9回裏2アウト

秀田ごんぞう

9回裏2アウト

 野球は脚本のないドラマである、と誰かが言っていた。

 日本では一大メジャー競技であるこのスポーツには時間制限がない。タイムアップによるホイッスルが存在しないこのスポーツにおいては、選手や観客を引きつけて止まない逆転劇が何度も生まれたのだ。


 ……そうはいっても、だ。


 9回裏2アウト。バッターボックスへ向かう僕の足はすくんでいた。


 背中越しに「がんばれ!」「最後まであきらめるな!」「お前ならやれる!」などと、大きな期待がこめられた声援が聞こえてくる。

 チームメイトの期待を一心に背負った僕は、だから気を抜けば震えてしまう足を気力で押さえこみ、バッターボックスへ向かって一歩、一歩と歩いていく。

 その間にも心臓はまるで爆発するんじゃないかと思うような鼓動を続けており、バットを持つ手が小刻みに震えていた。


 帰りたい。このまますべてを投げ出して、家に帰って野球ゲームをしていたい。


だが、それはできない。そんなことをしたら、僕の今後の人生はどうなる? 嫌な想像しか頭に浮かばない。

 打席に立つ者が皆、心から野球を愛しているとは、僕には思えない。保身のため、本心に逆らって打席に立つ打者もこの世界には数多くいるはずだ。


 そんな思考の逡巡を繰り返しながらも、僕はいよいよ打席に立った。

 途端、ワーッ!!という鼓膜が破れんばかりの歓声が響きわたる。

 僕はいよいよもって、この歓声を背負ってピッチャーと対峙するのだ。


 9回裏2アウト。チームは二点のビハインドで、一・二塁にランナーがいるという状況だった。この場面で僕がホームランを打てば、一気に三点入り、チームはサヨナラ勝ちを決める。

 むろんチームメイトも監督も観客も、みんながそれを望んでいる。僕はチームの四番だった。初めて監督に四番を告げられたとき、僕は飛ぶように喜んだものだが、今ではあのときの自分をぶんなぐってやりたい。四番なんてなるべきじゃなかった。

 チームの期待を一心に背負って9回裏の打席に立たされるくらいなら、ベンチから声援を送っていた方が、いや、ボール磨きをしていた方がよっぽどマシだ。

 だけど、大きな期待に背を向けるわけにはいかない。僕が立っているこの打席に立つために多くの者達が苦渋をなめ、そしてある者達は野球から離れていった。今の僕の状況は、彼らの犠牲の上になり立っている。だからこそ、それに対して、背を向けるなんてことは人道的でないし、到底するべきでない。


 それに……この打席には僕の人生もかかっているのだ。自分で決めたじゃないか。今日の試合に勝ったら彼女にプロポーズする、って。


 真希とは付き合い始めてもう七年になる。そろそろ一人の男としてけじめをつけるべきだと思った。だが、なかなか踏ん切りがつかず、思いを打ち明けられずにいた。

 独立リーグでのシーズン後半の今日の試合。勝てばゲーム差は逆転し、チームは一挙に一位に上がる。

 そんな重要な試合に勝利できたら、彼女にプロポーズしようと決意したのだ。


 そう決意してから、練習に対する姿勢にも熱が入った。やれることはすべてやった。苦手だったカーブに対しても、今は不安感はない。これも小学校時代からの友人であり、チームメイトの小林のおかげかもな。チームの練習が終わってからも、小林が残って僕のカーブ練習に毎日遅くまで付き合ってくれたのだ。

 それを思うと、練習に付き合ってくれたヤツに恩を返す意味でも、やはり今日の試合は負けるわけにはいかないんだ。


 だけど――――。


 バットを持つ手はすっかり汗で湿っていた。気温は特に熱いわけじゃない。これは緊張から来る冷や汗だ。打席に立ち、ピッチャーと対峙することを僕の脳が否応なしに拒絶している。やめろ、と体が拒否反応をしている。握り手がわずかに濡れたバットはその証だった。


 そんな僕の思いを見透かしたように、相手のピッチャー、千川は僕にだけわかるように小さくフフッと笑った。


 千川は一回から登板。9回に至るまでまったく疲れを見せずボールを投げ続けている。ヤツのスタミナは無尽蔵であるかにさえ思える。

 恐ろしいのはスタミナだけではない。この試合、僕のチームは千川からまだ1点も得点できていないのである。

 7回では、1アウトで一・二塁にランナーがいる状態で僕に打順が回ってきた。

 一球目は見逃しストライク。二球目はボール球。三球目、スイングしたバットはボールをこすり、ファールに。しかし、僕はこれで手応えを感じ始めた。これまでかすりもしなかった千川のボールに、かすりではあるが、スイングが合い始めたんだ。そして、四球目。バットの真芯でボールを捉え、打球が勢いよく飛んでいく。


 ライナーだ!


 しかし、無情にも打球はセカンドのミットへまっすぐに吸い込まれてしまい、そのままダブルプレーを取られてチェンジ。


 打った瞬間、千川がにやりと笑うのが僕にははっきり見えた。スイングが千川の投球に合い始めていたのではない。千川が配球を組み立て、僕がそう思うように仕向けたんだ。

 結局、僕はヤツの手の平の上で踊らされていたに過ぎない。


 続く8回では5番バッターが塁に出るも、その後三者凡退でチェンジ。

 ここまでまったく衰えを見せない千川のピッチングに、観客席では完封達成か……! とどよめき始める始末だ。なにせこの試合、彼はまだ一度も四球を出していないのだ。それはボールコントールにブレがなく、ヤツのスタミナ切れには期待できないであろうことを意味していた。


 しかし、体力切れに期待できなくても、集中力まで同じとは限らない。

 6回までヒットを許さなかった千川が、7回にランナーを二人出した。8回にもヒットが一回。千川も人間だ。初回から投げ続けた疲労は目に見えない形で確かに蓄積していて、ヤツの集中力だって確実に削れてきている。



 そして、やってきた9回。僕らのチームとしては2点を背負ったラストイニングだ。



 9番投手の小林がヒットを打って出塁。続く一番打者の田中と二番打者の黒木は三振に打ち取られてしまったが、三番打者の牧野がフォアボールで出塁した。

 とうとう千川がフォアボールを出した! チームはこれまでになくどよめいた。

 ベンチには逆転のムードが漂い始める。

 僕だけは違った。もちろん逆転ゲームのイメージだって頭の中にあった。でも、それ以上に7回の光景が脳裏をよぎった。

 そう……ここぞというチャンスで打席に立った僕は千川にまんまと打ち取られ、痛恨のダブルプレーを出してしまった7回の光景を。

 くしくも、今の状況は7回とほとんど同じだ。

 僕が打ち損じてしまえばアウトを取られ、ゲームセット。三振しても試合終了。 僕にはヒットを打つ以外の選択肢がなかった。

 加えて今、二塁に立っている小林は打撃センスも優れたピッチャーだが、足が遅いという弱点を持っていた。内野安打には期待できない。

 フォアボールについては期待するまでもない。あの千川がそうそうフォアボールを与えるはずもないからだ。この試合全体を通しても、9回に一回だけだ。そんな低確率のものを勘定に入れた作戦は決行できない。

 ……長打しかない。この状況から逆転するには、それこそホームランを叩き出すほかない! 

 そう思えば思うほど、指の先が震えだし、手汗がバットの握りに染みこむ。気を抜けば、力が抜けてバットが手からこぼれ落ちてしまいそうだ。


 マウンド上の千川と目が合った。


 千川は額の汗をグラブで拭い、にっと不適に笑って見せた。ここまで疲れをまったく見せようとしない千川の気力に僕は感服する。

 9回裏2アウト、ランナー二人という状況は奴にとってもピンチのはずなのに、動揺は欠片も見られない。

 わかってはいたが、やはり千川は強い。とてもじゃないが簡単に打てる甘いピッチャーではないんだ。


 千川がマウンドの土を足でならし、投球の準備に入った。


 いよいよ始まるんだ……最後の大勝負が!


 二塁からバッターボックスを見つめる小林の姿に、僕は自分を奮い立たせた。この球場のどこかで真希も僕のことを見ているはずだ。チームのために、友のため、彼女のため…………そして何より己のために、この勝負……負けるわけにはいかない!


千川がグラブの中でボールを握りしめ……そして投げた!


 ストライクゾーンに向けて鋭く投げられたボールは内角寄りのストレート。僕は様子を見てバットを振らず、ストライク。何度も見たが、やはり彼の球は速い。今の投球だって、全力でないにしろ優に150キロは出ていたであろう球威だ。

 球速に加えて、千川は持ち球の種類も多い。スライダー、カーブ、フォークの三球種をかなりの精度で使いこなす。変化球に気を取られていると、鋭いストレートに手が出せない。僕に言わせれば、弱点のないほぼ完成された投手であるといえる。

 そんな能力からなのか、千川は積極的に三振を取りに行こうとする傾向がある。少なくとも僕にはそう思えた。凡打を打たせてアウトを取る方が結果だけを考えれば効率的だ。だが、千川はそれをしない。打者を三振で打ち取った方が味方の負担も減るし、何より注目が千川に集まって、観客のウケがいい。だから奴は積極的に三振を取りに来る。


 アウトを取るにはストライクが三つ必要だ。

 野球のルールとして当たり前の事実に過ぎないが、ストライクになる投球が少なくとも三回あるというのは、気休め程度の効果しかないにしろ、この場面で千川と相対する僕にとっては考えを前向きにしてくれる材料になり得た。


 一球目はストライク。あと二球はストライクが来るんだ。ボール球には決して手を出さないというスタンスを貫くことに決める。


 二球目は外角外れてボール。三球目も同様だった。


 これで2ボール1ストライク。バッターに有利なカウントになった。

 勝負を賭けるならここじゃないか!? バットをぎゅっと握り直し、千川と対峙する。


 四球目、千川が投げた球は、僕が狙いをつけた位置……低め真ん中へ!

 決めんとばかりに全身を使ってのフルスイング!


 だが、バットに到達する寸前、ボールが突然クンッと下へ落ちた。目の前で急激に落ちる……フォークだと!?


 豪快に振るったバットはあっさり空振りに終わった。


 千川はここで僕が勝負をかけることを予想していたんだろう……全力フルスイングを失敗させた僕を見て、奴は悪魔的に笑ってみせる。


 これで勝負は2ボール2ストライク。僕が追い込まれた形となった。

 今のはやはり打って欲しい場面だったのだろう、ベンチや観客席から落胆の声が聞こえた来る。

 ふぅー……と呼吸を整え、次の投球に備える。

 千川がアドバンテージを持っている形だが、だからといって勝負を投げるわけにはいかない。次を最後の投球にしてたまるか!


 チラと後方を確認してから、千川が振りかぶり、投げた。


 投げられた球は鋭い弧を描いて内角へ切れ込んでいく。まずい! バットが間に合わない!

 ストライクだと思ったが、球はぎりぎりのところでストライクゾーンを外し、審判の判定はボール。危なかった……。首の皮一枚繋がったとはこういうことを言うんだろうな。


 これでフルカウント。そしてここからの勝負がまた、長かった。


 僕は千川の投げるボールをことごとくファールに打ち、実に三連続ファールで粘った。

 マウンド上の千川の疲労が苛立ちと共に打席にいる僕にも伝わってきた。

 だけど疲れているのはこっちも同じだ。見逃せばゲームセットになる状況で、ストライクになりそうな球をすんでの所でバットにこすりあててファールにするのがやっと。まだ一度も芯で捉えられていない。

 そして今、僕の頭には千川との勝負に勝つこと以外何もなかった。小林への恩返しだとか、チームへの思いとか、真希へのプロポーズとか、打席に立つまで考えていたあれこれは不思議と頭の中から消えていて、目の前の男との一騎打ちだけに集中していた。

 だからだろうか……不思議と次の投球が最後になる気がした。根拠はないが体のどこかでそう感じた。

 向かい合う千川の目にも僕との勝負しか見えていない。ランナーの動きを気にせず、次の投球にだけ意識を向けていた。


 握った手を振りかぶり…キャッチャーミット見定めて投げる!



 放られた白球に狙いを定め、僕はバットを振るった。





   ◇ ◆ ◇





「――店長、あの人また来て一人でぶつぶつ言ってますね」


「ああ、彼ね。頭の中で色々妄想しながら打ってるらしいよ。前に楽しそうに話してた」


「え、なんすかそれ!? ヤベェ奴じゃないっすか!?」


「いやまぁバッティングセンターだからね。他のお客さんの迷惑にはならなければ、好きに楽しんでもらって構わないし。ほら、この間スローボールを尻に受けて興奮してる客がいたじゃないか」


「ああ……あの光景はちょっとした悪夢でしたね…………思い出したくないッス」


「そうそう。そんなのと比べたら、妄想野球なんて安いもんさ。本人はバッティングに集中できると言ってたし、設定とか聞くと、これがまたよくできてて面白いんだ。毎回飽きもせずよく考えるもんだと感心するほどでさ」


「ふぅんそれは凄いっすね。今度俺もやってみよっかなぁ……」


「いや、君はバイトだろ。仕事してくれなきゃこまるよ!」


「そりゃそうっすね。じゃあの辺掃除してきまーす」



 カキーンッ! マシンから放たれたボールがバットに当たって空高く飛んでいく。


 今日もバッティングセンターには元気な快音が鳴り響いていた。



 

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