第35話
相手はどこかよそよそしい。わからなくもない、「稲佐の浜では、ちゃんとタケミカズチと決闘してきたのかい?」と喧嘩でも吹っ掛けるように俺に言い寄ってきたからな。キャバクラ店での言葉の応酬。それも2度もやられたし。俺は咄嗟に言い放つ。
「タケミカズチなんてものは、この出雲に出て来ませんよ。古事記をちゃんと読んでみてくださいな」
「はあ?」
男の足が止まって俺を見返す。
「古事記の出雲神話に、あなたが言ってたタケミカズチは現れてないんです。だから残念ながら、私はタケミカズチと決闘ができませんでしたよ」
「なんだと!・・・なるほど、そう言うことだったか、だからアメノウズメはそれが言いたかったのか」
「えっ?アメノウズメさんと会ったのですか?」
「おお、昨日、名古屋のキャバクラでな。でもあの女、実家に帰るんで、昨日を最後にお店は辞めると言ってたな」
「そうでしたか。で、アジスキノタカヒコのことについては、なにか言われてましたか?」
「はあ?アジスキノタカヒコのやつか・・。やつはタケミカズチに殺されて終わりよ」
「そ、そんな・・」
「お気の毒だったな。そしたらおれは急ぐから」
そう言い捨てて出口を出ていった。急いでタクシーを拾うと見えなくなった。
嫌な予感がした。俺はすかさずスマホを取り出す。スイッチを押す。画面が出てこない。ああ、やっぱりバッテリー切れか。茫然と立ち尽くすしかない。と、画面がうっすらと現れた。すかさず「古事記国譲り神話」と入れて検索をタッチする。出た!
・・・最後の使者、建御雷神(たけみかづちのかみ)に対し、大国主命の子、事代主神(ことしろぬしのかみ)は委譲すべきと答え、建御名方神(たけみなかたのかみ)は力くらべを挑むが敗れて諏訪(すわ)湖に逃げ降伏し、かくして国譲りが決定する・・・
(国譲り神話コトバンクより抜粋)
なんと、古事記がもとの内容にもどっているではないか。そして、やはりアジスキノタカヒコの名前はここにでていない。いったいどういうことなんだ。俺は搭乗口カウンターまで走って、名古屋行きチケットをキャンセルした。すかさずレンタカーに電話をして、今度はニッサンノートというコンパクトカーを借り、出雲空港を出た。
出雲大社にとんぼ返りした。アジスキノタカヒコよ、いまおまえはどこにいるのか。またしても暗闇の時空のねじれの狭間に迷い込んでしまって、出られなくなっているのではないか。何か、とっかりになるものはないのか。徹底したリスクマネージメントに立ち向かうには、俺の脇はまだ甘かった。不比等ら古事記編纂者たちの、巧みな神話のからくりが見抜けてなかった。
俺は見回す。相変わらず神門通りは、人がたくさん歩いて賑やかだ。一本の長い参道の向こうから黒い雲が立ちのぼっていた。急におかしな天気になったものだ。八雲山は雨が降ってるのだろうか。
参道の入口に立つ「出雲大社」の石碑。一文字一文字がずっしりと重くて、大地の根深くまで掘られている。見るたびに悠久なる安堵を感じる。この鳥居から始まる異界への誘い、しかし俺は感じるのだ。アジスキノタカヒコはこの出雲の大社のどこかにまだいる。鉄の鋤(すき)千丁を持って大和葛城へ旅立つことに対して、まだ二の足を踏んでいる。やつの気持ちは、もっぱら、あの木箱の中だ。アメノウズメさんの言われた封印を、今すぐにでも反故にしてしまいたい。木箱からあの玉鋼の剣をその手に掴み取りたい。そして天井の不気味な黒い雲に向かって吠える。タケミカズチよ、出てこい!1500年もの怨念、簡単に消去できるものじゃあない。正々堂々、ここ稲佐の浜で決闘し、古事記の国譲り神話の、仕切り直しをしようじゃないか。
しかし、アジスキノタカヒコよ、その玉鋼の剣であるフツノミタマはこの世にひとつしか存在してないよな。古事記の神話はそこを巧妙に仕組んでいたんだよ。稲佐の浜で、ふたりの決闘はできない。傲慢不遜な不条理のなかにも、道理はちゃんと横たわっていたんだよ。
俺は鳥居をくぐる。大粒の雨の跡が、その黒ずんだ柱にひとつ走った。これは大雨になりそうな気配だ。鳥居をくぐるやいなや、下り坂の参道に変わる。重心と体の位置がずれる。まさに異界への入口、ここのあたりだったな、長い階段が96メートルの天井に上っていったのは。すぐ右手の松の木立に祓社(はらえのやしろ)が見え、勇み足をとめる。小さな社なのに十人ほどが列を作っている。「急がば回れ」か。1500年以上もまえに行くのだ。ちゃんと心身の穢れを清めておかないと行かしてもらえないのかも。
俺は最後尾について並ぶ。しかしなかなかすすんでいかない。なるほどみんな、小声でぶつぶつとつぶやいている。いちいち2礼4拍手したあと「はらいたまえ、きよいたまえ」を3回も繰り返しとなえてるからだ。出雲大社の参拝者は昔も今も、ずいぶんと律儀だ。昼なのに空は暗くなっていく。先ほどの空港のロビーで「やつはタケミカズチに殺されて終わりよ」と言った教授然の男の言葉が頭によぎる。アジスキノタカヒコよ、剣はひとつしかない、決闘はできない。
祓社(はらえのやしろ)をあとにした参道の、すぐ先の小さな祓橋(はらえのはし)を渡る手前に摂末社が見えた。大和の垂仁帝のもとに出向いた野見宿祢(のみのすくね)の神社だ。日本で最初の相撲の勇士であり、また古墳での殉死をやめさせて代わりに埴輪を提案した人物、この人とアジスキノタカヒコはこれからいっしょに大和葛城でともに仕事をするはず。俺は野見宿祢の前で合掌した。
「アジスキノタカヒコよ、どこにいる!アジスキノタカヒコよ、いまおまえはどこにいるんだ!」
参拝客が祓橋(はらえのはし)を渡って、次の鳥居をくぐり、松の参道へと足を運んでいる。まだこれから拝殿、そして本殿までは200メートルくらいはあるだろう。祓橋を渡ろうとしたところで、からだの内側を小さな破裂音がひとつ、ふたつと起こる。
「なんだ?」
その小さな川が俺を呼ぶ。
「かわ、」
「き、」
「くさ、」
「やま、」
言葉の垣根が取り払われた、三澤の郷。浅かった川の底。裸足の裏。石の感触。冷たい水・・・。それは逆上の思いなのか。声が言葉を形づくっていく。しかし、その言葉は、いかにもゴツゴツして、武骨だ。状況にあわせた柔軟さが微塵もない。アジスキノタカヒコ、だから筋違いの顛末になったのだ。そして餌食のカモにもなるのだろうか。
川は祓社のすぐ裏で小さな池となって溜まっていた。ところどころにハスの葉が浮かび、紫陽花の木が池の淵でいくつも佇んでいる。紫陽花の花はすでにピークを過ぎてしまって、萎れて痛んだ花弁が葉っぱに汚く張り付いている。萎れた残骸は醜い様相を後に残しているだけ。濃緑の葉っぱのぎざぎざから滴る水滴。ひとつだけ、しかし、ぴんと上を向いている紫陽花が見えた。小さな遅咲きの紫陽花か。か細い枝が1本、根方から這うように顔を持ち上げている。池の中に黒い雲が深く垂れこんだ。すると小さな紫陽花の花弁が、これまでにも増していっそう、1枚1枚、鮮やかに浮き立った。ディープパープルとライトブルーの狭間でグラデーションが交わる。花弁の色は明らかに美しく、神秘なまなざしに変わっていく。
「ねえ、なにかきこえてこない?」
アメノウズメさんが呼ぶ。俺はしゃがんで聞き耳をたてる。
地中からはみ出た陶器の土管にでも響くような、こもった音。赤ちゃんモリアオガエルの低い声だ。たったいま、かえったばかりのその声が、ひとつそこに置く。またひとつ声がそこに置いていく。なりは小さいが、武骨で頑丈な声。ぽとん、ぽとん、大地に落とされていく。蘇生のつぶやきのような。雨にけぶる異界のなか。小さな営み。
人の姿はない。雨がぽつぽつと降りだした。俺は屋根のある東屋のベンチにすわった。池の向こう側の湖面はカキツバタのような細長い葉が群生している。
木々の葉っぱ、池の向こうでサルタヒコが見えてる。俺は立ち上がって池の淵に立つ。
子供たちのはしゃぐ声が聞こえる。
・・・・・
「ねえ、あんまり水をとばしちゃあいかんよ、ねえ」
そして、
けぶる湯気の向こうでサルタヒコが吠え続ける。
わたしは「声」だけでなく、「言葉」が欲しいです。
わたしは「言葉」でありたいです。
わたしは、わたしでありたいです!
祓橋(はらいのはし)のうえ、古代神代(かみよ)につくられた200メートルもの長い階段がちょうどそれをまたいだところで、地上と交わっていた。玉鋼剣、つまり霊剣フツノミタマノツルギ奏上の式を終えた重鎮らが降りてくる。聖域での行事だったからか、皆、剣は携えてない。いわゆる丸腰だ。石見物部神社の頭が地上に下り立ち、すぐ後ろをアジスキノタカヒコらが続く。思った通り、やつの顔は奏上の時と変わらず険しいままだったが、霊剣フツノミタマノツルギを奪い取るような蛮行は起こしてなかったようだった。葛城族と物部族の重鎮たちがあとに続き、一番後ろにいたはずの俺の姿はない。今、こちら側でこうして突っ立ているから。どうやら間に合ったようだ・・・・
足元の玉砂利にぽつん、ぽつんと、大粒の雨が跡をつけだした。階段をおりきったところで、重鎮たちが小走りに走り去っていく。仮設の社務所まで、500メートルほども遠い。ひとり、アジスキノタカヒコだけが残っている。杵築(出雲)の社は高い空の上。霊剣フツノミタマの十拳剣も高い空の上。八雲山は真っ黒な雲がとぐろを巻いて見えない。暗雲にすっぽり包み込まれた社殿。96メートルもの高さに継ぎ足しされた夥しい宇豆柱(うずばしら)を、突然の雷鳴が揺るがす。稲光が200メートルもの欄干を斜光する。天井から暗雲の呼吸が波動となって草木が揺れた。
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