ぶどうの花。

Ako

♡・*:.。

 この世の中でどれだけの女が欲に忠実に生きているのだろうか。欲、というのは何も食欲、睡眠欲、性欲の三つだけではない。それらはあくまで三大欲求なのであり、アメリカの心理学者ヘンリー・マレーは、人間の欲求を十三種類の「臓器発生的欲求」と二十七種類の「心理発生的要求」の計四十種類をリスト化した。例えば、身体的な感覚を求める感性欲求や性的欲求、息を吐いたり吸ったりといった呼気欲求を臓器発生的欲求とするならば、モノを手に入れたいという獲得欲求や尊敬されたり認められたがる承認欲求、他人の気を引きたいという顕示欲求は心理発生的欲求となる。臓器発生的欲求の一部を除いて、ヘンリー・マレーがリスト化した大体の欲求は、性行為で満たされるんじゃないな、と思う。だから、食欲が一、睡眠欲が二で、性欲は七くらいかな、なんて。

 悪いことをするのは気持ちがいい。ダメって言われているから煙草も吸いたくなるし、ダメって言われているからお酒も飲みたくなる。よくないって言われるから、淫らな行為をしたくなる。できるだけ縛り付けて、少しの隙間で楽しみたい。

 ところで、お酒とたばこは身体に悪いっていうのはわかる。自分の身を自分で守り切れないから、補導されるのもわかる。まあ、成人だろうがそうじゃなかろうがどっちにしろ嫌な顔をする人もいるが、二十歳を過ぎてしまえば嗜好品として認められる。でも、なんでセックスは嫌な顔されるんだろう。自分の満たしたい欲求、ほとんど満たしてくれるのに、何が悪いんだろう。セフレは不健全だの、下品だの、好き放題言われている。愛がなくたってその一瞬は満たされる。朝から夜まで全く満たされないよりも、せめて夜くらい満たされたって良いじゃない。嫌な顔をされるから、より、その一瞬は満たされる。




 佐川理沙は、自分の手の中にあるスマートフォンを投げ捨てた。もう、九か月も付き合っていた彼氏から唐突の「別れよう」といったメッセージ。何度通話をかけても、メッセージを送っても、既読はつかない。ブロックされたんだ、と気づいて数十分後にはスマートフォンの液晶ガラスが割れていた。

 彼氏の笹倉勝太と知り合ったのは高校一年の夏。同じ部活だったことから、そのまま気が合って、とんとん拍子で秋には付き合いはじめた。秋は失恋、というイメージは誰が作ったんだろう。理沙にとってあんなに幸せな秋風を感じることはなかった。散っている枯葉を眺めるのも、落ち葉を踏んで二人で歩いて帰るのも、幸せそのものだった。それなのに、理由も聞かされずに簡単に別れを告げられたことは、理沙にとって納得できることではなかった。

 そういえば、ちょうど一週間前から勝太が学校に来ていないことを理沙は思い出した。ただの風邪だと思っていたから、そこまで心配していなかったし、また月曜日には来るだろうと思ってそこまで気にしていなかったのがまずかったのだろうか。それとも、最近バイトが忙しくて勝太と一緒にいる時間を作れなかったからだろうか、それとも…。考え出せば考え出すほど、原因は自分にあるのでは、と理沙は頭を抱えた。好き、嫌い、会いたい、そんな感情よりも「自分が何をしでかしてしまったのか」で理沙はいっぱいいっぱいだった。何かしてしまったのなら、謝りたい。せめて、既読をつけれくれればいいのに。割れたスマホを見つめてため息をつき、理沙はそのまま眠りについた。

 

 「えっ、理沙、笹倉と別れたの?」


 浅野琴音は周囲に聞こえないようにそう言い、眉根を寄せた。そして教室にちょうど入ってきた友人、青木京香のカバンを軽く引っ張った。


「おはよう、琴音」


京香は嫌な顔をせずに振り向く。しかし、すぐに理沙の様子がおかしいことに気づき教室のすみのほうへ移動する。

 琴音と京香は高校一年の頃同じクラスで、二年のクラス替えでもまた同じになり、そこに理沙が加わった。琴音と理沙は一年の頃に同じ部活だったこともあり、すぐに三人は仲良くなった。琴音はすぐに部活をやめてしまったが、その後も友人関係は続き、今に至る。


「一方的に別れようって言われたなら、今日ちゃんと話してみたら?」


理沙から一通り説明を受けた京香は冷静に返して荷物を整理する。なんとなく、ぼんやりと理沙の話を聞いてから、勝太のクラスのほうに顔を向けて、言葉を続ける。


「先週丸々休んでたみたいだけど、さすがに今日は来ると思うよ」


「・・・お昼に勝太の教室行ってくる」


京香と琴音は、うんうん、と軽く相槌を打って席に戻っていった。

 理沙にとって、京香と琴音の存在はとても居心地がよかった。二人とも、反応はしてくれるが不要に根掘り葉掘り聞いてこようとはしない。勝太と連絡がつかないのは、不本意だし疑問点はあるので若干不快ではあるが、二人のおかげであまり思い詰めなくてすむ。いい友人を持った、と常々思う。


 しかし、勝太はいなかった。理沙についてきた京香も、勝太のクラスメイトに話を聞いたが有力な情報は何一つ得られなかった。こういうとき、マンガやドラマでは街中での目撃情報なんかが出るものだが、そういった情報も全くなかった。


「おかえり」


教室で二人を待っていた琴音は見ていたスマートフォンから顔を上げた。机の中にしまって、二人の表情をうかがう。すぐに、勝太が来ていなかったことを察したのか、あぁ、と一人で納得してから、理沙の話を聞く。


「やっぱり、来てないって。なんだろう、さすがに風邪じゃないと思うんだよね」


そう理沙はつぶやくと肩を落とした。九か月も彼女として一緒にいた自分にさえ何も教えてくれていないなら、誰かが情報を持っているのはそもそも考えづらかった。しかし理沙にとってショックなのは、情報がないことよりも、自分に相談をしたり何があったかを教えてくれていなかったことだった。自分は、自分が思っているよりもずっと役立たずで、そこまで彼にとって重要な人物でもなかったのかもしれない、いやしかし、と悪い癖がでる。


「先生なら何か知ってるんじゃない?」


琴音が尋ねるが、理沙は目を伏せてため息を1つついた。


「聞いてみたけど、むしろ教えてほしいくらいだって言われちゃった。欠席の連絡は来てるみたいなんだけど」


「うーん・・・不登校みたいなことなのかなあ」


琴音はそう口にするがいまいち納得していないような口ぶりだった。勝太と中学が同じだった琴音からすれば、勝太の様に明るくて勉強も運動もできて、立ち位置も確立していた勝太が不登校になるというのはどうもしっくりこないようなのだろうか。


「理沙、笹倉の家に行ってみたら?」


京香が理沙に促すが、琴音は首を振った。


「どうして?」


即座に理沙は、琴音が首を振った理由を尋ねる。


「笹倉の家、けっこう複雑なの知らないの?」


理沙は勝太の家に行ったことあるかと、続けて琴音は聞く。言われてみれば、勝太の家に行ったことや、家の話を聞いたことがなかったような気がする。


「あんまり、言いふらしていい話じゃないから詳しく言えないけど、家に行くのはやめたほうが良いと思う」


なにがあったかは分からないが、なんとなく不謹慎なような気がして理沙も京香もそれ以上は追及しなかった。各々の家庭の事情には土足で踏み入ることはできない。


「となると、家の事情で学校に来れないとかかなぁ」


理沙は、既読のつかないトーク画面を見つめる。やはり自分にはどうしようもないのだろうか。窓越しに校庭を眺めていた。



 青木京香は、舞い散る桜の中で笹倉勝太を偶然見つけた。中学校から上がってきたばかりなのがうかがえる幼さの残る綺麗な顔。高すぎない身長に、新入生とは思えないほどの存在感。舞っている桜は彼のために風に吹かれているのではないかと思うほど、柔くて春の似合う少年だった。春が似合うな、と思った半面、おそらく夏も秋も冬も、すべて着こなすんだろうなとも思い、想像してみたが、想像力は足りなかった。京香は、数秒その場に立ち止まったあと踵を返した。

 琴音とはこの数十分後に知り合った。同じクラスで出席番号で席が前後で、琴音のほうから京香に声をかけてきた。京香から琴音への第一印象は「隙のない子」だった。かわいい、とか、きれい、とかじゃないオーラを身にまとっていた。


「私、浅草のお琴の音色で浅草琴音。あなたは?」


言葉づかいも綺麗だった。鼻につかない、上品すぎない上品さや丁寧さは、聞いていて気分が良かった。


「青木京香。京都の香り。よろしく」


 そこから打ち解けるのにそう時間はかからなかった。入学式の日に見た桜の少年が、琴音の中学の同級生だと聞いたときはなんだか納得してしまった。何かが決定的に違うけど、何かが似通っているような気がした。琴音と話すのはすごく楽だった。女子特有の媚売りや猫かぶりは一切見られず、話のきき方もしゃべり方もすごく上手だった。深入りは決してせず、しかしうまく話題を引き出す。それは彼女の才能の一つだった。


 高校二年にあがって、ふと校庭を見ると桜の少年は少年よりも少し大人びて青年に近づいていた。たった一年で人はこんなに大人になるのかと感心して同時に怖くなった。クラス替えで、琴音の辞めた部活の部員だった佐川理沙ともすぐ打ち解けた。ツイッターやインスタグラムなどのSNSでつながって初めて、彼に彼女がいて、その彼女が理沙であることを知った。自分が焦がれている間にとっくに彼は他人のものになっていた。




 その日、有力な情報が得られたわけでもなく、仕方なしにあきらめることにした。もしかしたら勝太が学校に来ないのに案外大きな理由はないのかもしれない、何も追及する必要はない、別れようという連絡が来ているということは彼自身が無事なのは確認できているし、次来たら聞けばいい。もしかしたら何かあって精神的に疲れていて外界と遮断しているのだとしたら、しつこく連絡をするよりもそっとしておいたほうが良いのかもしれない、という琴音のアドバイスに二人は素直に頷いた。


「理沙は納得いかないかもしれないけど、しばらく待ってみよう」


 こういうとき琴音は大人だな、と理沙は思う。同じ年だけ生きているのに何がこれだけ自分と彼女に違いを与えるのだろうか。常に何があっても余裕でいる姿勢は異常なまでに完成されきっている。話を終えて、理沙は自分たちの席に戻りふと琴音のほうを見る。机にしまったスマートフォンを取り出して操作をしている。彼女は自分たちと話すときもスマートフォンはいじらずに話に集中してくれる。涼しい顔でスマートフォンを操作している琴音に見慣れていないからかなんだか不思議な感じだった。


 理沙は家に帰ってもう一度トーク画面を開いた。返事が来ていないことはわかっていたが、なんとなく眺めてみると、自分の着信履歴やメッセージに既読がついていた。いつのまに既読になっていたんだろうか、驚いて興奮して、もしついさっき見たのなら今送るしかないと思い即座にメッセージを一件送信する。すると、送った瞬間に既読がついた。


「ブロックしてたわけじゃなかったんだ・・・」


一瞬でついた既読にドキドキしながら返事を待つ。しかし、待てども待てども返事は来ず数時間が経過した。

 自分は完璧に嫌われたのかもしれない。思えば、自分のように何のとりえもない上にネガティブな女が、気が合うからという理由だけで、人気者と付き合えていたのがおかしい。そう思ってから、小さな引っ掛かりに気づいた。そういえば、勝太のような、校内で少し名の知れているような人と連絡のつく人が一人もいないのはなんだか妙だった。もしつらいことがあったとしても一人くらいは彼の現状を知っている人がいてもいいような気がする。…それが本来自分であるはずなのだが、ともう一度盛大に凹む。返事の来ないトーク画面を眺めているうちにまた理沙は眠りについていた。





「一本もらえる?」


缶コーヒー片手に顔を覗き込む。中途半端に大人に憧れたゆえの行動だった。身体に良くないことなど承知しているのだが、それを上回る魅力があった。もしかしたら遊園地だとか、映画館だとか、プラネタリウムなんぞに行くよりもずっと夢見がいいかもしれない。そもそも、今までも注意してくれるような大人はいなかった。きっとまともな両親の元に生まれたら未成年でタバコを頂戴なんて発言するような教育は受けていなかっただろう。


「ダメ。コーヒーで我慢してろ」


一本だけタバコをだしてから口に咥えて火を付ける。火のついたタバコを奪って軽く口づけし、そのままその唇で奪ったタバコを咥えた。重たい煙が身体中を這いずり回ってくる。しかしすぐにもう一度奪い返され、同じように口づけされる。


「買えないんだから、頂戴」


「買えないんだから ダメなんだよ」


説教する彼の声は耳をすり抜けていく。そんなことはどうでもいい。ルールは破るためにある。マナーはルールを破るためのヴェールにすぎない。


「キスしてくれたら諦める」


相手の返事は聞く気なんかない。強引に彼のタバコを奪って地面に落とし踏み潰す。ヒールで火が消える前に深い口づけを。そのまま腰を抱かれる。こうなってしまえばもうこっちのものだ。セブンスターの重たい苦味が広がっていく。この苦味が甘味であり悦楽だった。口を離して首筋に噛み付く。恋人でもなんでもないくせに独占欲だけは立派に生まれているらしい。こんなものに何の意味もないことはわかっているし、彼自身に対して特別な感情があるわけないけど。彼の首に回していた腕を緩めて、口を離した。


酔っぱらってすでに一時間が経過した。お酒は素晴らしい。たばこも素晴らしい。そこに、例えば大好きな人や大切な人がいて、後ろから抱きしめてくれていればもっといい。手っ取り早く抱いてくれるのが一番いいと思う。隣にいたはずの彼は自分をホテルに送って、ホテル代を置いてすぐに帰ってしまった。ホテルにいること自体は別に構わない。よく、知らない男とホテルで一夜を過ごす母親を知っていたし、なんなら知らない男が母親と一緒に家にいることもあるからこっちの方がありがたい。そばで寄り添って寝てくれるような親は自分にはいなかった。しかしそれより、彼はどこへ帰ったのだろうか。家賃を払っていようが家なんてものは所詮ただの箱でしかない。ただの箱に帰るのに愛や温もりを感じられる人たちが羨ましい。一人で酒を飲んでいることが空しいことだと気づいたのは、さらに一時間経過したころだった。




朝になっても、勝太からの返信は来ていなかった。心配する反面、学校にも来ず、一方的に別れを告げてからろくに返事をよこさない勝太へ苛立ちが募っていた。せめて、理由くらい聞かせてくれたっていいのに。そう思ったがすぐに冷静になる。勝太に特定の仲の良い女子というものは自分の知る限りいなかったはずだった。勝太のことを好いているという女子の話も聞いたことはない。だとすると浮気の線はかなり薄くなる。事故や事件に巻き込まれたとも考えにくい。やはり、もしかしたら自分が何かしてしまったのかもしれない。理沙はここ数週間の自分の言動を振り返る。悩んでいるうちに、いつも家を出る時間より十五分も遅れてしまった。


「あ、来た。おはよう」


教室に入るとすでにホームルームは終了していた。特に咎めることなく琴音が挨拶を交わしてくる。返事をして教室を見回すと違和感に気づく。


「京香は休み?」


いつもなら琴音の前の席にいるはずだが、荷物が置かれておらず、その机は空っぽだった。


「分からない、さっきメッセージ送ってみたんだけど返信待ち。理沙も休みかと思ってたから今日1人になるところだったよ」


首を振ってから琴音は教材を取りにロッカーへ向かうと教室を出て行った。京香が休むのも珍しい。どちらかというとストイックなので、体調を崩しても余程じゃなければ学校に来るし、そもそも体調を崩すこともほとんどない。もしかしたら自分のように遅刻かもしれないが、それこそ真面目な京香はしそうにない。

考え込んでいるとパタパタと少し忙しない足音が近づいて来た。顔を上げると琴音が教科書片手に走っていた。そして、ろくに手元を確認せずに教科書を自分の机に置くとこちらに向かって来てから、耳元に口を寄せた。


「理沙、笹倉来てる」


周りに配慮して声を潜めてくれたのだろうが、理沙が勢いよく立ち上がったため結局注目されてしまった。急に立ったからか琴音も少し目を丸くしていた。


「ごめん」


小さく謝ってから、なんとなく周りを気にしてもう一度座る。せっかく琴音が急いで教えてくれたが、理沙には勝太と直接顔を合わせる勇気はなかった。今朝あんなに嫌な気分にさせられたというのに、今ここを出て勝太に文句を言いに行けないなんて情けなさすぎる。せめて、別れを告げられた理由くらい聞きたいが、それさえもなんだか怖くて出来そうにない。

いつの間に買いに行っていたのか、悩んでいる自分を気遣ってか琴音が飲み物を持って来てくれていた。


「理沙、あまり思いつめない方がいいよ」


机に置いてくれたミルクティーをありがたく貰って蓋を開けた。


「琴音ありがとう」


思っていたよりも自分は疲れていたらしい。ミルクティーの甘さが染み渡る。こんなに美味しかったっけ、なんだか泣きそうになった。


なんとか勝太を捕まえて話をすることに成功した理沙だったが、結局別れを告げたことと、学校を休んでいたことに対する明確な理由はなにも教えてくれなかった。メッセージは、返事をするか迷って結局何も送れなかっただけだった、申し訳ないとまっすぐに頭を下げて来た。まさか頭を下げられるとは思わなくて、冷静に彼に声をかけられていた気はしない。勢いに飲まれて、自分の胸の内を明かした理沙を勝太は後ろから抱きしめ、小さく、ごめん、とだけ呟きそのまま去って言ってしまった。あんなに苛立っていたのに文句の一つも言えなかった。

教室に戻っても、なんだか気持ちが落ち着かなかった。最後に抱きしめられたときの胸のつっかかりはなんだろうか。ただ、彼の瞳は全く自分を捉えてはいなかった。本当に自分への恋情は消えてしまったらしい。午後の授業、勝太のクラスの体育の授業を校庭から眺めていたがそこに彼の姿はなかった。無意識に勝太を探しているのもなんだか切なかった。

理沙にとってここ一週間ほどの出来事はほとんど勝太のことで構成されていた。今まできていたメッセージがピタリと止み、もう一緒に帰ることもなくなり、挨拶を交わすこともなくなり、いつか自分より素敵な女の子と付き合い、自分のことなんか忘れてしまうのかもしれないと思うと涙が止まらない。思っていた以上に自分は勝太のことが好きだったらしい。授業をしていたはずの校庭からは人がいなくなり、いつのまにか雨が降り注ぎ窓ガラスを叩きつける。


目がさめると目の前に缶コーヒーを片手にスマホを眺める京香が座っていた。どうやら、午後の授業を丸々眠って過ごしていたらしい。外は、すっかり深く暗くなっていた。


「起きた?」


京香の声で理沙は我に帰った。そういえば、今朝京香は来ていなかったはずだった、いつの間に来ていたのだろう。


「お昼終わってからきたの。午前中身体だるかったんだけど、様子見てたら良くなったから」


「休んじゃえば良かったのに、真面目だなあ」


理沙が言うと、京香は手元のコーヒーを一気に流し込んだ。


「理沙、弓道部は?」


「今日はもういい」


全く部活に行く気になれなかった。時計を見ると、まだまだ練習する時間があることに少し驚く。あまりに外が暗いので遅い時間だと思っていた。琴音から話を聞いたのか、それとも理沙の様子を察したのか、京香はそっと理沙の頭を撫でてから立ち上がる。するとちょうど同じタイミングで教室のドアが開いた。


「あ、理沙起きてる」


傘を二本持った琴音が教室に入って来て自分の荷物を肩にかける。どうやら、職員室に傘を借りに行っていたらしい。


「二本しか借りれなかった?」


「うん、だからバス停まで入れてもらっていい?」


琴音はそういうと理沙と京香に傘を渡して先程入って来たドアに向かった。

理沙には敢えて触れないのが琴音の優しさであり、気を使う琴音に敢えて気づかないふりをするのも京香の優しさだろう。なんだか急に胸が痛くなった。

勝太のことなどはなかったかのように、いつも通りの他愛のない話をしてからバス停で琴音と別れ、駅で京香と別れる。ビニール傘に叩きつけられる雨の音が心地いいような、刺さるような、濡れてしまいたいような。




傘立てに傘を立てて、ローファーと靴下を脱ぐ。ローファーはなんだか学生らしさが強すぎて好きじゃない。もう今日は履く気のないローファーを端に揃えてからパンプスを横に並べ、そのままシャワー室に向かう。シャワーも雨も変わらないようなものだし、すでに濡れてしまったからあまり変わらないような気がするけど。結局傘は大して役割を全うしなかった。

浴室から出ると部屋の中はタバコの香りで充満していた。何度も嗅いだことのある重みのある香り。


「やっぱ、雨に濡れた女は良いよなあ」


浴室から出て来たことに気づいてタバコの火を消す。絶対に自分に吸わせようとはしてくれないのがなんだか癪だった。仕方なく冷蔵庫を開けてコーヒーの缶を開ける。コーヒーを自分で淹れても美味しく出来上がらないのが最近の悩みだ。


「雨じゃなくてシャワーだけど」


つくづく自分は天邪鬼だな、と思う。


「昨日、家に返してくれたら良かったのに」


「お前がホテルが良いって言ったんだからな」


そう言われても全く記憶にない。まだ酔っ払ってはいなかったはずだが、無意識のうちに口走っていたのかもしれない。家に帰ろうが帰らまいが心配する人はいないし、どっちでも良いけど。どうせホテルまで送ってくれたのなら一緒に泊まってくれたら良かったのに。


「冷めてるくせに欲深い奴」


そんな自分の気持ちを見透かしたかのように呟く。別に、そういうつもりは一切ない。きっと彼は、自分のことを寂しい奴あるいはかわいそうな奴とでも思っているのかもしれない。それで構わないし、むしろ変に愛情を持たれるよりよっぽど良い。自分の欲を満たしてくれればいいから、夜を共に過ごすだけで十分だった。


「たまには癒してよ。疲れた」


ぐったりともたれかかられて、そのまま後ろに倒れる。どうやら本当に疲れているらしかった。人はこんなに重かっただろうか、少し苦しいし、タバコ臭い。腕を掴もうとするとそのまま手を握られ指を絡められる。いつもと違い、動作の一つ一つが重く、ゆっくりで、今更緊張してしまう。癒してと言われてもどうすればいいか分からず、繋がっていない方の手で取り敢えず頭を撫でてみる。


「お前、モテるだろ」


「そんなことない。まだ高校生だし、あんた以外とこんなことしてない 」


「高校生のくせにセフレ作って酒飲んでタバコ欲しがってんなよ」


自分も高校生で酒も飲んでタバコも吸ってるくせによく言う。なのに自分には一切吸わせてくれないのが腹立たしい。それよりも、自分で発した まだ高校生 というワードがなんだか気持ち悪かった。

しばらくそのままの体制でじっとしていたが、急に起き上がり、一緒に起き上がると後ろから抱きしめられる。いちいち、行動が恋人らしくて嫌になる。



「俺がお前のこと好きだって言ったら、どうする?」


唐突に発せられたセリフに一瞬言葉が出てこなくなる。


「・・・なに、彼女と別れて落ち込んでるのだと思っていたんだけど」


彼女に対して気を遣っていたから疲れているのかと思っていたが、どうやら見当違いだったらしい。長い期間彼女と付き合っていたから、本気で好きなのだと思っていた。・・・まぁ、誠実に付き合っていたら自分と彼がこんな関係になることはまずないけれど。


「どっちかというと、お前に会うのが嫌で常に周囲警戒してて疲れたんだよ」


ということは、昨日自分を家に送らずホテルに送ったのは、あわよくば学校に来ないと思ったからなのか。小賢しい男。


「なのに結局お前来てるし」


「それで逃げて午後帰ったんだ」


煽ってやると抱いていた腕の力が少し弱まる。まさか遊びで、いや、自分の欲を満たすためだけになった関係の方が彼女より大事になってしまうなんて、結局愛情よりも欲情か。


「傘、迎えに来てくれたとき一本しか持ってこなかったのは相合傘がしたかったから?」


彼の腕にもう一度力が入る。最初よりもずっと強く、そして以前自分がしたより強く、首筋に噛みつかれる。こちらを直接見ることなく力だけを込めて。


「好きだよ、琴音」




琴音が勝太ときちんと会話したのは中学3年の夏。受験期真っ只中で、勉強に集中できず夜中に外に出ていると丁度同じように外に出て来た勝太に出くわした。なんとなく公園で喋っていると、無性に家に帰りたくなくなってそのまま夜中に彼の家へ行った。誰もいなかった。どうやら片親で、母親はどこかよその男の家に行っているそうだった。親も親なら子も子だな、と自分の母親と自分のことを棚に上げ、中学生ながらに思っていた。そのまま、大して好きでもないし大して仲良かったわけでもないのに最後まで事を済ませてしまった。肉体的にも、精神的にも、これほど素晴らしい行為は経験したことがなかった。大人の真似事でも良い、正しい道じゃなくても良い、自分を満たすにはこれが1番だとすぐに理解した。当時勝太に彼女はおらず、かといってお互いに恋愛感情があったわけでもない。お互いに都合の良い関係だった。どちらかが会いたければなんとなく会う。恋人でも友人でもない関係は高校に入っても続いた。高校入学時、琴音も勝太も弓道部に所属していたが、常に彼のそばにいるのはなんだか落ち着かなくて、琴音は一年足らずで部活を辞めた。

気がつけばすでに勝太には彼女が出来ていた。相手は同じ部活だった佐川理沙だった。なんとなく、部活を辞めて正解だったなと思った。勝太に彼女が出来てからは会う機会も徐々に減り連絡も取らなかった。

しかし、約二週間ほど前に久しぶりに勝太に出くわし、家に行くと、お互い久々で気持ちが高ぶって超えてはいけない線を超えてしまった。しかも、最悪なことに次の日には裏切った友人と何食わぬ顔で会わなければいかない。こういうとき、今までの自分が築きあげてきたキャラクターがいかに便利かつ重要なものだったかを悟った。顔色一つ変えることなく理沙に接するのは簡単だった。

演じるなら、一瞬たりとも手を抜いてはいけない。例えば、自分のセリフがないシーンでも、自分はそこに存在していて何らかのアクションや感情がある。ありがたいことに、自分はそういった演技がとても上手らしかった。もし、中で悪いことをするなら外は徹底的に、三百六十度どこから見ても良い子でいるべきなのは誰かに教えられなくても知っていたことだった。理沙へ優しくするのは罪悪感からくる理沙のための行為じゃない、自分のためだった。



ぼんやりと雨が叩きつけられているガラスを眺めているとメッセージがきたことを告げる通知音が部屋にひびく。勝太が抱きしめたまま動かないので手を伸ばしスマートフォンを取って勝太に渡す。勝太は受け取ると、読むことなくメッセージを非表示にした。


「みなくていいの」


「浮気なんかしてないよ」


「的外れな返事しないで。そもそも私が浮気相手でしょ」


自分はそんなことなかったのに、勝太の方は学校に来て顔を合わせられないほど情が湧いていたらしい。意外と女々しい。


「もう浮気相手じゃないよ」


別に自分は浮気していたわけではないし同罪にして欲しくない。なんて、結局は同罪だからそんなことは言えなかった。


「周りと連絡取れなくなるほど、私のこと好きなの」


冗談を口からこぼして腕からすり抜けようとするが、うまくいかない。


「琴音、琴音は俺のこと好き?」


「質問の答えになっていないし、別に好きじゃない」


そう、好きな人に対する胸のときめきだとか、苦しさ、もどかしさなんてものは勝太相手であろうがなかろうが感じたことは一切ない。

琴音にとって恋愛とは、出会ってから恋人になるまで、である。出会ってお互いの感情を探り合いながらもどうにか相手に好かれようと必死になり、友達以上恋人未満の期間を経て互いの気持ちが通じ合い恋人となる。そんな、まるで少女漫画のような恋愛を夢見ていた時期もあった。そんな夢は小学生のうちに見終えていたけど。琴音は勝太と過ごした時間にそんなキラキラした瞬間を感じたことがなかった。


「悪いけど特別な感情とかないから」


何度でも言う。ただただ自分の欲だけ満たしてくれたらいい。認めてもらいたい、見てもらいたい、自分の所有物にしたい、気を引きたい、肉体的にも、精神的にも、気持ちよくなりたい。


「だから夜に会うだけで十分。ねえ、もうなんでも良いから、抱いて」


「琴音、いいこと教えてやるよ」


勝太は琴音の腕を引っ張って抱き寄せ、何度も何度も場所を変えてキスをする。額、頬、耳、首筋、鎖骨、胸... まるで恋人にするような優しい触れ方に息が詰まる。



「お前が求めてるのってさぁ─────・・・」











勝太と別れて、もう一年が経った。当初は酷く落ち込んだし納得もいかなかった。やはりはっきりした理由を問いただしたかったし、自分に落ち度があったのかと悩みもしたが、琴音と京香のおかげで彼がいなくても幸せに日常を過ごすことは出来ていた。琴音も京香も自分にとって自慢の友人なことに変わりはなかった。


京香が実は勝太に気があったということは別れてから相当日数が経ってから知ったことだった。そのときは自分のことでいっぱいで全く気づかなかった。相当無神経な発言をたくさんしただろうに、気を遣ってくれていたのだと思うと胸が痛くなると同時にとても嬉しくなって、彼女が自分の友人でよかったと心から思う。


果たして青木京香は 身を引いたのだろうか、そんなに気持ちが大きかったわけじゃなかったのだろうか、それとも・・・






浅草琴音だけが、今晩も愛を手に入れる。

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