第3話 少女と少年
彼女の元へ訪れていたのは、小学生の一時期。
友達と上手くいかなくて、一人ぼっちになった僕は、毎日のように彼女に会いに行くようになっていた。
日が暮れて、空が染まって、赤い建物に入る。
人目を忍んで階段を上がっていく度に、日に日に自分が社会から孤立していくのを確かに感じていた。
それでよかった。
一人だけれど僕には、僕と同じように一人きりの少女がいたから。
決定的に違うもの同士であるはずの僕と彼女の関係に、僕自身はなんだか尊さを感じて、それを大切にしようと思い始めていたし、反対に、そういうわけにもいかないということも僕は知っていた。
それでも、やめられなかった。
――おやめなさいよ。ここへ来るのは。
僕が現実から切り離されていくのと比例して、彼女がその顔の表面からから、徐々に人らしさを失ってゆく。
その哀れな姿を目の当たりにしても尚、いや、だからこそ。
僕は僕の時間を、繰り返し彼女に捧げた。
「……」
カチリと懐中電灯をつける。
踏み込む足音は冷たく響いて、ぐっと空気から温もりを吸い取っていくみたいで……。
一夜明けてまた夜がきた。
埃や砂、枯れ葉で薄汚れた例の部屋に、再び訪れた僕は、深く呼吸を繰り返して奥へと進む。
そして、染みがついた部屋の敷居の前まで来ると――
ガン!
と勢いよく、部屋を仕切る引き戸が閉まった。
嵌まった硝子がその激しさに、ビリビリと余韻を残す。
僕はその様を見つめて、しばらくその場に突っ立っていたけど、やがて宙の上の方に顔を向けて「ねえ」と声を掛けた。
「君に伝えたいことがあって来たんだ」
空気が冷たい。
「それを言ったら、もうここに来るのは止すよ。……だから開けてくれないか?」
指先からそれは、容赦無く浸蝕してきて、僕を拒む。
肌の表面でそれを感じて、僕は見えないけれど確かに、この場に、この戸のすぐ裏側に彼女がいることを再確認する。
僕はため息をひとつ吐くと、口を開いた。
「君、前にあのベランダの花が枯れないと離れられないって言ってたよね。“あの人”が咲かせた花だから」
……。
「“あの人”って君のお母さんだろ?」
やめて、とくぐもった声が聞こえた。
だけど続ける。
「君とその畳と、昔の新聞を見たら分かったよ。君がどれだけ惨たらしい生かされ方をして、殺され方をしたのか」
やめて、とまた声がした。
だけど続ける。
「右手の中指の爪が剥げてるのは、君が畳を掻いたから。君が殺されたのは、君が花を毟ったから。君は君のお母さんを嫌ってたのに、憎めなかったんだ。殺されそうになったのに、そして死んだのに、君は昔も今もお母さんを怖がるばっかりで、憎めていない」
なにが言いたいの。
篭った声が、耳元で聞こえた。
「……花は、枯れたよ」
彼女が来ると知って、待って口にした。
「君を殺したお母さんは、刑務所の中で半月もしない内に死んだよ。花だって、僕が君と出会った頃から枯れてた。これ、気づいてた?」
ひたりとした息遣いが、止まる音が背中の方から聞こえた。
僕は砂埃と靴で擦れたフローリングに視線を注ぐ。
「……捨てられたひとからすてられたの」
やがてぽつりと、馴染んだ声が背中にこぼされた。
「生まれてからずっと、私はお母さんに捨てられていたの。あんなに傍にいたのに、あの日、水をあげている時にやっと気づいたのよ」
「……」
「いつもあげているのに。私があの花の為に、この狭い部屋で息をしているだなんて、当たり前になっていてずっと気づけていなかった。気づけないまま、あの花にしがみつくように生きていたわ。それで、あの人と繋がっていられる気がして。だけれど……私はあの花のご飯だったの。肥料も水もあげられる。なんでもしてあげられる。そんなご飯だったの」
ねえ、カズミ。
震えはじめた彼女の声に、どうして振り返ることができるんだろう。
僕は背中に頭を預けた彼女に、相槌も打たずに、次に来る彼女の言葉を待つ。
その時だ。
すらりと戸が横に滑った。
ぬばたの闇が月明かりにぶわりと照らされて、雨風に晒されて痛んだ部屋を舐めている光景が、僕の眼下に広がる。
そして、ああ。
今夜はなんて風が強いんだろう。
あの花が、花達が、一斉にその花弁を風に引き契られて、開け放されたベランダから吹雪のように舞い込んでくる。
息が出来なくなるほどの赤い花の大群は、僕の頬に、肩に、胸に、足首に纏わり付いて、戯れるように僕を包んで飛ばされて、通り過ぎる。
「……」
はっと気づけば、彼女は居なかった。
思い出した頃には花吹雪も何処かへと消え去っていて、少し先を見遣れば、朽ちた土とプランターが廃墟の一室の、ベランダに転がっているっきりで、僕は一人置き去りにされていた。
今日は、ここでおしまい。
唐突な別れなんて、ここではいつものことだ。
そう思っても何故か僕は、今日は途方に暮れて、夜風か流れる中、さらさらとした時間を立ち尽くして過ごしていた。
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