「行きたいところ」

泉由良

夜とジャックダニエル


  行きたいとこに行けば

  たとえば心の 海峡や砂漠などを超えて

  モンゴルの風を追い風にして アンカレッジ目指し




   ☆



 その頃ゆぅこちゃんは芸大を休学していて、私は高校に行かずにゆぅこちゃんの家に寝泊まりしていた。そう大々的な不登校かつ家出だというわけではなかったが、ちょっとした気分でゆぅこちゃんの家に立ち寄った、というにはかなり深々とゆぅこちゃんのアパートに住み込んでいた。両親は(おそらくやきもきしたあと)ゆぅこちゃんに、


「すみません、理子をよろしく頼みます」


 と、手紙を寄越した。私は今までこんな風な悩みを彼らに掛けたことはなかったし、だからこそ両親も何か感じるところがあったのかも知れない。県立高校の国際特進Sコースは、私は全く行きたいと思う意志を持って入れられた場所ではなかったことくらいは、幾ら彼らが愚鈍と云えども、それくらいは、分かっていたかも知れない。


 兎に角、私はゆぅこちゃんの部屋のソファに埋もれるようにして暮らしていた。ゆぅこちゃんが、両親が(理子をよろしく頼みます)と云えるに値する信用ある立派なおとなであったかというとそれはなかなかに疑わしく、第一ゆぅこちゃんは美術造形の大学院に入ってから暫くして、休学してしまったような人物だった。でも、私たちは仲良しだったと思う。


 ゆぅこちゃんは問屋さんから画鋲を大量に買っていた。押しピンというやつだ。小学校でお習字や風景のスケッチを廊下に展示するための、あの鋲だ。ゆぅこちゃんが仕入れてきた画鋲は、透明のプラスティックと針だけのごく一般的なもので、しかしそれを箱にいっぱい買ってくることはなんだか珍しい。私の視線に気付いたゆぅこちゃんは応えた。


「文房具屋だと、追いつかないから」


「何に追いつかないの?」


「いっぱい要るのよ」


「ふうーん」


「ウィルキンソンのむ? ジンジャエール」


「……ジャックダニエルが良い」


「理子ちゃんそれ好きだね。水割りでしょ。氷、あるから」


 ゆぅこちゃんはのみものを色々と部屋に揃えている。アパートは無駄に広かった。生成り色の広い箱のようだった。ゆぅこちゃんの制作があるから、少し美術室に似た匂いがする。交通機関が発達していない場所だから安いのだろう。


「ゆぅこちゃんはのむ?」

「私サンペレグリノ。まだ作業中だし」

「取ってくるね。お腹空いた?」

「んー空いたかな。理子ちゃん何か作ってくれるの? そう云えば夕食食べてないね」

「茄子とトマトがあるし、あと玉葱も。パスタあるし、昨日オリーヴオイル買ったし」

「おぅぅ嬉しいな。じゃあよろしくだね」


 私は軽食を作るのが好きだ。好きな友だちのためにちょっとしたものを作るのが好きだ。


 ジャックダニエルの水割りをのみiPod touchでポッドキャストを聴きながら、野菜を刻んだ。ポッドキャストにBBCの六分間英語講座を登録していて、私は欠かさず聴くことにしていた。正直に云うと、TOEFUL講座も数種類聴くことにしている。私は英語は覚えたい。


 やがてオリーヴオイルと玉葱の良い匂いがしてきて、茄子とトマトとパプリカはつやつやと美味しそうに仕上がった。白いカフェオレボウルに入れて、プラスティックの赤や緑のピックを立てて運んでゆく。ゆぅこちゃんちの居候はとても気が楽だ。


「でーきーたーよー」

「ありがとーう。ん、ちょっと置いておいて。冷めても美味しいでしょ」

「冷めても美味しいよ。勿論」


 ゆぅこちゃんは椅子の上に乗って、天井に何かの紙を貼っていた。それは画鋲で刺していたのだ。画鋲は普通、四隅に刺したら画用紙や模造紙なんかは留まるものだが、ゆぅこちゃんはその紙の上一面、ぎっしりとくまなく鋲を刺していた。


 私は黙ってそれを見ながら、野菜を摘み、ポッドキャストを聴き続けていた。何しろ毎日配信されてくるものだから、溜めては大変なのだ。時々は動画を見たり、指定されたウェブサイトに飛んだりして、理解を深めなければいけない。


 天井に刺されてゆくその紙が三分の二ほど埋まった頃、ゆぅこちゃんは首を回しながら椅子から降りてきた。


「ずっと上向いてたわー」

「新しい制作してるの、」

「まあね、うー、美味しそう。頂きまあす」


 ゆぅこちゃんはとても旨いなあといった風に食べるから、私も嬉しい。


「理子ちゃんはいつも美味しいものを作るねえ」

「作りたいときだけだよ」


 ゆぅこちゃんはちょっとだけ私の肩を寄せて、ハグの二分の一みたいな仕草をする。


 それから、炭酸水をのみながら話した。


「ウィルキンソンとかサンペレグリノや、まあ勿論ペリエは良いんだけど、」

「うん」

「ゲロルシュタイナーはちょっとだけ引いてしまう」

「最初の二文字らへんに?」

「そうそうそうそう」


 ゆぅこちゃんがわらい、私もわらった。


「でもそこがいいんだよね!」


 そう結論は出されて、私は頷く。


「コーントレックス箱買いーコーントレックスはこがいー」


 ゆぅこちゃんはご機嫌そうだ。


「天井、何貼っているの?」

「絵だよ、絵。画用紙に描いたやつ。水彩」

「ふーん。ピンが透明だから、綺麗に見えるね。乱反射?」

「そうだね、キラキラする」

「ああいうの見てると」


 私は常日頃考えていることをぽろりと呟いた。


「ああいうのがチラチラ光ってると、ダイヤモンドとか欲しがるひとの気が知れないなあって思う」

「ああ、そうだね、こっちの方が良いよね」

「高級なガラス細工も要らない。プラスティックだってガラスだって、透明で光っててみんな綺麗じゃん。みんなあんまり思わないのかな?」

「そうだねえ、ダイヤモンド、要らないなあ」

「ゆぅこちゃん、何か宝石とか持ってる?」

「いやー……あ、ガーネットの付いたネックレス持ってる。小さい石だけどさ、誕生石だからっておじいちゃんが昔買ってくれたんだよ」

「そっかぁ。理由が良いね」

「理由無きダイヤは価値が無い?」


 ゆぅこちゃんが可笑しそうに私の顔を覗く。


「理由無きダイヤは価値が無い」


 私はふむ、と頷くように繰り返した。


「ゆぅこちゃん一月生まれ?」

「理子ちゃんは?」

「十二月。トルコ石だよ」


 今日はもういいや、とゆぅこちゃんは云って、サングリアを持ってきた。もういい、とは云っても、ゴブレットに注いだサングリアを片手に、ゆぅこちゃんはクロッキー帖にぐるぐると線を引いている。真面目なのだ、と思う。こんなに真面目だったら、学校を休学するのも仕方の無い話だ。


 私はちょっとだけ、自分の気分に重ねてそう考えた。


 私はずっとポッドキャストを聴いている。


 お酒が少しずつ減ってゆく。


 やがて窓の外にしらじらと夜明けの兆候が現れ、ゆぅこちゃんが、


「私もう寝るね」


 と、云った。


「理子ちゃん寝るとき、冷房よろしく」

「うん」


 私はまだちょっとは眠らないな、と思ったので頷いた。ポッドキャストは終了にして、雑誌を捲っていた。



   ☆


ベーリングの海が 悲しみの海なら かき回して



   

    

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