ツバメたちは新しい世界を見てみたい

亀虫

第1話

 桜が散り、気温が上がりかけている時期で、この日は特に暖かかった。大学の講義が終わり、帰宅する一色亜緒いっしきあおの乗った地下鉄は満員で、明らかに最大乗車人数を超えていた。おびただしい数の人間が一つの箱の中に可能な限り敷き詰められた様子は、まさにすし詰め状態で、他人の身体と身体が密着し腕一本動かす余地はなかった。「すし詰め」とはまた的を射た言葉だ。くたびれたサラリーマンの汗で、まだ春だというのに、本当に酢飯のような酸っぱいにおいが充満していて、頭がクラクラしてきた。時刻は夕方で、ちょうど帰宅ラッシュの時間だった。あまりに混雑しているため吊革に手が届かず、身体を支えるものが近くになかったので地下鉄が揺れるたびに何度もバランスを崩してよろめいてしまった。その度に隣にいる太った中年のサラリーマンや、観光旅行中の背の低い中国人にもたれかかってしまい「すみません」と謝らなければならなかった。

「次は~〇〇~。〇〇~。△△線へお乗り換えの方は~、こちらでお乗り換えください」

 乗車して数分後、少々気の抜けた印象のアナウンスが聞こえてきた。次の〇〇駅は繁華街にある駅で、他の路線へ乗り換えすることもできる場所だ。そのため、多くの乗客がそこで入れ替わる。引き続きこの路線に乗る亜緒は、やっとこの人混みから解放されると思いほっとした。いつもこの駅を越えた後は、混雑する時間であってもすし詰めというほど人が一杯になることは少ない。何故今日はこんなにも人が多いのだろう。街中でイベントでもあるのだろうか。はたまた、人身事故でも起きてどこかの路線が停止してしまったのだろうか。

 亜緒はこのむせ返りそうなにおいの中に、ひとつだけ変わった臭いがするのに気が付いた。それは少し柔らかくて甘くて、どこか懐かしい匂いだった。目の前にいるサラリーマンや中国人の酸っぱいにおいとは違う。それは香りで虫を引き寄せる花のごとく彼の気を惹いた。亜緒は気になってその方を向いた。

 その方向の、ドア付近の壁際には女性がいた。彼女は髪が耳をギリギリ覆う程度のサラサラとした黒いショートヘアで、大きく丸い眼鏡をかけていた少し地味な印象の女性。彼女はハンドバッグを肩にかけ、両手で文庫本を広げ、腕を曲げて胸元に本を寄せて読んでいた。亜緒は鞄を開ける隙間もない満員電車の中でよく読めるなと思ったが、こんな状況でも彼女は本に夢中のようだった。おそらく乗車前からそこに居て読んでいたのだろう。人混みに揉まれながらもなお本に集中し続ける彼女の様子は、「花」というよりは本の「虫」だった。彼女はある種の異常な環境に適応し、黙々と本に書かれた文字をじっくりと食い尽くそうとしていた。

「〇〇~、〇〇~。降り口は右側で~す。足元に気を付けてお降りくださ~い」

 スっと地下鉄が停車し、ドアが開いた。その直後から、穴の開いたダムの水のように車内から人が流れ出ていった。亜緒はこの駅では下車せず引き続き乗るのだが、この人の流れに逆らうのは難しいので車内から一旦降りて、この流れが収まるのを待ってからまた乗り直した。

 再び乗った車内にはもうあの匂いはなかった。さっきの女性も既にいなくなっていた。その代わり、女性がいた場所に、文庫本が一冊落ちていた。先ほど彼女が読んでいたものだろう。亜緒はその本を拾い上げた。本には疎い亜緒はよく知らない作家の小説だった。誰かに踏まれて表紙が少し汚れていたが、破れたりしているわけではなさそうだ。よく見ると表紙にラベルが貼ってあった。「××図書館」と書いてある。××図書館……そのラベルを見て、「小学生のとき自由研究で利用した図書館だ」と思い当たった。

 

 数日後の土曜日。亜緒はその日、大学の講義はなく休みだったため、休日を利用して先日拾った本を図書館に直接返しに行くことにした。

確か、図書館で借りた本を紛失してしまえば弁償しなければならない。本は図書館のものだから、失くしてしまえば当然詫びなければならない。そればかりではなく、場合によっては信用を失い、その人に二度と本を貸してくれなくなるかもしれない。そうなるのはちょっとかわいそうだ。電車での様子を見るに、いかにも彼女は本が好きそうな人だった。きっと本を借りることができなくなるのは辛いことだろう。

それに、あの日見た彼女の姿が妙に印象に残っており、気になっていた。ほぼ間違いなくこの図書館来たことがあるはずなので、なんとなくここに行けばきっと彼女に会えるのではないかという期待も少しあった。もし会うことができたらお話してみたいな、と淡い想いを抱いていた。

 亜緒は地下鉄やバスを利用して、図書館に到着した。子供の頃はどうやってここまで行ったのかまるで覚えていないが、今はインターネットやスマートフォンで道を調べるのは容易だ。迷うことなくたどり着くことができた。

 亜緒は図書館の中に入った。建物の中は静寂そのもので、久々に図書館に訪れた彼を圧倒した。物音ひとつ立てるのも許さない、荘厳な雰囲気を感じた。入って少し進んだ場所に受付のカウンターがあり、司書の女性が三人いて、それぞれの作業を行っていた。

 亜緒はできるだけ音を立てないようにそろそろとカウンターに向かった。なんとなくここに自分がいるのが似つかわしくない気がして、身を小さくしていた。本を返したらすぐに帰ろうかと思った。

「あのぉ。本の返却ってここでよかったですかね……?」

 亜緒は恐る恐るカウンターでパソコンに向かって忙しそうに作業している司書に尋ねた。あまりにもそっと近づいた彼に気づいていなかったためか、司書は急に声をかけられてビクッとした。

「わっ。お、お客様? は、はいっ。こ、ここが受付なのでここに返却していただければ大丈夫です」

 あわあわと焦りながら司書が答えた。そして作業を止め、客である彼の方に向き直った。

 やたらと驚かれ、やはりここは自分の来ていい場所ではない気がして、彼はなんとなくいたたまれない気持ちになってしまった。

「これ、この間落ちてたのを拾って、それで、ラベルが貼ってあったので、あの、ここに直接返したほうがいいかなーと思って……」

でも今更戻るのも失礼なので、しどろもどろになりながら鞄から件の本を取り出しながらそう説明している最中に、司書の女性の容姿を見て亜緒は気が付いた。

 彼女は髪が耳にかかる程度のサラサラした黒いショートヘアで、大きく丸い眼鏡をかけていた。クリーム色の地味なブラウスの上にエプロンをかけ、左胸に名札が付けられていた。名札には「花村みどり」と書かれていた。

「あっ、それは……」

 彼女はその本を見て、「あっ」という表情をしてみせた。

 この人が、あの日見た女性だと亜緒は理解した。間違いない。見た目の特徴が見事に一致し、この本にも特別な反応を示した。どう考えても別人ではなく、彼女自身だった。

もしかしたら、と期待はしていたが、まさか司書としての彼女と出会うことになるとは、予想していなかった。とても本など読めそうもない状況でも本を読み続けた地味な印象の女性。それが目の前にいる花村さんだった。

「こ、これをどこで……」

「これは……地下鉄で拾いました。満員電車だったところで……」

 亜緒は拾ったときの状況をありのままに伝えた。説明が終わった後、彼女は再び「あっ」という表情をした。

「ありがとう……ございます。私が落としたものに間違いありません。落としたところまで見られていたのですね……。わざわざ拾ってここに届けていただいて、ありがとうございます。あの……失くして困っていたので」

 伏し目がちになってそう言った。彼女は自分の失敗を見られたのが恥ずかしかったためか、顔が少し赤くなっていた。

そんな彼女の様子が妙にいじらしく感じて、亜緒は少しドキッとした。

 確かに地味だが、丸く整った顔立ち。控え目でおとなしい、言い換えれば、おしとやかで奥ゆかしい佇まい。声も鈴を転がすように甘くて綺麗な声だ。亜緒はこのわずかなやり取りの中で、彼女のことを、何というか、言葉にしづらいが、素敵だと思った。

「あ……すみません。そ、その本ですね! お預かりします」

 今度はハッとした表情をして、彼女は亜緒の持つ本を受け取った。

亜緒はなんとも不思議な感覚がした。図書館の受付の女性とただ言葉を交わしているだけなのに、胸がドキドキする。これまで経験したことがないわけではないが、久しぶりに感じたこの感覚。心の中でそれが増幅して、溢れそうだった。

「あ、あの。まだ、御用、ありますでしょうか?」

 彼女は裏返った声でおずおずと訊ねてきた。余程恥ずかしかったためか、彼女の顔はまだ顔が赤かった。

 確か、亜緒がここに来た目的は本を返すことだった。

 しかし、それだけだっただろうか? 本を返すだけなら、拾ったすぐに後に駅の窓口に落とし物として届けるだけでも別に良かったのではないか。

 落とし主のその後のことを想像して、それに配慮して直接ここへ持ってきた。だがしかし、本来自分がそこまで心配するほどのことではない気がする。他人が制裁を受けようが彼にとっては知ったことじゃない。

 わざわざこんなことをしたのは、彼女に近づきたいという下心があったからだ。あの一瞬で彼女からそれだけの魅力を感じた。だからこのまたとないチャンスを大切にしようと思った。そして、俺はここにやってきた。今実際に会って、そのとき感じた気持ちに間違いがないことがわかった。彼女と仲良くなりたい。ならば、することは決まっているじゃないか。

 亜緒は意を決して言葉を発した。

「その本、俺がお借りしてもいいですか?」

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