第2話 あのひとの花


 どうして花を咲かせてるの?


「咲かせてなんてないわ。咲いているの」


 勝手に咲いたの?


「薔薇はいきなり咲いたりしないわ」


 じゃあ、どうして咲いたの?


「……さあ」



 小学生の頃に通いつめた彼女の居場所では、毎日のように僕は彼女に問い続けていた。

 今とは違い、まるで生きている人間みたいに、はきはきと答えて、表情もくるくると変える彼女に、僕は親戚の姉にでも接しているかのような感覚すら覚え始めていて……。

 気づけば、彼女に対してある意味無遠慮になっていた。

 今なら分かる。

 『何故花は咲いたのか?』

 その問いを投げ掛けた時、彼女は困ったような顔をしていたと思い込んでいたけど、それは違ったんだ。


「きょう、も来たのね。カズミ」


 日が沈む間際。

 ベランダがある側の外壁が赤く染まって、一際薔薇が色濃くなる時間。

 僕は廃墟になったマンションの階段下に自転車を置き、例の部屋の敷居を跨いだ。


 今日は彼女は、居間の中心にしゃがみ込んでいて、僕の方を見向きもしないでそう口にして、じっと畳の一部を凝視していた。

 僕もつられてそこを見れば、何かがぶちまけられたように黒く染まった、ボロボロの畳がそこにあるだけ。

 いや、正確に言えばそのボロさは、年月の為ではなくて、何かが引っ掻いたような跡と、何かが突き立てられたような跡とでめちゃくちゃにされていたものだった。

 それが、大きなシミの両側に幾つもある。



「最近いつもそれ見てるよね」


 未だしゃがんだままの彼女の背中に近寄って、ひょいっと畳を覗いて言うと、微かに彼女が頷いた。


「わたしのあかしなの」

「証?」

「わたし、が、生きた、あかし」


 彼女の表情は伺えない。

 だけど、言葉のひとつひとつにノイズが入る。

 彼女の感情が高ぶると、決まってこうなるんだ。

 何故か。

 それを僕は、まだ聞けずにいる。


「……君って生きてる頃、どんなだったんだろうね」


 なんとなく沸いた疑問をそのまま口にすると、彼女が顔を上げ、僕を見た。


「どうしてそんなこときになるの」

「だって、死んでる君にしか会ったことないから。生きてる時ってきっと、今よりずっと綺麗なんでしょ?」


 彼女は黙り込んだ。

 なんだか口説き文句みたいになったけど、正直な気持ちなんだからしょうがない。

 人形みたいにぴくりとも動かない彼女の表情を見つめ続けていると、上向いたままで彼女は、少しだけ口を開いた。


「……今、カズミ、生意気よね」

「え?」

「ずっときてくれなかったくせに」


 開いた唇がまた閉じる。

 だけど、無表情ではなかった。

 責めるような台詞とは対照的に、微かに唇をしならせて、優しい目をしたのだ。

 こんな彼女を見るのはいつぶりだろう。

 呆気にとられていると、彼女はそのままの顔で続けた。


「カズミは小さ、かったわね。初めて、会ってからしばらく、ずっと、ここへ来てくれていた。けれど長、い間。何時からか……もう、私は、時間なんて分からない、から。感じないから。曖昧だけれど、何年も、来て、くれなかったでしょう。どうしていま、きてくれるの」


 すぐには答えられなかった。

 真っすぐで虚ろな彼女の澄んだ瞳の前で、嘘を言ってもしょうがないとは思ってる。

 だけど……。ああ。

 僕はきっと彼女を恐れてる。

 僕の答えによっては彼女は彼女ではなくなって、僕の知らない顔で襲い掛かってくるんじゃないだろうか?

 そうなったら僕はどうなるんだろう?

 どうすればいいんだろう?

 彼女は、どうなるんだろう。

 また永い時の中を、誰にも気づかれないままに過ごして、ずっとあのベランダの花が枯れるのを待ち続けるんだろうか?

 たった独りで。


「君が好きだからじゃない?」


 そこまで考えて納得した。

 僕は、僕の次の言葉を待って見上げてくる彼女に、単純な答えを差し出す。

 僕の視線は、彼女の唇の奥に釘付けになって動かない。

 だけど気持ちは穏やかだった。

 牙でも生えて、喉笛をかみちぎるだろうか?

 だけど彼女はなんとなく、そんな場合でも楽に僕を殺してくれそうだ。

 漠然と、そう思って。

 だけど今度は彼女が黙ってしまった。

 笑顔はとうに引っ込んで、表情が読めなくなってる。

 半開きだった唇も閉じてしまって、ゼンマイが止まった時計のように動かなくなって、身じろぎもしない。

 いつしか夕日も山の向こうに沈んで、赤から白へ、白から黒へと空は移り変わっていた。


「わ、たしはきらいよ」


 長い沈黙を静かに裂いて、彼女はノイズ混じりにそう言った。

 僕の時が止まる。

 けれど彼女の唇は次の言葉を紡いでいた。


「カズミ、はウソをついて、る。そんなカズミが、だいきらい。ただのこう、きしんで、ここへきているだけの、くせに」

「ちが……っ」

「ウソ。かわいそうな、ひとが、ユウレイ、になってここにいるから、たまたまカズミが、わたしがみえるから、ひまつぶしと、はなし、のネタに、きているだけでしょ――私ガ何モシナイト思ッて」


 何も聞いてくれない。

 そして、ノイズだらけだった彼女の言葉は最後、嫌にはっきりとしていた。

 僕は誤解を解くことも出来ないまま、彼女がゆらりと立ち上がる。

 ふいに上向いたまま近づいた彼女の顔に、咄嗟に身を引くと、ぐりんと彼女は身を翻して、立ち尽くした僕と向き合った。


「……。でていってちょうだい」


 彼女が言う。


「もうこないで」



 どんどんその姿を、闇に溶け込ませて。

 そうして、濁りのない冷ややかな声で、言い残した。



――次にきたら、そのときは、ころしてやるから。



 冷たい風が、開け放された窓から強く吹き込む。

 空では星屑の海の中に丸い月がひとつ、浮かんでいた。

 アノヒトの花を照らして。

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