第5話 東の夕暮れ
一体、どれくらいの人が知っているんだろう。
君には見えているだろうか?
とある集合住宅地にある、大きなボロマンションのベランダ。
そこに夕日が差し込んだ時だけ咲き誇る、たくさんの薔薇の花が。
僕が初めて気づいたのは小学生の頃で、当時も当時で、凄まじい違和感を覚えたものだ。
上下左右の部屋は、朽ちた物干し竿が無造作に掛けられたり、ゴミが引っ掛かってたりしてるけど、その家ひとつきりが――そう。
紅く紅く彩られるのだ。
「あ、すみません」
廃墟の向かいにある狭い歩道で、その一室の辺りを眺めていると、リリンと音を鳴らして、邪魔そうに自転車が僕の横をすり抜けた。
それでも懲りずに僕は、その場に突っ立っている。
そのことに心の中で苦笑いをすると、走り去った自転車の後ろ姿を見送りながら、一室の出来事を振り返った。
あれから、数ヶ月と時間が経って、僕は日常生活に戻りつつあった。
厄年の如くいざこざが絶えなかった僕にも、穏やかな日々が訪れていて、ぎゅうぎゅうに詰まっていた“些細な”嫌な環境にも慣れてきた。
もやついた思いは時々、傍らにあったりするけど、差ほど気にならない。
それまで荒れていた人間関係も、良い終わりと始まりを迎えることが出来たし、後腐れなんてものは一切無かった。
「あ……」
ぼうっとしていた意識がぐんと戻る。
急いでマンションを見ると、丁度夕焼けが濃くなって、マンションの外壁が染まった。
そこで――ぶわりと咲き乱れた。
あの部屋に真っ赤な薔薇が、何十輪も。
僕は近くの信号へ掛け寄ると、横断歩道を渡って建物の敷地に入って、階段前まで行くが、中へは入らない。
僕は通学鞄から線香の束を取り出すと、階段下の集合郵便受けがある辺りまで行き、そのコンクリートの地面に、火を付けた束を置いた。
「花束なら恰好つくけどなー」
花、あるもんなあ。
ぼやきながら視線の先の段の縁を、見るとも無しに見て、ため息をついた。
あと少ししたなら、僕も今暮らしている土地を離れ、他県へと旅立つ。
所謂、就職の為に。
だからその前に、今度はこの場所にお別れをしたかった。
彼女にはあれから会っていない。
ただ、彼女の時間になると、変わらず花が咲き乱れているらしいのは、今日来てみて分かった。
彼女はいるのだ。
それでも会いに行かない理由はどうか、彼女のように察してほしい。
よし……もう行こう。
思う前に立ち上がり、僕は足取りも軽く敷地から出た。
今度は止まらずに横断歩道を渡り、向かいの歩道へたどり着き、しばらくは振り返りもせずに歩き続けた。
そして、廃墟から遠く離れた所まで行くと、急にぐるんと振り返る。
さようなら。
口にすれば、一際建物が赤く染まる。
ふと暗くなった気がして、山の方を見たら、夕日がすっかり山に隠れて、闇が迫りつつあった。
ああ……それでも、赤い。
小さくなった赤いベランダに、一瞬だけ人の姿が見えたような気がして、僕は小さく微笑んだ。
これでおしまい。
漂ってきそうな花の香りを無視して、僕は日常へと帰る。
去り際にはとうとう、夜が訪れていた。
東の夕暮れ 小宮雪末 @nukanikugi
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