第3話

 次の週の土曜日。亜緒は再び図書館を訪れていた。本の貸出期限はあと一週間あったが、一応一通り読み終わったため、もう返すことにした。正直なところ内容はよくわからず頭に入ってこなかった。読むのが苦痛だったが、それでもなんとか最後まで読み通した。やはりこの本は彼女に会うための口実に過ぎなかったが、仲良くなるためにはズルをせずに正々堂々と挑もうという気持ちは変わらなかった。

 前回と同じように図書館へ行き、入館した。同じ曜日、同じ時間に行った方が彼女に会える確率が高いと考えたので、できるだけのその時間に合わせてやってきた。受付まで行くと、予想通り、前回と変わらない様子で花村さんや他の女性司書が作業をしていた。

 亜緒は本を取り出して、カウンターへ向かって「本を返却に来ました」という旨を伝えようとした。そしてカウンター前に立ち、口を開こうとした瞬間に、花村さんではない司書が先に彼に気づき、作業を中断して明るく話しかけてきた。

「あ、いらっしゃいませ~。本の返却ですね?」

 彼女は花村さんと同じくらいの年齢の若い人で、やや茶色がかった長い髪を後ろで束ねていた。見るからに快活そうな感じの女性だった。名札には「吉川小春」と書かれてあった。

「あ……はい。そうです……」

 亜緒は対象的に活力なく答えた。花村さんと話がしたかったので、予定が狂ってしまった気がした。向こう側としては普通に仕事をしているだけなので、とても自分勝手な都合だったが、彼女と顔を合わせる口実を失ってしまったのは残念だった。

「では、お預かりしまーす! 」

 受付の吉川さんはまた元気よく言った。どちらかというと居酒屋の店員のようで、図書館の静かな感じとは真逆の印象だった。

 仕方がないので、次に読む本を探しに行こう。借りるときにまた話しかけるチャンスがあるかもしれない。亜緒はカウンターを離れようとした。

 そのとき、吉川さんが本を眺めた後、亜緒の姿を眺め、もう一度本を眺めて見比べたと思うとハッとした表情でまたこちらを見た。

「あっ、ちょっと待って」

 吉川さんがまた話しかけてきた。亜緒は話しかけられると思っていなかったので、少し驚いた。

「えっ、な、なんです?」

「うーん。……なるほどねー」

 吉川さんは小声で何かをつぶやいている。何が「なるほど」なのだろう。彼女が今度は何故かまじまじと眺めてくるので、亜緒は少し恥ずかしくなってきた。

「えーっと……用がないならもう行ってもいいですか?」

「あっ、ごめんなさーい、なんでもないでーす。失礼しました~」

 吉川さんは何かをはぐらかすような口調で言った。

 今のは何だったのだろう。妙な気分だった。顔に何かついていたのだろうか? それとも社会の窓でも開いていたのだろうか。だとしたらとても恥ずかしい。

 借りるときにまた話すチャンスがあるかもしれないと自分に言い聞かせて、次に借りる本を探すため小説の本棚へ向かった。そのとき股間のズボンのチャックを触ってみたが、特に開いてはいなかった。少しだけほっとした。


「みどり、ちょっといい?」

 吉川がおもむろにパソコンを使った作業に没頭するみどりに声をかけた。

「なに?」

 みどりは耳だけ傾けて、目は作業に集中しながら答えた。

「さっき本の場所がわからない、って人が今来てたんだけどさー」

「あれ、ちょっと聞こえてたけど、そんなこと話してましたっけ?」

「まあ、それであなたに行ってほしいんだけどー」

「今やる作業あるんだけど……自分で行けばいいのでは?」

「いや、みどりちゃんが一番本好きでしょ? だから一番詳しいでしょ。それに、たぶんあなたでないとがっかりしちゃうと思うしー」

「……どういうこと?」

「えーと、つまりねー……先週のあのお客さんだったよ」

 作業をするみどりの手が止まった。あのお客さん? 本を返却しに来たのだろうが、いつの間にいたのだろう。がっかりするとは一体何なのか。館内の案内なら自分でなくとも十分できるはずだ。

「いやー、さっきあたしが応対したときのがっかりぶりなんて、わかりやすすぎて傷つくわー。だからみどり、行ってよ。たぶん小説の棚あたりにいるから」

「えぇ……だからってなんで私が」

「いいから行け」

「……わかったわよ。行ってくるね」

 みどりは吉川との会話を終わらせて、立ち上がってそのお客さんの方へ向かった。


 小説……といっても一体何から読めばいいのだろう。やはり古典文学だろうか。誰でも知っていて、なんとなく読書の鉄板な感じがある。しかし、それは同時に堅苦しさも感じさせた。先日の小説のように読書が苦手な亜緒にとってはやはり退屈で、中々読書が捗らない気がする。読み慣れたら違うのだろうか。せめて彼女との会話の種にならないかと思ったが、今の自分には分不相応で理解し難く、種にすらできないかもしれない。亜緒は自分の読書アレルギーを恨んだ。

 まず、よく考えたら、話の種を探す以前にまだ彼女とまともに話すことすらできていない。一回話そびれただけなのに、亜緒はだんだん自信がなくなってきた。彼女に近づくこと自体分不相応な気もする。もし自分に卓越したコミュニケーション能力があれば、こんな回りくどいことをしなくてもお話することくらい余裕でできるだろう。しかし自分にそのような能力はない。実現できない空想だ。

 それに、彼女が突然現れた男に無理やり引っ張りまわされて喜ぶような女性にも思えなかった。彼女は見るからに控え目だ。そこが奥ゆかしくて良いと思う。だから、強引な方法を使ってものにしようとしても、彼女の心は反発してこちらを向いてくれないだろう。それが亜緒は嫌だった。ではどうやって彼女の心をこっちに向けられるだろうか? などとしばらく彼は煩悶していた。

 小説を選ぶことも忘れて本棚の前で悩み続けていると、こつこつと誰かが来る足音が聞こえた。亜緒は一瞬足音の聞こえる方向を見たが、本棚の向こう側から聞こえる音だったので誰が来たか見えなかった。図書館は静かな場所なだけに小さな音でもよく響く。他の利用客の足音だろうと思い、すぐに本棚に視線を戻した。そうだ、次に読む本を探すんだった、と考えるのをやめて小説の背表紙を見てまた物色しだした。

 

 みどりはキョロキョロと館内を見回しながら歩いていた。小説の棚……だっけ。図書館なので、当然かなりの数の本が置いてあった。そのため棚は何列にも分けてあり、何か所も見なければ見つけるのは難しい。

 と思っていたが、予想に反して彼をすぐに見つけることができた。彼はまだ小説の背表紙とにらめっこをしていた。みどりは後ろからそっと近づいて声をかけた。

「あの」

「うわっ!」

 突然話しかけられて驚いたためか、彼は声を出してしまった。その後、しまった、という顔をして両手で口を覆った。

「きゃっ、ご、ごめんなさい、驚かせてしまって」

 みどりは小声で謝った。

「こ、こちらこそ大声出してすみません」

 彼も謝った。そして数秒間お互いに黙ってしまった。

 みどりは話しかけるタイミングを失ってしまって少し困った。


 それにしてもここの図書館の人はよく話しかけてくるなと亜緒は思った。花村さんに話かけてもらえるのは嬉しかったが、突然話しかけられなければならないほど自分は浮いて見えるのか、とますます不安になった。

 よくよく考えてみれば、一目惚れをした女性に会うために図書館へやってくるなど不純で浮いた動機だ。怪しまれて当然だ。やっぱり近づくべきではなかった、と弱気になりかけていた。

 だが、逆に向こうから話しかけられたということは、またお話しできるチャンスが巡ってきたのではないか? まだ諦めるのは早い。折角会話チャンス歩いてやってきたのだし、できるだけ試してみるべきだ。勝手に合点して終わらせるんじゃない。さあ、勇気を出せ、俺。

「あの……どんな本をお探しでしょうか」

 みどりが沈黙を破って口を開いた。亜緒は少し緊張した面持ちで答えた。

「しょ、小説を探していまして」

「小説? ああ、やっぱり小説ですか。それはこの棚のあたりに置いています。本の場所がわからない様子だったとお聞きしたのですが……本のタイトルなど教えていただければお探しいたします」

 本の場所? そんなこと言ったかな? と、後々思うが、そのときは追求しなかった。というよりは、あまりにも緊張していてそこまで思い至る心の余裕が彼にはなかった。

「ええっと……じ、実は、これまであんまり小説を読んだことがなくて……。何か読んでみたいんですけど、その……ど、どれから読んだらいいかわからなくて」

 ああ、彼女と会話している! 亜緒は完全に舞い上がり、頭が真っ白になって、自分でも何を言っているかわからなくなり、もう一生分の「恥ずかしい」を経験したような気分だった。


 みどりは「あれ?」と思った。さっきまで貸し出していた小説は、わりと難しい内容で、知る人ぞ知る玄人向けの作品だ。彼女が好きな作家の作品だったが、あまり人気があるわけではないので、知名度的にも内容的にも初心者向けとは言えなかった。このような作品を読むとは、なかなかの読書家なのでは、と思っていたが、そういうわけではなさそうだ。なぜこれを読んだのだろう、表紙につられたのか、それとも彼女が読んでいる様子が楽しそうに見えたためか。いずれにせよ、彼が読書初心者ならば、これは無理して難しい本を読んで、本を読むのが嫌になるパターンではないかと推測した。

 本嫌いを増やすのは、本好きとしても図書館で働く者としても不本意であるし、逆に本を好きになってもらわねばならない。これは自分の力を試されている。目の前の読書初心者が、彼女の読書家魂を掻き立てた。きっとこれは私の図書館員としての最後の試練だと思った。絶対に彼を本好きにするのだ、と心が燃えた。

「そうですね……読みやすい本でしたら、そう、こちらはどうですか!」

 みどりは本棚から少し興奮気味に一冊取り出した。比較的表紙も新しく、現代的でなかなかおしゃれなデザインだった。

「あんまり堅苦しくない娯楽小説ですから、肩の力を抜いて楽しめると思いますよ!」

 彼女にはいっ、と差し出された小説を亜緒は受け取り、左から右へページをぱらぱらと捲った。そのうちに、緊張していた彼の表情が少しだけ緩んだ気がした。

「これなら……読めそうな気がします。ありがとうございました」

「いえ、これが私の使命ですから!」

 みどりは得意げに握り拳を胸のあたりに当てて言った。彼女は十八番の分野で役に立てたことが嬉しくて、鼻高々だった。

 受付で貸出の手続きを済ませ、彼の姿が見えなくなったとき、吉川さんが彼女にいたずらっぽく小声で囁いた。

「どうだった?」

「どうだったって……あなたさっきから変だけど、何なのよ? 言っとくけど、あなたが想像しているような関係じゃないからね」

 みどりは吉川が何か余計なお節介しようと企んでいるのではないかと思った。吉川は、何か企んでいるときはいつもいたずらっぽく言ってくるのだ。今もそんな感じだ。そんなお節介モードに突入したら、いつも警戒している。

「かーっ、ニブいわねえ。それだからみどりはみどりのままなんだって」

「それってどういう意味よ?」

「まぁまぁ、そのほうが面白そうだし、見守ってあげるとしますかね~」

「だから何なのよ」

 むっとして問い詰めるみどりを無視して、吉川はニタニタと笑いながら仕事に戻った。やはりお節介モード発動中のようだ。みどりはもやもやした気分になったが、これ以上言っても吉川が面白がってからかい続けるだけなので、もとの受付の仕事に戻ることにした。

 その仕事がひと段落したとき、みどりはどうして自分が本好きになったのかを改めて思い出していた。何かを好きになるのは、きっかけが必要だ。

 彼女の場合、きっかけはいつも読んでいる『大空へ巣立つ』だった。あの本と巡り合ったのは小学校五年生のとき。ハッキリと覚えている。思い直しながら、これほど長く自分を支えてくれる物語に出会えたことに彼女は改めて感謝した。あの本があったからこそ自分は辛さも悲しみも乗り越えられ、今を過ごすことができ、これから新しい地を目指すだけのパワーを得られた。だから、きっかけは大切にしたい。彼にとってもそのきっかけはきっと大切なものになるのだから、私がその手助けができれば、と思うみどりだった。

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