第7話
二人は映画館でチケットを受け取った。今はインターネットを使って事前にチケットを予約することができる。便利なものだ。そのため比較的スムーズに入ることができた。大事なデートを、台無しにしたくはないので、準備は入念に行っていた。おかげで、ここまで予定通り事が運んでいた。
席は大体中央くらいだった。近すぎも遠すぎもせず、スクリーンを見上げて首が痛くならないちょうどいい位置。この席を取れて良かった。亜緒は彼女を先に座席に座らせて、後から自分も彼女の左隣の席に腰かけた。
外の混雑ぶりにしては、この作品のシアターは少し空いていた。それほど有名ではないのだろうか。わざわざ予約して席を取るほどでもなかったか? 確かに前に彼女と話したときに初めて知った作品だった。そこまで宣伝に力を入れているわけでもなさそうだった。だが、こうやって映画化しているのだからそれなりに評価されている物語なのだろう。事実ここにファンが一人いる。知る人ぞ知る物語、という感じなのか。
亜緒がいろいろと考えているうちに、劇場内が暗くなった。二人は直前まで楽しく話し合っていたが、それと同時に口を閉じた。上映中は携帯電話の電源をお切りください、だとか、ビデオカメラを被った男がパトランプを被った男に捕らえられて写真撮影や録音は禁止です、と促すCMが流れ始めた。
映画が始まり静かになったあたりで、ふと彼女が今どう思っているのか気になってきた。今更ながら、本当にこれでよかったのだろうか。彼女は今日会ったとき、最初浮かない顔をしていた。実はこの状況を望んでいなかったのではないだろうか。彼女をここに誘ったとき、自分は浮かれていた。だから彼女の気持ちを無視して、強引に誘ってしまったのかもしれない。彼女は優しいから、無理をして付き合ってくれたのかもしれない。もしそうだとしたら、悪いことをしてしまったのだろうか。亜緒はなんとなく、これが最初で最後のデートになるのではないかという気がした。
いや、違う。一方でこう思う。その後一緒に歩き始めたときから映画館までの表情は、嫌々だと出てこないような、素敵な表情だった。たぶんこれからもずっと忘れない顔だ。そして、現に彼女は隣に居てくれている。これこそ彼女が俺を受け入れてくれている、何よりの証左ではないのか。
スクリーンにはどこかヨーロッパのような外国の田園風景と、主人公の少年が映し出されていた。続いて、まだふわふわした羽毛に包まれたツバメの雛が出てきた。
亜緒は映画になかなか集中することができなかった。ずっと彼女のことが気にかかってしまったためだ。このデートに誘ったことへの彼女の反応をずっと気にしながら見ていた、というのもあるが、理由はもっと単純なものだ。
ずっと椅子の肘掛に自分の腕を置いていたのだが、本編が始まると同時に彼女の手がその手の上にずっと重ねられていた。重ねられた彼女の左手は、亜緒の右手の甲を握り、物語の盛り上がりに応じてその握力が強くなったり弱くなったりした。つい先ほど自分から彼女の手を握ったりしたのに、そのときとはまた別の緊張感があった。亜緒はドキドキして、映画を観ている間心拍数が上がりっぱなしだった。お陰様で、映画が終わった後、内容よりも彼女の手の感触ばかり覚えていた。
だが、この様子を見るに、どうやら彼女が退屈したりはしなかったということは十分伝わってきたので、少し安心した。
上映が終わり、観客たちがぞろぞろと席を立った。自分たちも席を立とうとしたが、彼女が動かない。手をぎゅっと握りしめたまま立とうとしない。
「花村さん、そろそろ出ましょう」
そう言って彼女の方を見ると、眼鏡を外して目頭を押さえていた。そして、ぐすっ、と小さな嗚咽を漏らしていた。
「あれ、花村さん……?」
「ご、ごべんだざい……わだじ、わだじ……がんどうじでじまっで……」
彼女は声にならない声を発していてよく言葉が聞き取れなかった。彼女の泣き顔を見て亜緒は少しおろおろしてしまったが、これではいけない、男を見せなくては、と思い、まずは深呼吸して自分の心を落ち着かせた。そして、握られていた右手をゆっくり離し、そのまま右手を彼女の左肩に、左手を彼女の上腕に置き、黙って身体を抱き寄せた。彼女はそのまま顔を亜緒の胸に押し付けるかたちで泣いた。
彼女はこんなに感激屋だったのか。感受性が豊かで、物語を知っているはずなのに、涙が止まらない。亜緒はこの感覚が共感できないのが残念だったが、彼女の新たな一面をまた見ることができたのが、なんだか嬉しかった。
「すみません、私、みっともなく泣いてしまいました。いざ映像化されたのを見ると、素晴らしくて、つい……」
映画館を出たとき、みどりはそう話しながら思い出してまた泣き出してしまいそうだった。さっき思い切り泣き腫らしたせいか、目がパンパンで腫れているに違いなかった。
「いいんです、花村さんが気に入ってくれてよかった。もっといいものも見れたし……」
「いいものって、何ですか。まさか私の泣き顔じゃないですよね」
「いや……な、なんですかね、あはは」
彼は思ったことが顔や言葉に出やすい方だと改めて思った。
「ふふ……楽しい。今日は本当に、一緒に来られてよかったです。最後にいい思い出ができて、幸せです……」
みどりは彼の方を見て、少し寂しげに微笑みかけた。
「え、最後……?」
彼の顔から笑みが消え、驚いた表情に変わった。
「ええ、最後です。私は覚悟を決めました。だから……」
みどりは一呼吸置いて、続けた。
「一色さん……話があります。ここでは少しお話しづらいので、静かなところに移動しませんか?」
彼は無言で頷いた。
その後、彼の手を取って、今度はみどりが彼を引っ張って歩いた。
この物語は、私にとってかけがえのない物語だ。それは私が経験したことのない、大切なこと教えてくれる。それは私の中に染み込み、血となり肉となる。それはもう既に私の一部だ。それは今も私を支えてくれている。
だから、私はこの物語を大切にする。これまでも、これからも。物語にはいつも新しい展開が待っている。その展開がたとえショッキングなものであっても、私はもう恐れない。それが最後のページではないのだから。
繁華街はどこも混雑しているところばかりで、落ち着かない。そのため、二人は再び地下鉄に乗り、街はずれの適当な駅で降りた。その後、外に出て少し歩いた。すると、人通りの少ない道に出て、その先に小さな公園があった。まだ天気は曇っていたが、昼間降っていた雨は上がっており、傘をさす必要はなかった。
「ここら辺で、いいかな」
公園に入り、亜緒は言った。公園の地面は雨の影響でぬかるんでいて、あちこちに大きな水溜まりができていた。
「ええ。ありがとうございます」
みどりは亜緒の顔を見上げて言った。そして、深呼吸してから続けて言った。
「私、あなたに話しておきたいことがあります」
亜緒はみどりの言葉に対して黙って頷いた。みどりはもう一度深呼吸をした。
「一色さんとはもう……会えなくなってしまいます。私はここから離れたところで暮らさなければなりません。私には夢があります。それを叶えたいんです。そのために……ごめんなさい、黙ってて……」
みどりは彼をもう一度よく見た。腫れが引いてきた目が再び潤んだ。
亜緒はせず、固唾を飲んでじっとみどりを見つめ返した。
「前から決めていたことなんです。あなたと会うずっと前から。図書館は辞めます。私は本が好きでこの仕事につきました。……実は、この図書館の正規職員ではなくて、パート職員なんです。司書の資格を持っていないので、ここに勤めて十分に修行してから資格を取って、正式に司書になろうと考えていました」
みどりはとうとうと語った。それを亜緒は相変わらず何も言わずに眺めていた。
「ですが、現実は厳しいですね……。パートとはいえなんとか運よく職員として潜り込むことができました。でも、実際に働いてみて、不安になりました。想像以上に重労働だったということもそうですが、正規採用も狭き門で、たとえ資格を取れてもその後働いていけるかわからないということがだんだんわかってきました。それでも自分で選んだ道だから、と思って頑張って、資格を取るところまではできました。
でも、その後頑張れば頑張るほど辛くなってきて、気が塞いできました。何回か採用試験にチャレンジしてみましたが、無理でした。私は本が嫌いになりそうでした。それでも嫌いになりきれなかったのは、私を支えてくれた本にかかわる友人や物語があったからだと思います。
そんなとき、ある分野の本棚を整理しているとき、興味深いものを見つけました。それは今私が目指そうとしているものです。私にとって、これは天啓でした。このために、神様は私を本好きにして、引き合わせてくれたんだと思いました。だから、試してみます。新しい自分に挑戦してみるんです……」
ここまで話したとき、みどりはつい彼から目を反らしてしまった。この道を歩んでいくことと、それを伝えるという覚悟を決めたはずなのに、いざ実際に彼の茫然とした表情を見ると、心が揺らぎ、涙が零れてきてしまいそうだった。彼の強い想いを裏切るような真似をしてしまった。ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……。
「フフ……アハハハ……!」
亜緒は突然笑い声を上げた。みどりは思わず反らしていた目を彼に向けた。
「ですよね、やっぱり、上手くいきませんよね。これまで上手く行き過ぎていたかもしれません。俺なんかが花村さんのような素敵な女性に近づくこと自体がおこがましいのかもしれません。それでも今日付き合ってくれてありがとうございました。本当に楽しかったです」
そうやって強がる亜緒の声は震えていた。みどりはその声を聞くのが辛かった。
「どうして、なんて言いません。花村さんは優しいから、俺のことを考えてそうしてくれたんでしょう? 俺、わかってます……だから」
亜緒はさらに腹の底から声を絞り出した。
「だから、俺……花村さんのこと……応援します。あなたがしてくれたように、俺もあなたのことを考えます……頑張ってください。そして、俺がいたことも、どうか、忘れ……忘れ……」
亜緒は言葉を最後まで言い切る前に下を向いた。彼の顔から大粒の涙がポロポロと落ちていくのが見えた。
亜緒はなんとなくこうなることを心のどこかで察していた。今までそれを色々な言葉で誤魔化していた。冷静になって考えてみれば、恋は幻想だ。幻想は叶わない。とくに、彼女のように現実を前にしては、あっという間に霞んで消えてしまう。俺はいつまで幻想を追い続けていた。
みどりは考えた。これは私の物語だ。私の物語は、一体これからどう展開していくのだろう?
みどりは揺らぐ心を再びひとつにするためにまた深呼吸して、亜緒に優しい口調で語りかけた。
「ねえ、一色さん。さっきの映画、覚えてますか」
亜緒は顔を上げた。頬に涙がまだ伝っていたので、右腕でそれを拭った。
みどりは続けて語った。
「あの物語では最後、大人になったツバメを空に放ちました。鳥はいつか必ず巣立たなければならないからです。でも、何故そうしないといけないかわかりますか? 私はこう思います——それは、世界を見たいから。一つのところに留まっていては絶対に見られない景色を、自身の目で確かめたいからです。そして、それが運命で、彼らに課せられた使命なんです。だから、ツバメたちは大空に向かって飛び立ちたいと思うんです。でも……」
みどりはここ言葉を区切って、亜緒に近づいた。
互いに正面を向き、みどりは背のびして、両手で亜緒の首を抱き、頭を近づけて、そして呼吸を止めて……唇と唇が重なった。五秒くらいそのままで、その後はゆっくりと互いの顔が離れた。
「……でも、つがいになったツバメのカップルは、また同じ相手の巣に戻ってくるんですよ!」
みどりは涙を流しながらも笑顔だった。亜緒はハッとした顔をしていた。
「だから、きっとまた、この街に戻ってきます。だから……それまで待っていてくれませんか」
少し間を開けてから、亜緒が口を開いた。
「俺、みっともないですね……ふられたわけでもないのに」
そして、みどりに向き合い答えた。
「待ってます。絶対に、いつまでも」
亜緒は涙を流すことをやめ、笑顔を作った。
そして、今度は亜緒の方から近づき、もう一度唇を重ねた。
みどりはにっこり微笑んだ。
「お腹、空きました。夕食、まだでしたよね。私、この近くにあるおいしいお店を知ってるんです。そこで一緒に食べましょう、亜緒さん!」
「はい、行きましょう。……みどりさんが帰ってくる前に、俺も紹介できるお店を探しておかなきゃなりませんね……!」
曇っていた空は晴れ、雲の合間から茜色の夕陽が差し込んでいた。光は水溜まりに反射して、まるで地面にも陽があるようだった。二羽の小鳥が空高く舞い上がり、どこかへ飛んで行った。明日の天気はきっと晴れだろう。
ツバメたちは新しい世界を見てみたい 亀虫 @kame_mushi
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