第5話
亜緒はそれから毎週のように図書館へ出向いて、みどりと話をした。幸い毎週土曜が固定の勤務日であるらしく、行けば大体会うことができた。やはり小説の話が中心で、それ以外の話が出ることは少なかった。恋愛的な話は全くなかった。話す時間もそう多くなかった。それでも、特に彼女が嫌がる様子もなく、むしろ会えば積極的に話をしてくれるので少しずつ距離が縮まっていく実感があった。
しかし、距離は縮まっても、彼女に告白する勇気はなかなか持てなかった。いくら言葉にしようとしても、本棚の本に手をかけるときの彼女の横顔や、振り向いたときに微笑みかけてくれたときの顔を見ると緊張して声が出なかった。
そんなもやもやした日々を送っていた、亜緒だったが、夏に入り暑くなってきた頃、ついに一歩踏み出す決心をした。彼女を映画に誘って、一緒に出掛けようという計画を立てた。ずっとグズグズしていた亜緒を決心させたきっかけは、ある日の中村とのやりとりの中にあった。
昼休み時間、食堂で中村と昼食をとった後、次の講義の時間までそのまま居座ってダラダラしているときだった。
大学の食堂はビュッフェ形式で、並べられた食べ物を好きに取って出口で精算するスタイルだった。その日、中村は普段食堂で見ないものを食後に持ってきて食べていた。
「うわっ、パフェかよ。昼飯後によく入るな、そんなの。メニューにあったか?」
「期間限定のやつだよ。入口にポスター貼ってただろ?」
「へえ、気づかなかった。俺はあんまりそういうの見ないし」
「そういう細かいところ、ちゃーんと見てないと損するぞ。パフェ食い損ねた一色くん」
「いや、食べたかったわけじゃねえよ。ただ珍しいもの食ってるなって思っただけだ、このパフェ野郎め」
「フーン……ホントかねー。この前の図書館であの女の子と話してるときみたいにムキになってる、ってところがなんか怪しいんだよなー」
パフェをすくったスプーンを舐めながら目を合わせないように中村は言った。
「いやだからあれは……」
「ほら、またそうやってもじもじしてる。バレバレだって。そんな思春期の中学生みたいに顔真っ赤にしなくても大丈夫だ」
「……」
こう言われると事実なので亜緒は何も言えなくなってしまう。無性に誰かに助けを求めたくなるが、助けを求められそうな人にからかわれているのでどうしようもない。
「好きなんだろ? いいじゃねえか。おとなしそうだったけど、結構可愛い子だったじゃん」
やはり、中村は誤魔化せなかった。普段からズバズバ言ってくる奴だったから、そういう言動には慣れていた。これに関しては自分からもズバズバ言い返すのでお互い様だ。だが、不意に核心を突かれると亜緒は弱かった。
「……そうだよ、俺は彼女が好きだ」
「お、認めたな。じゃ今度は俺じゃなくてあの子の前で言ってみな」
「え、はぁ? い、言えるわけが……ないだろ。そんな気軽に。まだそういう関係になるには早いだろ……」
「あのな……そう言ってるといつまで経っても進展しないと思うぜ? いつまでもこの微妙な関係を続けるのか? お前は彼女と付き合いたいんだろ?」
「そ、それはそうだが……」
「だったら話は早いだろ。仲良くなるために、彼女をデートに誘え。告ってから仲良くなりゃいいんだ。順番なんて関係ねえ。お前からどこかに連れてってやれ。女の子はじっとしてるだけじゃ動いてくれねえ。自分から動かないと何にも進まねえ。だから、お前から動くんだ。大丈夫、ああいうおとなしそうな子は振り回すより振り回される方が好きだから、きっと喜んでくれるぜ。で……帰りにホテルでも寄ってヤッちまえ。その日限りで奥手な童貞は卒業だ。男を見せるつもりで頑張れ」
「なっ……どっ……」
亜緒は中村の言葉を聞いて恥ずかしくなって顔を真っ赤にした。一気にそこまで持ち込むなんてできるわけがないじゃないか! と言い返したかったが、咄嗟に言葉が浮かんでこなかった。
だが、確かに中村の言う通り、今の自分は図書館に行って会いに行く以上の行動をしていない。もう一歩進展させるには、新たな動きを見せなければならない。
「じゃあ、一体どこへ誘えば」
亜緒は小声で言った。
「それは自分で考えろ。お前の問題だろうが。この前の課題みたいにそこまで面倒は見切れねえ」
「ぐ……それもそうだ」
亜緒は少し頭をひねって考えてみた。しかし、少し考えたくらいじゃどこへ行こうか思いつかなかった。そのとき、いつも彼女のことばかり考えていたはずなのに、彼女のことを意外と知らないことに気付いた。彼女は本以外に何が好きなのだろう。思い返せば、本の話ばかりしていた。もしかしたら、彼女の目には自分はただの本を読みたい図書館利用者の一人として映っていたのだろうか。
「まあせいぜい悩め悩め。ちなみに、俺はそんな風にデートに誘って告ったら上手くいったぜ」
「えっ、お前、彼女いたのか!?」
亜緒は初めて聞いた衝撃の事実に本気で驚いた。自分は花村さんどころか親友のこともよく知らないのだった。
「いるよ。気づいてなかったのか。雰囲気でわかってると思ったが、そこまで驚かれるのは意外だわ。そういう細かいところ見てないと損するってさっき言っただろ?」
そこで講義の時間間近になったので、片付けをして講義棟へ急いだ。
亜緒はその後何日も悩み続けた。本当に本のことしか覚えていないので、どこへ行けばいいのかわからない。本屋? それでは少しつまらない感じがする。第一、彼女は常に本に囲まれて仕事をしている。今更そんなところに行っても仕事と大して変わらない環境で嫌になるに違いない。かといって他のところはというと、やはり思いつかない。地味な彼女は、そこまで活動的ではない。チャラついた、思いっきり若者向けという感じのところへ連れていくのも少し違う気がする。自分もそういうのは好きではない。亜緒は何度も彼女との過去の会話の内容を回想した。
読んだ本の内容、本の表紙、本の作者、本を読む時間、本の登場人物……やはり記憶を遡っても、本に関する情報ばかりだった。それ以外話していない。自分の好きなところに連れていくしかないのか。自分の好きなところ……。サッカーとか、スポーツの試合でも見に行くか、それとも映画か。彼女の性格を考えると、やはり映画か。
今やっている映画についてインターネットで調べてみた。人気のアニメ映画や、刑事ものの邦画などのリストがずらりと検索結果に出てきた。個人的にこのリストの中で興味があるのはコメディ映画だったが、その隣に乗っていた映画のタイトルが目を惹いた。
『大空へ巣立つ』。どこかで聞いたことのあるタイトルだった。たしか、彼女との話の中で聞いたものだ。この作品の原作は小説で、彼女が一番好きな作品の名前だ。映画化していたのだ。
亜緒はこれだと思って、早速このタイトルと上映時間をメモし、次会うときのためにどうやって彼女を映画に誘おうか脳内でシミュレーションした。
みどりは机に突っ伏して眠っていた。時刻は深夜。外はすっかり静まり返っており、たまに通りがかる車の音が聞こえる程度だった。部屋の窓が開けっぱなしになっていて、ひんやりとした夜風がカーテンを揺らした。彼女は寝る直前まで勉強しており、ある分野の参考書を開きっぱなしにしてデスクライトを付けたまま寝入っていた。
彼女は目標を持っている。その目標に向けて走っている最中だ。絶対に叶えたいと思っている。だから誰にも邪魔されたくはない。
夜が明けると、また一日が過ぎる。同時に、これは勝負の刻限がまた一日近づいてくるということだ。彼女は前を向かなければならない。振り向いてなんかいられない。目を覚ませばまた走り出さなければならない……。
土曜日がやってきた。毎週この曜日に図書館で二人は出会うが、この日も例外ではなかった。彼らが出会ってから三か月ほど経っていた。あの頃はまだ暖かさと肌寒さが入り混じった時期だったが、今はもう既に暑いと言えるほどだ。この日も太陽が地面を煌々と照らし、今日も暑いぞ、と言わんばかりの熱気を放っていた。
亜緒はいつもと同じように、地下鉄とバスを使って図書館へと赴いた。地下鉄やバスの中は、人が密集しているわけでもないのに、夏特有のまとわりつくような湿気に満ちていた。今年はとくにジメジメした日が多く、汗が蒸発せずにTシャツがいつの間にかぐっしょりと濡れていることが多かった。
図書館への道中、亜緒は緊張していた。彼女をデートに誘う予定のためだ。結局あのまま映画に誘うことに決めた。下調べを入念に行い、いつ、どこの劇場に、どうやって行くのか、といった計画を数パターン考えた。手抜かりのないように気を付けた。あとは彼女の予定と気持ち次第だった。彼は、もし断られたらどうしよう、嫌われたらどうしよう、とネガティブな感情が沸き、それをきっと大丈夫だ、というポジティブな思考で打ち消し、いやでもやはり内心嫌なのでは、という更なるネガティブな感情が上書きし、それをそんなはずはない、と打ち消し……というやり取りを頭の中で何度も繰り返していた。そうしているうちに、亜緒が乗ったバスは図書館近くのバス停に停車していた。
図書館の入り口まで歩き、扉の前に立った。自動ドアなので、センサーが反応してひとりでに開いた。亜緒は奥にあるカウンターへと向かった。そこにはいつも通り、花村さんと吉川さん、二人の司書が並んで業務を行っていた。
亜緒は彼女の姿を認めた瞬間に緊張して、先ほどまで暑いところにいたときとはまた違う感じの汗がダラダラと流れてきた。落ち着け、自信を持て、と自分に言い聞かせながら一歩一歩近づいた。
「あのっ」
亜緒は緊張のあまり思わず上ずった声を出してしまい、ますます緊張の度合いが増した気がした。彼女はその声に反応して作業を止め、こちらを向いた。
「あら、こんにちは。今日は蒸し暑いですね。汗、すごいですね」
彼女は優しい声で応じてくれた。亜緒はその声を聞いて、かえって緊張の度合いが増して倒れそうだったが、なんとか踏ん張って言葉を放った。
「こんにちはっ。あの、本当に今日は暑いですねっ」
「ええ、もうサウナの中にいるようです。あ、本の返却ですか?」
「いえ、あの、その、話があって……」
ついにこの時が来た。今こそ彼女に対してアクションを起こす時。だが、亜緒はみっともなく狼狽して、なかなかパッと言葉が浮かんでこなかった。「一緒に映画に行きませんか」という簡単な一言も出てこなかった。もう頭がパンクしてどうにかなりそうだった。自分の胆力のなさが恨めしい。
亜緒がごにょごにょと口籠っていると、彼女がその様子が変だと思ったのか、心配そうに聞いてきた。
「あれ、なんだか具合でも悪そうですが、大丈夫ですか? まさか、熱中症とか!? こういう蒸し暑い日は熱中症になりやすいんですよ。まずは一旦休んで水分をとったほうが……」
「い、いや、違うんです。そういうものではありませんから大丈夫です」
亜緒は手を前に突き出し、大丈夫、大丈夫、と何度も唱えた。
「無理はなさらないでください。本当に辛そうに見えるので、そこで休まれた方がいいと思います。倒れてしまったら大変ですよ」
ここで本当に倒れて彼女に看病してもらうのも悪くないのでは、というやましい考えも脳裏をよぎったが、流石にそれは仕事中の彼女に迷惑だし、そんな格好悪いところは彼女の前で見せられない。
結局彼女に言われるがまま、ふらふらと机と椅子が並ぶブースへと向かって座った。まさか本当に熱中症なのではないかと思うほど、予想以上に疲労していたようだ。女性を映画に誘おうとするだけでこの有様なのは情けないとは思ったが、仕方がないので少し休憩してから話そうと思った。
「一色さん、大丈夫かな……?」
みどりはパソコンに向かい仕事をしながら心配そうに呟いた。
「心配?」
吉川は彼女の呟きを拾って答えた。いつもと違って少しシリアスな面持ちだった
「それは、彼は大事な常連さんだし……」
「それだけじゃないんでしょ? あたしから見たら、みどりは客として以上に彼が気になってる。あたしがちょっと強引に二人で話させちゃったけどさ、ずっと嫌がらずに続けてるでしょ。今みたいに体調を気遣ったり、本を薦めるときにこういう感じの本なら彼は喜んでくれるとか考えてたり、彼とお話してる間いつも以上に笑顔になってるの、あたしは知ってる。だからもっと深くアプローチしなよ」
「でも、こう見えても仕事中よ。そんな長い時間お話するわけには」
「時間の長さは関係ないよ。世の中にはナンパから結婚したって人も居るくらいだから、量より質ってことでしょ」
「うん、そうだね……でも、私はそれに応えてあげることができない」
「もう少しで彼と会えなくなるから? 先週くらいに聞いてびっくりしたけど、みどり、ここ辞めて遠くに行っちゃうんだよね」
「そう、私はここを離れて新しい道に進もうと思う。長らく黙っていてごめんね」
「それはいいよ。でも、だから諦めちゃうんだ? あなたはそれでいいの?」
「だって、仕方がないじゃない……既に決めていたことよ、彼と出会う前から」
「そっか。でも、だからこそ後悔しないようにしなきゃダメなんじゃないかな」
「私は彼を傷つけたくない。彼のことが好きだから、このままにしておきたいの」
「好きなら、尚更だよ! そんな大事なことを隠したままにされたら余計傷つくよ。だからこのままにしておくとか、エゴじゃん。だから、あなたのためだけじゃなく彼のためにも、気持ちをハッキリ伝えるべきだよ!」
吉川は少し興奮気味にみどりに言った。みどりはハッと何かに気付いたような表情になった。
「エゴ……そうだね、私、自分の事しか考えてなかった」
「そう、だから細かいこと気にしないで物事をハッキリさせるのもときには大事よ」
「うん! 私、やってみる」
「よし、じゃあ目標が決まったなら、全力でその目標に向けて突っ走るのみ!」
吉川は拳を固めて前にグッと突き出して言った。顔はいつもの明るい顔に戻っていた。みどりも続いて腕をグッとした。
「そういえば、彼何か言おうとしてた。言いづらかったのかとても言い淀んでいたけど。気分悪そうだったから休憩を勧めてしまって聞きそびれた。まずはそこから聞いてみる!」
「そうそう、その勢いで行っちゃえ!」
「うん! あ、でもまずこの仕事終わらせてからだよね……」
遠くから山田さんがやってきていた。それを見て、サボっていると思われないようにできるだけ「ちゃんと仕事してます」という雰囲気を演出した。
図書館の椅子に座っていた亜緒は、いつの間にか眠っていた。起きたときは既に夕方で、もうすぐ閉館時間だった。ボーっとした頭を起こしながら、彼はハッとした。ここに来てまだ何もやっていない。彼女を映画に誘うのではなかったのか。ずっと居眠りして一日を過ごしては、一体何のためにここに来たのかまるでわからない。とりあえず慌てて席を立とうとした。そのとき急に後ろから声がした。亜緒はビクッと驚いて動きを止めた。
「お、おはようございます、一色さん……もう夕方ですけど」
後ろには花村みどりが近くに立っていた。亜緒が急に動いたので彼女もまた驚いた様子だった。
「あっ、ごめんなさい、驚かせてしまって」
「いえ、こちらこそ驚かせてすみません」
その言葉の後、一瞬沈黙が訪れた。お互い言葉を交わさずに見つめ合った。
「あ、あの」
「あのっ!」
二人同時に発声した。お互いに言葉を遮ってしまったことから、座りが悪かったが、すぐに切り替えて、どうぞ、と亜緒が促し、みどりから発言した。
「あの、もしかしたら、今日は私に話があって来たんじゃないかと思いまして。それをお聞かせください」
「はい、そうです。話があって来ました」
先程言いそびれてどうしようかと考えていたが、向こうからチャンスがやってきた。今度こそ言おう。亜緒は一度深呼吸をして言った。
「俺は、あなたが好きです。お付き合いしていただけませんか」
何を言っているんだ俺は。今言おうとしたのはこれじゃない。しかし、実際亜緒が一番彼女に言いたいことだった。無意識のうちに彼の内から出た叫びだった。気付けば頭を深く下げていた。心臓はバクバクと強く鼓動し、全身の血が高速で巡っているのを感じた。キーンと耳鳴りし、眩暈がして気絶してしまいそうだった。だが、倒れるわけにはいかない。今を逃せば、二度とチャンスはない気がした。血流とともに脳内物質が彼を興奮させ、彼を支えた。
「や、やめてください。顔を上げてください」
彼女はそう促した。しまったと思った。強引だっただろうか。
亜緒は祈るようにゆっくりと頭を上げた。心臓の音がさらに高鳴り、うるさい。頭の動きに合わせてゆっくりと視線が移り変わる。彼女の腹、胸、首、口……そして、目が合った。
「そんなにかしこまって言われると……その、恥ずかしいです」
目が合った瞬間に目を反らして彼女は言った。彼女の白い肌が、ほんのりと桜色に染まっていた。
「……ということは」
亜緒の表情がパアっと明るくなった。
「はい、私もあなたが好きです」
彼女はもう一度亜緒に目を合わせて穏やかな笑み浮かべて言った。
彼の喜びようといったらなかった。図書館なので声は抑えていたが、今にも叫びだしそうで、心底嬉しそうだった。彼も自分のことを同じように想ってくれていたことがはっきりして、自分の想いも伝えられたことにみどりはほっとした。
「あの、花村さん!」
彼は浮かれたテンションのまま話を続けた。
「は、はい。なんでしょうか」
「今度、映画見に行きませんか!」
「はい……映画?」
「そうです。ほら、これ」
彼は鞄から一枚の紙を取り出して見せた。映画のポスターだった。タイトルを見て、みどりは驚いた。
「これは……」
「そうです、これ、見に行きましょう!」
そのタイトルは『大空へ巣立つ』だった。
それはみどりにとって大切な物語だ。映画化していたんだ。仕事と勉強で忙しくしていたため、彼女はそれを知らなかった。
それにしても何故それを彼が知っているのだろうと思った。ただの偶然だろうか。いや、違う。確か、以前彼に話したと思う。小説の話をしたときにチラッと話題に出した気がする。彼はそれを覚えていてくれたのだ。
「はい、もちろん!」
みどりは二つ返事でそれを快諾した。
「……やった! 花村さん、ありがとうございます!」
彼は小声で喜び、はしゃぎまわりたい衝動を抑えているのがまるわかりだった。まるでおもちゃを買ってもらう約束をした子供のような様子を見て、みどりは微笑ましく思った。
閉館時間になり、みどりの勤務時間が終わったため、帰り支度が終わるのを待って、途中まで二人で一緒に帰ることにした。その道中、映画へ行く予定について話し合った。みどりは都合のいい時間を彼に伝えた。ここで都合がつかずにすべての予定がご破算になる可能性もあったが、幸いお互いに都合のいい日程が取れそうだった。二人ともバスは同じ停留所を利用していたので、揃ってそこで降りた。地下鉄も同じ路線で同じ方向だった。降りる駅は違い彼のほうが先に降りるので、そこで別れた。また当日会いましょう、と別れ際に二人とも言った。
別れた後、少し落ち着いてきた時、みどりは一人思った。本当にこれでよかったのか、と。勢いと吉川の押しによって告白と映画の約束を受け入れてしまった。彼が好きだという言葉に嘘偽りはないので、次に彼と会うときはとても楽しい時間が過ごせると思う。しかし、その後はどうしよう。私はここを離れなければいけない。飛び立たなければならない。彼と離れ離れにならなければならない。恋は報われない。恋のために自分の夢を諦めるか。それは嫌だ。どうしても叶えたい夢だ。でも、彼と離れたくもない。取れる選択肢は二つに一つ。どちらかを捨てなければならない。嫌だ。どちらも捨てたくない。やはり、想いを内に秘めたまま墓場まで持って行った方がよかったのではないか。そうなれば悩みを抱えずに済んだのに。
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