第37話

アジスキノタカヒコの肩に大粒の雨が降り注ぐ。

顔が、池のこちらを見る。池には何もないのに。

池の方に歩いてくる、何かにすがりたくて。池の中をオタマジャクシが泳ぐ。


聞こえる、サルタヒコの吠える声が。

ゆっくり、ぜんまいじかけのように、片足をまえに出し、次にもう片足をまえに出して、俺は動き出す。


川にアジスキノタカヒコの革草履が浸かる。

雨に濡れ、歩きながら、やつは口を開く。

「かわ、」

川の中、俺は歩く。

「き、」

やつの声がおれのなかに入る。

「くさ、」

おれはおれのなかをまさぐる。

大きくことばを放つ。

「やま、」

おれは走りだす。川を抜け、社殿への階段を駆け上る。

雷鳴が上からふってくる。

雨の矢が顔に容赦なく刺さってくる。

やみくもに走る。

走ってあの剣を取り返す!


タケミカズチが下を振り向き、駆け上がる俺の姿を見る。革の鞘から、金箔のつばが解かれた。十拳剣(とつかのつるぎ)の刀身が見える。出雲の神羅万象をそこに映し出す。一振りの切っ先、それはアジスキノタカヒコのものだ。


1500年もの呪い、その呪いをいまここできっちり復讐する。そうすることで、逆上の囚われから脱出するのだ。


「わっはっはっはー」

タケミカズチが笑って剣をばつじるしに振りかざす。笑う顔が、目前にまでくる。左右の瞳が互い違いに光る。おまえのやにさがった面(つら)も、これまでだ!


あとすこし、あとすこし・・

あとすこしで決着をつける、今日、この時こそ・・・


タケミカズチの姿が雨にけぶる。

雨の中

タケミカズチの姿が遠くなっていく・・・。




おれは野面(のずら)石の不揃いな石段を駆け上っている。雨が顔をたたく。洪水のようにあふれて足元を流れ落ちていく。どこまでも続く長い石段だ。滑って足が思うようにすすんでいかない。視線の遠い先の、タケミカズチが見えなくなった。


樹齢何百年もの巨木が、軒を並べるように生えている。降り注ぐ雨が、あちらこちらの下枝の葉っぱから数珠なりの束になってこぼれ落ちる。おれは走るのをやめる。薄暗い山の奥を分け入るようにして石段は上っている。いつか、どこかの見覚えのある石段。いささか変色した朱塗りの大きな仁王門をくぐる。見回す。そうか、ここは鳳来寺山の長い参道だ!おれは登山の途上にもどった?そしたら、タケミカズチはどこへ行った?アジスキノタカヒコは?



樹林に囲まれた古池に、おれは佇んでいた。しばらくしてから呼んでみた。

「おおい!」

声は雨の音に遮られ、池のまん中あたりで途絶えた。


池のまん中あたり、頭上の伸びた木の枝の先に、泡のような白いかたまりが見える。絡みついてるモリアオガエルの卵のかたまり。降り注ぐ雨の勢いに身を任せ、少しずつ剥ぎとられていく。

見える、夥しいオタマジャクシの頭が。何十匹も、何百匹も、くねくねと泡の中でうごめいている。池を目指し、頭を逆さまにする。悠久の中の営みが繰り返される。アジスキノタカヒコの悔し涙も、そこに混じっているのだろうか。雨はひたすら生まれたばかりのオタマジャクシたちを連れて、池の中へと落ちていく。水面を強い雨脚がはね上げる。


思い出したように、アウターのフードを頭にかぶせる。雨が激しくたたいてくる。おれの両肩に重くのしかかってくる。死んでも這い上がろうとする蘇生の世界・・・

なぜこのような重苦しい結末になってしまったのか。いったいアメノウズメさんは、キャバクラであの男に何を話したんだろう。もちろん、ものごとがすべてハッピーエンドで終わるなんて、不可能なことくらいは知ってるつもりだ。それにしてもつらすぎるな。


古池に雨は降る。厳しい目でサルタヒコがこの情景を見ている。雨の向こうで、サルタヒコがおれに向かってまだ何か吠えているように思える。

顔を仰ぐ。雨が顔面に当たる。またおれはここに来ることがあるだろうかと思った。しかしもうこれっきり、アメノウズメさんは現れないような気がした。


ズボンのポケットの中で、携帯の振動が着信を伝えてきた。耳にあてると、職場の上司からだった。ある事態が発生したため、明日はいつもより早く出勤するようにとの用件であった。



                           


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逆上 ダリダ石川 @soramamekun

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