第36話
暗雲のまん中、そそり立つ宇豆柱の空の彼方で佇む社殿、その檜皮葺き屋根に何やら動くものが降り立った。毛むくじゃらの大柄な生き物のようだ。しかし軽業師の如く、素早く社殿に飛び降りると、扉を開けて中に潜り込んだよう。驚く間もなく、すぐ出てくるや、屋根に飛び上がろうと助走しかける。どうやら手には剣(つるぎ)を鞘(さや)ごと、掴んでいるようだった。
「待て!」
アジスキノタカヒコが吠える。天井彼方の社殿にまでその声は響き渡る。
大柄なそれが振り返る。はるか下の男に向かって答える。
「なんじゃ?」
「おぬし、タケミカズチか!」
黒雲がいくつもの渦を巻いて凝縮する。社殿を押しつぶすような強烈な密度で取り囲む。階段のてっぺんと下との、隔絶した両者の間。しばらくの沈黙が走る。
「おお、そうじゃわい」
ついに現れたタケミカズチ、その大柄な髪が逆立つ。
「やっと会えたな、タケミカズチ!」
「アジスキノタカヒコとは、おまえのことか」
「そうだ!」
「出雲から大和葛城に出るやつだな」
「おう、そのとおりだ。中臣のタケミカズチよ、我(われ)アジスキノタカヒコと、勝負せよ!」
「はあ?それは面白いことを言ったものだ」
タケミカズチが10段飛びにジャンプして、一気に階段の真ん中にある踊り場まで飛びおりてきた。
・・・俺は祈る。アジスキノタカヒコよ、よけいなことは言うな。この絶対的不利な状況を、冷静にみろよ。
大きな体躯に巻きつけた白装束を茜色の紐で束ね、肘、膝まで捲し上げている。この距離だとまだ顔のつくりまではよくわからないが、どうも人間離れした、獰猛な野獣のような形相にも見える。ついさっきまで木箱に入っていたはずの鹿革の鞘をやつは片手でわしづかみし、高らかに持ち上げて見せる。フツノミタマノツルギだ。あたかも勝ち誇った征服者のように、居丈高に見せつける。
「若造(わかぞう)め、いい度胸してるじゃないか。丸腰でおれさまとやるとは!」
そう言い放つと今度は朱塗りの欄干に軽々と飛び乗り、すぐさま滑り降りてくる。階段下で対峙するアジスキノタカヒコとの距離は10メートルほどにまで一気に縮まり、思わず、後ずさりする。
「丸腰はおまえの方だ。その剣はもともとおれのもの。返せ!」
「こりゃあ、まいったわい、わっ、はっはっあ!」
耳のところにまで裂けた口が高笑いする。勇猛な雷の神とはいえ、俵屋宗達の屏風絵とはかけ離れた、なんとも不気味な顔立ちだ。猪八戒のような大きな耳は先端が三角に尖っている。しゃくれた大きな顎は前のめりに張りだし、突出した両目はゴルフボールのようにでこぼこしている。目玉の色が左右、それぞれ違っている。金目と銀目、タケミカズチの目はオッドアイだったのか。
「さあ、その剣を我に返せ」
・・・アジスキノタカヒコよ、そんな子供じみたことを言うのはよせ。誰が好きこのんで不利な状況をわざわざ選ぶか。
「あほかいな。丸腰のおまえが、俺の剣とここで決闘するのだ」
「そんな卑怯な」
「卑怯だと?なんとでも言うがいい。この日の本の、ただひとつの霊剣フツノミタマだ。さきに獲った者が持ち主じゃ」
「それは許さん。おまえは盗人(ぬすっと)だ」
「ははははっ。青いやつめ」
毛むくじゃらの脛が一歩、階段を下りる。と同時にアジスキノタカヒコは一歩、後ずさりする。
「1500年も幽閉されて、おまえもとうとう、頭が幼稚になったようだな」
「かつらぎぞくのえいちは、そんなちっぽけなものではない」
「えいち?えいちがなんじゃ?」
「大地と、ともに生きるのが我ら、かつらぎぞくのえいちじゃ」
「ははは、きれいごとだ。えいちが笑っておるわ」
「・・・・」
雨がアジスキノタカヒコに降りかかる。1500年もの雨が降りかかる。
「タケミカズチ、おまえには天罰が待ってる」
「天罰・・・。よくもそこまで言ってくれたな」
タケミカズチが鹿の革でつくられた鞘の、十拳剣の長い柄に、片方の手をかける。
「さあ、おまえの方からふっかけてきた決闘だ。ふっかけた以上は大人らしく、ちゃんと首っ玉をここに出せや」
こう言われたところで、アジスキノタカヒコはやつから目をそらす。背を向け、かっと見開いた目が地面を見る。苦渋にしわ寄せ、握った拳が震えている。こらえてた顔が、我慢しきれず崩れる。くちゃくちゃになった顔が子どもになる。悔し涙が堰を切って流れる。
「おやまあ、泣きべそとはお笑い種だあ。」
「・・・」
「ついでに、声も出なくなっちまったようだな。アジスキノタカヒコなのかホムチワケなのか知らんが、神話に書いてある通り、声の出ない元の子供にもどりゃあがったわい」
「・・・」
「生かすもよし、殺すもよしとはこのことじゃ。せいぜい大和葛城で鋤(すき)を握って荒れ地を開墾しておいてくれや。あとでわしらがごっそり根こそぎ、いただきにいくからのう。じゃあな」
男が階段を上っていく。勝どきの笑い声をとどろかせながら、のっしのっしと、がに股のすねを露わにして、社殿の方へと上っていく・・・
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