第4話
亜緒は帰宅してすぐに借りてきた小説を読んだ。読書が苦手な彼でも、本のプロにおすすめされただけあって、この本はスラスラと読み進めることができた。お堅い文章ではなく、比較的ポップな文章だったためスッと自分の頭に入っていった。内容も現代が舞台になっていて想像しやすく、彼にとってはぴったりの入門本だった。これまで読書はインテリぶっていてお高くまとまった人のための趣味だと思っていた。読むのは嫌でも読まされる子供か、昔娯楽が少なかった時代のお年寄りの趣味だと思って食わず嫌いしていた。そのイメージがこの本のおかげで打ち砕かれた。花村さんのおかげだ。亜緒は面白くて夢中になり、次の日にはその本を読み終わっていた。
また本を読みたい。今度は花村さんに会いに行くというだけの目的ではなく、本を読みに図書館に行きたい。本を読めば、たった自分のような今本嫌いが本に興味が出たように、きっとまた世界が広がる。そして、これを教えてくれた彼女がますます好きになった。
やはり、彼女と一緒に居たい。彼女の知っている世界を自分も見てみたい。想いは一層強くなり、抑えがたかった。
ふわふわとした感覚がして、亜緒はなかなか寝付くことができなかった。まるで遠足の日を今か今かと待ちわびる子供のようだ。彼は「彼女の世界」の虜になっていた。
その翌日、月曜日は大学の講義があったが、まるで集中できなかった。眠れなかったため寝不足だということもあり、毎回しっかりと話を聞いておかないと単位が取れない厳しい科目であったにも関わらず、亜緒は上の空だった。一緒に講義を受けていた友人の中村も、この様子を心配そうに見ていた。
「なあ一色、なんか今日、ボーっとしてるけど大丈夫か?」
講義が終わって次の教室へ移動する途中、中村は足を止めて亜緒の肩を叩き、心配そうに尋ねてきた。
「あ、うん、大丈夫」
「そうは見えない……目にクマができてるぞ。夜遅くまでゲームでもしてたのか?」
「いや……小説読んでた」
「あれ、お前、そんなに本とか読むやつだっけ? どっちかというとスポーツ系の脳筋だろ、お前。中学んときからの付き合いだけどさ、お前が本読んでるの、読書タイムしか見たことないぞ。あの感想文書かされるやつ。課題が忙しくて頭やられたか?」
「ああ、そうだな……」
亜緒はボーっとしていて、いいかげんに返事をした。
「ああって……ほら、やっぱおかしいぜ。いつもだったら「お前失礼だな!」とか言って突っ込んでくるだろ」
「お前失礼だな……」
今度は適当にオウム返しした。
「あーあ、ダメだこりゃ……完全に魂が抜けてるな。病院でも行ってこいよ」
中村はあきれた様子で会話を切った。亜緒は中空を見つめながら再びボーっと歩き始めた。まるで操り人形のようにふわふわとした様子だった。
こんな調子の日に限って講義中に出された課題が多く、その課題を休日まで持ち込んでやらなければならなかった。しかし、講義をろくに聞いていなかったので、一体何の課題なのかちんぷんかんぷんでさっぱり進めることができなかった。だから、次の土曜日に中村に土下座でお願いして手伝ってもらうことにした。
そしてその土曜日。亜緒の希望で、図書館で課題をやっていた。
「ったくよお、今週のお前何か変だと思ったけどさ、授業くらいちゃんと聞いとけよな。この単位落としたら留年だぞ」
中村は椅子に浅く座りだらりとした姿勢のまま話しかけてきた。
「わかってるよ。だからお前に頼んだんだ、優等生だからな。こういうとき頼りにしてるぜ、中村様」
「あーそれなー。そうそう俺ってば優秀だし、わからないことがあればなんでも聞きたまえ! ……とでも言うと思ったか? 馬鹿か。俺だって課題あるんだから暇じゃねーんだよ畜生め。土下座っていうのはな、誠意を示すものなの。おだててその気にさせるもんじゃないの」
「でも結局来てくれたじゃん? そういう付き合い良いとこ嫌いじゃないよ」
「ぐぬぬ……帰っていいか? 帰るぞ?」
そうは言いながらもちゃんと帰らずに付き合ってくれる中村はやはりいい奴だと亜緒は思った。その後もしばらく二人でとりとめのない話をしながら課題をやった。
その会話の中で、ふと「そういえば」と前置きをしてから中村は質問してきた。
「なんでこの図書館なんだ?」
この図書館は花村さんが勤めている××図書館だった。
亜緒がこの場所に決めた理由は、もちろん彼女に会うためだった。どうしても彼女に会いに行きたいという気持ちが強く、それを課題ごときに邪魔されたくないと思ったので、いっそのこと図書館で会いに行くついでに課題をやってしまおうと思い至った。中村というオマケがついてくるが、いないと課題の方が終わらないのでやむを得ない。
「ま、まあ、図書館でやった方が集中できるだろ?」
この想いを中村に悟られたくないので、適当にごまかした。
「そうだけど、図書館なら大学にもあるだろ? そっちのほうが俺は近くてよかったんだけど」
「で、でもこっちのほうが広いだろ?」
「足伸ばしてまで行くほどか?」
「それは……こっちのほうが落ち着くからだ! 落ち着くだろ?」
「さあ……わかんね。図書館の違いなんてさ」
中村はふうっと一息ついたあと、ニヤッと笑ってこう言った。
「一色、そういやお前、あんまり執着するほうじゃないと思ってたけど、こだわるな? 何か別の目的でも?」
亜緒はハッとしたような表情になり、課題の手を止めて中村の方を向いて唾を飛ばして言った。
「こ、ここここここここだわってねえし? 何もねえよ! 普通だ!」
「声でけえよ! そんなに慌てるってことは……」
途中で言葉を切った中村はまだニヤニヤしていた。
そのとき、遠くからコツコツという靴の音がしてこちらに近づくのがわかった。亜緒が慌てて右手で中村の後頭部を抑え、左手で口を塞いだ。
「ほ、ほら、大声出したから図書館の人が来るぞ。怒られるじゃないか!」
「ふがふが(それはお前だろ)」
亜緒はこの図書館には目つきの鋭い中年の司書がいることに気付いていたので、内心ビクビクしていた。
だが、足音の正体は図書館の人には間違いなかったが、予想に反してやってきたのは花村さんだった。
「あら、いらしていたんですね、一色さん。こんにちは」
今日もおしとやかで、綺麗な笑顔だった。その笑顔を見た亜緒は心臓を矢で打ち抜かれたようにキュンとなると同時に硬直した。そのままの固い身体のまま中村の頭から手を放して起立し、彼女に向き直った。
「こ、こんにちは。お、大声だしてすみませんでした」
亜緒はカチカチの身体でロボットのように頭を下げた。
「確かにちょっと声が大きかったのでお静かにお願いしますね。山田さんに見つかったら大変ですよ」
そう言った彼女の表情が少しいたずらっぽくて、そのとき亜緒は彼女の意外な一面がちらっと見た気がした。
「今日は友人とご一緒ですか?」
彼女は言った。
「あ、はい。大学のトモダチで」
ぎこちない様子の亜緒の会話に割って入るように、中村が口を挟んだ。
「中村といいます。一色がお世話になってます」
「お、おい、中村、ちょっと黙って」
「嫌ですぅ、俺をここに巻き込んだ仕返しですぅ」
「わかった、飯奢るから、お願いだから黙って、中村様」
「お、言ったな? 忘れないぞ? ゴチになるぜ?」
彼女と会話中だったにも関わらず、亜緒と中村は二人でとりとめのない会話を始めてしまい、彼女を置いてけぼりにしてしまったが、そんな二人の様子を見て彼女はふふっと笑った。
「仲がいいんですね」
「えっ、あ、ごめんなさい」
亜緒は申し訳ないことをしてしまったと思い、謝った。だが彼女はとくに気にした様子ではなかった。
「謝ることはないですよ。仲のいい友達がいるのはいいですよね」
彼女は亜緒にまた微笑みかけてきた。その笑顔を受けて、亜緒はなぜか顔を赤くして慌てた。
「あの、あ……おい中村! 何か言え」
「俺!? さっき黙れとか言ったの誰だよ」
そう言った直後、あっ、と中村は何か気付いたような顔をしてすぐに口を閉じた。
「ところで、この間お貸しした小説は読まれましたか?」
彼女が話しかけた。そういえば、本は持ってきているのだが、中村と一緒に来たので、タイミングを失いすっかり返し忘れていた。
「よ、読みました。とても面白かったです。あ、そういえば、まだ返してなかった……です」
「読んだ?」
中村は今の発言がどういう意味か考えこむような仕草をした。そして一人で合点した。
「ああそういうことか」
「なんだよ?」
亜緒は彼の発言に突っかかった。
「いや、なんでも」
「気になるだろ」
中村は急にまたニタニタと笑顔になって会話を止めた。そしておもむろに席を立った。
「ちょっとレポート用の資料探してきますわ」
と言った後に、何故か「ごゆっくり」と付け加えた。
「お、おい……なんなんだよあいつは」
「私も最近同僚から似たようなこと言われますね……意味がわからないというかなんというか」
彼女は共感するように言った。
「……司書さんもですか?」
「私は花村というので、呼び名は花村でいいですよ、一色さん。なんだか二人とも似たようなことを言われるのって、可笑しいですね」
花村さんは再び笑顔で話した。その様子は初対面の控え目そうな印象とはまた違って見えた。きっと仲のいい相手なら自分をさらけ出してくる性格の人だ。
「そうですね……ってすみません、別の話をしようとしてたのに、話がそれちゃいました。中村のせいで」
「いえ……そういえば、話の途中でしたね。忘れてました。えっと、何の話題でしたっけ……あ、そうそう、小説は読まれたかどうかという話でしたね」
二人の会話は、小説の話を中心にしばらく続いた。物語の感想、好きなシーンやセリフ、物語が終わった後主人公がどう暮らしているかなどの想像、語り合った。次のおすすめ小説なども教えてくれた。話している最中に、いつの間にか、亜緒も笑顔になっていた。
「あっ、そういえば、勉強しに来られたんでしたね。長々とお話をするつもりではなかったのですが、お邪魔してしまってすみません」
彼女に謝られてしまったが、亜緒はそんなことはないと否定した。
「い、いえ、楽しかったです。是非またお話をさせていただきたいです」
「待っていますね」
彼女は最後にまたニコッと笑顔を見せてくれた。
彼女は受付に戻った。亜緒はその後ろ姿に見とれていた。
そのとき、いつの間にか戻ってきた中村がわき腹を肘で小突いてきた。
「いつまで見てるんだよ。デレデレしてないでさっさとレポート終わらせるぞ」
「なっ、デレデレしてない!」
そう言った亜緒の顔は真っ赤だった。
「わかりやすすぎるんだお前は。デレッデレだぞ。鏡で見てみろ。やっぱり彼女目的だったんだなー。ここ選んだのも突然小説なんて読みだしたのもそうなんだなー。まあいいんだけどさ。あの子結構可愛かったし。お前のそういうところ、嫌いじゃないぜ」
「やっぱ俺、お前のこと嫌いだわ……」
亜緒にまともな反論はできなかった。確かにデレデレだし、半分彼女目的で来ているのも事実だったし、思い返せば実際にバレバレだったと思う。友人に看破されたことで、恥ずかしくて顔から火が出そうだった。
時計を見ると、結構時間が経っていて、閉館までに課題が終わりそうもなかった。亜緒は慌てて課題に取り掛かった。課題を終わらせるということに限って言えば、この場所を選んだことを失敗だと思った。
「ふっふっふ、君たちの会話は丸聞こえだったよ」
みどりが受付に戻ったとき、吉川がしたり顔で彼女の顔を覗きながら言った。
「えっ、さっきの聞こえてたの?」
「あたしが二人揃った絶好のチャンスを逃すわけないじゃない?」
「チャンスを逃すってどういうこと。あっ、でもこっちまで聞こえてたってことは、結構声大きくなっちゃったってことよね。山田さんに怒られなきゃいいけど」
山田さんとは、彼女らの上司の山田さんだ。騒がしくしてしまったとなると、きっと大目玉を食らうことになるだろう。
「大丈夫、山田さんは今席外してどこか言ってるから、そこまでは聞こえてないよ。ちゃんと確認したから間違いない。それを確認してからみどりたちの会話を盗み聞きしに行ったんだから」
「わざわざそのためにこっそりこっちまで来てたの!? 仕事は?」
「いやー誰も来なかったし……メンゴメンゴ。まあ、きっと君たちは上手くいくよ。このあたしが保証する」
「メンゴじゃない! それに何度も言うけどそういう関係じゃないってば! 親指立てないでよ! グッジョブじゃない!」
吉川とは仕事仲間という以上に友人として軽口も言い合える仲だ。しかし、何でもかんでも恋愛に結び付ける癖にはよく困らせられる。
「いや、あんまりドンくさすぎるから言うけど、あの様子だと向こうはあなたのことを絶対意識してるよ」
「えっ、まさか」
みどりはそれを聞いて目を丸くしていた。
「本気で驚くのね……。マジで気付いてなかったんだ。まあ、とにかく、彼は最初から意識しまくりだったよ」
「最初からってことは、知らない人と話すのが苦手なだけじゃない?」
「それじゃあたし相手だとオタオタしない理由がないじゃない? みどりへの態度と全然違うよ、今度見比べたら絶対気付くって」
「それはそういう本とかネットの読みすぎじゃ……」
「そこまで恋愛脳じゃないわよあたしは。とにかく彼はあなたに好意を持ってるのは間違いないと思う!」
「いや、まさかー」
みどりは胸元で手を左右に振って否定する。
「嘘だと思うなら今度来た時よーく観察しなさい。あたしの言った通りだから。見た目は割と悪くないし、これまで彼氏いない歴イコール年齢を貫いてきたみどりには千載一遇のチャンスよ!」
「え、ええ……わかったわよ。本当にそうだったら無視するのもちょっと彼に悪い気がするし……」
みどりは本当に恋愛事これまで無縁だったので、戸惑いを感じた。好意を持たれるのはうれしいが、どうやって受け入れるべきだろうか。別段彼が嫌いなわけではない。むしろ少し惹かれるところはある。でも、突然そうだと言われても気持ちの整理がつかない。それに……とにかく、彼とまた会って本当かどうか観察して確認することが必要だと思った。
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