作者からの注釈



 穂羽袮人と穂羽賢義の間で起きた家督争い(穂羽騒動とも呼ばれる)は、偶発的に発生したと考えるのが自然である。

 まず抗争の直接的な発端は袮人に対する暗殺未遂事件である。賢義はこの件に関して、穂羽静音の親族で三護との国境の警備にあたっていた勝中蔵矩(かつなかくらのり)に手紙で「宮上の暴走であり自分の本意ではない」と釈明を行っている(「大月家所蔵文書」『戦国遺文志陽穂羽氏編』五一号)。しかし暴走という割にはその後も宮上を起用し続けているし、最後は袮人に対する追討令も出している。最終的には宮上の行動を追認したと考えられるが、しかしそれにしても最初の暗殺未遂の段階で賢義が関与していたとすれば、暗殺に失敗してあっさりと取り逃がしたというのはいかにも準備不足だ。それに袮人を暗殺するとなればまず兎流衆を警戒すべきだろうが、事件発生までの賢義には軍を動かした形跡がまるでない。

 おそらく、実際には宮上の暴走であったのだが、大室長慶が死んで抑えが利かなくなっていた当時の情勢でそれを認めてしまえば賢義の権威が失墜する恐れがあった。それゆえに「あくまで賢義の指示で袮人を拘束しようとしたのだが失敗した」というストーリーを公式見解として出した、というあたりではないだろうか。

 袮人が兎流に匿われてからはしばらく睨み合いが続くが、初期の段階では事態の収束を意図した行動が双方ともに見られていた。しかしこの袮人と賢義の一時的な対立に、以前から穂羽家中でくすぶっていた旧家臣団と賢義側近衆との対立や、国衆たちの利害関係がリンクしてしまい、最終的には家中を二分する抗争に発展してしまって当事者の二人にも収集がつけられなくなってしまった。

 袮人との対決が避けられない状況となってからは、賢義は梶邦一鉄斎を通して天作への接近を強めてゆく。しかし賢義からの援軍要請に対して、梶邦からは次の交換条件が出された。第一条は天作との国境付近の領土の割譲(これには兎流の山も含まれる)、第二条は穂羽家は今後天作の援軍要請に必ず応じて軍を派遣しなければならない、第三条は穂羽を監視し指南するための武官を九弦城へ駐留させること(『天台寺日記』『天作家臣団』他)。賢義と梶邦の話し合いで、第一条と第二条については概ね合意がなされていたが、第三条については賢義ははっきりと拒否した。家の運営に他家の人間をそのまま指南役として入れるなど、従属どころか家の解体と言ってもよい処置であり、家臣団の手前もありこの屈辱的な条件だけは受け入れるわけにはいかなかったのである。

 結局、第三条の折り合いがつかず交渉がまとまらないうちに袮人が軍事行動を起こして賢義が倒れてしまった。実は梶邦が出した三か条のうち、最後の武官の駐留については、天作本家の承認を得ずに梶邦が勝手に付け加えたものであるらしい。というのも、穂羽騒動の後にその点が天作家の評定で議題に挙がり、梶邦は叱責を受けた上に減封されている(『戦国史研究』三九二〇号)。

 つまり梶邦が余計な条件を追加しなければ、賢義が条件を飲んで穂羽は天作への従属国となり、穂羽と天作の連合軍の攻撃を受けてはさすがの虎姫と言えどもここで歴史から消えていただろう。

 梶邦一鉄斎は穂羽と天作の命運を分ける様々な状況を作ったキーパーソンであるが、これほどの人物にしては彼に関して残されている史料は驚くほど少ない。史料に彼の名前が初めて出たのは虎姫による反乱(兎流の乱)のときであるが、それ以前の梶邦氏に関することは、つい最近まで何も分かっていなかった。

 作中で描かれた時代から約六十年前、志陽国からずっと北方にある茅水国(かやみのくに)の大名、大栗(おおぐり)氏の家臣に梶邦の名前を見つけられる(『武将学』三〇〇二号)。戦国大名としての大栗氏は袮人が生まれるずっと前に滅亡しているが、このとき大名の大栗元高(もとたか)の弟、大栗元泰(もとやす)が兎流領に落ち延びたという記録が残っている。

 ここからは資料の裏付けのない推測であるが、このとき梶邦氏も元泰に同行し、その子孫が一鉄斎であると考えると面白い。というのも、この時代の虎姫の活躍を振り返れば、奇跡のような彼女の勝利の影に一鉄斎の暗躍があったのではないか――と想像する余地があるからだ。

 前述した賢義との交渉の他にも、虎姫が保険のため秘密裏に天作と交渉を持っていた事実も、一鉄斎が天作側の窓口になっていたのかもしれないし、天作との合戦において虎姫が敵方の動きを読み切ったのは一鉄斎からの情報があったからなのかもしれない。さらにいえば賢義に袮人を排除するように働きかけたのは一鉄斎であり、これによって結果的に袮人が兄を打倒して大名の権力を手に入れ、虎姫の穂羽家中における軍権が復活するのである。記録によれば、賢義と一鉄斎の会談が行われたころから、虎姫は役目もすでに解かれているというのに常に九弦城にあって袮人のそばを離れなかった。それは、賢義が袮人を排除するであろうことを、予め分かっていたからなのではないか。

 兎流が傭兵をしていたころに各地に作ったパイプやノウハウが、戦国期を通して兎流の外交戦術に一役買うことになるのであるが、果たして穂羽だけがその歯牙から逃れ得るものだろうか。

 これは、虎姫の物語である。


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虎姫物語 叶あぞ @anareta

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