東の夕暮れ
小宮雪末
第1話 赤いベランダ
その花の存在に気がついたのは、小学生の時だった。
学校から家まで、一人で歩いて帰っていると、なんだか香水のような香りがして、顔を上げた。
そして視線の先にあったのだ。
とある集合住宅地にある、大きなボロマンションのベランダ。
そこに、溢れ出さんばかりに咲き誇る、たくさんの薔薇の花が。
当時も当時で、凄まじい違和感を覚えたものだ。
上下左右の家は物干し竿に洗濯物が掛かっていたり、布団が干されていたりしてるのに、その家ひとつきりが紅く紅く彩られていたから。
色褪せた建物に似つかわしくない。
いや、例え新築であったとしても、その違和感は僕を襲っただろう。
「、そんな、こと。本、人の前で言うものじゃな、いわ」
2階にある例の一室を食い入るように見上げ続け、立ち尽くしていたあの日。
それを思い出しながら話していると、部屋の主はギッギッと不規則に言葉を途切れさせ、抑揚のない声でそう口にした。
蝋燭のように青白い肌。
ふっくらとして、だけどくすんだ色の唇。
大きいけど虚ろな瞳と、控えめに高い鼻。
鹿のように細くて華奢な体と、丈が長い黒のワンピースに、線の細さを隠すように伸び、その体に纏わり付く長い黒髪。
そして果てが見えない無表情。
彼女は、地縛霊というものらしかった。
「カズミ、は、お花が嫌いなの」
家具と呼べる家具が、ちゃぶ台ひとつしかない、だだっ広いフローリングの一室。
明かりも何もなく、ぬばたの闇が月明かりと溶け合い、掻き消す中、人形が無理矢理その首を曲げられてしまった時のように、青白いその人はぎこちなく首を傾げた。
僕はそれをやんわりと「そうじゃない」と否定した。
「すごく不思議だったんだよ。薔薇なんて本当は臭いなんてないんじゃないかって思ってたから」
「種類に依る、って前に言ったわ。変な、カズミ」
「じゃあ、香りが好きだからあんなに咲かせてるの?」
そこまで尋ねると、彼女は口を閉ざした。
決まってこうだ。
何故花を咲かせているのかを聞こうとすると、それまでにいくら饒舌にさせたところで、それは水の泡になる。
元から口を利きたがらない彼女が何故こうなるのかが、分からない。
知りたいけどきっと無理だろう。
ため息が出たけど、不思議と嫌じゃない。むしろ僕の頬は緩んでいて、彼女は彼女なりにきょとんとしていた。
彼女の歳のほどは18歳くらいだから、その顔はすごく幼く見える。
今の僕と、変わらない。
いや、僕が歳を食ったのだ。
出会ったばかりの頃はまだ、彼女も人間味があった。
――これ君のでしょう?
友達とケンカして、給食袋をこの部屋のベランダに投げ込まれたあの日。
当時既に「出る」と噂になっていたここには、ほとんど人が住んでおらず、玄関の扉は鍵も何もかもがダメになっていて取り外され、入口の壁に立て掛けられていた。
立ち入り禁止のテープも張られていたから、怖いったらありゃしなくて。
だけどそのテープを潜った先。この居間にいた彼女に、目を奪われた。
居間の隅の壁に背中を預けて体育座りをし、何処か淋しげな声で「君のでしょ」とそうつぶやいて、そっとベランダを指差した彼女は、とても儚く、そして綺麗に僕の目には映った。
彼女を見た瞬間、恐さなんて吹き飛んでしまったんだ。
「君の事、調べたんだ」
持ち込んだ蜜柑の皮を剥いて、口にほうばって彼女を見る。
彼女は僕に背を向け、ベランダの方を向いて窓辺に立っていた。
「死んだのって僕が生まれる前だったんだね。時期は、その花が咲く時期」
「……」
「誰を待ってるの?」
「……。だれもいない」
彼女は振り向いた。
ああ、振り向いた。
涙を流して。
能面のように変わらない無表情に雫を伝わせて。
「待つ人も待ってる人も、いないの。ただ……この花が枯れないと。枯らさないと。怖いの。私、怖いの」
あのひとがまたくるようなきがして。
最後に吐き出された言葉が、耳に残る。
今日はこれでおしまい。
空が白み始めたら、彼女は消える。
僕は蜜柑の皮をコンビニの袋に放り込んで、その場から立ち去った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます