第2話

「な、何?」

「またこの町、出て行くんか?」

「え? 何やの、急に。……別に決めてないけど、でも、いつまでもここにはおらへんよ。こんな田舎町、何もないやん」

「……何もない?」

 心から不思議そうに正宗は聞き返した。

「こんなにきれいな桜があるのに?」

「……は?」

「俺も……おるのに?」

 私はぐっと息を呑む。

 なんや、この展開は。

「瑠璃子、俺は今までずっとここにいて、この桜とここにいて、お前のこと、ずっと待ってたんや」

「……ちょっと、何言うてんの?」

「俺は、出て行くお前を止める力はなかったから、ここで待とうと決めたんや。だから……俺は」

「やめて!」

 私は思わず声を荒げた。

「そんなこと言われたら、まるで正宗は私が失敗してこの町に帰ってくることを期待して待ってたみたいやん。それに……正宗がこの町で先生してるのも、私のせいみたいに聞こえる。私が正宗をこの町に閉じ込めてるって言いたいの? そんなの、ひどい……!」

「違う!」

 今度は正宗が声を荒げる。

「俺がこの町で先生しているのは、俺がそうしたいからや。俺はこの町が好きや。こんなちっぽけな町やけど、俺はここの空気が好きなんや。この町の色彩が好きなんや。ずっとここにおりたいからおるだけや。お前に閉じ込められてるわけやない」

「でも……私が帰ってくるのを待ってたんやろ」

「待ってたよ」

 事も無げに正宗は言った。

「成功しようがしまいが、お前は必ず、ここに帰ってくる。それは信じてた。……瑠璃子、お前の好きなこと、ここで、この町で出来へんのか。好きなんやったら、どこででもいつからでもできるやろ。諦めなければ、気持ちさえあれば」

「簡単に言うな!」

 泣きそうになって、私はあえて乱暴に言った。

「何も知らんくせに。私がどんな思いでここに帰ってきたか、知らんくせに!」

「なら、教えろよ」

「はあ?」

「俺に全部話せ。全部、聞いたる。一言残らず、きっちり全部聞いたる」

「……阿呆」

「阿呆ついでに言うとく。俺は、この町の色がお前にはよう似おうてると思う。だから、そういうお前のことが俺は……」

 正宗が何か言おうとしたその刹那、わっと遠くから声が上がった。驚いて振り向くと、校門の前に五人ほどの制服姿の女の子たちがいて、彼女たちは正宗を見てきゃあきゃあ騒いでいるのだった。彼女たちのあの様子は好きな男の子を前にした乙女の反応だ。

 ここからでは私たちの会話は聞こえていないだろう。

 小さく息をついて、気を取り直し、私は改めて正宗を見た。

「……モテるんやね、正宗先生」

「違う」

 困惑気味に正宗は言う。

「いじられてるだけや」

「そうかなあ」

 ふんと意地悪く笑っていると、ひとりの女の子が群れから抜けてこちらに走ってやって来た。何だろうと思っていると、やってきた彼女は、私にいきなりこう切り出した。

「あの、先生の彼女さんですか?」

「え?」

 一瞬の間の後、私は慌てて答えた。

「違う違う。ただの幼馴染」

「本当に?」

「本当に」

 ちらりと彼女は正宗にも目をやる。彼が小さく頷いたのを見ると、パッと嬉しそうに笑った。そして私と正宗に頭を下げると駆け足で戻って行った。

 群れの中に戻った彼女は、ボブショートの、いかにも大人しそうな女の子に何事か熱心に話しかけている。ボブショートの彼女は真剣な面持ちで、友達の話しに聞き入り、頷いていた。

「あの子ら、正宗の受け持ちの生徒さん?」

「うん」

 短く答えて、正宗は歩き出す。話しの途中だったが、もう再開する気はないようだった。

「帰るん?」

「いや、図書館」

 そう言って、持っていた本を掲げて見せる。

「返却に行く」

「なんや、桜は本のついでやったんか」

「違う」

 少し、迷うような顔をして、正宗は続けた。

「桜も本も、お前のついでや」

「なんや、それ」

 頬が少し、熱い。

 気温はそれほど高くないのに……。


 自分の頬を撫でていると、後ろからぱたぱたと走ってくる軽やかな足音に気が付いた。振り向くと例のボブショートの女の子が、制服の短いプリーツスカートを大きく揺らして、こちらに向かって走っていた。

 しっかりと結ばれた右手と対照的に、左手はパーの形。

 それでぴんときた。

 私は道の端に寄り、彼女に進路を譲る。彼女はたちまち私を追い抜き、正宗に迫った。さすがに気配を感じて正宗が振り返る、その一瞬を突くように、ボブショートの彼女は開いた左手を正宗の青いシャツに押し付けた。

「お、何だ?」

 驚く正宗に何も答えず、彼女はそのまま、坂道を走り去っていった。そしてその直後、背後からきゃあと嬌声が上がり、他の少女たちもこちらに一斉に駆け寄ってきた。ぎょっとして正宗も私同様、端に寄る。あっさりと少女の一団は正宗を通りすぎ、先を行くボブショートの彼女と合流した。

 やったね、成功! 成功! と口々にはしゃぎながら、彼女たちはそのまま、駆け去っていく。

「……なんや、あれは」

 呆然と彼女たちの背中を見送る正宗は、少し怯えているように見える。確かに女の子から突然、こんな意味不明なことをされたら恐ろしくもあるだろう。

 黙っていようと思っていたが、さすがに気の毒になって私は言った。

「おまじないや」

「は? おまじない?」

「そう。我が校に昔からある恋のおまじない。先輩から後輩へと受け継いでいくんや」

「はあ、そういうの、女子は好きやからなあ……」

 短く溜息をついてから、正宗は続けた。

「で、俺は何をされたんや?」

「なんてことないよ、印を付けられただけ」

 私はそう言って、彼のシャツの後ろ側の裾を前に引っ張って、正宗にも見えるようにした。

「……うわあ、なんや、それ!」

 その反応に、私は思わず笑ってしまう。笑ってから気が付いた。こっちに戻ってきて初めて自然に笑った、と。

「これ……マジックか?」

「口紅や。私らの時はリップやったけど、この色の濃さは口紅やな」

 正宗のシャツの背中には、濃いピンクのハートマークがはっきりとスタンプされていたのだ。そのハートの真ん中には正宗と女の子の名前が書かれている。それはきっとあのボブショートの彼女の名前だろう。スタンプした時に読めるように書かなくてはいけないから、これをする前には、いわゆる鏡文字の練習も必要なのだ。

「自分が普段使っているリップや口紅で、左の手の平にハートマークを描いて、そのハートの中に相手と自分の名前を書くねん。それを相手に気付かれずに、背中にスタンプすることが出来たら恋は成就するってわけ。昔、私も憧れてた先輩にやったんやけど、成就せんかったなあ。なんとなくいい雰囲気にはなったんやけど……」

「あー、これ、買ったばかりのシャツやのに、口紅って落ちるんか?」

 もう私の話しを聞いていない。

 私は笑いながら言ってやる。

「落ちるよ、手もみ洗いしたらええねん。私が洗ったげるよ」

「え。マジ?」

「うん、マジ」

 ふっと、正宗の顔が柔らかくほころんだ。まるで桜の花が咲くように。

 ……ごめんな。

 私は、急いで描いたらしい歪んだ口紅のハートにそっと謝った。

 友達に励まされて、なんとか勇気を出してやったおまじないなんやろうけど……。

 そして、気付く。

 正宗の青いシャツに付けられたピンクのハートは、ちょっと細長くて、それはまるで春の空に舞う桜の花びらのように可憐だと。

「きれいやな……」

 ぼそりとつぶやくと、正宗が振り向いた。

「うん、きれいや」

 彼はじっと私を見る。

「阿呆。なに見とんねん」

 私は笑って、彼を蹴るふりをした。

「なあ」

「うん?」

「ちょっと、ゆっくりしようや」

 正宗は頭を掻きながら言った。

「お前と話しが……したいねん」

 私は少し笑って、頷いた。


 こんなちっぽけな田舎町で、慌ててもしょうがない。

 この町で何ができるのか、あるいは何もできないのか判らないけど、今は春。ちょっとぐらいゆっくりしてもバチは当たらないだろう。

 

 この何もないちっぽけな町の春は、どうやらまだ青いらしい。

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春はまだ青いか 夏村響 @nh3987y6

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