダースーツの男はあたりを見回し、ゆっくり立ち上がった。
その姿はまるで死神だ。白と黒につつまれた色彩。真っ赤に光る目。人間らしいものがごっそり抜けた、化け物。
蜜柑は体を振るわせる。もはやその恐怖は魚人ではなく、ライダースーツの男に向けられていた。
魚人が動いた。
魚人の幾人――幾匹?――が水上を高速に移動し始めた。
と。
ざばっ!
魚人がライダースーツの男に体当たりを仕掛けた。
「……!」
一発の弾丸のように、魚人がライダースーツの男の胸に飛び込む。男はよける間もなく、後方、通路の壁に激突した。
ごぉん、と重い音が、水路の中に振動する。
どれほどの体重があるかは知らないが、人一人以上の体重を持った弾丸である。水面移動の速度を加えた体は、どんなものも破壊する力とみて、なんら問題ない。
水路の壁を構成するコンクリートがぼろぼろ落ち、粉塵が辺りを舞う。
その中から、先ほど特攻した魚人が現れた。
表皮が恐ろしく固いのだろうか、傷は何一つ無い。
大きな口をこれでもかと広げ、魚人が雄たけびを上げた。
勝利に酔っている。
一匹の雄たけびにあわせ、水面の魚人も叫ぶ。蛙の合唱よりも耳障りな空気の振動が、水路中に鳴り響いた。
蜜柑はその光景を見ているだけだった。
あっという間の出来事に、呆けているだけである。
やられてしまった……の?
なんとかそれだけが分る。
蜜柑がハッと気付いた。
魚人たちが再び、蜜柑の方へ前進し始めた。
先頭を進むのは先ほど、ラーダースーツの男を倒した魚人である。
口をパクパク動かし、愉悦を思わせる表情を、彼女の脳裏に叩きつける。
ふんぐるいむぐるうなふくとぅるふるるいえうが=なぐるふたぐん
魚人が再び歌い出した。
一歩、一歩と蜜柑に近づいていく。
蜜柑が恐怖にかられ、叫ぼうとすると……
再び粉塵が起きた。
赤い光が飛び出す。
なんの警戒心も抱いていなかった、先頭の魚人の頭を、何者かが勢いよく掴んだ。
――白い煙をまとう、人間の手。
「――――ッ!」
魚人が悲鳴を上げた。
暴れ、のた打ち回るが、頭を押さえる手の握力が強く、上手く動く事ができていない。
その間に、魚人の頭は一気に凍結した。
脳内に走る血液が結晶化。細胞を破裂させ、魚人は活動を停止する。
それでも満足せず、手は凍結した頭を粉砕した。
破片が飛ぶ。
蜜柑の頬先を、魚人の目玉が飛んでいった。
頭を失った体が、どっと通路に倒れ、魚人の後ろに立った男の姿をさらした。
ライダースーツの男。
もはやそれは、もう一人の化け物。
蜜柑の体が動いた。
その体は、ライダースーツの男から逃げようと、必死に後退しようとしていた。
もはや、蜜柑にとって、ライダースーツの男は彼女を助けてくれるヒーローではなく、魚人と同じ化けものだった。
「……く、来るな! こっちに来るな! あっちいって、いってぇぇぇッ!!」
蜜柑は叫ぶ。口内はがらがらに乾き、しわがれた声にしかならなかったが、それには明白な恐怖と、敵意が込められていた。
ライダースーツの男はその一部始終を見、一瞬、その動きを止めた。
まるで……その姿は……
『――――――ッッ!』
奇声が大音量で響いた。
ライダースーツの男の後ろから、四人の魚人が飛び掛った。複数で一気に敵を倒そうとした動作だったが……
彼にはもはや通用しなかった。
ライダースーツの男は素早く振向き、最も自分に近い一人の頭を粉砕した。それだけでは止まらない。二人目、三人目と、次々頭を粉砕していく。
拳から、白い煙が上がる。
頭部を粉砕された体が、次々に落ちていき、最後に凍結した破片がばらばら落ちていった。
それでも、ライダースーツの男は止まらない。
第二波の攻撃も予測し、次々に魚人たちを倒していく。
その姿はもはや死神と形容されるものではなかった。
容赦なく、敵を討ち滅ぼすその姿はまるで修羅であり、一切の情けを見せないその戦い方は、魚人に対しての一方的な殺意を思わせた。
皆平等にぶつける暴力ではないのだ。一方的な、真っ直ぐな暴力。特定の相手を呪った一撃。
これは、人間の復讐に近い雰囲気を纏っていた。
どれほど同じ行為が続いただろうか。
水面に魚人らが数人を残すほどになった頃、魚人たちはようやく自分達が劣勢に立たされている事実を認識した。
そうとわかったら、彼らの反応は早かった。水面に残った魚人たちは、一目散に後方へ泳ぎ始めた。
速い。蜜柑を追い込んだときからも分るように、彼らの水中での速さには眼を見張るものがあった。
――が、彼はもとより逃がすつもりは一片も持ち合わせていなかった。
ライダースーツの男が、水路に飛び込んだ。
飛沫が飛ぶ。水かさは彼のふとももにまで及んでいたが、彼は気にもしない。
両手を自らの前にかざす。体中の意識を両手に集中し、あらぶる力を一気に解放した。
目が光る。それは、許容外の力の解放を意味した。
ごごごごごごごごごごっ!
両手より竜巻が放出される。純粋なエネルギーの放出であるそれは、水路を巻き込み、直線に進む。
しかもただの風ではない。竜巻に触れた全てが凍結し、固体化、さらに風の力で破裂していく。
暴力の竜巻、絶対零度の竜巻は、あらゆるものの存在を許さぬ龍と化し、進む。
その勢いはついに逃げる魚人をとらえ、水路からその身を引きずり出した。
『――――ッ!』
奇声があがる。しかしそれは暴風の前では小さなもので、掻き消された。
竜巻の中では、魚人たちの四肢が竜巻によって固定され、ライダースーツの男の元まで一気に引き寄せられていた。まるで風の蟻地獄である。
そして、目視で魚人達を確認したライダースーツの男は、放出を停止した。その代わりに、力の本流が両足に注ぎ込まれる。
ライダースーツの男の跳躍。そして、竜巻の中への突入。
竜巻の中の氷の衝突が連鎖し、電気が発生。その電気も男の足に吸収され……。
ライダースーツの男の、最大必殺技が発動する。
【ライトニング・インパクト】
直後、男の体を雷が走り、加速。四肢を固定された魚人たちを全て、蹴りにて粉砕した。
男はそれを確認すると、ベルトの力を解放。放出された力を急速に鎮圧化する。
その正負かけはなれた行動に、竜巻を形成していた魔力が不完全な形で圧縮。結果……
ドォォッ!!
水路中に轟音を鳴り響かせ、爆発した。
その全てを見つめていた蜜柑は、その余波で体を嬲られながら、出口の方向へ吹っ飛んだ。
*
蜜柑が傷みに目を覚ますと、其処はまだ、水路の中だった。爆発の余波を受けた割には傷はほとんどなく、体も出口側に数メートル動いただけだった。
ただ、頭の中につーんとした、痛みが走っている。
彼女にはわかるはずも無いが、あれは純粋な魔力の爆発である。瞬間ながらも魔力に脳があてられ、彼女はフルマラソンを走った後のような疲労感を感じていた。
トンネル状の水路の中は、所々がまだ氷結していた。
外気にふれ、白い靄をつくり、奥がどうなっているのかさえも分らない。
が、
かつん……かつん……
あの靴音が鳴り響いた。
蜜柑は体を硬直させた。
かつん……かつん……
明らかにこちらに近づいている。
蜜柑はなんとか逃げようとしたが、やはり体は動かなかった。
かつん……かつん。
音が止まった。
白い靄の中に、赤い光がぼんやり浮かんでいた。
「ひ……あ……」
蜜柑が声をもらすと同時に、靄も薄れ、光の主が現れる。
ライダースーツの男。
傷はほとんど無い。ただ、体から放出される白い煙が、糸のような細さでまだ出続けている。
骸骨を思わせる仮面。その赤い目が、蜜柑を見つめ、そして彼女の精神を萎縮する。
蜜柑の精神は既に壊れているも同然だった。
なるほど、確かに彼は私を魚人から救ってくれたのかもしれない。だが、あの戦闘力はなんだ? あの残虐な殺し方はなんだ! 目の前にいるコレもあの魚人と『化け物』という点では同じではないのか?
目の前の化け物が、魚人の変わりに私を襲うのではないか?
蜜柑は悲鳴をあげることもできず、体を動かす事もできなかったが、それでも抵抗の意思がなくなったわけではなかった。
彼女は視線を外さないまま、自分の手に触れたものを目の前の化け物に投げた。
こつん。
小さな音をたて、当たる。
それでもなお彼女は納得できず、手に触れるもの――本人はそれが魚人のかけらだとは分っていない――を投げる。
目の前の化け物はそれをよけようとはしなかった。
「………く……る……な! くるな!」
蜜柑は動かぬ口を無理やり動かし、言う。
拾いは投げ、拾いは投げ、抵抗の意思を見せる。
……どれほどそれをやっていたのか。
おそらく、蜜柑の精神がようやく正常になったころ。
蜜柑はあっと声をもらし、手を止めた。
彼女は今になって初めて、大変なことに気付いた。
「………」
目の前の化け物……ライダースーツの男は、体を小刻みに震わせていた。仮面の目の下に流れる赤いラインの光が、ぼんやりと輝いている。
その姿はとても身近にみる、良く知った光景で、誰もが知っている姿。
そこにいるのは化け物ではない。等身大の人間の姿。
痛みに耐えている姿。
哀しみに耐えている姿。
そして……哀しいかな。泣くことが許されない者の姿。
「…………あ」
蜜柑は思わず口を覆った。
静かな時間をもって、彼女はようやく理解したのである。目の前にいる男が、どうしようもなく、人間であることを。
なるほど。彼は確かに化け物並みの強さを持っているのだろう。化け物相手ならどんなにも残酷になれるのだろう。
……でも、それは心まで化け物になったというわけでは無い。
どんなに人間を守ったとしても、結局は自分も化け物とされてしまう。その事実を十分理解できている。それでもなお、人間のために戦う。
彼も、そんなフィールドで戦っているのではないか。
それなのに。
それなのに、私は彼に抵抗の意志を見せた。
守ってくれたのに。本当はなにより感謝すべき相手なのに。なにより、守られた私が、私達ただの人間こそが彼らのような被害者を守ってあげなければならないのに!
蜜柑は視線を合わせることができず、目を伏せた。
今だ、恐怖で動かぬ体を恥じた。
男が動いた。
かつん、かつんとゆっくり、でも確実に蜜柑に近づいていく。
蜜柑はその事実に体を萎縮させた。
………萎縮? どうして? 彼は、ただ彼は……。
三歩、二歩、一歩。距離が零になり、すぐに一歩、二歩、三歩と距離がひらいていく。
ただ、すれ違う瞬間、男がぼそりと言葉を口にした。
「……無事なら……いい」
そっけない言葉だった。小さな、消えそうな言葉だった。
だからこそ、蜜柑の心をしめつけた。
だからこそ、彼を拒絶した自分がどうしようもなく情けなかった。
彼はこのまま去っていく。本当にこれでいいのか本当に……
「……待って!」
気づけば蜜柑は叫んでいた。
ライダースーツの男は、その声に反応し、ぴたりと止まった。
互いに無言だった。
何を言えばいいのか分らなかった。
ありがとう、とでも言うのか?今さら拒絶した人間が。
ごめんなさい、とでも言うのか。今さら拒絶した人間が。
分らなかった。どうすればいいのか、誰かに教えて欲しかった。
と、再び足音が聞こえ始めた。彼がまた歩き出したのだ。
そう、これ以上、俺に関わるなと言わんばかりに。
「待って! ……あなたは誰? ……誰なの?」
蜜柑は叫んだ。その叫びに、再び彼は制止した。
また、静寂が訪れる。
背中越しの彼は悩んでいるようだった。きっと彼の心の中では言うべきではない、これ以上干渉しない方が良いと結論づけてしまっているかもしれない。それでも蜜柑は食い下がった。
「……お願い。……教えて……」
ぼたり、と蜜柑の頬から雫が落ちた。
どうしようもなく、涙が止まらなかった。恐怖はもうない。ただ、癒しがたい痛みだけがそこにあった。
彼は答えた。小さな、か細い声だった。
「……風に乗りて歩むものにして……『断罪』を持って、神に挑むもの」
一息つき、彼は確かにこう言った。
「仮面レイダー……イタクァ」
そして、彼は歩き出した。
もう二度と、その歩みは止まらなかった。
蜜柑が振向いた時には、月光に、白い結晶が舞っていた。
その光景は、なんだかとても、切なかった。
後書き。
へい、これはもうなんかスピリッツです。なんか文句ありますか?
白椋です。久しぶりにすっきりした気分で書きました。序盤はとってもいいんですが、過去話からラストまでの流れが、ちと読みにくくて、好きになれませんでした。もう少し修正が必要です。
一応この話の流れは中盤の話で、実際は過去の誕生編から、ただの復讐に生きる話が入ります。主人公はあくまで『仮面レイダー』の名を使いたがらず、『復讐者』として戦い続けます。それから先に、ウィルマース・ファウンデーションの日本支部の面々と知り合い、戦う意味を持ち、初めて復讐だけに生きる自分と決別します。このお話は、彼が始めて仮面レイダーを名乗った話です。
……ゼクロスですねぇ。まるで。それがなにか?
解説を加えるとしたら、主人公は小イタクァ状態であると言えます。小イタクァとは、邪神イタクァと長く連れ添うと、人間がイタクァ化してしまうことで変化する状況で、小イタクァは人間を食す事が好きで、足が崩壊し、いつも浮いているような状況だそうです。ドクターウエスト紙氏の言葉はそれを言っているのですが、解説がなければ、なにがなんだがなので、イマイチ彼の言葉の意味を理解できなかったかもしれません。修正の価値ありです。(ま、分らなくても通せるようにはしたつもりですが)
あぁ、あと主人公が戦闘中ずっと使い続けていた技ですが、【フリーズ・フィスト】です。獄低温にて、相手を崩壊させちゃう卑劣な技です。せこせこです。うふ。
【断罪の章】は作者不明の魔導書のため、ここでは旧神の一柱が、後に現れる高知能生命体のために残した、邪神対応術がかかれた本、としています。
あぁ、楽しかった。
つか、後書き書くのがつらいくらい疲れたので、これ以上推敲する気がおきません。
間違いは後で指摘してください。
ではでは。
070717 01:20
ライターズ:モノローグ 白椋広通 @tottori_kenmin
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