春はまだ青いか

夏村響

第1話

 休日ともなればいつも家に閉じこもって本を読んでいる正宗が、珍しく外に出ようと私を誘いにきた。

 正直、外に出るのは億劫だ。

 ここは小さな田舎町。ちょっと出掛けただけで知り合いに出くわす確率は高い。それを思うと憂鬱になるのだ。

 私は十年ぶりに実家に戻ってきた。

 休暇を利用しての一時的な帰省ではない。仕事を辞めて、荷物をまとめ、都会から尻尾を巻いて田舎の実家に逃げ帰ってきたのだ。

 そうなった理由はいろいろあるが、ざっくりとまとめてしまえば一言で終わる。『挫折』という奴だ。

 帰ってきた一人娘の私を両親は喜んで迎えてくれた。余計なことは何も聞かない。けれど他人さまは違う。好奇心一杯に根掘り葉掘りと色々聞きたがる。

 悪意はないのかもしれないけど、それはこちらにしてみれば拷問にも等しい行為なのだ。


「どこ行くん?」

 玄関先で憂鬱なのを隠さず正宗に聞くと、彼は黙って開いたドアの向こうを指さす。そこにはだらだらと続く上り坂がある。その坂を上って行くと図書館とカトリックの教会、そして私がかつて三年間通った高校がある。私立の女子校で、一応、お嬢さま学校と世間では言われているが、通っているのはごく普通の少女たちだ。

「坂道上がってどうするん? 疲れるだけやん」

 スニーカーを履きながら、斜めに顔を上げて正宗を見た。

 返事は返ってこない。

 彼は無言のまま、ドアの外に出て行く。

 まったく……無口なのは相変わらずやな。


 正宗は一つ歳下の幼馴染で、子供の頃は大人しく私に付いて回る従順な家来のような存在だった。それが久しぶりに会ってみると、彼はいわゆる大人の男に変貌していた。いつの間にか背は伸びて、体付きは細いながらも筋肉質で逞しい。ともすれば女の子に間違えられていた優しい面差しは、今や精悍な顔立ちに変わっていた。あんなに繊細で弱々しかったのが嘘のようだ。

 渋々、私もドアの外に出る。

 そして、思わず目を細めた。

 春らんまんの柔らかな光が、今の私にはなんだか眩しかったのだ。

 無愛想で何も言わず、坂道をどんどん先に歩いて行く正宗を私は急いで追いかけた。そうしてその背中をぼんやりとみつめていると彼の着ている淡い色調の青いシャツの色が、坂の向こうに広がる春らしい霞んだ青空と同化して、ともすれば彼を見失いそうになった。

 不意に迷子のような心細さを感じて、私は自分の感情をごまかすように正宗に話しかけていた。

「なあ、どこ行くん? 図書館か?」

 そう聞いたのは彼が茜色の表装の本を一冊、手に持っていたからだ。だが、肩越しにこちらを振り返った正宗は低い声で一言、こう言った。

「桜」

「ああ?」

 私は険悪に聞き返す。

 彼が、桜、と言ったのは聞こえた。けれど、その意味が判らない。

「何やて?」

「……そやから、桜、見に行こうって」

「はあ? なんやそれ。まさか、学校に行く気なん?」

 どこの学校も似たようなものだろうが、私の母校も校庭の周囲に桜の木がぐるりと植えられていて、それらは毎年、春の盛りに迷惑なくらいに咲き誇る。きっと、今は満開だ。

「私の母校であり、あんたの勤務先の女子校に行って花見もないやろ」

 心からうんざりと私は言った。

 そうだ、恐ろしいことに、私の母校である女子校に今、正宗は古文の先生として勤めているのだ。

 彼が小さい頃から学校の先生を夢見ていたのは知っていたが、まさか、地元の女子校の先生になるとは思ってもみなかった。

 女の子に免疫のない正宗がどうやって、いまどきの女子高生と接しているのかは想像もつかない。

「今、学校は絶賛春休み中やけど、部活で学校に来ている生徒や先生はおるやろ? 女連れでそんなとこ行ってみつかったら変な噂たつで。ええの? 正宗先生?」

「……どうでもええ、そんなこと」

「そんなことて」

「校内に入らんかったらええやろ。それに」

「それに?」

「お前、桜、好きやろ。いつも、この季節は楽しそうにしてたやろ」

「うん? そうやったけ? まあ、確かに桜は好きやけど」

「じゃあ、ええやろ」

 ぼそぼそと温度の低い声で正宗は言う。

「はいはい。判った」

 肩をすくめて、それきり私は黙る。正宗との不毛な会話に疲れたのだ。仕方なく、だらだらと続く坂道を歩くことに集中する。

 しばらくすると坂の向こうに白い校舎が見えてきた。それと同時に学校の敷地と歩道を分ける黒い鉄柵に沿って、満開に咲いた桜の木がずっと遠くまで続いているのも見えた。空の青と桜のピンクがよくなじんで、目の前の景色は幻想的な一幅の絵となっていた。

 ……きれいやな。

 正宗に誘われて渋々ここまで来たけれど、やはり桜の花を見ると日本人の心は騒いでしまうものらしい。気分は一気に高揚して、私は正宗を追い抜いて桜並木に駆け寄った。

 校門の近くで立ち止まると、可憐な花を飽くことなく眺めた。風が吹くたび散る花びらも、悲しげではあるけれど、それもまた美しい。

「……瑠璃子」

 不意に至近距離から名前を呼ばれ、私はぎくりとして振り返った。驚くほど近くに正宗がいて、思わず一歩、後ろに下がる。

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