第4話 だから
「和巳、そこは駄目よ――駄目!! もう行かないで!!」
時折鮮やかに蘇る記憶の中、青ざめた顔の父と、ヒステリックに叫ぶ母の姿が、しつこく僕に纏わり付く。
喧嘩から虐めに行為が変わって、とうとう僕が学校に行く振りをして、あのマンションに入り浸り、そしてそれが両親に知られた日。
僕の家は論争の果てに、引っ越しを決断した。
近くも遠くもない土地にある、賃貸の一軒家。
学校が変われば、環境が変われば、僕も変わると考えてのことらしかった。
事実僕は、マンションの件で酷く親に叱られた上に、そんな場所に連れられたものだから、嫌でも変わってしまった。
新しい学校に溶け込んで、上手くやり過ごす。
例えどんなに理不尽な事が起きても、気乗りしない事があっても、「場の空気を読まなければならない」という強迫観念にも似た感情が、いつも隣にあった。
それでも、その落ち着きのない環境は、次第に体に馴染む。
馴染んで最後、彼女の存在がどんどん霞んで、気づけば心労を患いそうになった間際――なんとも都合よく、彼女の存在を思い出したのだ。
好奇心だ。
認めよう。
記憶の中の優しい思い出に、まだ触れることができるかも知れないのなら、僕はどうしても触れたかった。
彼女が何なのか、知りたかったんだ。
「……うそつき」
一夜明けて、夕方。
僕は約束を破って、例の部屋に足を踏み込んだ。
中心で行儀よく立って僕を待ち構えていた彼女の背後には、毒々しいまでに赤く染まった薔薇が見える。
彼女は、どこか淋しげだった。
「来ないと言ったでしょう」
「……忘れたよ」
小さな声に歩みよりながら、ぽつりと告げる。
「嘘って、どうしたらつきかたを忘れると思う?」
ねえ、と尋ねたら、なんだか不意に笑いが込み上げてきた。
きっと同じ顔だ。
僕も君も。
彼女はそんな僕に表情も変えずに視線を逸らすと、背中を向けて、ベランダへと向かった。
焼けた空が優しく視界に溶ける。
残酷で小さな花園も、昨日の事が嘘だとでも言うかのように、綺麗に咲き誇っていた。
「……わたしも、わすれたわ」
長い長い静寂の後に、彼女がか細い声で呟いた。
「なにがすきでなにがきらいだったのかも、しんでからここでであった人のかおも、あったかいひも、さむいひも、さいごにみた、いちばんやさしいもののことも。……痛みが強くて、掻き消されてしまった」
だけれど、と彼女が振り向く。
「あなたは消えなかった。あなたを待っていた。あなたが、好きだった」
「……」
「時間が何度も繰り返されて、わたしが何度死んでしまっても、またあなたが来てくれると思えば思うほど、わたしはわたしでいられたの。死んでしまって初めて、私は、私になれた。私だけの、私に……。ねえ、カズミ。貴方はわかるかしら?」
物悲しく、烏の鳴き声が響く。
果てる間際の太陽のせいで、彼女の姿は逆光になって見えない。
ただ、その見えない姿に僕は、鼻の奥がツンとしたのを感じた。
「君ってさ、本当に綺麗だよね」
「ありがとう」
そう言うだけで精一杯の僕に、彼女はぎこちなく笑う。
これが彼女なりの今できる、精一杯の笑顔だろう。
他人からしたら僕のこれは、あまりに突飛な言葉だけど、その表情を見て、僕には分かった。
「だから、もうさようならよ」
彼女が言いたかったことが、僕に伝わったように。
僕が言いたい事も、彼女に伝わっている。
だから「うん」と相槌を打って、少し間を置いてから、僕も告げた。
「さようなら」
「元気でね」
「なるべくね」
「……さようなら」
「……。さようなら」
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