挨拶っていいね

高羽慧

挨拶っていいね

 巻河まきがわ正之助しょうのすけは、こんな名前でも勤めて二年目の若者だ。

 厳格な父と、古風な母の趣味で、いつの時代・・・・・に出ても恥ずかしくない名前を付けられた。


 何故、タイムスリップを想定するのか。現代では恥ずかしい範疇に入るのではないか。

 両親の名前に懸けた想いは、いつの時代も子に伝わることはない。少なくとも、彼は自分の名を嫌っていた。


 親元を離れ、独り安アパート暮らしを始めても、名前はつたの如く絡み付いて回る。

 朝、部屋を出たところを、道を掃く大家のオバサンに声を掛けられた。


「あら、早いのね。正之助くん」

「……おはようございます」


 丁寧にお辞儀する彼に、オバサンは目を丸くして笑みを返す。今時、珍しいのだ。挨拶も、頭を下げる仕草も。


 遠い会社へ電車通勤するには、朝の六時にはアパートを後にしないといけない。

 同じく早起きの大家とは、こうやって何度も挨拶を交わす仲なのだが、一々驚く顔に多少鬱屈したものを感じる。


 世間話をする義理も余裕も無いため、手を軽く挙げただけで、正之助は駅へと足を早めた。街路を急ぎ、こんな時間でも混み合う改札を抜け、既に満員の電車へ乗り込む。


 スッス、スッスと小煩い通勤客の間に身をよじ入れて、ここから約一時間世話になる吊り革を確保した。

 途中の急カーブでバランスを崩し、隣に立つOLをドンと肘で突いてしまう。スマホを片手に険しい顔を向けた彼女へ、正之助は直ぐに謝罪した。


「すみません」

「…………!?」


 無言の彼女の代わりに、前に座る制服の女子高生二人がコメントする。


「ス、スイマセンって!」

「ギュフフッ! 武士みたい」


 大方、朝の部活に向かうのだろう二人は元気いっぱいといった風情で、小声のつもりでもハッキリ彼の耳にまで届いた。


 ――武士じゃないでござるよ。斬り捨てるぞ。


 目力めぢからで斬殺しようと睨むものの、彼女たちには平然と受け流される。結局、目的駅で降りるまで、珍獣を見る視線と、クスクス笑いに晒されることになった。


 いつからこんな世の中になったのだろう。

 名前はともかく、挨拶は人間関係の基本だと言う親の教えを、彼は忠実に守っている。他人に頭を下げられる自分を誇りに思うし、学校では教師にも褒められた。


 しかし社会に出てから、いや、高校時代くらいからか。同年代の友人には、再三にわたって言動を改めるように忠告される。


 おはよう、ありがとう、さようならは滑稽に過ぎるらしい。

 オウッ、アッス、サー――基本はこうだろうと。

 すみません、は、スッスだ。

 しかも、こいつらは丁寧語であり、使い分けること自体がマズいとも言われた。


 会社の入り口で、背後から後輩のエレーネに挨拶される。


「イイネ! 正之助さん」

「オ……おはよう」


 クスリと笑う彼女は、黒髪に黒い瞳、百パーセントの純日本人である。今年入ったばかりの新人で、変わった言葉遣いの彼を気に入ったのか、妙に懐いていた。


 何が朝から「イイ」のか知らないが、現代人の挨拶としては彼女の方が正しい。朝も夜も、感謝も謝罪も、全て「イイネ」だった。

 昔のSNS発祥らしいこのフレーズは、全てのシチュエーションを賄える魔法の言葉として、市民権を得てしまっている。語尾の長短と抑揚で、感情は充分伝わるそうだ。


 デザイン室に入り、半時間した頃、課長の真田さなだ魔輝楼まきろーが現れ、課員にイイネを連発する。

 この日、順調に進んだ仕事は夕方の五時直前に脆くもつまづいた。


 クライアントから校正原稿についてクレームが入ったらしく、エレーネが電話の相手へ必死に弁解する。

 先方の言い分では、会社案内用の冊子の配色が丸々気に入らないとのことだ。


 ロゴマークの微妙な色の差に、訂正が入るのはたまにある。だが、今回は地色に罫線、フォント、更には写真の補正にまで文句が付いた。


「社長さんがカラーセラピストらしくて……」

「自称だろ? 細かい客だなあ」


 彼女の代わりに課長へ報告した正之助は、予想外の叱責に身をすくめた。ここ数日、妻と娘に加齢臭を非難され続けた魔輝楼は、相当に機嫌が悪かった。


「イイネェ……困るんだよ。あの社長は色に煩いって教えといただろう」

「まさか、ここまでとは」

「機械的に仕事したんじゃダメだ。デザインはハート、イイネッ!」

「ハ、ハイ……」


 信頼回復のために、超特急で修正を済ませるように指示される。つまりは、残業であった。


 自分のデスクに戻った時には、エレーネは退社しており、付箋の書き置きだけが貼付けてある。


『カレとの約束で、今日は残れません。本当にイイネ!』


 ――良くないだろ。こんな言い回し、絶対にどうかしてる。


 他の同僚も、家族サービスに努めることにした魔輝楼も全員が帰ってしまい、彼は独り作業に取り掛かった。

 七面倒くさい修正は、これでオーケーが出るのか確信が持てないまま、夜の九時過ぎまで掛かる。


 外に出た時には、赤ら顔の学生らしき集団が、「イイネッ!」を叫びあって馬鹿笑いしていた。

 駅では自動改札を通る人々へ、駅員が「イイネェー、イイネェー」と挨拶し、乗車マナーの啓発ポスターまでがデカデカと「イイネ!」を訴える。


『駆け込み乗車、イイネッ!』

『不審物を見かけたら、最寄りの駅員までイイネ』

『冬はカニ! カニ特急で本場へイイネー!』


 同意できるのはカニくらいだ。

 朝よりはマシなホームの人混みを掻き分け、正之助は先頭車両の位置に並んで電車を待つ。


 遅延する到着時刻に苛々していると、フラフラと千鳥足の酔っ払いが彼の元へと近寄って来た。

 男は列に加わるでもなく、行きつ戻りつ徘徊した挙げ句に、正之助に倒れかかって腕を掴む。


「ちょっと――!」

「ぐええぇ……」


 汚い咆哮とともに、大量の吐瀉物が彼の足へ降り注いだ。


「何すんだよっ、コラ!」

「……イイネェー」


 多少すっきりしたのか、男は彼を押し離し、スタスタとその場から立ち去る。理不尽な男を追いかけるより、我が身の不運と臭気に、正之助はベソをかきそうになった。

 襲撃を免れた周りの通勤客が、どこか他人事の同情をアピールする。


「大丈夫ですか、イイネ?」

「イイネェッ」

くさっ……イイネ!」


 魔輝楼よりも老けた背広姿のオヤジが、彼の肩にポンと手を置いた。


「イイネ」

「よかねえよ! 何がイイんだ。こんなの全然イイわけねえだろっ!」


 彼の絶叫に、ホームの喧騒は静まり返る。皆の視線が正之助に集まり、一拍置いて、一斉に声が上がった。


「イイネッ」

「イイネェー」

「イイネイイネェッ!」


 その深夜、『ゲロを浴びて絶叫するサラリーマン』と名付けられた動画がネットに投稿される。

 自分を差し置いて日間最多「イイネ」を稼いだ動画投稿者に、正之助は歯噛みするしかなかった。

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挨拶っていいね 高羽慧 @takabakei

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