第6話

 デート日は約束した次の週の日曜日だった。空模様はよろしくなく、あいにくの雨だった。いつにも増してジメジメした空気で、空も曇っていて暗く、普段なら気分が沈みそうな雰囲気だった。しかし、そんな環境でも亜緒の心は晴れ晴れとしていた。ついに彼女と一緒に出掛けられるようになったと思うと胸が躍った。彼女と一緒に食事をして、遊んで、買い物して、イチャイチャするところまで妄想の翼が際限なく広がり続け、居ても立ってもいられない状態だった。

 雨の日かつ日曜日なので、地下鉄は昼間でもごった返していた。

 亜緒は人混みをかき分け、繁華街のある駅で降り、待ち合わせの広場へ向かった。広場はガヤガヤとして騒々しい。友人、同僚、家族、そして恋人……いろいろな人がこの騒々しい広場で待ち合わせ、少しの時間会話を楽しんだ後、雑踏の中へ消えていく。今日は自分も例外ではなく、恋人と待ち合わせて人海の中に消えていく予定だ。

 広場に到着するなり、花村さんが先に来ていないかあちこちに目を向けて探した。

 亜緒はスマートフォンを確認した。とくに連絡は来ていなかった。彼女はあまり携帯電話やスマートフォンを使わない人のようだ。あまり利用習慣がなく常にマナーモードにして鞄の中にしまっているため、電話をかけても気付かないことが多いと言っていた。これでは待ち合わせ場所を間違えたり、万が一何か事故に巻き込まれて来られなくなったり遅れてしまっても連絡がつかないのではないかと心配した。亜緒はどうかそのような事態にはなりませんように、と祈りながら彼女を探した。

 その不安は結局杞憂に終わり、広場の隅っこに彼女がいるのを発見できた。相変わらず短めの黒髪で、大きな丸眼鏡をして、本を読んでいた。服はベージュ色のブラウスで、あまり目立たない地味な恰好だったので、探すのに少し苦戦しただけだった。その時点ではまだこちらには気が付いていなかった。彼女の目は本に釘付けだ。早く来たつもりだったが、もしかして結構待たせてしまっただろうか。人が多かったので、想定以上に移動時間がかかってしまったかもしれない。亜緒は「おーい」と声をかけながら、彼女に向かって手を振った。

 

 みどりは聞き慣れた声がして、本から目を離してその方向を向いた。一色亜緒が手を振っていた。彼女は本をしまって手を振り返した。彼は嬉しそうに微笑んで駆け寄ってきた。

 みどりはまだ彼に事情を伝えていなかった。今後会えなくなるということを先に告げてしまうと、今日という一日を楽しめないと思った。言ったときの彼の反応が怖くて、折角連絡先を交換したのに、スマートフォンも触れなかった。一応、最後に全てを打ち明けようと思っている。しかし、そのことを考えようとすると、手が震えた。

「流石に今日は人が多いですよね」

 彼はそんな彼女をよそに無邪気に話しかけてきた。どうやら自分が何かに悩んでいるということには気づいていない様子だった。自分が上手く隠せているのか、彼が鈍感なのかはよくわからないが、気付かれないでよかったと思った。折角のデートが台無しになってしまう。

「ええ、人口密度が高くて暑いです。ただでさえムシムシしているのに、参っちゃいますよね」

 みどりは気を抜くと曇ってしまいそうな表情を誤魔化すように笑顔を作った。せめて、時が来るまでは、何があっても楽しく過ごしたかった。だから、無理にでも笑顔を維持したかった。

「でも、花村さんはいい匂いです」

 彼は心から嬉しそうに笑っていた。私もそうやって素直に楽しみたい、でもモヤモヤした感情がそれを邪魔する……みどりは彼がうらやましかった。

「こう蒸し暑いと、俺が花村さんを初めて地下鉄で見かけたときを思い出します」

 彼は楽しげにまた続けて話した。

「まだ春だというのにやたらと暑い日で、まるで夏みたいでした。車内に汗のにおいが充満していて——ホントに酸っぱいにおいがして頭がクラクラしそうでした。でも、その中で一つだけ違う匂いが混じっていました。その匂いのする方向を見たらあなたがいて、今みたいに本を読んでいました。だから、もしもあの電車がギュウギュウ詰めでなくて臭くなかったら、においなんて気にせず、あなたを見つけることはなかったかもしれません」

 彼はみどりに出会ったときの思い出を語った。とりとめのない思い出話。においで判別するなんて、犬みたいだと思った。でも、とここで引っ掛かりを覚えた。え、においで判別? そんなにおいの充満した場所で判別できるほどということは……。

「も、もしかして……私、香水きつ過ぎましたか!?」

 みどりは割と本気で動揺した。やや身だしなみに無頓着なところがあるので、もしかしたら気付かないうちに香水をつけすぎていたのかもしれない。もしかして、これまで周りにスメルハラスメントで迷惑をかけてしまっていたのか。みどりは顔から火が出そうだった。

「あ、いやいや違いますって! クサイってことじゃないですよ! もっと概念的なもので……あの、ほら、例えです例え。花村さんのオーラがそれを発していた的な……」

 亜緒は必死で身振り手振りを使って答えた。何度も違います、違いますと弁解していた。みどりはその様子が少し可笑しくて、フフッと一瞬笑った。

「あっ、花村さん、笑いましたね」

 亜緒が突然鋭く言った。

「えっ?」

「さっきまで無理して笑顔を作っているみたいに硬かったから、具合が悪いのかと思いました。でも、今の笑顔はいつもの素敵な笑顔です」

 そのとき、みどりは息を呑んだ。上手く隠していたと思っていたことが、とっくに彼にはバレバレだった。ああ見えて、ちゃんと私のことを観察していたのだ、とみどりは気付いた。

 笑顔を取り戻したとき、彼女のもやもやした思いは消えていた。そうだ、別れることになっても、今日一日は彼と一緒だ。二人一緒に楽しむために彼は私を誘ってくれたのだ。私が楽しまなければ彼も楽しめない。無駄に悩むことは、彼の楽しみを奪う私のエゴなのだ。だから、今だけは悩みを忘れて思いっきり楽しまなくては!

「一色さん、ありがとう!」

 みどりは本当の笑顔を続けて、そのまま彼に向き直った。

「でも、女性ににおいのことを言うのはやめておいたほうがいいと思いますよ」


 二人は映画館まで行くために地下街を通っていた。駅や広場と同様にひどく混んでおり、前に進むのも難しかった。亜緒ははぐれないように彼女に声をかけながら進んでいた。

「花村さん、いますか!」

「ここです、ここにいます!」

 彼女は少し背が低いので、人混みに紛れてしまうとどこにいるのかわからなくなってしまう。だから、声をかけて確認するようにしていた。彼女は人混みかきわけて亜緒に追いついた。

「はあっ、はあっ、本当に人が多いですね。一色さんを見失わないように歩くのが精いっぱいです」

 二人はごみごみとした通路を抜け、人通りの少ない場所に一旦避難した。

「私、休日の地下街を歩くのは久々な気がします。映画を見る前に疲れてしまいそうですね」

 彼女はハンカチを取り出し、額に浮かんでいた汗を拭った。ずっと人混みの中にいて息苦しかったためか、まだ少し息を切らしていた。

「はは……こんな混んだ日に誘ってしまって、すみませんでした」

「いいえ、賑やかなのは嫌いじゃないですよ。それに、たまにはいつもと違うところに行くのも良いかなと思ってます」

「それは、良かったです。さ、行きましょうか」

 そう言って先に進もうとしたとき、彼女が突然バランスを崩してよろめいた。

「きゃっ」

「危ない!」

 亜緒は倒れそうな彼女の身体を右腕で抱きかかえるように受け止めた。

「すみません、ちょっと足元がふらついただけです。私は平気で……」

 全て言い終わらないうちに、あっ、と彼女が口の中で小さく言って、頬を染めた。

 亜緒もあっ、と言った。腕に胸の柔らかい感触がしていることに気が付いた。決して大きくはないが、確実にその存在を感じさせるくらいの、慎ましやかな主張をする胸だった。その幸福な触り心地は亜緒の動きを止めた。

「ご、ごめんなさい!」

 彼女は支えていた亜緒の手を慌てて跳ねのけた。そして、恥ずかしそうにやや目を伏せた。

「いえ、ありがと……じゃなくてこちらこそごめんなさい」

 亜緒もその様子を見て流石に恥ずかしくなってきて、少し気まずかった。

「本当に大丈夫ですか。やっぱり具合が悪いのでは。休憩しましょうか」

 亜緒は照れを隠すように早口で言った。

「へ、平気ですって。もう大丈夫です。い、行きましょう! もう映画まで時間がないですし、は、始まっちゃいますよ!」

 彼女も恥を誤魔化すように催促して、急いで駆け出そうとした。


「ちょっと待って、花村さん」

 彼はみどりの腕を掴んだ。駆け出そうとした彼女の動きが止まった。

「え……?」

「やっぱり心配ですよ。突然そうやってふらっと倒れたら。人混みの中で倒れたら大変です。だから、こうやって……」

 彼は左の手のひらを彼女の右手の手のひらと重ね、ぎゅっと握った。みどりはその手をじっと見て、次に彼の目を見て、そしてまた握った手を見た。

「こうすれば、万が一倒れてもすぐにわかりますし、絶対にはぐれません!」

「あ……」

「い、嫌だったらごめんなさい、やめます!」

 彼は一瞬その手を離そうとしたが、みどりはその手を離さないように強く握り返した。

「そんなことはないです……嫌じゃないです。ずっと握っててくれると、私も嬉しいです。……ご、合理的ですしね」

 みどりは平静を装うつもりで言ったが、恥ずかしさからか目線はどこかに泳いでいた。

 彼の汗ばんだ手から熱が伝わってきた。それはただの体温だけではなく、彼の想いそのもののような気がした。彼が自分を見つけてくれたとき「匂いがした」という意味がようやくわかった。これは何か別のものが五感に姿を変えたもの。私たちが気付くことができるように、私たちにも理解できる感覚になって教えてくれたのだ。それは私たち二人を互いに引き合わせてくれるものだった。この場合は、それを「運命」というのだろうか。

 彼はそのまま手を引っ張り、みどりを守るように先導しながらまた歩き出した。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る