朝と夜行性動物園



   ✴︎



 ゆぅこちゃんは部屋の隅の簡易ベッドですぅすぅと眠り始め、私は改めて天井を見上げた。一面画鋲で刺された画。それが、肌色であるかのように見えて、はっとした。ゆぅこちゃんが目を覚まさないように、そうっと背伸びをして見上げる。


 女の子の顔だ。


 拙い筆致の、女の子の肩から上の水彩画だった。実際に六歳だかそれくらいの子が描いたものだ、と分かった。そして、画鋲で埋められるのをまだ免れている部分に、「かなむらゆうこ」と描いてあった。どきっとした。ゆぅこちゃんの自画像じゃないか。


 自分が子どものときに描いた自分の顔を、画鋲の針で念入りに刺しているゆぅこちゃん。


 ねえ、ゆぅこちゃんも何処かに行ってしまいたいの?


 ねえ、ゆぅこちゃんも何か消したいことがあるの?


 私は声を出せずに、右目や鼻の穴なんかはもう針で刺しまくられて、そう、乱反射のプラスティック鋲の光しか見えない、天井に貼られた画用紙を見上げていた。


 ねえ、ゆぅこちゃん、この自画像、六歳のとき、嫌いなの?


 だから、刺しているの?


 それから、いよいよ夜明けが本格的になってきたので、私は昂った気分を沈めようとそうっとゆぅこちゃんのゴブレットに残されていたサングリアをのんで、ソファに横になった。


 私は、六歳だか七歳だかのときの私のことを、あまり好きじゃない。



  *



「私たち、夜行性動物だね」


 寝付きが悪く寝返りを打っていたら、眠っている筈のゆぅこちゃんが突然喋ったのでびっくりした。


「起きてたの?」


「なんか寝られないみたい」


「トーストとか焼く?」


「いいよ夜行性なんだから」


 私は立ち上がってカーテンをぴっちりと閉めた。朝が入ってこないように。


「夜行性動物園に入れられちゃうね」


「夜行性動物園?」


「夜にばっかり動くの、そこの動物」


「そんなのあるの?」


「なーいよっ」


「なんだ……」


 ゆぅこちゃんは適当な嘘をぺらぺらと話すのが好きなのだ。


 私はソファとタオルケットのあいだに戻り、ゆぅこちゃんは横になっていて、でもまだ眠れないようだった。ゆぅこちゃんも小さい頃に描いたのであろう自分の顔の絵を、鋲で埋めるようにびっしりと刺している天井の画を見上げているのが分かった。


「おかあさんね、」


 ゆぅこちゃんが云った。


「おかあさんね、嫌いじゃないよ。たぶんいいひとなんだと思う」


「うん、」


「おとうさんもね、たぶん悪くない。いいひとだと思う。弟はいい子よ、とても」


「うん、」


「問題は私なんだよね、いつも、往々にして」


「……うん……」


 うん、しか云えずに相槌を打った。


 私もなんというか、そうなんだよ、と思いながら。


「何処かに行きたいなあ」


 ゆぅこちゃんがそれまでのちょっと硬い口調を緩めて、云った。


「何処?」


「夜行性動物園行きたいなあ」


「それは存在しないんでしょ」


「うん、存在しない。残念だよね」


「うん……残念だね」


「理子ちゃん、おやすみなさい、よ。朝がやって来て私たち、砂になってしまうわよ」


「うん、……そうだね」


 私はゆぅこちゃんの吸血鬼ジョークに少し口元を緩めながら、ソファのクッションにあたまを乗せ直した。








 ゆぅこちゃんはその後院生を辞めてバーで働き始め、私は学校に戻った。国際特進Sコースは相変わらず嫌いだったのでのらりくらりと躱して過ごしたけれど、出席日数と単位以外のものは何も欲しくないと開き直れば、それはそれなりに楽なものだった。

教室の机に向かって授業を聞き流していると時々、窓の外の青空から射す光で、ああ私砂になっちゃう、と思った。勿論ならなかったけれど気持ちはちゃんとざらざらに、そしてさらさらになって私はこぼれた。勿論からだは座席に着いていても。


 夜行性動物園のことを時々考えた。


 私はいつか、こういう自分を全部、画鋲の針で刺し尽してしまうのだろうか、ということは少しだけ時々考えた。


 高校を出たら海外へゆこうと思っていたので、ポッドキャストは欠かさず聴いた。中国語も聴き始めた。誰かスイス人のひとにあったとき、中国語と英語とスペイン語が出来たら、大体の国で話せるよ、と云っていたから。





  行きたいとこに行けば たとえば心の 海峡や砂漠などを超えて

  モンゴルの風を追い風にして アンカレッジ目指し





      †




  パナマの運河を 跳び越していたなら 最後の陸地


 私を知っているひとが殆ど居ない場所に行きたい。

 あの頃、ずっとそう願っていた、と、今でも時々思い返す。

 私をあんまり知らないひとたちで溢れている、カフェでカプチーノをのみ、手帖に書き込みをしながら、束の間ぼんやりする。

 ゆぅこちゃんは元気だろうか。

 今では連絡先も分からない。

 シナモンパウダの浮いたカプチーノのふあふあの泡に、記憶はずっと溺れてゆく。


 iPod touchからSalyuが歌う。



  あなたの声が 聞こえたら 振り向いて

  だけどそこには あなたはいないから

  前を向いても あなたはいないから



    ✴︎





  (了)



 (Salyu「行きたいところ」より歌詞を引用した部分があります)



        

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「行きたいところ」 泉由良 @yuraly

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