第2話

 亜緒はこれまであまり異性と積極的に会話することは少なく、興味がないわけではなかったが、同性の友達とばかりつるんでいる男だった。要するに奥手で、女性とあまり関わらないように過ごしてきた。それが、偶然居合わせた地下鉄内で、偶然本を落とし、偶然それを拾って、それが偶然知っている図書館のもので、そして偶然彼女がその図書館の受付をしていた。これだけ偶然が続いたのなら、この出会いは何かに導かれた運命ではないかと、というロマンチックな発想に思い至った。

その運命が本物であれば、もしかしたら、なるようになるかもしれない。そういった期待感から、あのような行動をとった。傍から見ればただ本を借りているだけだが、あそこで本を貸してもらえれば、また図書館に行く口実ができる。そのときにまた彼女と会うチャンスが訪れるかもしれない。流石にいきなり「あなたに一目惚れしました、付き合ってください!」などとは言えない。初対面の人だ。順序を色々とすっ飛ばしすぎてそこまで大胆にはなれない。だからこのような迂遠な方法しか思いつかなかった。だが、奥手な彼にとっては、これでも十分に勇気を振り絞って起こした武勇であった。

亜緒は再び彼女と出会えるチャンスを得たこと、そしてチャンスをものにできた達成感に高揚していた。彼は単純な性格だ。嬉しいことがあると、すぐに舞い上がる。

だが、同時に不安症な面も持ち合わせていた。ひとしきり喜んだ後、いやこれはちょっとあまりにも回りくど過ぎやしないか、なんだかストーカーみたいでキモくないか、この後上手く付き合うところまで行けるだろうか、という不安もこみ上げてきて、段々自分が恥ずかしくなってきた。一方で、彼女に惚れてしまったのは事実、折角仲良くなるチャンスを得たのだから、これをふいにしてしまえばその機会を永遠に逸してしまい絶対後悔する、運命を信じてがんばれ、と自分に言い聞かせて不安をかき消した。もう導火線に火を付けてしまったのだから、後戻りするという選択はない。


花村みどりは先ほど訪れてきた青年のことを思い出していた。一色亜緒……貸出カードの名前欄にはこう書かれていた。不思議なもので、あの人混みの中でたまたま自分のことを目撃していた人が、たまたま自分が受付をしているときにやってきた。素晴らしい偶然だった。彼女はこのタイミングにわざわざ本を届けてくれたことに感謝していた。あれは自分が正式な手続きをせずにこっそり図書館内から持ち出したものだったので、失くしたことがバレたら問題だった。彼女は気になる本があると中身を確認しなければ気が済まず、悪いと思いつつもこっそり持ち出して読んでしまうことがあった。実際に失くしてしまうのもまずいし、背徳感もあるため、せめて落としたり汚したりしないように注意を払ったつもりだったが、読むのに夢中になるあまり、地下鉄の停車時に人混みが流れ始めるのに気づくのが遅れ、そのまま押し流され、その際につい本を落としてしまった。許可なく図書館のものを持ち出したりして完全に自業自得ではあるが、これが発覚してしまったときどんな制裁を受けるかを考えると心穏やかではいられなかった。それだけに、発覚する前に彼が来てくれたことは幸運だった。

それと同時に、みどりはとても恥ずかしく思った。彼の話を聞くに、ことの成り行きを一部始終目撃されていた。この間抜けな出来事を人に見られてしまったのだ。そして、顔から火が出そうになって、うつむいたまま接客をしてしまった。流石にわざわざ本を返しに来てくれた人にこの態度は失礼だったと思い、今は反省している。思い出したらまた顔が火照ってくるのを感じた。

「ほら、なーにボーっとしてるの」

 パン、と後ろから手で背中を叩かれてみどりはびっくりした。振り返ると、同僚の吉川がいた。

「ボーっとするなんて、みどりらしくないね。なんかあったの?」

「い、いえ。特に変わったことは、ない、です」

「え、何故に敬語。いつもあたしに敬語使ってたっけ?」

「いや、ね、違うの違うの。ただ、考え事してただけよ、小春ちゃん」

「あっ、ふーん……そうなんだ。顔赤いから、てっきり熱でもあるのかと」

「け、健康だよ! 大丈夫大丈夫」

「ホントかなー。みどり、結構無理する方だし。それとも、何か隠し事?」

吉川は訝しげにみどりを見つめた。

みどりは違う違うとその言葉必死に否定するが、余計疑いが深まっていく気がした。

「ねえねえ、さっきの人、知り合い?」

 吉川は興味ありげに訊いてきた。

「ち、違います! 初めて会った方です!」

 やはり疑われていると思い、うろたえながら答えた。

「あっ、あやしーな?本当は……カレシ、だとか?」

 吉川はいたずらっぽく言った。

「だから違いますって!」

 みどりは問い詰められてつい大声を張り上げてしまった。その声は静かな図書館の中に響き渡った。熱心に本を読んでいた利用客のうち何人が一瞬こちらを向いたが、すぐに「なんだ司書が話しているだけか」といった様子で何事もなかったように再び本に没頭した。

「しっ、声大きいって」

 吉川が口の前に人差し指を立てた。

「す、すみません……」

 みどりは身を小さくしながら小声で謝った。

 遠くからコツコツとこちらへ向かってくる足音がした。この感じはたぶん山田さんだ。中年の女性秘書で、彼女たちの上司だ。マナーには厳しく、うるさくすればスタッフだろうと客だろうと叱りつける人なので、結局、今日は怒られることになりそうだ。

 そういえば、とみどりは思った。本を借りたということは、返しにまたやってくる。つまり、勤務日や時間が合えばまた彼と会うことになる。さっきは助けてくれた恩人に対して無礼な態度をとってしまったので、謝っておきたい。だから、また彼と会えることを望んだ。


 次の日の日曜日。とくにアルバイトなどをしていない亜緒にとっては純粋な休日だ。なので、借りてきた本を読む時間は十分にあった。最近大学で使う教科書類を除いてめっきり本を読むことがなくなったため、久しぶりの読書だった。ただの彼女と会うための口実といえばそのとおりなので、借りた本を読まずとも返しに行ってもよかったが、わざわざ貸してもらったものをそうやって扱うのは常識的に考えて酷いと思うし、彼女に嘘をついているように思えたのでやりたくなかった。それに、彼女が見ている世界を覗いてみたい好奇心もあった。だから亜緒は本を開いた。

 亜緒は目で文字を追った。読み慣れていないせいか、途中で眠くなった。それでも頑張って読み進めようとじっと紙面を眺めていたら、いつの間にか意識が飛んでいた。

 小学生の頃の夢を見た。夏休みの宿題には読書感想文があった。好きな本を一冊選んで、その感想を書けというお馴染みのアレだ。亜緒はこれが滅法苦手で、夏休み期間中、これだけが唯一の憂鬱な要素と言ってもいいくらい嫌いだった。

 そのときは同じクラス友達と二人で例の××図書館に行き、宿題を済ませようとした。ここなら本の選択肢には無数にあるし、静かだし、宿題をするスペースだってある。読書感想文を書くのにこれ以上適した場所はないだろう。

 しかし、彼らは早々に飽きてしまった。元々本を読むのが好きではなく、嫌々やっていたので、あっという間に集中力が切れた。感想文どころか、本を読み終わる前にダレしまった。それは友達も同様で、いつの間にか二人揃って小声で駄弁っていたのだった。

 そんな二人だったが、昼過ぎにもなって原稿用紙が白紙となると、流石に焦りが出てきた。今日中に終わらせようと、わざわざ小学生の足だと遠い場所までバスと地下鉄を使ってやってきたのに、これではここに来た意味がまるでない。「やべっ、さっさと終わらせないと」と声をかけて無理やり意識を集中させた。が、これまで気が散りっぱなしだったのに急に集中力が湧いてくるなどということはなく、なかなか捗らずに苦悶した。

 亜緒は「ああもうダメだ、進まん!」などと嘆いて、気晴らしに席を立ってウロウロし始めた。集中できないときは、そうやって一旦頭をリフレッシュしてからやった方がいいということを子供ながらに知っていた。

 亜緒はあえて全く読めない外国語の学術書の置いてあるあたりまで歩いた。全く意味はわからないが、「なんか呪文が書いてある魔法の本みたいでスゲー」といったどうでもいい感想を持った。ひとしきり眺めて満足した後、元の場所に戻る途中で、一人の少女が椅子に座って本を読んでいるのに気付いた。年は見た感じ自分より一、二歳くらい上だ。短い髪で、眼鏡をかけていたような覚えがある。

 彼女は本を読むのに集中していた。自分が読んでいる本よりずっと厚くて難しそうな本だった。亜緒は子供なのによくそんな本を読めるな、と思った。読書はつまらないものだと思っていたので、学校の宿題以外で本を読みたいと思えるのが不思議だった。それが何故か子供の頃の記憶として、強く印象に残っていた。

 彼が夢から覚めたときには夕方だった。読み始めたのが正午くらいだったから、結構長い時間眠りこけてしまったようだ。

読書のどこが面白いのだろう。ただ字を眺めているだけでは退屈で、あまり楽しくないと感じた。そこら辺は、昔から変わってないなと思った。内容も実用書などとは違って、実生活で役立つとも思えなかった。架空の物語が綴られているだけだ。物語を見るだけなら、漫画やドラマ、アニメでいい。わざわざ文字だけの小説を読む必要はない。実際、ここまで読んでも内容がほとんど頭に入ってきていなかった。

 今日はこの辺にしておこう。亜緒は読んだページに栞を挟んで本を机の上に置いた。


 みどりもこの日は休日だった。彼女はどんな日でも本を読む。暇さえあればいつでも読む。外出時も忘れずに本を懐に忍ばせるほどいつも本と共にある。彼女は本が大好きだった。それは幼少期からずっとそうで、ずっと変わりのないものだ。もちろん、今日も本を読んで過ごしていた。

 落として届けられた例の小説はまだ読んでいる途中でまだ終わっていなかったが、マイナーな本なのでこの図書館には一冊しかなく、今は貸し出し中になってしまったので、読むことはできない。だが他に貸出の予約が入っていたわけではなかったので、そのまま貸した。本当は続きを読みたかったが、当然貸出は客のほうが優先される。貸出を拒否して自分が先に読むなんてわがままなことはもちろんできない。先が気になっていたので少し残念だが、しかたがない。

 みどりの部屋にも本がたくさんある。本棚には一ミリの隙間もないのではないかというくらいにぴっちりと本が詰まっている。さらに、本棚に全て収まりきらないため、床にも少し積み上げられている。時々整理のため一部の本を売ったり捨てたりして数を減らすが、本を買う量も多いので気づけばこのような有様に逆戻りしている。最近では少々片付けるのを諦め気味で、一種のいわゆる汚部屋になりかけていた。彼女はまさに本に埋もれた生活をしていた。

 みどりは貸してしまった本の代わりに、自室の本棚にある一冊を読んでいた。それはお気に入りの小説で、これまで何度も何度も読んでいる本だった。そのおかげで表紙はボロボロで、年季の入ったものに見える。これほど大量に本があるにも関わらず、彼女は迷うことなくそれを本棚から取り出すことができる。それだけ読み慣れた本だった。

題名は、『大空へ巣立つ』。

 この物語は、少年とツバメの物語だ。少年は親に捨てられたツバメを拾い、親代わりに世話をすることになる。野鳥はペットとは違い、できるだけ野生に近い状態で育てなくてはならないため、様々な苦労が待っていた。しかし、それを乗り越えて、そのツバメは立派に育っていく。少年にも懐き、少年もそのツバメを可愛がった。しかし、どんなに懐いていたとしても、いつかは野生に戻さなければならい。野生の生き物は命を繋いでいくのが宿命で、使命でもある。だから帰らなければならない。そこで少年は悩む。ツバメに愛着が沸いてしまって、理屈ではわかっていても、気持ちの方が彼らを離れ離れにすることを許さない。この板挟みの状態のために葛藤があったが、とうとうツバメを野に放つ決断を下す。ツバメは渡り鳥で、秋になる頃に南へ旅をする。少年は別れるのは辛かったが、ツバメの幸せのために、その旅の無事を祈って、南へ飛び立つツバメを見送った。

彼女は数ある本の中でも、その本が一番お気に入りだった。だから時々それを読み返した。その物語を開いてページをめくり、そこに仕舞い込んでいた心を取り出し、それをシルク生地の布で優しく包み込み、本という宝箱にまた大切に仕舞うのだ。

 気が付けばすっかり夜になっており、みどりは慌てた。夕食も忘れて本に没頭していたのだった。一度集中してしまうと周りのことも時間も何もかも見えなくなってしまうのは悪い癖だと自覚していた。だから大事な本を落としたりしてしまうのだ。

 今から夕食を作るのも少々面倒だと感じたため、近所のファミリーレストランで済ませることにした。みどりはコートを引っ張り出して、外へと繰り出した。

 日曜の飲食店ということで、なかなかの混みようだった。みどりは順番を待つために店の入り口に設置された椅子に座った。店の中は多くの人でにぎわい、少しガヤガヤとしていた。図書館の静まり返った空気は好きだが、この程度の適度な雑音が流れる空気も嫌いではなかった。これはこれでいいBGMになる。このようにちょっとだけ騒がしい環境でも意外と読書が捗るものだが、今日のところは流石に自重した。ここでまた本など読み始めようものなら、コーヒー片手に何時間も居座ってしまう。

彼女には帰ってやることがあった。ある目標を叶えるための勉強だった。それを達成するため、毎晩夕食後から寝るまでの時間、勉強をすると決めていた。それをサボってしまうわけにはいかないので、さっさとご飯を食べて帰宅したかった。活字中毒者の彼女にとって本を読めない時間は辛いが、ここは我慢するしかない。とりあえず、店の席が空いて自分の名前が呼ばれるのをじっと待った。

 彼女は本が大好きだ。図書館で働きたいと思って、実際に勤めてしまうくらいだ。でも、それだけでは成り立たないのだということも身をもって知っていた。だから、新たな道を歩むのだ。

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